just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2020年3月29日(日) 外出自粛の花盛りの雪
  アンチ裏声

前置き。
この<気になるんや>や毎日日記のように書いている<しゃべるんや>に僕が書いている意見の多くは、世間で言えば少数派であることが多い。
それは、ひとつには僕が元来ひねくれ者であるというのもある。
しかし、それだけではなく、多くの方と同じ意見の部分は敢えて書いてないということもある。
僕がわざわざ書く必要もないと思うから。
今回書くことについては、僕は実際にかなり少数派だと思う。
何故僕が少数派なのか理解できないまま。

世間に流布するうたで、近年裏声が使われているうたをしばしば耳にするし、それを真似てうたっているアマチュアも時々見かける。
ファルセットなどという呼び名を使われることも多い(厳密には同一ではないらしいが)この裏声が僕は大嫌いだ。

うたうたいが裏声を使いたがる理由は僕にも少しは理解できる。
ひとつは、地声では出せない音域を出せるから。
ひとつは、<楽器としての声>の音色に変化をつけられるから。
ひとつは、裏声(ファルセット)という技術を持っていることをアピールできるから。
ひとつは、ひとつ前と少し重なるけれど、技術というのは持っていたら使いたくなるものだから。

僕が裏声が嫌いな理由は単純。
聴いていて醒めるから。
原理的な意味でも、感覚としても。

うたというものが、遊びの延長であれ、祈りのひとつの形態であれ、叫びや嘆きや呟きや怒号や悲鳴の変形であれ、人間の心の動きが言葉という形で発せられたもの。
本来は刹那的であるはずのそういう表現を、何度も再現して伝えたいという想いからうまれたものがうた。
再現するために言葉が固定され、音程という技術が加味された。
原初的な意味でいうなら、ここまでがうただと僕は思っている。
それ以降に生み出された様々な技術は、そのヴァリエーションか蛇足だというのが僕の見解だ。

以前ここに書いたかどうか失念したが、僕はオペラ歌手がうたう「赤とんぼ」が大嫌いなのだ。
どれだけ音程が合っていても、どれだけ発声がしっかりしていても、どれだけ情感が込められていても、技術の過剰によってうたの原初的な力が駆逐されているとしか僕には感じられない。
裏声というのは、僕にとってそれにすごく似ている。
うたをうたっている途中で急に裏声を使われた時、その瞬間にそのうたうたいはうたから乖離して<うた技術者>へと変貌しているようにしか僕には感じない。
そこに僕は深い断層を見てしまう。
と言うか、そんな考えよりも先に気持ちがうたから離れてしまう。
僕はその瞬間にもう醒めてしまっているのだ。

こんな言い訳は蛇足かもしれないが、僕はすべての技術を否定している訳ではない。
送りバントを一塁線に転がすことも、釘を真っ直ぐに打つことも、ニュース原稿を噛まずに読むことも、技術として素晴らしいと思う。
それは、その技術が、その技術によって生み出された結果と一体化しているから素晴らしいと僕は感じる。
技術としての裏声がどれだけ高度であっても、それは少なくとも僕にとってはうたと相反するものだと感じるから、その技術は無駄(もっと正確に言えば、邪魔)だとしか言いようがない。


  2020年2月25日(火) 丸1年振り
  ムードの怖さ

新型コロナウイルスの流行で、様々なイベントや公演の自粛ムード(及び実際の自粛)が広まっている。
政府の初動ミス(中国人の入国禁止をしなかった)を非難するのは置いておいて、またもや蔓延している自粛ムードについて僕の見解を書く。

僕が実体験として感じた<自粛ムード>はこれが3度目。
1度目は昭和天皇崩御直後の歌舞音曲<自粛ムード>。
2度目は東日本大震災後のイベントや公演の<自粛ムード>。
そして、今回。
今回は確かに少し毛色が違うけれど、結局はすべて<ムード>とその追随の問題だった。
更に遡って、僕が体験していない<ムード>で言えば、太平洋戦争へなだれ込む時代の好戦ムード。
時代は変わっても、人間集団が如何に<ムード>に左右されるかが分かる。

<空気を読む>という言葉がある。
いい意味でも悪い意味でも使われる言葉。
こういう<ムード>を作り出しているのは、人々の中にある<空気を読む>という意識の総体の表出だと僕は思う。
社会の他の構成員と思考や行動を共有する安心感へ志向が、こういう<ムード>を生み出し、逆に言えば、その流れから外れている者たちを非難・排除しようという意識を醸成してしまう。

人間集団の怖さはこういう部分にある。
本来は個々で判断すればいいはずのことを集団レベルの意識へ委ねようとする姿勢が、様々な時代の集団的愚行に繋がった。
結局、我々の敵はいつも我々なのだという結論に到達するしかない。