just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2016年6月13日(月) はるちゃんとしおりんとの握手の翌日
  平手友梨奈

ちょっとレベルが違う存在というのが、たまに出現する。

これだけ連日のように48グループの話を書きながら、今でも自分はアイドルヲタクではないと思っているのは、アイドル全般に興味があるのでもなく、48グループ全体を詳細に見ているのでもなく、ただ自分の心を捉えた存在がそこにいただけだから。

僕が幼い頃からアイドル全盛期で、山口百恵、桜田淳子、森昌子からキャンディーズやピンクレディーまで。
そして、時代を画するように松田聖子や中森明菜から小泉今日子や森高千里等、時代をはっきりと彩ったアイドルがいた。
僕は彼女たちにほぼ興味がなかったし、中高生時代の僕のアイドルはアントニオ猪木と岡林信康だった。

ただ、好き嫌いは別にして、衝撃的で圧倒的存在だと感じたのは、薬師丸ひろ子。
彼女は女優としてデビューし、すぐにうたも出すようになるのだが、その存在感は独特だった。
透明感と呼ぶには、その湖はどれだけ深いのか分からないし、その湖の底から異質な光を放つような存在だった。
決して特別な美人ではなかったけれど、凄まじい引力を持っているのは分かった。

先日、全く推しメンも違うし、関わるスタンスも違うある方と48グループについて長時間話している中で、共通して「凄い」と名前が挙がったアイドルがいる。
それは、48グループについて語っている二人にしては、余りにも意外な名前だった。
彼女は、喩えるならデビュー当時の薬師丸ひろ子の衝撃に似ていると僕は思っている(薬師丸ひろ子に似ているのではなく、その衝撃度が似ているという意味)。
その方は<毒>という言葉を使って彼女を表現していたけれど、僕は彼女の存在そのものが<挑発的>だと感じた。
それほど詳しくは知らないけれど、プロモーションビデオ1本観ただけで、或いは、雑誌のグラビア写真1枚見ただけで、他のアイドルと圧倒的に違う存在感を持っているのが伝わって来る稀有な存在。
欅坂46のセンター・平手友梨奈。

僕は乃木坂46については全く興味がない。
知らない訳ではなく、メンバーを見ても何も感じないということ。
だから、同じコンセプトで姉妹グループが出来ると聞いても全く関心がなかった。
ところが、たまたま欅坂46のデビュー曲「サイレントマジョリティー」のプロモーションビデオを観て、「これはヤバイ」と一瞬で思った。
センターというよりも、ソロ+バックダンサーと言った方が正解ではないかとさえ思った。

僕が彼女を推すことはない。
それは、薬師丸ひろ子同様に僕のタイプではないから。
でも、凄さは分かる。
今48グループでそれぞれセンターを務めているメンバーや、かつての前田敦子や大島優子などと比べても、ちょっとレベルが違うと僕は思う。
彼女が今後どうなっていくかは全く分からない。
いつまでこの存在感を持ち続けられるのかも分からない。
ただ、はっきりと言えることは、今彼女が放っている光は、尋常ではないということ。


  2016年5月23日(月) チーム8全国ツアー千葉公演・全落選
  MLBの敬遠に関するルール変更について

メジャーリーグでまたもやルール変更が決定したらしい。
そのひとつが、敬遠をデジタル化(省エネ化)することらしい。
つまり、<敬遠>と宣告したら、ピッチャーがボールを4球投げることなく、バッターを1塁に進塁させるということらしい。
僕はただただ呆れた。

確かに、メリットもある。
まず全体のことで考えると、試合時間の短縮化。
他には、敬遠球が暴投になることや打たれることを防ぐ守備側のメリット。
ピッチャーの球数を減らすメリット。

しかし、それによって失われるものも多い。
敬遠をしている間にピッチャー交代の準備が出来なくなること。
敬遠中のランナーの盗塁(特に、奇襲的ホームスチール)や、ピッチャーにプレッシャーをかけて暴投を誘うリードやスタートがなくなる。
敬遠球をバッターが狙い打つという奇跡(実際に何回も起こっている)が観られなくなる。
つまり、試合における敬遠の機微が失われるということ。

様々なスポーツで、そういうデジタル化やビデオ判定の導入が行われているが、そのどれひとつをとっても試合をある程度公正にしたとしても、それ以上に面白みや醍醐味を大幅に削っていると僕は思う。
人類にとって、スポーツはやる側も観る側も面白いからこそ存在しているのだ。
面白くするルール改正は存在したとしても、面白くなくするルール改正には全く同意できない。


