just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2016年11月9日(水) 東京は木枯らし1号
  蝉の一生

「八日目の蝉」という本(映画)は、題名だけ見て読んでもいないし観てもいない。
ただ、想像するに、蝉の地上での寿命が7日だと言われていることから何かを暗示しているのだろうということだけは分かる。

蝉は土の中の生活が長くて、地上に出て来てすぐに死ぬからかわいそうだとか哀れだとか言われる。
しかし、本当にそうだろうか、というのが今回の主題で、僕のぼんやりした意見をつらつらと書く。

蝉の地上での寿命は、実際には7日よりももう少し長いらしいし、勿論個体差もあるだろう。
それに対して地中で過ごす時間は、その種類によっても違うらしいが、大雑把に言うと数年らしい(2年くらいのものから十数年のものまで)。
少なくとも、成虫になってからの時間が幼虫期の時間よりも遥かに短いとは言える。
しかし、それは「かわいそう」だったり「哀れ」だったりするのだろうか。

卵から幼虫になるのも難しいかもしれないし、地中にも天敵がいるらしく、すべての幼虫が成虫になれる訳でもないだろう。
しかし、地中というのは、余程の地殻変動や人間の手が加わった工事などがない限り、およそ安定した環境である。
彼らはいつか成虫になるためにただ耐え忍んでいるだけでなく、幼虫としてそれなりの暮らしをしているのではないか。
地中でぬくぬくと樹液を吸いながら暮らすというのは、決して悪くないように僕には思える。
交尾をするために狂い鳴き、木に止まっては天敵にも出会い、地上の激しい気象の変化に晒され、たった1回交尾をするのは、果たして蝉の一生のフィナーレを飾るほど素晴らしいことなのだろうか。

今書いたことも含めて、蝉の一生に人間の価値観を当て嵌めても仕方ない。
それでも、成虫になった後の短さだけを捉えて、蝉の一生を評価するのはおかしいと思う。
今も地中に潜んでいる無数の蝉の幼虫たちを想いながら、頭の中では戸川純の「パンク蛹化の女」が流れながら。


  2016年10月14日(金) 仕事仲間が突然倒れた
  ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したことの意味

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。
そのニュースをインターネットのヘッドラインで読んだ時、思わず「アッ!」と叫んだけれど、それは驚きの声ではなく、歓声だった。
日本では今年も村上春樹の受賞を待望する声が多かったようだし、別に受賞してもおかしくないとは思うけれど、はっきり言って、村上春樹の文学的価値とボブ・ディランの文学的価値では後者の方が圧倒的に高い。
ボブ・ディランを聴き込んでいる人は納得するだろうし、聴いたことのない人や歌詞の意味を知らない人には理解されなくても仕方ないかもしれない。
僕はボブ・ディランの受賞は当然だと思う。
少しだけボブ・ディランの歌詞を紹介した後、この受賞から僕が感じたことを書く。

例えば、ラップのルーツとも言われている「Subterranean Homesick Blues」の冒頭の歌詞を書き出してみる。

Johnny’s in the basement
Mixing up the medicine
I’m on the pavement
Thinking about the government
The man in the trench coat
Badge out, laid off
Says he’s got a bad cough
Wants to get it paid off
Look out kid
It’s somethin’ you did

ジョニーは地下室で
クスリを調合し
オレは歩道で
政府について考え
トレンチコートの男は
バッヂ出してクビになって
びとい咳が出るって
カタをつけちまいたがってる
ほら ごらんよ
あんたのやらかしたことさ

(訳・松本秀房)

英語を読んですぐに分かるのは、脚韻が見事だということ。
そして、僕のあやふやな訳ではあるけれども、シュールで謎めいた詩だということ。
ボブ・ディランはその作品を通じて、「こんなうたもアリだ」ということを後の多くのミュージシャンに教えてくれた。
この功績は恐ろしく大きい。

今回の受賞について、1960年代の公民権運動と今のアメリカ状況を照らし合わせて歴史的背景から語る人がいるけれど、そういう人には今回の受賞はノーベル平和賞ではなくてノーベル文学賞だということをちゃんと捉え直してほしい。

もうひとつだけ、僕が彼のうたで一番好きな「Blind Willie McTell」も紹介しておく。

Seen the arrow on the doorpost
Saying, “This land is condemned
All the way from New Orleans
To Jerusalem”
I traveled through East Texas
Where many martyrs fell
And I know no one can sing the blues
Like Blind Willie McTell

門柱の矢を見ると
「この土地はニューオーリンズからエルサレムまでずっと有罪だ」
と書かれていた
俺は東テキサスを旅した
多くの殉教者たちが倒れたところ
そして 俺には分かっている
誰もブラインド・ウィリー・マクテルみたいにブルースをうたえないってことが

(訳・松本秀房)

