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ゴルゴ13(さいとう・たかを)

今更という話ではあるが、現在130巻を越えているこのシリーズ漫画を僕はほぼ読破している(余りにも作品が多過ぎて時々分からなくなるので一応<ほぼ>ということで)。
かつ、人生で最初に出会った漫画本も恐らく「ゴルゴ13」だと思う。父親が買っていたのが数冊部屋にあって、幼い頃、意味が分からないなりに読み、時々出て来る女性の裸にドキドキしていたような記憶がある。その中でも「ナポリの女」(12巻)が特に印象的で、本来は主役であるはずのゴルゴ13が脇役で(そういうパターンはこの漫画では数多いのだが)、主役の母子の悲哀が美しく描かれているイタリア映画を観ているような(当時は勿論イタリア映画なんて知らなかったが)気分になる作品である。
それ以来散髪屋で(「トリビアの泉」の調査によると、全国の理髪店で最も多く置かれている漫画が「ゴルゴ13」だそうだ。納得)、喫茶店で、食堂で、H大の寮で、バイト先で、あるいは自ら購入して、「ゴルゴ13」を読み続けてきた。
「ゴルゴ13」の何がそんなに素晴らしいのか?
勿論彼の超人的な狙撃、サバイバル術、ベッドテクニック、はたまた常に世界情勢の最先端の話題が取り入れられていること等々魅力は多いのだが、最大のポイントは、今流行の言い方で言うなら「ぶれない」ということだと思う。
つまり、彼は人生観が明確であり、人に接する態度が、相手が誰であろうと一定であるということ。悪い言い方をするなら、異常に頑固で、融通が利かないとも言えるが、その生き方を貫くために常に命懸けであるということがその魅力を更に引き立たせているのだと思う(人殺しには違いないのだが)。

どの作品が一番好きかというのは難しいけれど、すごく気になる作品が一つある。「2万5千年の荒野」(64巻「海難審判」収録)という作品で、原発事故で爆発寸前の原子炉の逃し弁をゴルゴが狙撃して開くというものなのだが、その依頼をし、自らの死を賭して爆発から救った原発の設計技師のために最後の1本の煙草の火をゴルゴが点けてやる場面がある。僕はこの場面を初めて読んだ時、すごくいい場面ではあるけれどもゴルゴらしくないという違和感を覚えた。で、この項を書くに当たって詳細に調べようとインターネットで検索してみると、あるファンサイトではこの作品がベストストーリーに選ばれているし、小学館が行ったアンケートでも2位に選ばれていた。僕としてはちょっと「?」なのだが、最近の作品「ブーメランを持つ女」(コミックス未収録)でも、ゴルゴを愛し、去っていこうとするゴルゴの命を狙ったために結局は殺された女のために、ゴルゴが死体の上に花を手向ける場面がある。これもやはり僕としては違和感を覚えたのだが、実はゴルゴはもしかしたらちょっと<そういう奴>なのかもしれないとも思う今日この頃である。

とにかく、さいとう・たかを氏が連載開始当初から決めているという最終話を読まずには死ねないというのが、僕が生き続けるモチベーションの一つになっているということも発表しておこう。


路上(ジャック・ケルアック)

僕が最も多く読み返している本。
僕が最も多く買った本(つい新しく買ってしまうのだ)。

旅をするということの意味、浮かれ、打ちひしがれる人生の意味、世界が詩として存在しているという意味等、僕は様々なことをこの本から学び、それらを自分の人生の中へと引っ張り込んだ。
言うまでもないが、ジャック・ケルアックはウイリアム・バロウズ、アレン・ギンズバーグらとともにビート・ジェネレーションの旗手である。ボブ・ディランもケルアックを敬愛していて、ローリング・サンダー・レビューのドキュメンタリー映画(ボブ・ディラン監督)でもある「レナルド&クララ」の冒頭は、ディランとギンズバーグがケルアックの墓の前にいる場面から始まるらしい(凄く観たい映画!)。
僕はバロウズの「裸のランチ」を読んで「戦争、SEX、あるいは旅の始まりに」といううたを作り、ギンズバーグに感銘して詩の朗読を始め、ケルアックの「路上」を読んで旅を続けている。
今年(2004年)の夏のオホーツクへ向けての旅の間もずっと「路上」を読み返し続け、それを触媒として詩を8篇書き上げた。「路上」は今も昔もずっと僕をインスパイアし続けている。
ケルアックの作品は他にも何作も読んだが、「路上」と「荒涼天使たち」の2作が抜きに出ている。しかし、「荒涼天使たち」はまだ1回しか読んでいないのに対して、「路上」は恐らく6、7回は読み返している。かつて電車に乗っていて(確か新潟辺り)、目の前に「路上」を読んでいる女性が座っていて、真剣に声を掛けようかと思った。「路上」について語り合いたかったのだ。
僕はアメリカ合衆国という国は好きではない。話せば長くなるのでそのことに関しては別の項に譲るが、「路上」の中のアメリカは僕の中の理想の国であり、「路上」の中のメキシコ娘には出会っただけで恋に落ちるだろう。
ケルアックはもういない。あのアメリカももうない(初めからなかったのかもしれないが)。しかし、魂はここにもこうして受け継がれているのだ。


