my favorite things



亀泉

高知の日本酒。
亀泉酒造という小さな酒蔵が作っている。
僕は元来酒飲みではないのだが、この酒に出会ってハッとした。純米酒らしいフルーティな味わいは勿論のこと、この酒に使われている酵母独特の華やかで、かつしとやかな香りは、他の純米吟醸酒にもなかなかない。僕の知る限りでは、長野の「夜明け前」という酒がそれに匹敵するだろうか。
しかし、「亀泉」の洗練された香りと味の深みはなかなかない。例えば、今の地酒ブームの火付け役とも言われている「十四代」という有名な酒があるが、それは確かにすべてのつまみに合うタイプの癖のない酒である。それに比して「亀泉」は、酒として独立した存在である。だから、酒がつまみを選ぶ。余りにも油濃いものや味の濃いものとの相性はよくないと思う。逆に淡白な白身魚の刺身や塩辛などにはぴったりだ。(なんて分かったようなことを書いているが、あまり分かっていない)
東京でも「亀泉」を飲める店はそんなに多くない。実は産地の高知でもそんなに置かれていない(あんまり知らないけど)。
純米大吟醸も確かに素晴らしいけど、純米吟醸を飲んでみてほしい。出来れば、1月、2月辺りの新酒が出だした頃に。
僕は幸いにも東京で「亀泉」を飲める店を2軒知っている。そのどちらもつまみも美味い店である。
ほやの塩辛に「亀泉」なんて最高だなぁ。

※2016年1月31日追記
元の文章を書いたのは、恐らく2004年か2005年頃だと思う。
その頃は日本酒を飲む機会は数える程しかなかった。
しかし、ここ数年は各地の地酒を飲ませてくれる店も増えてきたし、お猪口1杯から低価格で試飲できるような店も出来てきて、僕も以前より遥かに日本酒を飲むようになった。
また、近年日本酒そのものの質もどんどん向上しているから、ハズレと思うような日本酒に当たる機会もほとんどなくなった。
けれど、それでもやはり僕の中で亀泉は別格だ。
以前はこの酒はつまみを選ぶと書いたが、何度か飲んでいるうちに感じたことは、いい意味でも悪い意味でもつまみを要求しない酒だということ。
飲み物としての美味さが完全に独立している。
ある意味で非常に分かりやすいし、逆に難しい酒でもある。

亀泉酒造が出している製品の中でも、「CEL−24」という酒が僕は一番好きだ。
梨のような華やかで爽やかな香りが広がり、本当に純粋にこの酒だけを飲んでいたいと感じさせてくれる。
敢えてつまみに何を選ぶかと訊かれたら、塩むすびと答える。
今年の正月に飲んだ四合瓶の写真を載せつつ。




すっぴん

他の男達とこの話題についてあまり話し合ったことがないので、僕が少数派か多数派かは分からないが、僕は化粧をした顔よりも断然すっぴんが好きだ。

こういう事を言うと、「すっぴんなんか絶対無理」とか「相手に対して失礼」とか言う女性がいる。
でも、僕に言わせればそれは大いなる妄想である。
確かに化粧の効用もあるのは認める。
眉毛の描き方によって知性的に見えたり、顔全体の印象が明確になったり、力強さや繊細さを強調出来たりする。
アイラインで目力(めぢから)を際立たせたり、口紅で艶っぽく見せたり、頬紅で明るい印象を与えたりするのも分かる。
しかし、すっぴんのあの<あどけなさ>に勝るものはないと僕は思うのだ。

化粧というのは文字通り「化け、粧う」訳で、「違う自分を演出する」、もしくは「自分のなりたい自分」になるということなのだろうが、「君は君で充分」だと誰か言ってあげないのだろうか。
少なくとも、僕が付き合ってきた女性は、一人の例外もなくすっぴんの方が断然素敵だった。
もっと言うなら、一番素敵なのはすっぴんの安らかな寝顔だ。
逆に言うなら、すっぴんが美しい女性というのは健全な女性であり、年を重ねても化粧に頼らず、そのままの自分でいることに自信を持てるということが大切なのかもしれない。
そういう女性の寝顔は、きつと幾つになっても愛おしいものだと思う。


