just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2015年6月28日(日) ドゥルーズを読みながら冷奴を食べる
  何度目か分からないが直接民主制を問う〜断片的に〜

ほぼ毎日のように考え続けているから、この場所にも<直接民主制>について頻繁に書いているような気がしていた。
ところが、ざっと溯ってみると、2010年1月24日付でこの<気になるんや>に書いた<議会制民主主義を再び問う>以来、ちゃんとした形で綴っていないことに気付いて愕然とした。
基本的な考えは既に述べているので、僕の議会制民主主義への批判や直接民主制の提言に大きな変化はない。
しかし、その後も考え続ける中で、より具体的にイメージしたことやより深く考察した点があるので、それを断片的に記す。

そもそも議会制民主主義というものは、流動的な人民の意思(国家においては国民の意思)を反映し得ない。
代議員が選ばれた時点での人民(国民)の大雑把な委託的意思が、政党という変圧器を通して、大なり小なり歪められて表現されるものである。
そこには即ち、人民に対する議会の優越性も含まれている。
こんなものに<民主主義>という冠を戴く資格がある訳がない。

日本国憲法前文を改めて読んで驚愕したことがある。
それは僕の不勉強を露呈することでもあるのだが、その書き出しが実は絶望的なのだ。
<日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し>。
そう、これは議会制民主主義のみを肯定する宣言なのである。
更には、<そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し>という文章まである。
僕はそもそも憲法改正論者である(それについては別記しているし、<日本国憲法前文>論もいずれ書きたいと思っている)が、直接民主制を導入するためには、最低でも憲法の抜本的な改正が必要であるとの認識を得た。

以前も書いたけれど、僕は民主主義そのものを礼賛している訳でもない。
ただ、民主主義でやるというなら、議会制民主主義は論外であり、直接民主制しかないと思っている。
その為には様々な技術的問題がある。
その技術的問題を改善・進歩させるためには、実地的な政治的実験が必要であると僕は考えている。
例えば、共産主義の失敗の原因は沢山あるけれど、その最大の失敗のひとつは、ソ連以前に政治的実験を行っていなかったことだと僕は思っている。
今、日本国憲法をいきなり改正して、議会制民主主義を廃絶し、直接民主主制を導入したところで、恐らく幾つかの決定的な問題点が発生するだろうし、政治的に破綻するだろう。
それは人民(国民)及び世界全体の教育不足もあるし、実地練習不足もあるからだ。
だから、出来れば、人口数万人程度の幾つかの都市で直接民主制を実験的に導入してみて、改善点等を研究してから、国家規模で導入したい。
希望を言えば、日本だけでなく、世界中の数十地点で直接民主制の実地実験を行ってみれば、問題点の質も量も充実するし、世界全体への認知度も高まるので理想的なのだが。
その実験を経て、直接民主制というのがもしも駄目なのであれば、新しい制度を更に研究して産み出せばいい。

最後に、議会制民主主義であれ直接民主制であれ、それが資本主義社会内で行われる時、投票行動が個人の経済的利害によって最も大きく左右されるのであれば、結果的には政治制度などどんなものでも構わないのかもしれない、と絶望的に思うこともある。
経済的利害以外に投票行動を左右する原理を持っている者が常に少数派であるなら、民主主義とは経済至上主義と近似値である。

今回は最近考えていることを断片的にただ提示した。
僕がここで何度も直接民主制について書いている最大の理由は、直接民主制という視点を持つことで、酒場での愚痴や体制批判の姿を借りた金儲け主義の評論家やマスコミが煽る無自覚な投票行動を捨て、現在の議会制民主主義に潜むすべての絶望と闘う姿勢を共有したいからだ。


  2015年6月21日(日) 久し振りの休日に昼まで眠る
  吟味するものとしての<文明>

人類のひとつの大きな課題は、自らが産み出して、手に余るほど巨大化した<文明>なるものをとのように捉えるかということだと考える。

僕は個人的にケータイ(スマートフォン含む)を持たない主義だし、運転免許も持っていないし、車やバイクも持ったことがないし、今では家にテレビもないし、冷蔵庫も電子レンジもない。
人工授精や臓器移植を否定しているし、原子力発電も否定しているし、殺傷能力のある(殺傷目的に作られた)あらゆる武器を否定しているし、最近までその存在すら知らなかったけれど、ドーロンも廃絶すべきだと思っている。
こうして書くと、僕はまるで<文明>そのものを否定しているようだけれど、そうではない。

