just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2017年2月13日(月) 1972年の「ルパン三世」を観返している
  「グロ過ぎじゃね?」

映画「この世界の片隅に」を観に行った。
一度目は愛しい人と二人で、二度目は独りで観に行った。
何度でも観たいと思える稀有な映画。
その二度目を観終わった後、映画館を出たところで、同じ映画を観終わった二十歳前後の若いカップルの女性の方が「最後の方のシーン、グロ過ぎじゃね?」と彼氏に言っていた。
それがどの場面か、僕はすぐに分かった。
と同時に、彼女のこの言葉が僕には強く引っ掛かった。

この言葉に対して、僕の中に浮かび上がった幾つかの感想を羅列してみる。
・この子は広島や長崎の平和資料館に行ったことがないのかな
・この子と同世代だとしても絶対に付き合うことはないな
・彼氏はこの言葉をどういう気持ちで受け止めたのかな
・「グロ過ぎじゃね?」というのは、彼女の内にある言葉じゃなくて、時代の中を漂っている言葉を乱暴に掴んで、投げ捨てただけなんだろうな
・彼女にとってこの映画はつまらなかったのかな
・そういう言葉で切り捨てるみたいに表現する感覚もあるんだな

例えば、彼女が広島や長崎の原爆資料館に行って展示を観終わった後も、やはり「グロ過ぎじゃね?」と言うのかなと考えた。
もしかしたら、言うのかもしれない。
一度考えを組み立てて言葉を発するという感覚より、反射的な言葉を発することに慣れてしまっているだけなのかなとも思った。
それはもしかしたら、悪いことではないのかもしれない。
ただ、反射的な言葉だけでは、きっと届かない場所が沢山ある。
それだけなのかもしれない。

反射的な言葉を使うのは、今に始まったことではない。
それは昔からあったこと。
それでも僕がこの言葉に特に引っ掛かったのは、この時代の宙に漂っている言葉が、あまりにもブサイクだったからなんだろうな。


  2017年1月22日(日) 「47の素敵な街へ」がリクアワ2位
  <こだわり>と<おもてなし>の現在地

言葉の意味は常に変容している。
それを<時代と共に>などという漠然とした捉えようとしたら、言葉の現在地を誤る。
言葉は、使われ続ける限り、また逆に、使われなくなっていくという過程にある限り、日々刻々と変容している。
そういう状況を如実に表している言葉が、最近で言えば<こだわり>と<おもてなし>だと僕は感じている。
しかも、両者とも変容(もしくは変態)の仕方が似ている。

言葉には核がある。
言葉の核とは、その言葉が持っている中心的な意味と捉えていい。
その核が強固で、その周りに派生的な意味合いを含まない言葉もあれば、時間的、或いは空間的に拡散していく中で、その核の周りに派生的な意味合いが付着し、時には核分裂が起きたり、元の核が失われて、別の強固な核がその言葉の意味を乗っ取ったりすることもある。

また、言葉には強度もある。
新語と呼ばれるものや、まだほとんど誰も知らないような外来語や、もうほとんど誰も使わなくなった古語の再生や、世間的に影響力がある人が使う目新しい言葉等が日常的に使われる言葉に交わる時、その言葉は他の言葉に比べてある種の強度を発揮し、言説や発言を際立たせることがある。
しかし、それらの言葉も世間的に流布していくうちにやがて強度を失い、他の言葉と同列になったり、或いは反動によって<ベタ>な言葉になったりする。
これを言葉の暴落と名づけてもいい。

さて、<おもてなし>や<こだわり>という言葉は、本来は裏方の言葉である。
表面には現れない、隠されてしかるべき精神性を表現した言葉だ。
ところが、昨今は<おもてなしの宿>とか<最高のおもてなしを>とか、<こだわりの逸品>とか<こだわりの食材>とか、隠されていたはずの精神性を前面に押し出し、ただの飾り文句として使う風潮にある。
僕は滝川クリステルが<おもてなし>と言った時から違和感しかなかったし、コンビニの商品に<こだわりの・・・>なんて名づけられるに至っては、暴落というより失墜に近いと感じる。
ネット上で調べても、僕と同様の感覚を抱いている人たちは散見する。
しかし、それとは逆に、これらの言葉が今も使われ続けているということは、これらの言葉の強度や効力を未だに信じている人たちが少なからずいるということだ。
これは、言葉に対する感覚の違いなのだろう。

ここでひとつ確認しておかなければいけないのは、<こだわり>を持っているから駄目なのではなく、<おもてなし>の精神性が駄目なのでもなく、こういう言葉に群がって消費するだけの、真の<こだわり>も真の<おもてなし>も持たない精神性が下品なのだということ。
ここが、<こだわり>と<おもてなし>が今いる場所だ。