just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2018年12月8日(土) ユーカリのアロマで喉を癒しつつ
  隣り運

この言葉は、もしかしたら誰かが既に使っているのかもしれないが、随分前から僕の中で存在している僕自身の特殊な用語。
案外こういう些細な違いが人生の方向性を決めたりする。
とまで言えば大袈裟か。
しかし、あらゆる場面で<隣り運>というのは存在すると僕は思っている。

日々の暮らしの中でよくあるのは、電車の座席。
横の席で眠っている人が凭れ掛かって来る場合がある。
それ自体で隣り運が悪いとも言えるし、それが可愛い女の子だった場合は隣り運がいいとも言える。
音漏れが激しいヘッドフォンを使っている人、ゲームに夢中になって肘が当たって来る人、ノートパソコンのタイピングがうるさい人、ケータイの着信音を止めていない人、靴を履いたまま窓の外を見ていて何度も蹴って来る子供、香水の匂いのきつい女性、体臭のきつい男性等々、特に長時間電車に乗っていないといけない場合、そういう人がたまたま隣りに座るだけでその時間が不快になる。
これは本当に運。
隣りの席にわざわざ荷物を置いて座らせないようにする人を僕は決して認めないけれど、こういう隣り運が悪い状況に出くわすと、そういう人たちの愚かな防御姿勢も少しは理解できる。

今書いたのは、日常の些細なこと。
飲み屋でたまたま隣りに座った人と意気投合することもあるし、逆に諍いになることもある。
学校の教室や飛行機やコンサート会場や友人の結婚式等でたまたま隣りの席になったことがキッカケで結婚したなんてことも少なからずあると思う。
そういうことを総称して<隣り運>と呼ぶ。
大きく言えば、<縁>ということなのかもしれないが、<隣り>という距離感が、いい意味でも悪い意味でも人間を交わらせる。
単純に<近さ><遠さ>ではなく、人為的に作られた並びの中に身を置く<隣り>という感覚は、人間独特のものかもしれない。

<隣り運>をもっと拡大して捉えてみる。
<隣り運>を一番強く感じるのは、住居。
不動産屋での物件の表示にせよ、足を運んでの実見にせよ、それだけでは分からないけれど、かなり重要な要素が近隣の存在だと思う。
家賃、最寄駅からの距離、間取り、日当たり、築年数、周辺のコンビニやスーパーや学校や食堂や病院との距離、駐車場や駐輪場の有無等の客観的状況が住居を決める大きな要素になるのは分かる。
実際に行ってみて、「なんだか嫌な感じがする」とか「思っていたより雰囲気がいい」とか、主観的要素を重視する人がいるのも分かる。
しかし、実際に住んでみないと<隣り運>は分からないし、住み始めてから新しい住人が近所にやって来て<隣り運>が変わることもあり得る。
物理的にうるさい住人や様々なことに細かいという意味でうるさい住人、或いはもっと猟奇的な住人、挨拶もしない住人や逆に馴れ馴れしい住人、生活時間帯が違う住人、人の出入りが多い住人やルールを守らない住人等々、これはもう本当に当たりハズレでしかない。
しかし、住居を選ぶ上で、表示されない最大要素はこれだと僕は以前から思っている。
個人的なことを言えば、僕はギターを弾くから完全に迷惑なうるさい住人なので、<ギターを弾ける>(防音が整っている高価な物件には住めないので、周囲の人たちが寛大である)ことを転居の時の第一条件として不動産屋に提示することにしている。

更に拡大すると、国家の<隣り運>というのも動かしがたく存在している。
どこかで書いたかもしれないが、日本人が韓国人や中国人と憎しみ合うのは、自分たちや彼らが悪いからではなく、単純に隣国だからだと僕は思っている。
ドイツとフランスもそうだし、インドとパキスタンもそうだし、イランとイラクもそうだし、それは国民性の問題ではなく、単純に距離の問題なのだ。
日本人に「マダガスカル人は好きですか?嫌いですか?」とか「ボリビア人は好きですか?嫌いですか?」と尋ねたら、ほとんどの人が答えられないと思う。
それは遥かに遠い国だからだ。
しかし、もしたまたま隣国がマダガスカルやボリビアだったら、やはり彼らに対する歴史的愛憎を抱いていたはずだ。
ただ、この問題が厄介なのは、この<隣り運>だけは移動や引っ越しによって解消し得ないということだ。
そして、僕の中にもこの<隣り運>の解消に対する答えはないが、少なくとも国民性ではなく地理の問題なのだという認識を抱きながら、暴力だけは排除していくしかない。


  2018年8月6日(月) 夕方から急に涼しい風
  反=教育機関としての東京医科大学

最近、久し振りに激しい怒りを抱いた。
日本中で暴動が起きても不思議じゃないレベルの問題だと思うのに、何故か世間は割りとひんやりしている。
さほど興味がないのか、そんなことで怒っているほど暇ではないのか、事の本質が見えていないのか。
東京医科大学の一連の問題について、ここに記してはっきりと記録に留めておく。

端を発したのは、文科省局長が支援事業選定の見返りに息子を裏口入学させたことが発覚したこと。
これがどこからリークされたかとか、どんな意図リークされたか等、僕は安物のマスコミではないから問わない。
本来公平であるべき入試制度の公平性を、所轄官庁である文部省の役人が自ら覆したことと、教育機関が自らの利益のために公平性を否定したことが単純に大問題なのだ。
これがまずひとつ目の反=教育的行為。

次に、入試において女子の受験者を一律で減点していたこと。
これは、明確に憲法違反(日本国憲法第14条及び教育基本法第3条)。
この点についてマスコミでも様々に言及されているけれど、はっきりと憲法違反であることを周知させるべき。
これがふたつ目の反=教育的行為。

更に、3浪以上の受験生も入試において減点操作をして抑制していた。
これも明確に憲法違反(同様に日本国憲法第14条及び教育基本法第3条)。
これには個人的な意見もある。
僕の友人で5浪して医者になった者も6浪して歯科医師になった者もいる。
彼らは不器用かもしれないけれど、諦めずに真面目にずっと努力した結果、長い時間を掛けて合格した。
そういう可能性を潰す操作の卑劣さは、単純に憲法違反以上のものであるが、ここでもまた憲法違反という認識をはっきりさせたい。
これがみっつ目の反=教育的行為。

つまり、東京医科大学というのは、組織として完全に反=教育機関であると認定できる。
大学生というのは、日本国憲法の授業が必須だが、表面的に憲法教育をしながら、実質的に反=憲法行為を意図して行っているというのは、ただの反=教育機関というだけではなく、暴力団と同じで反=社会的組織でもあるということだ。
この東京医科大学に対しての平成29年度の私学助成金は約23億円にも上っている。
それは、勿論税金である。
これは狂気の沙汰と言える。
最低限の措置として、来年度の私学助成金の打ち切り、来年度の入学試験の禁止を課し、更に学校法人としての認可の取り消しをすべきだ。
現在在学中の学生が東京医科大学にとっての最後の学生になるような措置が必要だと僕は強く要望する。

さて、これが全体の入試制度における、或いは医学部や医局の問題における氷山の一角かどうかは僕は知らない。
どちらにせよ、最早現行のような入試制度の不透明性は早急に改革するしかない。
試験問題の採点方法と最終的な得点を明示して、あらゆる試験を透明化すべきだ。
と言うか、今までそれがなされていないことの方が驚くべきことだ。
それと同時に、入試におけるあらゆる不正に対する厳罰化も提示すべきだ。

何故みんなこのことにもっと怒らないのか。