<文明>に対する態度を考えるために、<文明>という言葉を使って幾つかの短文を作ってみる。

<文明>を進歩させる。
<文明>を伝播する。
<文明>を破壊する。
<文明>を否定する。
<文明>を享受する。

恐らく人類の大多数は最後の「<文明>を享受する」立場にあって、部分的にそれを進歩させたり、それを伝播している。
戦争や宗教間対立や侵略などによる「<文明>の破壊」も、歴史上絶え間なく続き、今でも行われている。
絶対的な意味で「<文明>を否定する」のはかなり難しく、言葉として否定するのは容易いけれど、実際の行為としては、逃避的な意味で仙人になったり行者になったり、孤島やジャングル奥地で暮らすことがこれに近い。

ここまで敢えて書かなかったけれど、人類が<文明>と対峙する時、一番大切なのは<吟味すること>だと僕は思っている。
そして、人類が最も疎かにしてきたのもこのことだと思う。
何を進歩させ、何を享受し、何を否定するか。

常になし崩し的にテクノロジーを発展させ続けてきて、そのテクノロジーが拡散し、そのことによる不都合さが現実的に拡大してしまった後で、事後的処置として対策を考えるというのが今までの人類のやり方だ。
原子爆弾であろうが、自動車であろうが、ケータイであろうが、マーガリンであろうが、それが開発される過程でその<文明>に対する人類としての総体的な検討が行われ、それを発展させるのか、開発や使用をやめるのか、改良が加えられるまで使用を中止するのか、という吟味はまるでなかった。
それは、科学的テクノロジーだけではなく、例えば、議会制民主主義や地方自治体などという政治制度から、株式会社や土地所有なども含めて、それが始まる前に人類として吟味されたことはなく、後々の批判は、現在それらを享受している者たちの圧倒的保守性によってなかなか日の目を見ない。
そして、恐らく僕が目に出来る<文明>の範囲では、人類は基本的態度を改めないだろう。

今、僕がケータイを持たないことや議会制民主主義に加担しない(投票しない)ことは、個人的<吟味>による選別にしか過ぎない。
人類が基本的態度として<文明>を吟味しない限り、僕たちは否応なしにこの<文明>の暴走に付き合わされることになる(今までも付き合わされて来た)。

しかし、ここまでもっともらしいことを書きつつ、今まで書いてきたことに絶望もしている。
というのは、「<文明>を吟味する」ためには、吟味する基準が必要だからだ。
それには、人類全体を貫く大倫理のようなものが必要であり、僕は個人的にはそんなものは存在しない(存在し得ない)と思っているからだ。
各種の宗教が乱立している限り、そして、思想や信条の自由が守られている限り、大倫理など生まれようがないし、つまりは「<文明>を吟味する」ことも暫定的にしかできないということだ。
取り敢えずその暫定性でよしとするのか、今まで通りに<文明>をなし崩し的に受け入れていくのか。
せめてそのことだけでも人類全体の議論の俎上に上がってほしい。


  2015年4月20日(月) しおりん(チーム8・佐藤栞)と2日連続会った翌日
  <東京で1番!>の中に潜んでいるもの

統一地方選挙が続いている。
近所にも選挙ポスターが貼られていて、否応なしに目にする。
選挙ポスターというのは、今更言うまでもないが、概して馬鹿げたものである。
<新しい風を吹かせる>とか<地元のために全力で>という完全に無内容なものから、地方議会の選挙なのに<消費税率引き下げ>とか<憲法改正反対>という場違いなものまで、全く問題外のことを書いているポスターがアホみたいに多い。
<保育園の待機児童を0に>とか<新庁舎建設反>とか、それに対する賛否は別にして、そういう具体的な政策をふたつみっつ挙げるのが選挙ポスターに記す最低限の内容だと思うし、候補者の義務であるとも思う。

そんな中、自分が住んでいる板橋区議会議員選挙のポスターに書かれていた文字が僕には引っ掛かった。
ある政党の候補者全員のポスターに書かれていた<東京で1番!>という言葉。
ちなみに、その後に何行かの文章が並んでいて、要約すると<板橋区を東京で一番住みやすい街>にするというスローガンらしい。

