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田園に死す

寺山修司監督作品。
彼の作品は5、6本観ているが、これが一番好きだし、日本映画の中でも僕の好きな映画ベスト3には入る。
あと2つ挙げろと言われると難しいけど。

いい映画というのは色々な側面があるー上手い俳優、美しい映像、心を打つストトーリー、印象に残る台詞等々。
そのどれかが秀でていれば、それは正当に評価されるべき映画だと言える。
しかし、僕が映画という表現方法に求めるものはそういうものではない。
何度も繰り返して言っている抽象的な言い方だけれど、僕が映画に求めるものは「映画の映画らしさ」。
荒唐無稽な出来事が、映像という形として現実に存在しているという事実(つまり、その場面がフィルムに焼き付けられる瞬間、世界の何処かで現実に存在していたということ)とそれが僕らの魂に落とす影に興味があるのだ。
言い方を変えれば、現実に対して映像の<ゲリラ>が行われている作品にこそ、「映画の映画らしさ」を感じるのだ。
たとえばフェリーニの「81/2」とかゴダールの「パッション」とか。
そして、その「映画の映画らしさ」というものは、ある種詩的でもある。

「田園に死す」は、徹底的に「映画らしい」作品であり、徹底的に詩的である。
最初の場面の寺山修司自身による自作の短歌の朗読から最後の新宿駅前への大転換まで、その詩的表現にまるで隙がない。
観終わった後、まるで椅子取りゲームの最後のひとつの椅子を取られて、自分の居場所もなく呆然と立ち尽くしているような気分にさせられた。それは、現実が幻影に席を譲った瞬間であるとも言える。
更にそれは、「田園に死す」に描かれている世界が、現実の世界とパラレルに存在しているという<幻の実感>だと言い換えてもいい。

こういう映画がどうして圧倒的に少ないのか?
映画に詩を求める者が少数派だということなのか?


課外授業ようこそ先輩

NHKで日曜日朝8時25分から放送されている番組。
様々な分野で名を成している人(俳優・スポーツ選手・冒険家・写真家・画家・詩人・宇宙飛行士・狂言師等々)が、自分の出身小学校に行って、子供たちに自分の専門分野について<授業>を行う番組。

何が面白いかというと、まず他の正規の授業とは全く違う課題に戸惑いながらも向かい合う子供達の姿。
こういう授業を受けている子供達を見ていると、一つは子供達も既にかなり常識的な発想に捕われているということが分かる。
けれど、そんな中でも時々きらめくような発想や発言をする子供がいるし、授業の始まりと終わりではっきりと変化している子供がいる。
<ゆとり教育>が見直されようとしている昨今、ここで行われている授業は、<ゆとり>とはまた別の総合的な人間力を養う授業であるということが分かる。
もちろん、その授業を受けられるのは、たまたま卒業生に素晴らしい先輩がいたからなのだし、NHKというバックアップもあってのことだが、各地域で短期講座のような形で、そういう授業を開催できるような柔軟な時間割は組めないものか、と考えたりする。
基礎学力の低下が叫ばれているが、では逆に子供達の総合的な人間力は向上しているのだろうか?
それを計るものさしがないので分からないが、この番組を見ていると、ある専門分野について突き詰めた人が、その本質について語り、その本質を感じさせるために与えた課題を通して、子供達自身が学ぶ姿を見ていると、ほんの短い時間でも人間力が養われていると感じる。

別の点で面白いのは、授業そのもの。
この番組を見ていると、授業を受けている子供を見つめる目線と先生の授業を受けている子供の目線の両方を持つことになる。
子供の目線で各先生の授業を見つめていると、どんなに有名でどんなに凄い業績を残した人でも授業としては空回りしていることもあるし、逆にすごく具体的に伝わる興味深い授業をする人もいる。
今でも印象に残っているのは、野田秀樹(劇作家・演出家・俳優)の授業。
演劇的ワークショップを取り入れた、体を使う授業で、その中に<勇気>とは何かを具体的に感じるというのがあった。
それは、体育館の一方の床にゴールの線を引いておいて、逆側から目隠しをしてそのゴールまで走るというもの。
確かに、目隠しをして走るというのはかなり勇気の要る行為だし、自分がどれくらいの<勇気>を持っているかということが、そのゴールまで距離として後から具体的に分かる面白い授業だった。こういう授業は、普段は学校では決して行われないだろうけれど、こういうことを子供の頃に体験的に、そして論理的に学ぶということは生きていく上で重要なことだ。