  2016年4月14日(木) 山本彩の<#さやみるきー>のツイートに感涙した
  エレベーターの<開・閉>ボタンについて

エレーベターの行き先階選択ボタンの下に付いている<開・閉>ボタンのことは、その操作を率先してしようという意識以外にさほど意識したことがなかった。
ところが、先日のある出来事以来、意識していないところにも問題点は潜んでいることに気付かされた。

僕のバイト先の事務所はマンションにあり、そこには雑多な人が住んでいる。
中国系や東南アジア系の外国人も多い。
先日、東南アジア系と思われる外国人の方とエレベーターに乗り合わせた。
その方がボタン操作側に立っていて、1階に着いた時に親切にも僕を先に降ろしてくれようとして、<開>ボタンを押そうとしてくれた。
ところが、実際に押されたのは<閉>ボタンで、一旦閉まりかけたドアに気付いてその方は<開>ボタンを押しなおした。

初めは、単純に押し間違えたのかなと思った。
でも、よく考えてみたら、その方は<開>と<閉>を読めないんじゃないかという結論に至った。
漢字を知らない人にとったら、どちらが開く方でどちらが閉じる方かを区別できないりは当然だ。
もしも多少漢字を知っていたとしても、<開>と<閉>は文字自体にているし見分けが付きにくい。
これは、間違いなくエレベーター側の問題だ。

<郷に入れば郷に従え>などという諺があるが、これはそういう問題ではなくて、単純に作り手側に問題意識があるかないかの問題だ。
<開・閉>や<OPEN・CLOSE>の表示では、意味が分かっている人しか操作が出来ない。
つまり、外国人や子供を視野に入れていないということだ。
<←→・→←>の図形による表示方法のエレベーターなら、より多くの人が簡単に操作できる。
本当に単純なことだけど、こういうのは積極的に統一規格にすべきだと思う。


  2016年3月31日(木) 選抜高校野球決勝戦をラジオで聴きながら
  横綱の変化と4番のバント

春場所千秋楽の白鵬の変化が物議を醸した。
今場所の様々な状況(駄目押し、審判長の怪我、直接関係ないけど、日本人横綱がまたも誕生しなかったこと等)が重なったのもあって、白鵬に対してブーイングと野次が飛んだ。
それが馬鹿げたことであり、下品であるという僕の意見は<しゃべるんや>にも書いた。
横綱の変化と、今回ネット上でそれに関連付けて語られていた野球の4番のバント問題について、もう少し掘り下げて書いてみる。

よく<心技体>というが、それを誤解している人があまりにも多い。
<横綱はこうあるべきだ>という世間の常識を体現すべく努力することが<心技体>のありようなのではなく、闘う者としての知略や戦略を持ちつつ、それを的確に自分のフィールドで表現できることが<心技体>のあるべき姿なのだ。
観客は、自分が思い描いた<横綱>を観ているのではなく、ひとりひとり個性の違う、そこに存在している生身の人間としての<横綱>を観ているのだということを自覚すべきだ。
確かに、観客はお金を払っている。
しかし、その支払った金額は、<横綱>を含めあらゆる力士を自分が思い描いた通りにさせるために支払った金額ではなく、ただ、そこで行われている大相撲というスポーツを間近で体験するために支払ったに過ぎない。
何事においてもそうだが、<お客様は神様>なんかでは断じてない。
だから、横綱が立ち合いで変化しようと、いわゆる横綱相撲を取ろうと、それが真摯に行われているならば非難するのは間違っている。
完全に手を抜いているとか、あからさまな反則技で相手を傷つけたとか、負けた相手を罵倒したとか、そういう場合でない限り、ブーイングや取り組み内容に対する野次は観客の品性の悪さの露呈でしかない。

それに関連付けて野球の4番のバントについてもよく語られている。
プロ野球と高校野球(或いは少年野球)では違うとか、ケース・バイ・ケースだとか、4番には決してバントをさせるべきではないとか。
これは横綱の場合とほんの少し違っていて、個人競技か団体競技かという問題も出て来る。

戦術として、バントというのは勿論ありだ。
4番はバントしてはいけないなどというルールはない。
戦略としては、監督は、4番でもバントさせるという相手への意識付けや、4番には決してバントさせないという意識付けがもたらす効果も含めて考えなければいけないし、効率的に得点を挙げるための打順の組み立ても、採用する戦術との関係性で変わってくる。
そして、もっと大局的に言えば、4番を任せる打者個人の性格や他の打者との相関関係や監督との信頼関係も含めて考えるべきことである。
例えば、何番であろうと場面によってはバントのサインを出すから、日頃から全員平等にバント練習をさせているチームなのか、4番には全幅の信頼を置いている(或いは、置いていると表面的には示している)からバントはさせないことを徹底しているチームなのか、普段はバントはさせないけれど、全選手の好不調を勘案してバントのサインを出すこともあるのか。
そういう意味で、状況が整っているなら、4番がバントをするのに何の問題もないし、非難される筋合いはないと僕は思っている。

