just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2020年5月15日(金) 10連勤中9連勤目
  自粛警察という言葉のバランス感覚

大切なことなので、まず最初に言っておく。
僕がここで書きたいのは、<自粛警察という言葉のバランス感覚>であって、<自粛警察という存在のバランス感覚>ではない。
それをしっかりと意識した上で。

新型コロナウイルス感染が広がり、緊急事態宣言が出された。
各業界で、<自粛>という名の半強制的営業停止状態が続いている。
その中で<自粛>をしない店舗や個人に対して、誹謗中傷や私的な<自粛>要請やSNS等での所謂<晒し>をする人たちが存在する。
誰が名付けたのか、彼らはネット上で<自粛警察>と呼ばれている。
揶揄や批判や嘲笑を含んだこの呼び方の中に、僕は現代のバランス感覚を見出す。

僕は、個人的には<自粛>しないで営業等を行う店舗や人を支持している訳ではない。
感染の蔓延を止める努力をせずに目先の利益を追うことは、長い目で見たらより深刻な状況を作りかねない。
<自粛>すべきタイミングで、<自粛>すべき業種が活動を停止することは、病気になった人が休むことと同じで大切なこと。

問題は、そこに私的な感情を基にした私的制裁を持ち込もうとする人がいること。
現在の状況が戦時中になぞられられるのは、緊急事態時であることだけでなく、そこで働く人間心理が不変であるからだ。
ただひとつ違うことは、僕たち(少なくとも歴史的認識がある人たち)が戦時中という時代を学んできたということ。
そういう状況下で人間がどういう心理になるかを、書物や映像や証言や体験を通して知っているか知らないかは大きな違いだ。
それと同時に、どんな問題にせよ、インターネット上ではひとつの方向性の意見に対する反動が常にある程度存在し、どちらの勢力が強いにせよ、どちらもほぼ同時に発信される点も大きい。
だから、私的制裁を加えようとする人たちに対して、<自粛警察>と呼んで批判する精神性が多くの人に共有されることになる。
これは、社会が健全性を保っていることの証明だと言える。

それとは逆に、芸能人の政治的発言(政治的発言と一般に呼ばれているけれど、思想信条の表明と呼ぶ方が正しいと僕は思う)に対する批判があることに驚かざるを得ない。
世界中のどんな職業の人間であろうと、自分の思想信条を表現するのは当然の権利(国家が保障した権利や基本的人権というより、言葉を持つ者として当然の姿勢)であるし、その内容を批判するのではなく、表明すること自体を批判する人間は、人権侵害も甚だしい。
こういう状況を放置してはいけない。
即座に禁固刑にすべきだと思う。
このように、平気で人権侵害をしていることに恐らく無自覚である人間が存在しているのは、日本の義務教育が失敗しているということの表れでもある。

こういう状況下では、人間(或いは日本人)の様々な性質が顕著に見えて来る。
つまり、学びの場でもあるということだ。


  2020年4月29日(水) 第147回フォークジャングルが予定されていた日
  マスク暴論を断つ〜無反省な時流追随者たちへの批判〜

マスクがないと言われて久しい。
僕のホームページの<しゃべるんや(仮)>に「街のドラッグストアからはマスクが続々と消えて行っている。」と最初に書いた日付が今年の1月28日。
それ以来現在に至るまでマスクはずっと需要過多の供給不足。
しかし、その状況も刻々と変わっている。
どうしようもなく欠乏していた最低の時期は、恐らく2月初旬から3月初旬。
その後は、手製マスクの製作方法が広まったり、布製マスクが広まったり、国内生産が拡大されたり、中国産マスクの輸入が一部で再開されたり、完全な欠乏は脱した状態と言える。
現に、東京の街を歩いていても、9割9分の方がなんらかのマスクを着けている。
それは、現実として間違いなくマスクが存在している証明である。
それを踏まえて、マスク暴論を断つ。

大阪の専門学校で、4月7日にマスクを着けずに会議に出席した嘱託職員に懲戒処分(出勤停止4日間)が下されたという。
この処分に対して労働組合側が行き過ぎた処分として抗議したというニュースか流れた。
このニュースそのものにも問題は幾つかある。
まず、この時期に対面の会議を行っていたことそのものが愚行。
次に、労働組合側が主張しているように、懲戒処分に相当するかどうか。
更に、先程も書いたように、4月の上旬ならマスクは本気を出せば手に入れられていたし、手に入らないなら代替的自家製マスクやタオルやスカーフやハンカチを巻くことも出来たはず。
もうひとつ、マスク着用が会議参加の義務なら、マスクを着用しない者は会議不参加で、処分するとしたらその分だけの時給か日給を減らせばいいのではないか、という普通の感覚が欠如している。

