just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜



  2014年4月13日(日) 憲法9条に関する本を読み始めたの東京
  コツの公開

小保方晴子という人物が話題になっている。
彼女については様々な角度から語られているが、ここでは僕が気になった1点に絞って考えたい。
それは、STAP現象を発生させる<コツ>について。

先日4月9日に行われた小保方晴子の理化学研究所の調査に対する不服申し立てについての記者会見の全編動画を観た。
そこには、人間の醜さや誠実さや傲慢さなどが入り混じっていて、ひとつの人間劇を見ているような興味深さがあった。
ちょっと脱線するが、たまたま同時期にシェークスピアの「アントニーとクレオパトラ」を読んでいただけに、そこに描かれている人間の愚かさや滑稽さや現金さと重ね合わせて、より一層劇場での出来事のように見えた。

それはそれとして、ひとつ気になったのが先程も挙げた<コツ>という言葉。
記者会見の中で発せられたある女性ジャーナリストの質問を要約すると、STAP現象が疑われている現状、そして、STAP細胞を世の中の立てたいという想いがあるなら、小保方晴子が言うところのちょっとした<コツ>というのを公開してはどうか、というもの。
もしかしたら、この記者会見を観た多くの方はこの質問者に同意しているのかもしれない。
この質問の裏には、「あるなら公開したら。そんなもの初めからないから公開できないんでしょ」という意地悪な予測がはっきりと含まれている。
ここでは、その<コツ>の実際の有無は問わないし、僕にとってはそれはどちらでもいいこと。
もしも、小保方晴子が単に自分の無実を証明したいだけなら、それが近道なのかもしれないと僕も思う。
しかし、僕は、逆の在り方、小保方晴子の在り方を支持する。

ここで、話はきちんと脱線する。
羽生善治という棋士がいる。
まだ現役棋士ではあるが、既に将棋史に残る数々の記録を打ち立て続けている棋士。
彼が言うには、将棋の詰みの形は八百通りに分類できるらしい(この発言は僕の記憶にあり、今は検証できない)。
将棋を知らない方に簡単に説明すると、将棋というのは相手の王将を詰みという形に持っていくゲームであり、その詰みの形がきちんと類型化できているなら、そこから逆算して詰みの形へと持っていくのに有効である。
ところが、詰め将棋の本はこの世に数多(あまた)存在しているけれど、ほとんどの場合、その詰みまでの手数(3手とか5手とか、長いものであれば最長は1525手!)か難易度によって分類されているだけである。
今まで誰もその八百通りという分類を目にしたことがない。
しかし、羽生善治は八百通りに分類できると言うのである。
もしも、その八百通りの分類を本にして出版してくれるなら、僕は5000円くらいまでなら出して買う。
そして、多くのアマチュア将棋指しだけでなく、恐らくほんどのプロの棋士もそんな本が出版されたら買うはず。
しかし、2014年4月現在、そんな本は存在していない。
僕が羽生善治なら、現役時代には決して出版はしないだろう。
引退したら出版するかもしれない。
それは、その詰みの分類(これこそが<コツ>)を知っているのが自分だけなら、それは間違いなく対局する上で有利だからだ。
これを将棋界のために、或いは子供たちのために、今公開しろと言われたらどうだろうか?

さて、本題へ戻る。
僕が言いたいことはもう伝わったかもしれない。
小保方晴子の言う<コツ>というのが存在したとして、それを公開しろと言われて簡単に公開できるものではないと何故想像できないのか。
その<コツ>こそが、もしかしたら彼女の科学者としての生命線かもしれないし、その<コツ>が何億円、何十億円、何百億円の価値を生み出すかもしれないというのに。
彼女が言うように、最終的に世の中の役に立つというのが嘘偽りない想いだとしても、今その<コツ>を公開することによって、他の科学者がその<コツ>またはその<コツ>の類型を利用しすることにより、小保方晴子という科学者が無価値になるとしたら、それは一個人としてかなり恐ろしいことではないだろうか。
ここまで想像力が及ばないなら、上記の女性ジャーナリストはジャーナリストの看板を下ろすべきだと僕は思う。

