幕末から明治の時代が語られる時、井伊直弼の名前は必ず悪役として登場する。
僕はそれに対して弁護する気などさらさらないが、それにしても余りにも端役として扱われることの多いこの人物こそが、幕末から明治にかけての最大のキーパーソンなのではないかと最近思うようになった。
まずひとつ目に大切なポイントは、彼は徹底した開国派だったということ。
当時の欧米の悪しきグローバル化(植民地主義)の下で、日本も遅かれ早かれ開国せざるを得なかった。
ただ、それをどのタイミングでするかが問題で、どこかの国と一戦交えて圧倒的な武力を見せつけられてからするのか、巧みな交渉術で平和裏に開国するのか、威嚇を恐れながらなし崩し的に開国するのかは、時の政府(当時は幕府)の想像力と想定力と決断力次第だったと思う。
そこで出て来るのが日米修好通商条約。
歴史の授業では必ず<不平等条約>としてだけ語られるこの条約は、確かに不平等ではあるけれど、実はこの条約を締結したことによって、後の近代化による富国強兵政策までの時間を稼ぐことが出来たという見方も出来る。
欧米のどこかの国の植民地、もしくは、欧米の列強に分割された植民地、もしくは、欧米の事実上の植民地にならずに済んだのは、この<不平等条約>が時間稼ぎをしてくれたからではないか。
ちょっと脱線する。
その後の日本の歩みを見る時、果たして植民地化されなかったことがよかったかどうかは分からないと僕は思っている。
植民地化された後に独立運動を起こすことで、多くの血は流れるけれど、より自由で民主的な国家を目指す気風が国民に備わったかもしれないとも思う。
そのことと、植民地政策を受ける過酷さを引き換えにすべきかどうかは難しいし、今の時点から観ている歴史ではあるけれど。
本題に戻る。
僕が言いたいのは、だから日米修好通商条約を締結したことは歴史的に見てよかったというのではなく、その当時想像されていたほど、結果的に日本にとって最悪の条約ではなかったということと、この条約を改正するために後に日本の外交的手腕が著しく上達したという事実である。
つまり、井伊直弼が残した日米修好通商条約という<壁>は、日本が政治的に近代化するために大いに役立ったという見方も出来るということ。
彼が行った安政の大獄も同様の見方が出来る。
尊皇攘夷を唱える者、そのための活動をする者、そして、無実の者まで多くの犠牲者を出したのが安政の大獄と呼ばれる大粛清。
この出来事だけを取り上げれば酷い話だけれど、その結果は逆に火に油を注ぐ形になり、井伊直弼自身が桜田門外の変で斃され、幕府の大老が暗殺されるという権威の失墜が、次の時代の始まりを告げるきっかけになった。
更には、その後、太平洋戦争終戦まで続く、時の権力者へのテロリズムの時代の幕開けでもあり、明らかに時代を転換させる引き鉄になった。
それ以前とそれ以後は、明らかに違う心象風景の時代になるのだ。
つまり、大久保利通でも西郷隆盛でも桂小五郎でも伊藤博文でも坂本龍馬でもなく、幕末・明治で時代を画する人物を挙げるとするなら、井伊直弼ではないかと僕は思うのだ。
もうひとつ。
彼が死後も大いなる影響力を示している出来事がひとつある。
それは、明治維新の始まりでもある鳥羽・伏見の戦いである。
譜代である彦根藩が早々に幕府を裏切ったのは、時勢を読むのに鋭かったからだけではなく、官軍に義があると考えたからでもなく、水戸藩の浪士たちによってかつての藩主である井伊直弼を暗殺されたという因縁が大きかったと僕は考える。
時代の趨勢は官軍にあったとしても、緒戦をどちらが勝つかで流れが変わっていた可能性もある。
歴史に「もしも」はないが、だからこそ必然的に彦根藩の裏切りがあり、他藩の追随もあったのだと思う。
幕末史の本を読んでみても、井伊直弼という人物像が実は僕にははっきりと見えて来ない。
茶人でもあったという彼は、ある意味で奇怪な存在である。
後の歴史を見て彼を評するなら、<スターリンになれなかった男>とでも呼べばいいのだろうか。
先程も幾人かの名前を挙げたが、幕末・明治の志士たちは数多いるけれど、彼らそれぞれの代わりは誰か他の人間が務めたと思われるが、井伊直弼はある意味で孤高の存在だったのではないか。
だから評価されるべきだというのではなく、だからしっかりと捉え直すべきだと思う。
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