just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2018年12月31日(月) 年末にアガサ・クリスティーを読む
  恩送り

ネット上でこの言葉を初めて知った時、こういう意識や行動が既にちゃんと名付けられていることで人間の可能性を再認識した。
ちなみに、英語では<Pay it forward>という言葉として定着しているらしい。
これはいかにも英語らしい言い回しだと思う。
しかし、この英語の語感は、日本語の<情けは人の為ならず>と同様、<恩送り>とは微妙にニュアンスも根底思想も違うと僕は思っている。 

世間に広く知られている<恩返し>という言葉がある。
両親や先生や師匠やその他世話になった人たちに対して、それまでに受けて来た厚情(恩)のお返しをすることである。
つまり、与えられたから、その相手に与え返すということ。
確かに分かりやすい。
しかし、ビジネスライクな関係でない限り、そういう返礼的な<恩返し>を求めている人はどれ位いるのだろうか。
特に、師弟関係のような場合、直接恩返しするのではなく、自分がしてもらったように次の世代に技術やノウハウや知識を伝えることこそ、つまり、その歴史や伝統を継承することこそ、本当の意味の<恩返し>だと考える人も多いと思う。

しかし、そういう師弟関係ともまた違い、自分が誰か(不特定の人々)から受けた厚情(恩)を見知らぬ誰かへの支えや助力として無償で与えることが<恩送り>という言葉の意味だ。
それは、未来の何者かのためでもなく、いつか巡り巡って自分のところへ返って来ることもあるだろうという<遠い投資>でもなく、様々な人たちによって自分の中に芽生え、実った想いを見知らぬ誰かにただただ分け与えることなのだ。
だから、<恩送り>は、冒頭で書いた<Pay it forward>でも<情けは人の為ならず>でもない。

この<恩送り>という言葉を知る前から、僕は体験的にその<恩送り>を受けていた。
かつてアメリカで出会ったジャック・ハーディーさんは、見ず知らずの僕を家に泊めてくれて、うたを学ばせてくれて、食事も食べさせてくれた。
僕が「あなたに何もお返しが出来ない」と言ったら、彼は「僕も若い頃に多くの方の世話になった。もしも君が何かを返したいと思うのなら、次の誰かにしてあげればいい」と言ってくれた。
30年近く前の話である。
他にも、ヒッチハイクをしていて乗せてくれる方の中には、自分もかつて旅をしている時に多くの方にお世話になったから、ヒッチハイカーがいたらなるべく乗せるようにしていると言う方もいた。
これは正しく<恩送り>である。

これは偽善でもなんでもない。
こういう意識を持っている人は少なからずいるし、世界にとってこれほど意義のあることもなかなかない。
しかし、世間では<恩返し>ほど<恩送り>という言葉は定着していない。
ある種の意識は、名付ける(ひとつのパッケージとして提示する)ことによって伝わりやすくなるものだ。
僕も今後<恩送り>という言葉を広めていきたいと思っている。


  2018年12月29日(土) 神田松之丞が真打昇進を決めた
  「現実的じゃない」の罠

先日、ある芝居を観に行った。
その劇中の議論で、何度も「それは現実的じゃない」という言葉が使われていた。
僕は予てからこの言葉を使う人の意識に疑問を感じていた。
僕自身はほとんど使わないし、使う場合はかなり慎重になる言葉のひとつ。
それがどういうことなのか、深く掘り下げてみた。

ある事象にについて人が「現実的じゃない」と言う時、大まかに三つの場合があると思う。

ひとつは、物理的不可能性を言及している場合。
これは、例えば「今東京を出発して、明日の朝までに徒歩で鹿児島に着く」とか「1トンのバーベルを独りで持ち上げる」とか。
何かのトリックを使ったり、裏技を使ったらまさかのことは起きるかもしれないけれど、物理的条件としてほぼ不可能なこと。

ひとつは、科学的不可能性を言及している場合。
18世紀の科学状況の中で地球から月まで行くとか、現在の科学状況の中で銀河系の外にもうひとつ同じ環境の第二銀河系を人間の手で作るとか。
もしかしたら、未来のいつか可能になるかもしれないけれど、現実の科学力ではその想像力を現実化することは出来ない場合。