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したことの最大の意味は、うたの歌詞が文学として世界的に公式に評価されたということ。
勿論今までも評価はされていたけれど、もう一度歌詞というものを世間が見つめ直すキッカケを与えてくれた。
と同時に、僕も含めて、現実にうたを作っている人間にとって、本物を作ればちゃんと評価されるというひとつの指標にもなった。

もうひとつ思ったのは、実は今までアジアの詩人でノーベル文学賞を受賞した人が一人もいないということ。
小説家は沢山いるというのに。
これは、単にアジアの詩のレベルが低いということではなく、先程脚韻について書いたように、内容だけでなく、頭韻や脚韻を含めた音としてアジアの言語が欧米に届きにくいからだと思う。
今も中国で杜甫や李白の時代のような詩作が盛んで、五言絶句や七言律詩などの伝統を継承しつつ、その音(おん)を世界中に伝える努力をしていたら、その中からノーベル文学賞者が生まれたかもしれないし、日本の短歌や俳句を翻訳せずにその語感のまま伝えられたら、村上春樹以外にノーベル賞候補者も生まれたのかもしれない。
欧米の詩に迎合する必要はなく、アジアの言葉(音)で語られる詩の形が評価される日が来ることを願いつつ。


  2016年7月28日(木) 謎の4連休初日
  「障碍者なんていなくなればいい」は単純な本音なのか

先日相模原の施設で19人連続殺人が起きた。
逮捕された男は、「障碍者なんていなくなればいい」と語ったという。
僕はこの事件について、語りたいふたつの角度の意見を持っている。

ひとつは、以前から時々書いているけれど、<心身耕弱>や<心神喪失>による減刑や刑の免除の制度を廃止すべきだということ。
意思の問題(責任能力)を問うんじゃなくて、行為を行える力を有しているかどうか(実行能力)を問うべき。
つまり、その人間(ある種の理性を持った生き物)が負うべき刑を考えるのではなく、その存在(そこに生きているもの)が負うべき刑として設定すべきだということ。
だから、精神の状態や年齢に関わらず、それの行為を実行できるものは同等に刑を与えられるべきだということ。
この点は、司法の場で何度でも繰り返して議論してほしい。

もうひとつは、<相対的価値>を<絶対的価値>と思い込む(或いは、信じ込む)ことこそが、人間の一番危険な状態だという認識を社会として広く共有すべきだということ。

この説明をする前に、「障碍者なんていなくなればいい」という言葉が、単純そうで実は奥深い言葉だということについて少し語る。
彼(容疑者)が言うのは、今この世に存在するすべての障碍者を葬った方がいいという意見だと思う。
酷い言葉のように聞こえるけれど、少数であっても積極的に彼に同調する人間はいると思う。
更には、消極的であれ、彼に同調する人間は実際に沢山存在する。
それは、妊娠中の出生前診断による異常(!)確定者の中絶率が9割以上だという事実に示されている。
これは殺人の件数には加えられないけれど、はっきりと障害者(として存在する可能性)を排除している。
そして、このどちらにも属さないにしても、施設で仕事をしたり、仕事ではなくても障害者と共に過ごす機会があった人で、「この人たちとずっと一緒にいるのは嫌だなぁ」とぼんやりとでも思ってことがある人まで含めれば、もっと膨大な数になると思う。
これらが事実だという認識からも目を逸らすべきではない。

話を戻す。
<障碍者なんていなくなればいい>という思想も、<障害者と共に生きる>という思想も、それぞれに<相対的価値>を持った思想でしかない。
僕たちは基本的人権という思想のもとで教育されているから、<障碍者と共に生きる>という考えを植え付けられている。
それはあくまでもひとつの思想であり姿勢であって、決して<絶対的真理>などではない。
逆に、<障碍者なんていなくなればいい>という思想は、その教育の反動としていつでも存在し得る思想だと理解しなくてはいけない。
彼(容疑者)の中にその反動がどれくらいの強度であったのかは分からないけれど、その反動が強ければ強いほど、<相対的価値>であるはずの価値が<絶対的価値>なのだという錯覚を生む可能性が増す。
これは、今回の事件だけでなく、あらゆる思想や信仰において起こり得る現象なのだ。
それは歴史のあらゆる場面で示されてきた。

さて、では、誰もが自分の望むようにはならない世界で、こういう事件が起きないようにするためにはどうすればいいのか?
正直言うと、現状では解決策は見当たらない。
ロボットが警備をするようになるとか、社会的ストレスを低下させる麻薬ではない新薬が誕生するとか、暴力的志向を根本的に改善する治療が産み出されるとか、そういう画期的な事象が幾つも重なったら、こういう事件の発生確率は低下するとだけは思う。

もうひとつだけ蛇足的に言うなら、もしも日本が銃社会だったら、死傷者はこんな数では済まなかったはず。
そのことも再認識すべきだ。