また、授業をしている<先輩>自身も手探りであり、子供に伝わるように授業をするという苦労と歓びを感じている姿も興味深い。「僕ならどんな授業をするだろうか?」と時々考えてみるのだが、詩というか、言葉についての授業をしてみたい。具体的な案はないけれど、言葉の自由さと不自由さについて。

この番組で行われた授業を系統立てた形でDVD化してほしいと思っている。


ニュー・シネマ・パラダイス

一番好きな映画は何かと訊かれたら、昔はこの映画だとを答えていた。
映画というのは、当然映画が好きな人たちが作っているものなんだけど、この映画は「映画好きのための映画」ということを全面に出している映画だ。

こうして並べてみると、僕はイタリア映画が好きなのかもしれない。ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの「ひまわり」もすごく好きな映画だし。イタリア人の気質と合っているのかもしれない。

僕が常々思うのは、映画には映画でしか表現できないことを表現して欲しいということ。それは、決して莫大な予算を掛けたCGとかカーチェイスとかではなく、かと言って特異なドラマ性でもなく、あの映画館の暗闇の中でだけ共有することの出来る「世界」を提供して欲しいと思っている。まさに幻燈であり、その場所だけに浮かび上がり、その場所だけで消えて行く・・・けれど観た人の心の中にはしっかりと根付いてしまう「世界」。そういう意味で言うと、寺山修二の映画なんか、僕にとっては最も「映画らしい映画」と言える。まあ、寺山修二の作品についてはいずれ触れる機会があると思う。

この映画の感動的なラストシーンはあまりにも有名だけれど、僕はあのラストシーンを観るためだけに、この映画を何度観てもいいと思っている。

実は最近ある人と映画の話をしていて、好きな映画は何かという話題になった時、「ライフ・イズ・ビューティフル」と「ニュー・シネマ・パラダイス」の二本(!)とその人が答えた。それを聞いて急にその人に親近感が湧いたのだが、好きな映画とか好きな本とかが共通している人と会うのは嬉しいものだと改めて思った。


ライフ・イズ・ビューティフル

一番好きな映画は何かと訊かれたら、この映画だとを答える。
イタリアの喜劇俳優ロベルト・ベニーニの監督・主演映画で、僕は映画館で3回観た。

映画は娯楽か芸術かなんて議論は無意味だけれど、どうして映画館に行くかというと、物語に入り込みたいんじゃなくて、現実では出会えない美しい光と影に触れたいのだと思う。少なくとも僕は。
だから、気取ってる訳ではないけど、僕はハリウッドのアクション映画はまず観ない。そこにどんなスリルとサスペンスがあろうが退屈だから。
たとえば「ピアノ・レッスン」という映画があったけど、あの映画がよかったのは、ストーリーでも主演女優(名前は覚えていない)の演技でもなく、夜明け前(だと思う)の砂浜にグランドピアノが放置されている映像だ。もう一度あの映画を観るとしたら、僕はあの場面だけで充分だ。

本題に戻る。
で、今まで書いてきたことと矛盾するけれど、この「ライフ・イズ・ビューティフル」という映画は、映像がどうのこうのではなく、主人公の生き方に感銘を受けた数少ない映画なのだ。
時代背景は、第二次世界大戦前から終戦までで、後半はホロコーストが舞台になっているんだけど、それを重さや暗さとして伝えるのではなく、どんな状況下でもまさに「ライフ・イズ・ビューティフル」なんだと感じられるような生き方が映画全篇を通して伝わってくる。
僕が「ライフ・イズ・ビューティフル」といううたを作ったのも勿論この映画にインスパイアーされたからだ。

その後ロベルト・ベニーニが出演している映画は何本か見たけれど、どうやら僕はこの人が好きらしい。
一番好きな男優はと訊かれることもないだろうが、多分ロベルト・ベニーニと答えるだろう。