さて、本題はここから。
本当に問題なのは、このニュースを見た愚か者たちが、この専門学校の処分を行き過ぎだと叩いていること。
僕には彼らは完全な馬鹿にしか見えないし、言論暴力主義者にしか感じない。

マスク着用義務ならマスクを配るべきという正論風に見せかけた暴論を見かけた。
これには、<自粛要請なら休業補償を>という論を応用したつもりになっている頭の悪さがはっきりと見える。
彼らの主張は、会社に背広を着て来いと言うなら背広を与えろと言っているのに等しい。
少なくとも、マスクかマスクの代用品を買う給与は支払われているはず。
マスクを着けるのが当然の時期にマスクを着けないのは論外。
マスクの代用でタオルを巻いて行って懲戒処分されたのならまだ反論の理由も分かる。
そうではないなら、全く筋違いの論理だ。

馬鹿はツイッターという安易なシステムで内面の暴力性を声に変換する。
ツイッターというシステムは、それを束ねて大声にする。
愚かな声も集まれば巨大なスピーカーに乗る。
自分には被害が少なく(ほとんどなく)、遠くから言論暴力を加えられるシステムは、愚か者にとってこれ程都合がいいものはない。
少なくとも、多くの意見に追随している間は自分の身は安全だ。
そして、愚か者は追随する。
何故か。
自分の考えがない上に、そこは安全安心だからである。

今もマスクを着けずに街を歩いている(走っている)人たちを見かける。
マスクがあるのに顎に着けている人やマスクを外して煙草を吸っている人(論外)やマスクを外して会話や電話をしている人(論外)も見かける。
「マスクを着けないのは非国民なのか」という批判も目にする。
非国民ではない。
キチガイなのだ。
少なくとも4月下旬の今、ネット上でも法外な値段ではない(コロナ以前よりは高いけれど)マスクが売られているし、ドラッグストアだけでなく、様々な店でそこそこの値段でマスクは売られている。
本気で探せば手に入る。
つまり、マスクをしていない人は、本気で探す気がないか、マスクなんか着けなくて平気(誰にとって?)だと考えているか、絶対にマスクをしない主義者かだ。

マスクではウイルスを完全には防げない。
ただ、不意に出る咳やくしゃみの飛沫の飛散は大幅に防げるし、ある程度の距離での会話も飛沫を飛ばさずに済むというのは、手洗い・うがい・消毒と同様に絶大な効果だ。
やれるべきことはすべてやる。
そういう闘いの中にいる今、愚か者の暴論と暴挙は断固として断つべきだ。


  2020年4月23日(木) 岡江久美子さんが亡くなられた日
  新型コロナウイルスの映像は必要なのか?

僕の家にはテレビがない。
だから、基本的にテレビを観る習慣がない。
それでも、食事に行った店で、ネット上のニュース番組で、テレビ番組を観る機会がたまにある。
そんな状況の中で、最近疑問に感じ事が表題の通り。

コロナウイルス関連のニュース報道の際、新型コロナウイルスの顕微鏡画像だと思われる写真を背景にしている場面を何度も見かけた。
僕の数少ない視聴の中で何度も観たということは、テレビを頻繁に観ている人はそれ以上に何度も観ているはず。
あの画像を使用することに何か意味はあるのか?
新型コロナウイルスはこういう形状だから、こういうことに気をつけようと一般人が思う訳もない。
ウイルスの形状に関する情報が必要なのは、一部の研究者に限られるはずだし、そういう研究者は勿論データとして持っているはず。
報道機関の意図は一体何なのか?

実は、これは今回に限ったことではない。
ノロウイルスであろうと大腸菌であろうとSARSウイルスであろうと、テレビ報道は同じことを繰り返してきた。
肉眼では見えないその顕微鏡画像を一般人に見せて、知識を深めたり、衛生面を強化したり、感染を予防する効果が少しでもあるのか?
もしも何の意味もないとしたら、彼らが場繋ぎとして使っているだけの無駄な画像ということになる。
逆に、その決して愉快ではない映像を何度も見せられることによって、その報道を観なくなる人が増えるという悪影響の方が多いのではないか。

すごく下らないことに拘っている。
僕が下らないことに拘るのは、無反省に同じような映像を流し続けることの中に、報道に携わる人間たちの根本的な無反省が潜んでいると感じるからだ。
報道は必ず取捨選択の過程を通して行われる。
何が大切で何が大切ではないかを見間違え続け、見間違え続けていることを反省しない報道機関によって、僕たちの日々の情報は形成されているということを恐れなくてはいけない。