観客は、観たいのもを観たい、わがままな存在である。
プロが存在するのは、ある分野において技術的レベルが高いという理由によってではなく、お金を支払ってその対価を受け取りたいと考える人が多く存在するからである。
観客のニーズに合わせて歩み寄るのもプロのあり方のひとつだし、自分のやり方を貫いてニーズを産み出す(引き寄せる)のもプロのあり方のひとつだ。
そういう意味で、観客日々も試され続けているのだ。


  2016年2月5日(金) ちょっとだけ断酒中
  生きて、死ぬだけ

AKB48のオールナットニッポンを聴いていたら、小嶋真子が高橋朱里との会話の中でこの題名のような会話になったと語っていた。
誰でも思いつくことではあるけれど、そこからブレずにいるのは実はなかなか難しい。
ある種の達観であるし、ある種の諦念とも言える。

成功とか、満足とか、地位とか、名誉とか、名声とか、富裕とか、愛とか、創造とか、実現とか、そういうものは<生きて、死ぬだけ>という発想のもとでは瑣末なことでしかない。
逆もまた真で、失敗とか、挫折とか、失墜とか、堕落とか、不名誉とか、貧困とか、嫉妬とか、病とか、苦悩とか、そういうものでさえ、<生きて、死ぬだけ>という発想は軽々と超えてゆく。
だから退廃的になるのでもなく、享楽的になるのでもなく、虚無的になるのでもなく、ポジティブにでもネガティブにでもなく、ただ自分の人生のエネルギーのままに生きる(或いは死ぬ)ことを俯瞰する姿勢をこの言葉は示しているのだと思う。

折に触れて、何度も繰り返し噛みしめるに値する言葉だ。


  2016年1月24日(日) 梅田彩佳卒業発表の余韻の中
  「ここ、Wi-Fi飛んでんな」から見る文明論

題名の台詞は、昨年のM−1グランプリのトップバッターであるメイプル超合金のネタ中に出て来るギャグ。
手で空中の蝿や蚊を払うような仕草をして、メイプル超合金・カズレーザーがそのギャグを放つ。
恐らく深い意味はなく、見えないはずの電波が見えているというイカレた奴のおかしさを表現しているだけだとは思う。
しかし、この表現は案外汎用的な意味を持つ気がしてきた。

僕は仕事柄、小型の無線機を日々使っている。
連絡を取り合うのに周波数を合わせて使うのだが、ある種の機械の近くやある種の設備のある場所に行くと、無線機がそこに生じている何かに感応して雑音を発する時がある。
これは機械同士のことではあるけれど、人間も含めて様々な生物も同様に、周りのものに対して感応している。
それが目に見えるかどうか、或いは意識できるかどうかの違いだけだ。

五感としてはっきりと、うるさいとか、臭いとか、眩しいとか、痛いとか、甘いとか、感じるものについては、認識として共有しやすい。
ところが、例えば僕たちは常時放射線も浴びているし、電波や電磁波にもさらされているし、体感できないような振動も受けている。
そういう微かなものに対して敏感な体質の人もいるだろうし、敏感な時期もあるだろう。
そういう微かで他の人に伝わりにくいものに関してはかなり共有しにくい。

霊木と呼ばれるような樹齢数百年もの大木の近くに行くと、何かを感じる気がするのは、ただ<気がする>だけであるのか、それともその大木が発する、見えないけれど様々な物理的なエネルギーが実際にそう感じさせているのかはよく分からない。
ちなみに、<気がする>というのは、人間が自分の中で作り上げたイメージから内的に発生する感覚で、これもまたある意味で<感じている>ことの一種だと僕は思うが。
話を戻す。
霊木から感じるものを<気>と呼ぶのは容易いし、<ヴァイブレーション>と呼ぶのも容易いけれど、そういう言葉に収束させるのではなく、実際に何かを感じたのなら、それは<何か>というだけでいいのだと僕は思う。
そもそも、ひとつの言葉に収束させるような性質(たち)のものではないのだ。
人間においてよく言われる<オーラ>も似たようなものだ。

そういう意味で、幽霊という言葉があるけれど、それにしても宇宙人にしても、ある種の人型を思い浮かべたり、人間の言葉の世界での価値表現でしかない<善悪>を押し付けたり、恐怖の対象として捉えたりすることは無意味だと思う。
幽霊という言葉がまさに幽かな霊気という意味であるように、それは認識として捉え難いけれど、感応している何ものか、ということでいいのではないか。

