just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2015年12月8日(火) AKB48・10周年記念公演を観た
  「賞品の発送をもって発表と代えさせていただきます」

子供の頃から感じていた疑問に対して、ある意味で溜飲が下がった。
僕は昔からこの手の謳い文句の何%かに嘘があるんじゃないかと思っていた。
それが、今回の報道で証明された。
パズル系の雑誌を出版しているアイア株式会社が、懸賞の半数ほどを実際には送っていなかったという。
この手の謳い文句を掲げているすべての会社がそうだとは言わないが、間違いなくこの会社以外にも同様の手口を使っていた会社があるはず。

今回こういう事象が顕在化したことを喜ばしいことだと僕は思っている。
これは詐欺まがいではなく、明らかに詐欺。
それが刑法上適用されようとされまいと。
僕が言いたいのは、今後「賞品の発送をもって発表と代えさせていただきます」という方法を禁止する法律を作るべき。
そもそもこんな不透明なことを長年に亘って許してきたこと自体が間違いである。
個人情報の問題があるなら、応募する側が懸賞当選発表用ネームを本名以外に必ず記入するようにすればいい。
いずれにせよ、変わるべき時だ。


  2015年12月4日(金) 所ジョージ「情報どおりの大満足」を毎日聴いている
  「同性愛者は異常動物」から見える風景

海老名市議のこのツイートを巡る騒動は、レベルの違う幾つかの問題を提起している。
それに関して、僕が感じている、僕に見えている風景について書きたいと思う。

まず、こんなことを書く奴、そして、ツイートという形で表現することによってどういう反響が生じるかを想像できなかった奴は、アホで無能。
それは、この市議自身のことでもあり、この市議に投票した市民にも波及することである。

今書いたことと矛盾して捉えないでほしいけれど、彼が市議かどうかは実は問題ではない。
公的な発言というのは議会での発言だけだと僕は認識している。
公人などという馬鹿げた言葉があるけれど、そんなものは存在しない。
公的な場所というのが設定されているだけだ。
事実かどうかは知らないが、酔っ払ってツイートしたというのなら、それは私的な発言であり、彼がたまたま市議だったというだけのこと。
だからよいという話ではない代わりに、市議だから悪いという話でもない。

次に、<酔っ払ってツイートした>という弁明の愚かさ。
僕は以前から思っているけれど、<酒の席のこと>とか<酔っ払っていて覚えていない>とか、そういうのは逆に厳罰の対象にすべき。
自分を制御できない状態にすることに対して、この国はあまりにも寛容すぎる。
禁酒法を施行せよなんて言わないけれど、酔っ払った状態も含めてその個人としての責任であるという最低限の認識は共有されるべき。

次に、<異常>という言葉の問題。
例えば、このツイートが「人殺しは異常動物」だった場合は物議を醸しただろうか(僕は「人殺しは異常動物」とは思っていないが)。
<異常>という言葉が、言葉として、そして社会的存在としてデリケートゾーンである<同性愛者>と結びついた時に、敏感な反応が起こった。
そして、その瞬間に、<異常>という言葉が追い詰められている気配を僕は感じた。
僕は<言葉狩り>という言葉自体が好きではないが、それに近い感覚。
深い吟味もなく、<異常>という言葉自体が使いにくい状況を世間が作り出している。
僕はこの状況こそ、この一連の問題の中で最も危険な問題だと思っている。

<異常>とは何か?
単に(<単に>というのは、そこに価値判断が含まれないという意味)<正常>の対義語なのか。
それとも、<正常>をよしとしている側からの差別用語なのか。
それとも、漠然と<多数>や<一般的>という言葉に対する例外的な存在や状況を指しているだけの集合認識の言葉なのか。

勿論、この市議は差別的意識を持っている。
それはそれとして、ひとつの言葉が追い詰められる過程に、こういう状況から生じるレッテル貼りが拡散してしまうケースがある。
僕は<キチガイ>という言葉を復権させるために意識して使っているが、この言葉はそもそも精神病者を差別するだけ(!)の用語ではないのに、世間的には廃絶され、ネット上や非公式の個人間でのみ生き残る運命を辿った。
このまま行けば、<異常>という言葉も差別意識が含まれて使われる場合があるという理由から、公式の用語から抹殺される危険性がある。
こういうのを過剰反応と呼ぶべきだ。

以下は余談である。
僕は同性愛者は否定しないし、歓迎もしないが、同性婚の容認には反対である。
と言うか、婚姻制度によるなんらかの優遇措置に反対である。
一夫一婦制という限定的家制度のみを国家が容認するのはオールドファッションだが、婚姻制度を同性婚に拡大する場合、例えば制度上の優遇処置を受けるために同性婚を利用して財産贈与等が行われる可能性が拡大する。
また、婚姻制度を拡大するなら、複数婚(一夫多妻、一妻多夫、多夫多妻、複数同性婚等)も容認しなければならないはず。
いっそのこと、世界中で婚姻制度を廃止してはどうか。
別に個人的に「結婚した」と宣言するのは構わない。
でも、公的になんらかの補助や保障や財産権が生じるような制度は、それこそ非婚に対する差別ではないか。
愛情の表明の問題と国家的制度の問題は分離するべきだと僕は思う。


  2015年11月16日(月) 京都のライヴから帰って放心中
  「テロは許さない」の欺瞞

「テロは許されない」とまた政治家が発言している。
しかし、それをいうなら「暴力は許されない」と言い換えるべきだと僕は何度も提言している。

テロは許さないけど、空爆は許す。
特に、<私たちと価値を共有する>国がやることなら許す。
この考え方が異常だと気付かないことの異常さ。
日本人の中にも、「フランス人の前でそういうことを言ってみろ」とか「じゃあ、おまえがテロリストを説得しろ」とか言う本当のキチガイがいる。
死を悼む気持ちと暴力そのものを廃絶しようとする気持ちが並立することを理解できないから、そういう想像力のない短絡的な発言をするのだろう。

乏しい想像力の中で留まっていることが簡単なように、<綺麗事>と呼んで唾を吐きかけることも簡単なことだ。
それに比べて、その<綺麗事>にたどり着くために、犠牲者を出し続けながらも小さな努力を積み重ね続けることが遥かに難しいことは分かっている。
いつの時代もそうだったし、それはまだ続いている。
それでも、どの道を選択すべきかと問われれば、常に後者を選ぶべきだと僕は答える。
つまり、僕はテロリストたちとも価値観が違うが、「テロリストを許さない」と拳を振り上げる者たちとも価値観が決定的に違う。
ここが本当の問題点だ。