モーニング

最初から余談だが、我が家にはオーブンは勿論、トースターもない。更に言うなら、冷蔵庫もないのでバターを保存することも出来ない。という訳で、家でカリカリのトーストを食べるということが出来ない。だからということもないが、時々喫茶店で食べる何気ないトーストに感動したりする。その焼き加減は勿論、店によってバターを塗ってくれる店(その塗り加減)、塗らずにバターやジャムやマーマレードが添えられて出される店、それぞれの特徴が面白い。

で、モーニングである。
普段、朝は慌しくしているので、朝から喫茶店に寄っている余裕はないが、旅に出ている時は、余程朝早く移動を始めないといけない場合を除いて、まず間違いなく喫茶店でモーニングセットを注文する。
何が好きかって、あの朝の穏やかな時間が好きなのだ。
特に平日の朝、喫茶店の広い窓から通勤、通学で急いでいる人たちをぼんやり眺めながら、その店の常連客に混じって、その日一日の旅の計画などを練りながらゆっくりコーヒーを飲む。
至福の時である。
よく何県のモーニングセットは豪華だとか言われているが、僕はその内容にはあまりごたわらない。
美味いコーヒーとカリカリに焼かれたトースト(もしくはサンドイッチやホットサンドでもいい)があれば、後はゆで卵でもスクランブルエッグでもサラダでも構わない(と言いつつ余談だが、徳島駅近くの「たかしまコーヒー店」のホットサンドは絶品だ)。
モーニングにおける<コーヒーとトースト>は、定食屋における<ご飯と味噌汁>なのであって、ここさえ軸がぶれていなければいいのだ。

たとえば夕方くらいにある街に着くとする。
僕はホテルにチェックインすると、大抵すぐにその街中を歩き回る。その時にいい雰囲気の飲み屋はないか、感じのいい喫茶店はないか、隠れたライヴハウスはないか、などと物色しながら歩くのだ。
美味いラーメン屋なら、事前にインターネットやタウン情報誌で調べることが出来るが、モーニングの美味しい店の情報はなかなかないし、店の雰囲気の好き嫌いは実際に見てみないと分からないものだ。
夕方歩いているうちにいい感じの喫茶店が見つかったら、その日のうちによる場合もあるし、次の日の楽しみに取っておくことも出来る。見つからなかったら、次の朝ぶっつけ本番だ。
僕の旅は、ほとんど観光地を訪ねる目的ではなく、<街>そのものが目的であり、美味いラーメン屋、雰囲気のある飲み屋、感じのいい喫茶店というのは、僕の旅の主要な要素になっているのだ。
ああ、こう書いているうちにも旅に出たくなってきた。


はっさく

僕が一番好きな果物。
誰かと「一番好きな果物は何か」という話をした時、未だかつて一度もかぶったことがない。
柑橘系の中でもそれ程メジャーではないからだろうが、僕は蜜柑やグレープフルーツと比べても断然はっさくが好きだ。
何故好きなのか、冷静に分析してみると、果肉一粒一粒のしっかりした感触と適度な酸っぱさだと思う。
他の柑橘系(たとえば蜜柑や甘夏など)では一粒一粒が柔らかすぎるのだ。かといってレモンでは酸っぱすぎる。その間の適度なバランスを保っているのがはっさくなのだ。
ちょっと違う例かもしれないけど、僕は寿司ネタのなかでも貝類が好きだ。何が好きかって、あの食感。硬過ぎることもないけれど、どこかにしっかりした感触があるものが好きなのかもしれない。唇も乳首も同じ理由で好きなのかもしれない(違う理由かもしれないが)。
脱線した。
僕は普段自ら果物を買うことは滅多にないが、はっさくだけは買う。だから僕は冬は炬燵に入って蜜柑ではなく、炬燵に入ってはっさくなのだ。

(掌にはっさくの図)


手紙

僕は多分かなり筆まめだと思う。
年賀状、暑中見舞いの類はある時期から一切書かないことにしているのだが、普段思い立ったら手紙を書くようにしている。
いつ頃から筆まめになったのか定かな記憶はないが、中学生の頃から好きな女の子に告白するのはラヴレターが多かったと思う。今までの人生で書いたラヴレターの数は千通を超えているんじゃないだろうか。
このメール全盛の時代に、手紙というのはすっかりオールドファッションなのかもしれないが、僕は送るにしてももらうにしても、メールの256倍くらいは手紙の方が好きだ。
書いている間の集中、書き終えて読み返して封をする時の決心、送ってから届くまでの間合い、手に取った時の質感、送られてきた手紙を読むために場所を選び呼吸を整える準備期間、相手の独特の文字を読む楽しみ・・・そういうすべての複合体としての手紙が好きなのだ。手紙というのはそういう意味で贅沢な存在なのである。