人間が意識的に飛ばしているからたまたまWi-Fiと認識できるだけであって、人間以外のもの(物であれ、生物であれ、どこかの天体であれ、宇宙そのものであれ)が発しているもので、現在の文明の力では掴み切れないけれど感応してしまうものは、恐らくそこら中に漂っている。
人間の好奇心はそれをはっきりと捕まえたいのだろうが、僕は感じるものは感じるままに、感じないものは感じないままに、そこに漂わせておけばいいと思っている。


  2016年1月10日(日) 昨日がやっと実質的仕事始め
  ライヴに求めるもの(音楽におけるヴィジョンについて)

ライヴを聴きに行って、もう随分前から気になっていたことがあった。
それは、自分は何に感動しているのか、ということ。
逆に言うなら、何をつまらないと思っているのか、ということ。

このことを深く考えるキッカケは大きくふたつある。
ひとつは、たまに行くライヴハウスで見かける<上手いのにちっとも聴きたいと感じさせない人(バンド)>。
もうひとつは、初音ミク。

そのことを考えている時で、あるサイトに書かれている言葉が心に留まった。
「聞いている人が感動する演奏って何だろう」という題名の文章の中で、音楽性とは<音楽の「ビジョン」を「強く」持っていること>だと書かれていた。
この文章が音楽性の正しい定義かどうかは別にして、ヴィジョンを強く持つということは、<遠くまで見ている>か<精密に見ている>か<深く掘り下げて見ている>か、或いは、そのうちの幾つかを併せ持っているかということだと思う。
そう考えると、腑に落ちた。

先にも書いた<上手いのにちっとも聴きたいと感じさせない人(バンド)>というのは、少なくとも僕から見て、ヴィジョンを強く持っていないミュージシャンなのだと思う。
勿論、逆に、ヴィジョンを強く持っていてもつまらないと思うミュージシャンはいる。
それは単純に僕と趣味が合わない、もしくは考え方がまるで違うだけなんだと思う。
そして、それは初音ミクに繋がる。

動画サイトにアップされている初音ミクのうたを聴いて、全部が好きではないし、全部が嫌いではないという当たり前の感想を抱いている。
僕はボーカロイドを否定しない。
単純に、初音ミクといううたうたいは、様々な人からの楽曲提供を無差別に受け入れ、音程を一切外すことなく、リズムを全く狂わせることなくうたえる、ひとつの個性を持ったうたうたいなのだと認識すればいいのだ。
彼女は空っぽで、当然強いヴィジョンなんて持っていない。
だからこそ、どんなヴィジョンも受け入れられる大きな器なのだ。
それはひとつの魅力である。
でも、それが最高かと言えば、それはまた別の話。
初音ミクはすべてのヴィジョンを受け入れられるけれど、彼女には彼女の表現しか出来ないというのもまた事実。
ある意味で、恐ろしく個性的でもあるのだ。

ピアノでミスタッチ(これは和製英語らしい)がないことやヴォーカルで音が外れないことは、技術的正確性の問題。
先程から書いているように、音楽に対する、或いはうたに対するヴィジョンの強さの問題とは全く別の次元。
恐らく、自動ピアノが発明された頃から、いや、それ以前から言われ続けているであろう古臭い芸術論になるけれど、技術的正確性は、音楽が持っている何かを表現するための手段のひとつでしかない。

技術力の高さに感動する人がいても、それは構わない。
それはそれでひとつの視点だ。
或いは、技術力の高さを示すこと自体がその人のヴィジョンであっても構わない。
技術力がなければ表現不可能なこともある。
しかし、初音ミクが存在する今、打ち込みの音楽が存在する今、つまり、鉄壁の技術がプログラミングによって叶えられる今、結局改めて問われるのはやはりヴィジョンなのだと思う。

ライヴを観ていて、声が裏返っても、鍵盤を叩き間違えても、リズムが走っても、それも含めて、そして、それを超えて伝わって来るもの−少なくとも僕にとってはそれこそが感動の基点である。
それを音楽性と呼ぼうが、人間性と呼ぼうが、カリスマ性と呼ぼうが、そこに繰り広げられる世界の見え方がどれだけ斬新か、どれだけ意表を衝いているか、どれだけ隠れていたものを明るみに出してくれるか、どれだけドロドロした部分を掻き混ぜてくれるか、どれだけ深くまで入ったうえで上澄みを掬ってくれるか、どれだけ遠くまで示しているか、どれだけ濃淡鮮やかに照らしているか、そういうことにこそ、僕は興味があるし、他のことには興味がない(超絶美人を除く)。