  2020年4月13日(月) 引き籠りには相応しい雨
  <アフター・コロナ>について漠然と考える

昔から「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という諺がある。
何か災害や事故が起こる度に「風化させるな」と言う人たちがいる。
この二つの批判的な言葉は、無意味だと僕は思っている。
人間は良きにつけ悪しきにつけ忘れる生き物だから。
痛みをいつまでも痛みのまま抱き続けている人は別として。
でも、だからと言って同じ過ちを繰り返してしまう愚かさに対して諦めるのじゃなくて、忘れようが忘れまいが対応できるようにシステムを変えることこそが大切なのだ。
大仰な出だしになったけれど、今から新しいシステムを提案する訳ではない。
新型コロナ感染拡大の渦中、しかし、もう既に<アフター・コロナ>は始まっているという認識で、僕なりの漠然とした考えを書く。

現在在宅勤務が増えている。
そして、これが<アフター・コロナ>でもそこそこの確率で継続されるのは誰が見ても自明だ。
そこで起こること。
例えば、完全在宅じゃなくても、週5日勤務のうちの1日だけ恒常的に在宅になっただけで、通勤数が20%減少する計算になる。
大雑把に、そういうシステムになる会社が全体の半数だとしたら、通勤数は恒常的に10%減少することになる。
と言うことは、混雑が10%緩和されるだけではなく、オフィス街のランチや夜の飲食店の売り上げが10%近く減少するはず。
この傾向がもっと進めば、この数字は更に膨らむ。
それと同時に、在宅勤務者のパーセンテージの多い会社は、高い家賃の場所に広いオフィスを維持する必要がなくなる(これは僕の愛しい人に指摘された)。
つまり、オフィス街の不動産価格は下落傾向になるはず。
経済の成り立ちの土台が変化するということ。

在宅勤務が増えることによって地方移住者が増えるという意見を目にすることがある。
確かに、それは少なからずあると思える。
しかし、それにはひとつ重大な条件がある。
単純に、その地方が居住するのに魅力的かどうか。
地方というのはひとつの選択肢でしかなく、これは逆に都会でもいい。
家賃が高くても、車を持たずに都市の利便性を享受する暮らしという選択肢もあるはず。
勿論、家賃がほとんどかからず、住環境がいい場所で暮らすという真逆の選択肢もある。
地方か都市かという問題だけではなく、在宅勤務ならそもそも定住する必要がなくなる。
子供がいて、転校させたくないという状況はあるかもしれないけれど、逆に言うなら、定住する必要がないなら簡単に転校も出来るという見方もある。
ひとつの土地に拘りがないなら、同じ会社に勤務しながら、転勤という会社の意向ではなく自分の意志で様々な土地を渡り歩く人生も可能になるはず。

ライヴハウス(或いは劇場)について。
現状(2020年4月の状況)がかなり厳しいのは容易に想像がつく。
実際に閉店した店もあるし、恐らくこれから閉店する店も少なくないと思う。
しかし、ライヴ自体もライヴハウスもなくならないし、<アフター・コロナ>には新しい店がまた生まれて来ると思う。
ライヴが中止になったからと、無観客で配信しているミュージシャンがいる。
それはそれで構わない。
しかし、それは所謂<ライヴ>とは別のものだ。
CDとライヴが別なもののように。
ライヴというのは、リアルタイムであるかどうかの同時性も大切だけど、それ以上に一堂に会しているという一体感と親密感と相互リアクションの方が遥かに大切だ。
そういう場所は失われないと僕は確信している。
防音性を残したまま換気を強化できるような空間設計ができるかどうかは、ミュージシャンやライヴハウスの経営側の問題ではなく、建築技術の問題だと思う。

もっともっと先になるかもしれないけれど、政治家という人間が政治的決定をする時代は終わると思う。
イギリスの首相の入院の問題だけではなく、危機的状況の判断を鈍らせる(誤らせる)のが人間的な利害関係だというのは、歴史的に何度も証明されている。
それでもこのシステムを変えられなかったのは、残念ながら人間しか政治的決定をするものがいないという状況が有史以来続いて来たからだ。
しかし、今ではAIという選択肢もある。
ひとつのAIではなく、多様なAI同士による(エヴァンゲリオン的な)合議制システムも可能だし、AIが提示した発案をリアルタイム投票で国民が決めるという変則的直接民主制という方法もある。
台湾のように、国会議員ではない専門家を各省庁の長とするような行政システムも有効性を示したけれど、先程書いたような新しいシステムも実験から始める価値はあると思う。
ただ、そういう合理性そのものや可能性の模索を阻害するのは、利害関係と名誉欲にからめとられた愚かな政治家なのだろうというのは容易に想像できる。