僕は手紙を書く時は大抵喫茶店に行く。自分の部屋でテレビがあったり、電話が掛かってきたりすることから解放されて、ゆっくりコーヒーを飲みながら書くことに集中したいからだ。だから旅先からはよく手紙を書く。初めから日常から解放されているからなのだろう。街をぶらぶら歩いて好みの喫茶店を見つけて、そこでゆったりと手紙や葉書を書く。これはある時期から僕の旅をする楽しみのひとつに含まれるようになった。

随分昔の話だが、何通かラヴレターを書いたけれどなんの返事もくれなかった女性からある時一通の手紙が届いた。
「迷惑ですからこれ以上手紙を出さないで下さい」
ただそれだけの返事の手紙だったが、僕は全く嫌な気分にならなかった。逆に清々しいような気分にさえなった。それだけの返事でその人自身のことが充分に伝わってきたからだ。まぁ、僕がかなりの「M」だということもあるのだが。

愛の告白の手紙だけではない。僕は今までの人生で相手を傷つけるような手紙を書いたことも何度かあるし、そういう手紙を受け取ったこともある。そういうものが手紙という存在として今もこの世界に残っているのだとして、それはたとえ過去のことであっても、否定できないその人自身(僕自身)の分身でもある。またそういう手紙がこの世界にもう存在しないのだとしても、手紙はメールのように簡単に<削除>できない。捨てるにしても、破るにしても、燃やすにしても、ちゃんとした人間の行為を経て葬られている訳である。合掌。

自分が書いた手紙がどれだけ相手の心を揺さぶっているのかは分からないが、うたを一曲作るのと手紙を一通書くのは僕の中では同じ重みを持った行為だ。どちらも自分の人生にとっては欠かすことが出来ない。
格闘家が一撃必殺の拳を手に入れたいと願うのと同じように、僕はひとつのうた、一通の手紙で相手の心を奪いたいと願う。それは馬鹿げた願いなのかもしれないが、遥か遥かな修行中であると今も思っている。


麦茶

一番好きな飲み物はと尋ねられたら、迷わず「麦茶」と答える。
断トツだ。
ビールとかジントニックとか野菜ジュースとかも好きだが、比べものにならない。
ただし、TPOによっては「ラヴジュース」と答えたりもするのだが・・・。

僕の部屋にはもう15年位冷蔵庫がないが、麦茶を欠かしたことはない。夏も冬も部屋に常温で保存されている。稀に、部屋に麦茶があると思って帰って来て、もうすっかり服も脱いでリラックスした後に麦茶がないと気付いた時が悲劇だ。根っからの面倒臭がり屋なので、一旦部屋に帰ったらもう出掛けたくないのだ。すると、心の中で「出掛けたくない」VS「麦茶が飲みたい」の血みどろの闘いが始まるのだ。大抵は「麦茶が飲みたい」が勝って、ジャージを着て出掛けることになるのだが。
僕は麦茶に対するこだわりは一切なく、市販されているどんな麦茶でも好きだ。勿論ちゃんと麦から沸かしたものも好きだが、僕の部屋には大きな薬缶もなければ、それを冷やす装置(冷蔵庫)もないので、いつも市販の麦茶に頼らざるを得ない。
ある飲食物に対して、銘柄にこだわりがなくこよなく愛する人を僕は「小池さん派」と呼ぶ。これはオバQに出て来る小池さんがラーメンを愛する姿から僕が作った造語だ(ちなみに関係ないが小池さんの職業はアニメーターだ)。だから、僕も麦茶に関して言えば完全に「小池さん派」である。
僕はバイト先でもペットボトルの麦茶を飲んでいるのだが、時々困るのが、冬に麦茶を置かないコンビニがあることだ。僕に言わせればそんなものコンビニ失格なのだが、緑茶やウーロン茶は冬場でも何種類も置いてあるくせに、季節の変わり目にふいに麦茶の姿が消える店がある。特に困るのは、地方に行った時、コンビニでのペットボトルの麦茶の存在率が激減することだ。地方の人は外では麦茶を飲まないのだろうか?
韓国に初めて行った時、「水を下さい」と言ったら麦茶が出て来たのには嬉しい衝撃を受けた。韓国でも日本のように一般的に麦茶を飲むという習慣があるのだと後で知った。素晴らしい国だとも思ったが、だからこそ逆に韓国のコンビニでの麦茶の存在率は激低だ。あまりにも一般家庭にあり過ぎていて、コンビにでは買わないのだろう。
と、こうしている今も僕の目の前には麦茶が佇んでいるのだ。


