just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2017年12月17日(日) 会場抽選、早朝寄席、靴を買う
  評価値に支配される人たち

僕もかつては「将棋世界」も「週刊将棋」(現在休刊)も購読していた。
周りに対戦相手もなく、かと言って、将棋道場に通うこともなく、今風の所謂<観る将>(将棋は指さないが、動画サイト等で観戦するのを趣味とする人たち)のひと世代前の、文字としての<観る将>だった。
一番熱心だったのは、故・米長邦夫九段が名人になった頃だろうか。
谷川浩司九段が羽生世代相手にまだなんとか踏みとどまっていた頃。
角換わり腰掛け銀の定跡書なども興味深く読んでいた。
それから暫くして、将棋関連の購読をやめ、ゲーム相手ですら将棋を指さなくなり、若手棋士の名前も分からなくなった。
それが、ご多分に漏れず、藤井聡太四段の登場キッカケに今風の<観る将>になり、そこで覚えた違和感について書きたい。

将棋のインターネット中継は幾つかのメディアがやっているが、その中でも中心的な役割を担っているのが、ニコニコ生放送とAbemaTV。
そのニコニコ生放送では、画面に対局室の様子や盤面を映しつつ、大抵は解説の男性棋士一人と聞き手として女流棋士(女性棋士という表現ではないのは、奨励会を経て棋士になっていないから)一人が別室の大盤で解説したり、世間話をしたりする。
そこまでは昔からあるNHK杯将棋トーナメントのテレビ放送とほぼ変わらない構図。
ただ、ひとつ大きく違う点がある。
それは、将棋ソフト(AI)による評価値を時々画面表示する点。
対局が始まった時点で先手と後手の評価値は0対0。
それが少しずつどちらかに傾き、1000点対マイナス1000点位の差が出来ると、かなり優劣がはっきりした局面と評価されていることになる。
恐らく、9999点というのが最高点で、これはどちらかの玉が詰んでいるということ。
更には、数手先までの両対局者の指し手の候補手も提示し、この先にこういう展開になるから現在こういう評価値になると示してくれる。
これが<観る将>の意識をガラリと(もっと言えば、ある種革命的に)変化させた。

10年程前からチェスの世界チャンピオンがAIに勝てなくなり、それ以来、いずれその日が来るとは思われていたものの、ここ数年で将棋も囲碁もトップレベルの棋士が相次いでAIに敗れている。
そういう背景もあり、AIの評価に対する信頼度が年々上がっている。
そうなると、プロ棋士が解説していて「難解な局面です」とか「どちらが優勢かはっりしません」とか言ったところで、<観る将>にとっては、どんな局面でもなんらかの数値として評価値を出すAIの方が分かりやすいし、その評価を判断材料にしたくなる気持ちは分かる。
AIが示すものは、漠然としたものを割り切れるものとして知りたいという人間の欲望(ある意味で弱さ)やほんの少し先の未来を知りたいという欲望(これもやはり、人間の弱さ)を補完してくれる。
だから、ニコニコ生放送の画面では、評価値が表示されていない難解な局面で、「評価値を知りたい」とか「評価値はよ」とかのコメントがしばしば流れるのを目にする。

さて、長々と書いた上での僕の意見。
人間は間違える生き物だから、評価値の差がどれだけ開いていても逆転はあるし、沢山の指し手候補がある中で正解は一手しかなく、それを指さなければ逆に負けるというような場面の評価値は勝敗の基準としてアテにならないという意見もある。
しかし、それだけではなく、評価値やランキングなどの数値というフィルターを通して生(なま)の闘いを観るつまらなさを僕は感じる。
現状の優劣や結果を早く知って安心したいという気持ちは誰にでもある。
しかし、あらゆる勝負事というのは、先が分からない混沌とした中にこそ強い興奮があり、それが収束へ向かう中に深い感動があるのではないかと僕は思う。
つまり、神様に途中経過や結果を知らされている人生なんてつまらないということだ。

ちなみに、ニコニコ生放送に対して、AbemaTVではAIの評価値は表示せず、解説の棋士がどちらが優勢かを十段階評価で示すだけだ。
僕はそちらの方が好みだが、この棋士の評価は往々にして間違っていたりする。
しかし、それも含めて人間の面白さだと思えるのだが。


  2017年7月30日(日) 5つ目の試験を終えて
  何故ツナマヨなのか

僕はバイトに行く時、朝食としてヨーグルトと野菜ジュースとホットコーヒーとおにぎり1個を買う。
もう何年も同じメニュー。
ただ違うのは、おにぎりの具だけ。
それはその日の気分で決める。
ただ、どこのコンゾニにも置いているのに僕が決して選ばない具がある。
それがツナマヨだ。