最後に、今に戻る。
一番大切なことは、「自分は大丈夫だろう」と決して思わないこと。
自分に対しても周囲に対しても、慎重過ぎるくらい慎重に。


  2020年3月29日(日) 外出自粛の花盛りの雪
  アンチ裏声

前置き。
この<気になるんや>や毎日日記のように書いている<しゃべるんや>に僕が書いている意見の多くは、世間で言えば少数派であることが多い。
それは、ひとつには僕が元来ひねくれ者であるというのもある。
しかし、それだけではなく、多くの方と同じ意見の部分は敢えて書いてないということもある。
僕がわざわざ書く必要もないと思うから。
今回書くことについては、僕は実際にかなり少数派だと思う。
何故僕が少数派なのか理解できないまま。

世間に流布するうたで、近年裏声が使われているうたをしばしば耳にするし、それを真似てうたっているアマチュアも時々見かける。
ファルセットなどという呼び名を使われることも多い(厳密には同一ではないらしいが)この裏声が僕は大嫌いだ。

うたうたいが裏声を使いたがる理由は僕にも少しは理解できる。
ひとつは、地声では出せない音域を出せるから。
ひとつは、<楽器としての声>の音色に変化をつけられるから。
ひとつは、裏声(ファルセット)という技術を持っていることをアピールできるから。
ひとつは、ひとつ前と少し重なるけれど、技術というのは持っていたら使いたくなるものだから。

僕が裏声が嫌いな理由は単純。
聴いていて醒めるから。
原理的な意味でも、感覚としても。

うたというものが、遊びの延長であれ、祈りのひとつの形態であれ、叫びや嘆きや呟きや怒号や悲鳴の変形であれ、人間の心の動きが言葉という形で発せられたもの。
本来は刹那的であるはずのそういう表現を、何度も再現して伝えたいという想いからうまれたものがうた。
再現するために言葉が固定され、音程という技術が加味された。
原初的な意味でいうなら、ここまでがうただと僕は思っている。
それ以降に生み出された様々な技術は、そのヴァリエーションか蛇足だというのが僕の見解だ。

以前ここに書いたかどうか失念したが、僕はオペラ歌手がうたう「赤とんぼ」が大嫌いなのだ。
どれだけ音程が合っていても、どれだけ発声がしっかりしていても、どれだけ情感が込められていても、技術の過剰によってうたの原初的な力が駆逐されているとしか僕には感じられない。
裏声というのは、僕にとってそれにすごく似ている。
うたをうたっている途中で急に裏声を使われた時、その瞬間にそのうたうたいはうたから乖離して<うた技術者>へと変貌しているようにしか僕には感じない。
そこに僕は深い断層を見てしまう。
と言うか、そんな考えよりも先に気持ちがうたから離れてしまう。
僕はその瞬間にもう醒めてしまっているのだ。

こんな言い訳は蛇足かもしれないが、僕はすべての技術を否定している訳ではない。
送りバントを一塁線に転がすことも、釘を真っ直ぐに打つことも、ニュース原稿を噛まずに読むことも、技術として素晴らしいと思う。
それは、その技術が、その技術によって生み出された結果と一体化しているから素晴らしいと僕は感じる。
技術としての裏声がどれだけ高度であっても、それは少なくとも僕にとってはうたと相反するものだと感じるから、その技術は無駄(もっと正確に言えば、邪魔)だとしか言いようがない。


  2020年2月25日(火) 丸1年振り
  ムードの怖さ

新型コロナウイルスの流行で、様々なイベントや公演の自粛ムード(及び実際の自粛)が広まっている。
政府の初動ミス(中国人の入国禁止をしなかった)を非難するのは置いておいて、またもや蔓延している自粛ムードについて僕の見解を書く。

僕が実体験として感じた<自粛ムード>はこれが3度目。
1度目は昭和天皇崩御直後の歌舞音曲<自粛ムード>。
2度目は東日本大震災後のイベントや公演の<自粛ムード>。
そして、今回。
今回は確かに少し毛色が違うけれど、結局はすべて<ムード>とその追随の問題だった。
更に遡って、僕が体験していない<ムード>で言えば、太平洋戦争へなだれ込む時代の好戦ムード。
時代は変わっても、人間集団が如何に<ムード>に左右されるかが分かる。

<空気を読む>という言葉がある。
いい意味でも悪い意味でも使われる言葉。
こういう<ムード>を作り出しているのは、人々の中にある<空気を読む>という意識の総体の表出だと僕は思う。
社会の他の構成員と思考や行動を共有する安心感へ志向が、こういう<ムード>を生み出し、逆に言えば、その流れから外れている者たちを非難・排除しようという意識を醸成してしまう。

人間集団の怖さはこういう部分にある。
本来は個々で判断すればいいはずのことを集団レベルの意識へ委ねようとする姿勢が、様々な時代の集団的愚行に繋がった。
結局、我々の敵はいつも我々なのだという結論に到達するしかない。