(僕の部屋の麦茶の存在状況)


スパゲティー・インディアン

みなさんはこれを食べたことがあるだろうか?
僕は時折無性に食べたくなる。
簡単に言えば、スパゲティーにカレーのルーをかけただけの食べ物なのだが、僕はこの異文化交流にときめいてしまうのだ。
「柿ピー」といい、この「スパゲティー・インディアン」といい、どうやら僕はこの手の「ヘレニズム文化」に弱いらしい。
僕が初めてこれを食べたのは、多分小学2年生か3年生の頃ではないかと思う。大阪の僕の家の近所に「グリルトミー」という洋食屋さんがあった(今もある)。カウンターだけで5席程しかないのだが、ここの洋食が抜群に美味いのだ。後々色々な店で洋食と名の付くものを食べてみて分かったのだが、この店のドミグラスソースに勝る店はなかった。その味で育ったからそう思うのかとも考えてみたのだが、その点を差し引きしても間違いなく美味い。そういう意味で僕はラッキーだったと思う。
で、この店に行くと、マスターが大きな寸胴の中を使い込まれた木の棒でゆっくりとかき混ぜている場面にしばしば出くわす。そして、その寸胴の中身こそが仕込み中のカレーなのだ。
これが美味い。これぞ洋食屋のカレーというカレーで絶品である。深い色のブラウンで、いかにたくさんの野菜や果物が溶け込んでいるのかと想像させるどろっとしたカレーなのだ。
だから、言うまでもなくカレーライスは美味い。しかし、そこでスパゲティー・インディアンなのである。洋食屋の太い麺(1.9ミリかそれ以上?)のスパゲティーに、このカレーのルーが絡み合う素晴らしさ。僕が想像するに、イタリア人はこの素晴らしさを理解できるのではないかと思われる(テレビ局とかで調査してくれないかなぁ)。様々な和風スパゲティーも確かにいい。しかし、スパゲティー・インディアンにはワールドワイドな力強さを感じるのだ。
カレーうどんとの比較についても考えてみたことがあるけれど、カレーうどんの場合は往々にして出汁でとかれているし、完全に「和」へ取り込もうという意思が強く感じられる。スパゲティー・インディアンはしつこいようだが「ヘレニズム文化」なのだ。昇華としての「融合」なのである。
まぁ、そんな理屈はどうでもいい。僕は「グリルトミー」以降も幾つかの洋食屋さんでスパゲティー・インディアンを食べてきて、色々にバリエーションがあることを学んだ。茹で上げた麺にルーをかけているだけのもの、茹でた麺を一度マッシュルームやピーマンなどと炒めて、その上にルーをかけたもの、洋食屋の付け合せによくあるスパゲティーのカレー粉炒めの上にルーがかかっているものなどである。どれもそれぞれの個性と呼ぶしかないが、ひとつだけ言えることは、自分でスパゲティーを茹でて、レトルトのカレーをかけてみても全然美味くなかったということである。多分単純そうで単純でない秘密があるのだろう。
ちなみにうちの近所、板橋区大山の「レストラン オオタニ」のスパゲティー・インディアンはなかなか美味く(ここのドライカレーにカレールーををかけたものも逸品)、僕は時々食べに行っていたのだが、最近消費税込みの総額表示に切り替わった際にメニューが変わり、スパゲティー・インディアンがメニューから消えたのだ。なんとも切ない気分になった。スパゲティー・インディアン普及委員会でも組織しようかと考えたりしたのだった。



(板橋区大山の「レストラン オオタニ」の作品)