そして、もうひとつは、人間の心理的抵抗について言及している場合。
「地方自治体を廃止する」とか「すべての法案の採決に直接民主制を導入する」とか「土地をすべて国有化する」とか、科学的にも物理的にも不可能ではないことに対して、想定される心理的抵抗の大きさから「現実的じゃない」という言葉が発せられる場面はよくある。
或いは、金銭、時間、労力等を含めた<コスト>の大きさを捉えて「現実的じゃない」と言われる場合もある。
特に、その<コスト>に対する見返りが見えづらい場合。
しかし、これは本当の意味で「現実的じゃない」のではなく、<現実>という概念を理解していないだけだと僕には思える。
僕が最も問題視しているのは、この場合だ。

「現実的じゃない」という言葉を使う人は、一見合理的な思想の持ち主に見えてる。
しかし、この言葉は、変化する勇気と可能性への展望と更に先への思考の展開を遮断する(思考停止を招く)言葉でもある。
この言葉を使った途端、あくまでも<概算による見積もりでしかない可能性>を矮小化させることによって、現実をより強固なものと見せ掛けてしまう効果がある。
それは、その言葉を受けた相手にとってと言うよりも、「現実的じゃない」という言葉を使った本人にとって。

現実とは、過去から現在へと続く変化の蓄積であり、未来への変化の可能性の場でしかない。
過去の変化の様式が、そのまま未来の変化の様式であるとは限らないし、変化の量も量り切れない。
未来に向けて何かを取捨選択する場合、不可能性を前提として選択するのと可能性を前提として選択するのでは、自ずと選択されるものは変わる。
そんな状況である<現実>において、ある種の変化の可能性を「現実的じゃない」という言葉で遮断する人を僕は信じないし、与することもない。


  2018年12月8日(土) ユーカリのアロマで喉を癒しつつ
  隣り運

この言葉は、もしかしたら誰かが既に使っているのかもしれないが、随分前から僕の中で存在している僕自身の特殊な用語。
案外こういう些細な違いが人生の方向性を決めたりする。
とまで言えば大袈裟か。
しかし、あらゆる場面で<隣り運>というのは存在すると僕は思っている。

日々の暮らしの中でよくあるのは、電車の座席。
横の席で眠っている人が凭れ掛かって来る場合がある。
それ自体で隣り運が悪いとも言えるし、それが可愛い女の子だった場合は隣り運がいいとも言える。
音漏れが激しいヘッドフォンを使っている人、ゲームに夢中になって肘が当たって来る人、ノートパソコンのタイピングがうるさい人、ケータイの着信音を止めていない人、靴を履いたまま窓の外を見ていて何度も蹴って来る子供、香水の匂いのきつい女性、体臭のきつい男性等々、特に長時間電車に乗っていないといけない場合、そういう人がたまたま隣りに座るだけでその時間が不快になる。
これは本当に運。
隣りの席にわざわざ荷物を置いて座らせないようにする人を僕は決して認めないけれど、こういう隣り運が悪い状況に出くわすと、そういう人たちの愚かな防御姿勢も少しは理解できる。

今書いたのは、日常の些細なこと。
飲み屋でたまたま隣りに座った人と意気投合することもあるし、逆に諍いになることもある。
学校の教室や飛行機やコンサート会場や友人の結婚式等でたまたま隣りの席になったことがキッカケで結婚したなんてことも少なからずあると思う。
そういうことを総称して<隣り運>と呼ぶ。
大きく言えば、<縁>ということなのかもしれないが、<隣り>という距離感が、いい意味でも悪い意味でも人間を交わらせる。
単純に<近さ><遠さ>ではなく、人為的に作られた並びの中に身を置く<隣り>という感覚は、人間独特のものかもしれない。

<隣り運>をもっと拡大して捉えてみる。
<隣り運>を一番強く感じるのは、住居。
不動産屋での物件の表示にせよ、足を運んでの実見にせよ、それだけでは分からないけれど、かなり重要な要素が近隣の存在だと思う。
家賃、最寄駅からの距離、間取り、日当たり、築年数、周辺のコンビニやスーパーや学校や食堂や病院との距離、駐車場や駐輪場の有無等の客観的状況が住居を決める大きな要素になるのは分かる。
実際に行ってみて、「なんだか嫌な感じがする」とか「思っていたより雰囲気がいい」とか、主観的要素を重視する人がいるのも分かる。
しかし、実際に住んでみないと<隣り運>は分からないし、住み始めてから新しい住人が近所にやって来て<隣り運>が変わることもあり得る。
物理的にうるさい住人や様々なことに細かいという意味でうるさい住人、或いはもっと猟奇的な住人、挨拶もしない住人や逆に馴れ馴れしい住人、生活時間帯が違う住人、人の出入りが多い住人やルールを守らない住人等々、これはもう本当に当たりハズレでしかない。
しかし、住居を選ぶ上で、表示されない最大要素はこれだと僕は以前から思っている。
個人的なことを言えば、僕はギターを弾くから完全に迷惑なうるさい住人なので、<ギターを弾ける>(防音が整っている高価な物件には住めないので、周囲の人たちが寛大である)ことを転居の時の第一条件として不動産屋に提示することにしている。

