ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。
そのニュースをインターネットのヘッドラインで読んだ時、思わず「アッ!」と叫んだけれど、それは驚きの声ではなく、歓声だった。
日本では今年も村上春樹の受賞を待望する声が多かったようだし、別に受賞してもおかしくないとは思うけれど、はっきり言って、村上春樹の文学的価値とボブ・ディランの文学的価値では後者の方が圧倒的に高い。
ボブ・ディランを聴き込んでいる人は納得するだろうし、聴いたことのない人や歌詞の意味を知らない人には理解されなくても仕方ないかもしれない。
僕はボブ・ディランの受賞は当然だと思う。
少しだけボブ・ディランの歌詞を紹介した後、この受賞から僕が感じたことを書く。
例えば、ラップのルーツとも言われている「Subterranean Homesick Blues」の冒頭の歌詞を書き出してみる。
Johnny’s in the basement Mixing up the medicine I’m on the pavement Thinking about the government The man in the trench coat Badge out, laid off Says he’s got a bad cough Wants to get it paid off Look out kid
It’s somethin’ you did
ジョニーは地下室で
クスリを調合し
オレは歩道で
政府について考え
トレンチコートの男は
バッヂ出してクビになって
びとい咳が出るって
カタをつけちまいたがってる
ほら ごらんよ
あんたのやらかしたことさ
(訳・松本秀房)
英語を読んですぐに分かるのは、脚韻が見事だということ。
そして、僕のあやふやな訳ではあるけれども、シュールで謎めいた詩だということ。
ボブ・ディランはその作品を通じて、「こんなうたもアリだ」ということを後の多くのミュージシャンに教えてくれた。
この功績は恐ろしく大きい。
今回の受賞について、1960年代の公民権運動と今のアメリカ状況を照らし合わせて歴史的背景から語る人がいるけれど、そういう人には今回の受賞はノーベル平和賞ではなくてノーベル文学賞だということをちゃんと捉え直してほしい。
もうひとつだけ、僕が彼のうたで一番好きな「Blind Willie McTell」も紹介しておく。
Seen the arrow on the doorpost Saying, “This land is condemned All the way from New Orleans To Jerusalem” I traveled through East Texas Where many martyrs fell And I know no one can sing the blues
Like Blind Willie McTell
門柱の矢を見ると
「この土地はニューオーリンズからエルサレムまでずっと有罪だ」
と書かれていた
俺は東テキサスを旅した
多くの殉教者たちが倒れたところ
そして 俺には分かっている
誰もブラインド・ウィリー・マクテルみたいにブルースをうたえないってことが
(訳・松本秀房)
ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したことの最大の意味は、うたの歌詞が文学として世界的に公式に評価されたということ。
勿論今までも評価はされていたけれど、もう一度歌詞というものを世間が見つめ直すキッカケを与えてくれた。
と同時に、僕も含めて、現実にうたを作っている人間にとって、本物を作ればちゃんと評価されるというひとつの指標にもなった。
もうひとつ思ったのは、実は今までアジアの詩人でノーベル文学賞を受賞した人が一人もいないということ。
小説家は沢山いるというのに。
これは、単にアジアの詩のレベルが低いということではなく、先程脚韻について書いたように、内容だけでなく、頭韻や脚韻を含めた音としてアジアの言語が欧米に届きにくいからだと思う。
今も中国で杜甫や李白の時代のような詩作が盛んで、五言絶句や七言律詩などの伝統を継承しつつ、その音(おん)を世界中に伝える努力をしていたら、その中からノーベル文学賞者が生まれたかもしれないし、日本の短歌や俳句を翻訳せずにその語感のまま伝えられたら、村上春樹以外にノーベル賞候補者も生まれたのかもしれない。
欧米の詩に迎合する必要はなく、アジアの言葉(音)で語られる詩の形が評価される日が来ることを願いつつ。
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