just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2020年12月31日(木) なか卯のかき揚げ蕎麦で年越し
  はやぶさ2と梅毒

僕がここに書くことは、個人的に強烈に印象に残ったことか、僕の考えが多くの人と違う(または違うだろう)と思ったことが大半。
今日書くことは後者に属する。

はやぶさ2の帰還を日本中が歓喜で迎えたらしい。
僕はテレビを観ないので映像は1秒も観なかったけれど、ラジオでの報道やネット上の報道や絶賛の声に触れた。

実は、僕は以前にもはやぶさを批判している。
<気になるんや>2010年下半期・2010年11月28日付で「はやぶさの<功罪>」という文章を書いている(以下URL参照)。
http://otokodama.com/kininaru2010shimo.html
今も大筋で同意見であるから、これも併せて読んでいただきたい。
はやぶさ及びはやぶさ2を絶賛している人間の思慮の浅さを憂慮している。
今回は歴史的類似性についても考えたい。

それは、コロンブスの大西洋航路発見(所謂アメリカ発見)との類似性である。
そのことが、結果的にある時代における富をスペインやポルトガルにもたらしたかもしれない。
しかし、同時にアメリカから持ち帰った梅毒もヨーロッパに広まった。
同様に、ヨーロッパの疫病をアメリカにもたらし、アメリカ原住民たちの多くが疫病で死んでいる。
これが何を意味するかというと、欲望の拡大と危険性の拡大である。
そして、人はそれを誇らしげに<文明>と呼ぶ。

はやぶさ・はやぶさ2を絶賛している人たちは、もしかしたら地球温暖化防止に賛同しているかもしれないし、核廃絶を唱えているかもしれない。
しかし、はやぶさ・はやぶさ2を称賛するということは、結局は人類が繰り返してきた過ちとしての<文明>を批判していることにはならない。
逆に、<文明>の愚かさを拡張していることに貢献しているだけなのだ。
問題は、それに対して多くの人たちが無自覚だということ。
そういう意味で、人類は、文化的成熟もないまま科学技術という乗り物を得た赤ん坊であり続けているのだ。

宇宙の謎を知りたいというのは、愚かな脳の欲望でしかないのであって、そんなこととは関係なく、僕たちは常に宇宙(と呼ばれる<今ここ>)を体感し続けている。
脳が<知る>というのは部分的なデータの取得でしかなく、今ここに存在すること以上の意味がある訳がない。
僕にははやぶさ2を褒め称えることなんて出来ないし、褒め称える人たちと同じ方向を向くことは決して出来ない。
恐らく人類にとって今最も必要なのは、<文明>の拡大ではなく、深呼吸だ。


  2020年7月27日(月) まだ明けない梅雨の雨上がりの朝
  将棋は<指す>ものなのに、何故<打つ>と間違える人が多いのか

こんなことは僕がわざわざ書くべきことではないかもしれない。
しかし、昨今の藤井聡太に関する報道の中で、アナウンサーも含めて余りにも多くの人が将棋を<打つ>と表現しているので、敢えて書いてみることにした。

まず、将棋は<指す>ものであり、囲碁は<打つ>ものである。
この違いは何かを単純に言うと、初形の違いとルールの違いである。
将棋は、ゲームを始める時に予め駒を所定の位置に配置する。
その時点では、配置された駒以外に持ち駒はない。
だから、少なくとも初手は並べられた駒のうちのどれかひとつを動かす、つまり<指す>しかないのだ。
囲碁は初形にハンディキャップで石を何個盤上に置いたとしても、次にそれを動かす(指す)訳ではなく、新しい石をまた盤上に置くという動作をするから<打つ>と呼ばれる。
これを踏まえた上で、何故間違いが起こるかについて、二つの理由を書く。

ひとつは、今も書いたように囲碁が<打つ>ものであるが故に、用語の混交が起こってしまっている点。
将棋も囲碁も、ともに日本でメジャーなゲームであるために起こっている現象と言える。

もうひとつ、将棋を<打つ>と間違える人は多いのに、囲碁を<指す>と間違える人が少ない(ほとんどいない)理由が次の点に含まれている。
それは、囲碁には<指す>という動作がないのに、将棋では実際に<打つ>という動作があるからである。
将棋では初形からは駒を<打つ>ことはできないが、ゲーム中に相手の駒を取ったら、それを自分の駒台に乗せ、好きな時に好きな場所(他の駒がいなくて、かつ次にその駒が動くことが可能な場所)へ<打つ>ことが出来るというルールがある。
盤外(囲碁の場合は碁笥という石を入れる容器、将棋の場合は駒台)から盤内へ駒を置く動作は、<指す>という表現ではなく<打つ>という表現になる。
これがややこしいのだ。
ここでの動作自体は<2三に銀を打った>というように表現されるけれど、大きく見れば、この<2三に銀を打った>こと自体も<一手指した>と表現される。
つまり、将棋というゲームにおける動作には<指す>という動作と<打つ>という動作があるけれど、その両方を総称して一手進めることを<指す>と呼ぶのである。

こう説明して改めて、将棋をよく知らない人は間違えても仕方ないと思う。
僕もこの間違いに目くじらを立てている訳ではない。
ただ、アナウンサーくらいはこの違いを理解して報道してほしいと願う昨今である。