更に拡大すると、国家の<隣り運>というのも動かしがたく存在している。
どこかで書いたかもしれないが、日本人が韓国人や中国人と憎しみ合うのは、自分たちや彼らが悪いからではなく、単純に隣国だからだと僕は思っている。
ドイツとフランスもそうだし、インドとパキスタンもそうだし、イランとイラクもそうだし、それは国民性の問題ではなく、単純に距離の問題なのだ。
日本人に「マダガスカル人は好きですか?嫌いですか?」とか「ボリビア人は好きですか?嫌いですか?」と尋ねたら、ほとんどの人が答えられないと思う。
それは遥かに遠い国だからだ。
しかし、もしたまたま隣国がマダガスカルやボリビアだったら、やはり彼らに対する歴史的愛憎を抱いていたはずだ。
ただ、この問題が厄介なのは、この<隣り運>だけは移動や引っ越しによって解消し得ないということだ。
そして、僕の中にもこの<隣り運>の解消に対する答えはないが、少なくとも国民性ではなく地理の問題なのだという認識を抱きながら、暴力だけは排除していくしかない。


  2018年8月6日(月) 夕方から急に涼しい風
  反=教育機関としての東京医科大学

最近、久し振りに激しい怒りを抱いた。
日本中で暴動が起きても不思議じゃないレベルの問題だと思うのに、何故か世間は割りとひんやりしている。
さほど興味がないのか、そんなことで怒っているほど暇ではないのか、事の本質が見えていないのか。
東京医科大学の一連の問題について、ここに記してはっきりと記録に留めておく。

端を発したのは、文科省局長が支援事業選定の見返りに息子を裏口入学させたことが発覚したこと。
これがどこからリークされたかとか、どんな意図リークされたか等、僕は安物のマスコミではないから問わない。
本来公平であるべき入試制度の公平性を、所轄官庁である文部省の役人が自ら覆したことと、教育機関が自らの利益のために公平性を否定したことが単純に大問題なのだ。
これがまずひとつ目の反=教育的行為。

次に、入試において女子の受験者を一律で減点していたこと。
これは、明確に憲法違反(日本国憲法第14条及び教育基本法第3条)。
この点についてマスコミでも様々に言及されているけれど、はっきりと憲法違反であることを周知させるべき。
これがふたつ目の反=教育的行為。

更に、3浪以上の受験生も入試において減点操作をして抑制していた。
これも明確に憲法違反(同様に日本国憲法第14条及び教育基本法第3条)。
これには個人的な意見もある。
僕の友人で5浪して医者になった者も6浪して歯科医師になった者もいる。
彼らは不器用かもしれないけれど、諦めずに真面目にずっと努力した結果、長い時間を掛けて合格した。
そういう可能性を潰す操作の卑劣さは、単純に憲法違反以上のものであるが、ここでもまた憲法違反という認識をはっきりさせたい。
これがみっつ目の反=教育的行為。

つまり、東京医科大学というのは、組織として完全に反=教育機関であると認定できる。
大学生というのは、日本国憲法の授業が必須だが、表面的に憲法教育をしながら、実質的に反=憲法行為を意図して行っているというのは、ただの反=教育機関というだけではなく、暴力団と同じで反=社会的組織でもあるということだ。
この東京医科大学に対しての平成29年度の私学助成金は約23億円にも上っている。
それは、勿論税金である。
これは狂気の沙汰と言える。
最低限の措置として、来年度の私学助成金の打ち切り、来年度の入学試験の禁止を課し、更に学校法人としての認可の取り消しをすべきだ。
現在在学中の学生が東京医科大学にとっての最後の学生になるような措置が必要だと僕は強く要望する。

さて、これが全体の入試制度における、或いは医学部や医局の問題における氷山の一角かどうかは僕は知らない。
どちらにせよ、最早現行のような入試制度の不透明性は早急に改革するしかない。
試験問題の採点方法と最終的な得点を明示して、あらゆる試験を透明化すべきだ。
と言うか、今までそれがなされていないことの方が驚くべきことだ。
それと同時に、入試におけるあらゆる不正に対する厳罰化も提示すべきだ。

何故みんなこのことにもっと怒らないのか。