パチスロ「北斗の拳」

僕はパチスロというものを始めて4,5年位経つが、この機種は今までに体験してきたどの機種よりも打ち手の心理をよく計算して作られている画期的な機種である。詳細に話し出したらキリがない位多種多様な演出で打ち手を飽きさせない。
パチスロについてよく知らない方にはなんのことやらという話になるが、とにかくその出荷台数は過去最高を記録し、今も尚増台し続けている。どのパチスロ店に入っても、必ず大量にあるのだ。発売元のサミーもきっとホクホクだろう。(ちなみにサミーの本社は僕のバイト先から歩いて2分くらいの場所(東池袋)にあり、玄関脇のショーウインドーで「北斗の拳」もディスプレイされている)
では、何が素晴らしいか?
なによりもまず100%ゲーム性を追及した機種であるという点だ。
画面で繰り広げられる登場人物たちのひとつひとつの細かい動作が、今自分が置かれている状況(地獄モード、通常モード、天国モード、前兆モード等)を暗示(この「暗示」というのがミソで、はっきりと判別できることもあれば、確率的な予想の範囲だったり、どっちとも判断できなかったりするところが打ち手を更にそそるのだ)しているのだ。そして、その状況こそが「大当たり」を掴むための鍵になっている。
更に、「大当たり」を引いた後にもっとエキサイティングなゲーム性が秘められている。
「大当たり」中は「ケンシロウVSラオウ」の闘いの場面によって構成されているのだが、ケンシロウがラオウに攻撃するか、ラオウの攻撃をかわすか耐えると「大当たり」は次に継続する。その攻撃方法やかわし方も様々で、それによって「大当たり」継続の可能性も変わってくるのだ。逆にケンシロウがラオウの攻撃を受けて倒れてしまったら「大当たり」はそこで終了する。ただ、終わったと思った瞬間、リンやユリアが登場してケンシロウの名を呼べば復活するという、最後までドキドキする演出も秘められているのだ。運が良ければこのように「大当たり」は2回、3回と続く可能性があり、それがまたこの機種の魅力でもある。
また、「大当たり」が10回以上継続すると、BGMがクリスタルキングがうたう「北斗の拳」のテーマソング「愛をとりもどせ!!」に変わったりする細かい演出も用意されている。
そして、この機種のゲーム性の素晴らしさを代表する最大の演出として、「大当たり」が20回以上継続すると、最後の「大当たり」の時にエンディング映像が見られるという特典があるのだ。それはケンシロウがラオウを倒す場面なのだが、この映像が美しく、感動的なのだ!滅多に見られないだけに貴重だし、かつ20回以上「大当たり」しているということは即ち大勝利しているということでもあり、2重の意味でウハウハなのである。ちなみに僕はこの文章を書いている2004年4月19日現在で、このエンディングを4回経験している(「大当たり」最大継続回数39回)。僕はこのエンディングを見たいがために「北斗の拳」を打っていると言っても過言ではない位だ。
と、書いているとなんだかいいことばかりのようであるが、実際にはなかなか勝てない。長い間ハマってやっと「大当たり」を引いたかと思うと、1回目でケンシロウがラオウに倒されるなんてことはザラである。だから、まだパチスロの道に入っていない方々には決してお勧めしない。

ちなみにスロットのことを「回胴」とも言う。僕はこの言葉が好きだ。
で、自由律で一句。

        回胴に紅い七を探して寒月


(僕のマウスパッドも「北斗の拳」なのだ)