みなさんは疑問を持たなかっただろうか?
少なくとも、ポスターにこの文字を記した政党の立候補者又は政党の幹部は疑問を持たなかったのだろう。

僕が思うに、行政を志す人間の誤りはこういう部分に表れるのだ。
何故、自分が住んでいる区が<東京で1番!>でなければならないのか。
利益を競う資本主義的企業理念や当選至上主義の政党理念に毒されてしまうと、こういう言葉の罠が見えて来なくなる。
単純に考えて、仮に板橋区が<東京で1番!>住みやすい街だとしたら、逆に東京で23番目(最下位)に住みやすい(住みにくい)街も序列付けられる。
そんなことは行政が目指すべきことでもなんでもない。
全国学力テストの結果で一喜一憂することと同じ様に馬鹿げている。

「住みやすい街を作るために努力をするのは行政として当たり前だろ?」と思う方は、真っ当な意見をお持ちだと思う。
しかし、問題はやはり<東京で1番!>ということ。
まだ理解していただけないだろうか。
僕たちに必要なのは、<住みやすい街>を作るための方法とその実践だけであって、<東京で1番!>という差別化は全く必要としない。
これは、ナショナリズムの変形であるドメスティシズム(郷土偏愛主義)とでも名付けるべきものだ。
もしもある方法と実践によってこの街が素晴らしく住みやすい街になったとしたら、僕たちが次になすべきことは、<東京で1番!>を維持することではなく、それをあらゆる街(近隣の、そして、もっと言うなら世界の)へ普及することである。
そして、更に住みやすい街にするための新しい方法を検討することである。

僕は今回も勿論投票に行かないので(議会制民主主義を否定しているから)、この政党に投票することも他の政党に投票することもないが、投票に行く方々は、選挙ポスターにもこういう意識が潜んでいるということは気付いておいてほしい。


  2015年3月8日(日) 珍しくコーヒーフロートを飲む
  「〜ではありませんか?」への苛立ち

これに対する苛立ちを感じている方はいないのだろうか?
それとも、僕の検索の方法が間違っているのだろうか?
或いは、こんな些細なことに拘っているのは僕だけなのだろうか?
ネット上にも僕と同じ感覚の意見が見つからない。

インターネットで検索をかけたら、入力途中で予測候補が幾つも表示される場合がある。
それは時に便利で時に煩わしい。
例えば、自分の名前で検索した場合、他の著名な「松本」さんが何人も予測候補として登場し、結局は最後まで打ち込まないと自分に辿り着かない。
それはそれで構わないし、自分の無名さを呪ったり嘆いたりもしない。
検索サイトによっては、その予測候補を表示しない設定も出来るらしいから、本当にただただ煩わしかったら設定を変えればいい。

しかし、先頃ヤフオクである人名を検索したら、「〜ではありませんか?」と表示された。
僕が検索したかったのは、「〜」で表示された人物ではなく、その人に名前の似た別の人物だったのだが。
こういうシステムを導入しているサイトは他にも多数ある。
サイトの側からすれば、誤入力・誤変換を防ぐための親切な設定と思っているのかもしれないが、こういうのをまさに<ありがた迷惑>または<余計なお世話>と呼ぶ。
僕は嫌な気分しかしない。

つまり、これは多数派によって検索をかけられているものを優先するシステムであり、逆に言えば少数派を蔑ろにしているシステムとも言える。
また、ある種の誘導とも言える。
僕が望んでいるのは、いつか少数派と多数派が入れ替わって、僕が検索したものが先に表示されることではない。
自分が少数派であることは全然構わないし、むしろ望むところでもある。
僕が言いたいのは、、「あなたは多数派ではないのですか?」という問い掛けを内包しているような表示をされるのは甚だ心外であるということだ。
そこに潜んでいる多数派への迎合の姿勢そのものに、僕は苛立ちを覚える。
もっと言えば、そういう姿勢をよしとしている社会のあり方、そういう姿勢を日々拡散している社会のあり方に苛立ちを覚えているのだ。

こんなことを感じているのは、やはり僕だけなのか?