僕は決してツナが嫌いな訳ではない。
積極的なマヨラーではないにせよ、マヨネーズも嫌いではない。
けれど、ツナマヨおにぎりは選ばない。
食べたことがない訳ではない。
遠い昔に1度食べて「違う」と思い、それから暫くして検証のために再び食べて「やはり違う」と思ってから、自分で買って食べたことはない。
なにかの機会にたまたま誰かが買って来たおにぎりが支給されたことがあって、ツナマヨしかなかったから食べたことはある。
僕がツナマヨおにぎりを食べたのはそれくらいだ。

結局何が言いたいのかと言うと、何故<ツナ+マヨネーズ>なのかという疑問を世間のみんなは抱かないのかということだ。
世間のみんながツナマヨおにぎりを好きなのは知っている。
コンビニのおにぎりランキングでもツナマヨが常に上位にあるという客観的事実として。
しかし、みんなは、様々な試行錯誤を重ね、個人的に検証し、その結果としてツナとマヨネーズの組み合わせが最高だと判断したのか?

僕は恐らく、それがツナおにぎりなら買う。
例えば、ツナサンドは決して嫌いではない。
流石にマヨネーズおにぎりは買わないと思うけど、コールスローおにぎりでも買うかもしれない。
しかし、それがツナマヨになった時点で僕はげんなりする。
僕の個人的な見解では、ツナはマヨネーズと混ぜない方が美味い。
そう、勿論完全に個人的な見解だ。
だから、ツナマヨをなくせと言っているのではない。
ただ、シンプルなツナおにぎりとか、ツナキャベツとか、ツナカレー味とか、そういうのを出してもいいのではないか。
大量生産の網目からこぼれ落ちるなら仕方ないが、原材料として同じツナを使うなら、少なくとも期間限定の商品として出すくらいはいいのではないか。

こういうツナマヨ的な状況はいろんな場面で起こっている。
それは、ユニクロ的な状況と言い換えることも出来るかもしれない。
ひねくれた言い方をすれば、資本主義の傲慢さに飼いならされているとも言えるそんな状況があちこちで見られる。
果たして共感を得られるかどうか分からないが、僕は馬鹿みたいに頑固なので、独りで不買運動をしながら、こんな文章を書いている。


  2017年7月4日(火) 台風3号が近づいている
  受け皿という甘え

政治の世界で、<受け皿>という言葉が頻繁に使われる。
自分の支持する政党がない場合、或いは、普段は支持している政党が問題を起こして、今回は他の政党に投票しようと考えている場合等。
数年前に民主党政権が誕生した時、今回東京都議会議員選挙で都民ファーストが第一党になった時、流動的な票の流れ落ちた先を<受け皿>と呼ぶのだろう。
しかし、これは政治のシステムの貧しさを露呈させているだけだと僕は思っている。

そもそも、人や政党にしか投票できないシステムが間違っていることをはっきりさせたい。
自分と完全に同じ思想、自分と完全に同じ政治的立場、自分と完全に同じ問題意識を持っている個人や政党でない限り、全面委任としての投票なんて出来るはずがない。
そこを<ある程度>で妥協するのが議会制民主主義における選挙である。
例えば、政治的信条は同じであるが、利権に染まっている人間(或いは政党)に投票するか、政治的信条はズレているが、しがらみのない個人(或いは政党)に投票するか、選べない場合はどうすべきなのか。
例えば、政治姿勢は評価するが、ひとつの発言だけがどうしても許せない場合とか、漠然と政権交代はしてほしいが、自分の政治信条と合致する政党がないとか。
ある政党のAという政策は完全に支持しているが、Bという政策は絶対に支持できない場合とか。

つまり、<受け皿>とは、真摯な態度を貫くことから外れた選択肢外の選択肢なのだ。
それでも多くの人は<受け皿>が必要だと言う。
その前に、このシステムを変更べきかどうかを問わずして。
この<受け皿>という曖昧さこそ、日本人のよさ、或いは人間的な柔軟さという考えもあるかもしれない。
しかし、<受け皿>の有無を問題にするなら、まずこの議会制民主主義というシステムを徹底的に検証して、現状を維持するのか、部分的に(或いは全面的に)直接民主制を導入するのか、AIによる評価値を政策決定に導入するのか等、少なくとも議論されるべきだ。
それをすぐに導入しないとしても、とこかの地域やどこかの社会的集団で社会実験をしてみるという方法もある。
いや、今までの人類の多くの過ちは、この社会的実験を怠ったまま、様々な制度を導入してきた点にあると僕は考えている。
そういう過程を経ることこそが、本当の意味の柔軟さだとも思う。

投票するというのは意思表示である。
しかし、投票しないというのも意思表示である。
単純に「投票には行くべきだ」と言ってるのは、政治を狭義に捉えている視野の狭い奴らだ。
ただ、投票しないということに含まれている様々な複雑な意思表示は、何処にも反映されない。
こういうところに書くことでどれだけ伝わっていくのか分からないが、それでも書くことで小さな意思表示をするしかない。
これが僕にとっての<受け皿>だと思っている訳ではないが。