柿ピー

日本発で世界で闘ってほしいと思う食べ物の筆頭だ。

きっと世界中のビアホールとかバーで、ピーナッツはおつまみとして出ていると思う。(よく知らないけど、多分)
しかし、それにあの柿の種という日本オリジナルの食べ物が混在している柿ピーはきっとまだ世界中に浸透していないはずだ。
その組み合わせの絶妙のバランスについては村上春樹もエッセイに書いていたが、彼は柿ピーの世界進出までは言及していなかった。
寿司やすき焼きや天ぷらなどは、日本発で世界に浸透している食べ物だが、僕はそれに並ぶくらい可能性があるのが柿ピーだと思っている。
この食べ物の素晴らしさは、二つの異文化の味覚的、食感的融合であり、古館伊知郎的に言えば「おつまみのヘレニズム文化」であると言える。
村上春樹は柿の種とピーナッツの関係を「ボケとツッコミ」に喩えていたが、僕にはお互いが相手に対する絶妙なアクセントになるという相乗効果の関係性が成立していると思える。言うならば「カスタネットとトライアングル」だ。(ほんとか?)
ピーナッツはそれだけでも渇きを引き起こすが、柿の種のピリ辛がさらにそれを助長する。ピーナッツのコリコリと柿の種のカリカリというリズムの歯切れの良さ。酒(特にビールと僕は思っている)のつまみとして、これを世界で勝負させない手があるだろうか?
ちなみに新潟には柿の種作りの老舗「元祖浪花屋」という店があるらしく、新潟の人のほとんどはここの柿の種を食しているという。僕はまだ食べたことがないが、米所の柿の種の実力がどれほどのものか一度確かめてみたいと思っている。もし、それに似合うピーナッツを組み合わせられれば、無敵ではないか。
亀田製菓を始め、柿ピーを製造している各社のみなさん、是非世界で一度勝負してもらいたいと切に願う。


(最近こんなヴァージョンが出た!)


商店街

この国に生まれてよかったと思うのは、商店街があることだ。

知らない街をぶらぶら歩いていて、初めての商店街に出会った時のときめきをなんて言えばいいのだろう。
本当にドキドキする。
新しい商店街に出会うと僕はいつも、その商店街の最果てまで見届けたくてたまらなくなるのだ。

大学に入って一人暮らしを始めた時から、住むのは商店街の近くということを第一条件にしている。
京都の一乗寺商店街、出町商店街、そして東京に来てからはずっと板橋区の大山商店街(僕が来た頃はサンロード大山だったのが、改名して遊座大山に変わった。ちなみに大山には大山ハッピーロードという商店街もある)の近くに住んでいる。
ちなみにちょっと歩くと旧中仙道に仲宿商店街というかなり長い商店街もある。

もともと大阪に住んでいた頃から近くに桃谷商店街というアーケードのある大きな商店街があった。
たぶんそこが僕の原風景なのだ。

僕が商店街を好きな理由のひとつは、人がそこに息づいているという確かなぬくもりだ。
昼間は勿論、夜、シャッターの降ろされた商店街を歩いていても、その奥に、あるいはその2階にお店の人が暮らしているという安心感。
実はそれが商店街と繁華街の決定的な違いだと僕は認識している。
店が終わったら、店員はそれぞれの家に帰ってしまう繁華街。
シャッターの向こうのぬくもりのない暗闇。
それが淋しいのだ。
しかし、昨今どこの商店街にもチェーン店が増え、繁華街化しつつある。
ぬくもりのない暗闇が増えるのは淋しいことだ。

僕は時々夢想する。
日本の端から端までずっと商店街で繋がっていたらいいのに、と。
そうしたら僕はゆっくりと両側の店を眺めながら、その土地土地で暮らしている人たちの間をすり抜けながら、歩いて日本中を回るだろう。
それはなんてときめきに満ちた旅なんだろう、と。

商店街を歩いていて、店が途切れる場所に来た時の切なさ。
上に書いたことと矛盾するかもしれないけれど、商店街の最果てのあの切ない地点もまた好きなのだ。
そこから商店街と決別しようか、それとも踵を返してもう1度商店街の空気に浸ろうかと逡巡するあの瞬間。
今書いていて分かったのだが、僕にとって街は、商店街かそうでないかに二分されているのだ。

東京は住みにくい街だ。
けれど、大小の商店街が至る所に、しかも数え切れないくらいあることで充分おつりがくると思っている。
勿論他の土地にも好きな商店街はたくさんある。
福岡の西新商店街は、福岡に住むことがあるならここだと決めている。
大阪の新世界・ジャンジャン横丁から信号を南に渡り、飛田新地や天下茶屋へと迷路のように延々と続く商店街のあの深い土着的な空気。
大阪は千林商店街や鶴橋商店街など、商店街の宝庫だ。
僕のうた「旅の極北」に出てくる商店街のモデルは京都の出町商店街だ。
そう言えば、日本ではないけれど、ソウルも商店街が充実している。(韓国語ではサンガといい、漢字では商街と書く)

ずっと前から商店街へのこの想いをうたにしたいと思っているのだが、まだ満足な作品を作れていない。
あまりにも好きでどこをどう表現していいか分からないのだ。
今後の課題である。