僕もかつては「将棋世界」も「週刊将棋」(現在休刊)も購読していた。
周りに対戦相手もなく、かと言って、将棋道場に通うこともなく、今風の所謂<観る将>(将棋は指さないが、動画サイト等で観戦するのを趣味とする人たち)のひと世代前の、文字としての<観る将>だった。
一番熱心だったのは、故・米長邦夫九段が名人になった頃だろうか。
谷川浩司九段が羽生世代相手にまだなんとか踏みとどまっていた頃。
角換わり腰掛け銀の定跡書なども興味深く読んでいた。
それから暫くして、将棋関連の購読をやめ、ゲーム相手ですら将棋を指さなくなり、若手棋士の名前も分からなくなった。
それが、ご多分に漏れず、藤井聡太四段の登場キッカケに今風の<観る将>になり、そこで覚えた違和感について書きたい。
将棋のインターネット中継は幾つかのメディアがやっているが、その中でも中心的な役割を担っているのが、ニコニコ生放送とAbemaTV。
そのニコニコ生放送では、画面に対局室の様子や盤面を映しつつ、大抵は解説の男性棋士一人と聞き手として女流棋士(女性棋士という表現ではないのは、奨励会を経て棋士になっていないから)一人が別室の大盤で解説したり、世間話をしたりする。
そこまでは昔からあるNHK杯将棋トーナメントのテレビ放送とほぼ変わらない構図。
ただ、ひとつ大きく違う点がある。
それは、将棋ソフト(AI)による評価値を時々画面表示する点。
対局が始まった時点で先手と後手の評価値は0対0。
それが少しずつどちらかに傾き、1000点対マイナス1000点位の差が出来ると、かなり優劣がはっきりした局面と評価されていることになる。
恐らく、9999点というのが最高点で、これはどちらかの玉が詰んでいるということ。
更には、数手先までの両対局者の指し手の候補手も提示し、この先にこういう展開になるから現在こういう評価値になると示してくれる。
これが<観る将>の意識をガラリと(もっと言えば、ある種革命的に)変化させた。
10年程前からチェスの世界チャンピオンがAIに勝てなくなり、それ以来、いずれその日が来るとは思われていたものの、ここ数年で将棋も囲碁もトップレベルの棋士が相次いでAIに敗れている。
そういう背景もあり、AIの評価に対する信頼度が年々上がっている。
そうなると、プロ棋士が解説していて「難解な局面です」とか「どちらが優勢かはっりしません」とか言ったところで、<観る将>にとっては、どんな局面でもなんらかの数値として評価値を出すAIの方が分かりやすいし、その評価を判断材料にしたくなる気持ちは分かる。
AIが示すものは、漠然としたものを割り切れるものとして知りたいという人間の欲望(ある意味で弱さ)やほんの少し先の未来を知りたいという欲望(これもやはり、人間の弱さ)を補完してくれる。
だから、ニコニコ生放送の画面では、評価値が表示されていない難解な局面で、「評価値を知りたい」とか「評価値はよ」とかのコメントがしばしば流れるのを目にする。
さて、長々と書いた上での僕の意見。
人間は間違える生き物だから、評価値の差がどれだけ開いていても逆転はあるし、沢山の指し手候補がある中で正解は一手しかなく、それを指さなければ逆に負けるというような場面の評価値は勝敗の基準としてアテにならないという意見もある。
しかし、それだけではなく、評価値やランキングなどの数値というフィルターを通して生(なま)の闘いを観るつまらなさを僕は感じる。
現状の優劣や結果を早く知って安心したいという気持ちは誰にでもある。
しかし、あらゆる勝負事というのは、先が分からない混沌とした中にこそ強い興奮があり、それが収束へ向かう中に深い感動があるのではないかと僕は思う。
つまり、神様に途中経過や結果を知らされている人生なんてつまらないということだ。
ちなみに、ニコニコ生放送に対して、AbemaTVではAIの評価値は表示せず、解説の棋士がどちらが優勢かを十段階評価で示すだけだ。
僕はそちらの方が好みだが、この棋士の評価は往々にして間違っていたりする。
しかし、それも含めて人間の面白さだと思えるのだが。
|