密やかな結晶(小川洋子)

まず断っておくが、僕は読書家ではない。
ただ、リュックの中に本はいつも2,3冊入っていて、時間があれば読んでいることも確かである。
けれど、決して活字中毒でもなければ、好きな作家の本を発売と同時に買う方でもなければ、世界の名作と呼ばれる本を端から端まで読破している訳でもない。
そんな僕でも、追いかけている作家というのはいる。
村上春樹と小川洋子だ。
単行本の発売と同時とはいかないけれど、文庫本で新刊が出たら大抵すぐに買って読むのはこの二人だけだ。

で、小川洋子の小説の中で何が一番好きかと言えば、この「密やかな結晶」という長編小説(小川洋子にしては)である。
僕が思うに、小川洋子は短編の方がその味わいが伝わりやすい作家だと思うし、連作の短編集も好きなのだが、「密やかな結晶」は何度も読み返したくなる数少ない小説のうちのひとつだ。
「アンネの日記」がベースになっている(といっても時代背景も場所も全然違うけど)のだけれど、小川洋子独特の世界が細やかに描かれていて、その世界の虜になる。
主人公である小説家の女性が生きている「消滅」というキーワードで描かれた世界と、主人公が書く「小説内小説」の世界が二重構造になっているのだが、それはたとえば村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のようなパラレルワールド(最終的には結びつくが)ではなく、互いに(と言っていいだろう)「侵食」の関係を持った二重構造なのだ。
だからと言って、その構造そのものがこの小説の真髄なのではなく、やはり小川洋子の筆致の巧みさに読者も侵食されるのだ。
僕は実際には犬(というか動物)が嫌いだが、何故か小川洋子が描く犬は好きになってしまう。この小説でも、「偶然の祝福」でも。それは多分彼女が犬を描く時、動物としてではなく、ひとつの精神的なあり方として描いているからだ。

もしまだ小川洋子を読んでない方がいれば、是非芥川賞受賞作の「妊娠カレンダー」からではなく、この「密やかな結晶」か最新の短編集から読んで欲しい。


逆境ナイン(島本和彦)

魂のバイブルである。

大筋を言うと、廃部を言い渡された野球部が、廃部を阻止するために甲子園での優勝を目指すという物語である。
しかし、これは野球をモチーフにしているが野球漫画ですらない。ここで表現されているのは魂の問題なのである。一見「男とはなにか」というテーマにも見えるが、それを遥かに凌駕して「命を燃やして生きる」という問題に踏み込んでいる。
どこかにこの漫画のことをギャグ漫画と書いてあったが、まったく的を射ていない。描かれているすべての大げさなシチュエーション(1イニングで109点差を逆転とか魂が込められ、目を見開き、唸り声を上げる男球〔おとこだま〕とか)は、決してギャグではなく「マジ」なのである。作者も書いていたのだが、たとえばその109点差の逆転を「これは嘘だ」と作者自身が思ったらその時点で連載をやめるという覚悟で描いていたらしい。
その覚悟が伝わってくる作品でもある。
勿論作品なのだから、創作過程で計算はされているのだろうけれど、決して逆算されているのを感じさせないのだ。
つまり、たとえば「この試合に勝つという前提の下にこの場面がある」のではなく、「この場面があったからこそ勝ったのだ」と思えるのだ。
これは実は大きな違いである。
小説でも映画でも、ある決められた「収束」へ向かって物語が形作られているのを意識させられる場面がしばしばある。
そう感じた時、僕は物語の中で白け、物語から孤立してしまう。
しかし、この漫画はタイトル通り次々と襲いかかってくる逆境と主人公(不屈闘志)が格闘する時、その都度作者もその逆境と闘っているのが感じられるのだ。

別の観点で。
たとえば「巨人の星」という漫画に大リーグボールという魔球が登場するが、あれは物語にとってどんなに重要な要素であろうと物語のアクセント(彩り)でしかない。しかし、男球は、それそのものがこの物語の本質を体現しているのだ。つまり、男球(特に最終巻の最後の男球)を見れば、それでこの漫画の伝えたいことすべてが伝わってくるのだ。数々の名作漫画を読んできたけれど、「どの1コマが最高ですか?」と尋ねられたら、僕は迷うことなく「『逆境ナイン』の最後の男球」と答えるだろう。目に焼きつくこと真夏の太陽写真の如し、である。
迷わず読めよ、読めば分かるさ、ダァー!