何度も書くが、僕はここでSTAP細胞の存在の有無も<コツ>の有無も問うてはいない。
ひとりの人間が別の人間に何かを問い掛ける時の想像力の問題を問うているのだ。


  2014年3月23日(日) ニセのBANDからCDが6枚届くの東京
  国家依存症

国粋主義とか愛国心とかいう言葉を時々耳にする。
そういう言葉は、ひとつの意思(もしくは意志)を含んでいるように聞こえる。
思想・信条のようなもののように。
僕が思うに、実はそれはひとつの病気としての国家依存症なんじゃないのか。

国家というのは、その発生と形態から、対立項と境界線を必要としている。
対立項というのは、他部族であったり、異民族であったり、隣接国家であったり。
境界線というのは、ムラ境であったり、城壁であったり、見えない国境線であったり。
どんな理由付けをするにせよ、国家を是とする者はその対立項や境界線を是とする意識(無意識)に捕らえられている。
その対立項や境界線というのは、それがいかに堅固で現実的なものであれ幻想に過ぎないのだが(例えば、現実の建造物としての城壁はそこにあっても、それが異民族の境界線であるという意識は幻想)、その幻想を個人が完全に内在化(血肉化)し、その対立項や境界線を自分のアイデンティティーのように錯覚して依存してしまうことを僕は国家依存症と名付ける。

勿論、その依存の程度には個人差がある。
スポーツの国際試合で自国を応援することによって満たされる程度から、防衛本能の強度な裏返しである侵略主義まで。
ここで重要なのは、その程度の差を問うことではなく、これをちゃんと病理とみなすこと。
国家が善か悪かという倫理的な問題とは全く別の問題として、多くの人たちが国家依存症に感染させられているという自覚こそ、無駄な対立や無益な流血を避けるための道標であり、人類が国家の次のステージへ向かう第一歩だと僕は思う。


  2014年2月9日(日) 昨日の東京の大雪は既にシャーベット化の東京
  暗室〜失われゆくもの〜

バイトの仕事柄、僕は日々いろんな場所のいろんな建物に行く。
オフィスビル、飲み屋ビル、パチンコ屋、学校、病院、養護老人施設、工場、倉庫、地下駐車場、立体駐車場、マンション、社宅、球場、研究所、下水処理場、劇場、市民会館等々。
一軒家以外のほぼありとあらゆるタイプの建物に行く。
そんな中、最近「これって、もうすぐ姿を消すんちゃうかな」とふと思ったのが、暗室の存在。

暗室を見かけるのは、学校や研究施設や病院の中。
かつて写真の現像のために必要とされていた場所。
狭い部屋に赤い電灯。
しかし、今では多くの写真は現像されるものではなくなってしまっていて、それと同時に暗室も必要性がなくなってきたはず。
今では暗室としては使われずに、倉庫代わりに使われていたり、ガランとした何もない空間になっていたりするのを見かける。
それでも、現像液のあのちょっと酸っぱい匂いが仄かに残っていたりすると、特に印象的な思い出がある訳でもないのに、どうしようもなく切ない気分になるような場所。
<あんしつ>という音の響きも、<暗室>という文字も、ミステリアスで素敵だ。

僕の記憶の中では当たり前に存在していたのに、恐らく今の若い世代がほとんど知らないものや体験したことがないものというのも沢山あるけど、暗室というのはそんな中で特に魅力的なもののひとつだと思う。
他の物で言えば、改札鋏。
かつて駅員が改札で切符を切っていた時代があった。
恐ろしいスピードで切符に鋏を入れる駅員を見ながら、将来あれをやりたいと思った子供たちは多かったはずで、駅員(改札係)は子供たち(特に男子)にとって人気の職業のひとつだった。
当時は、おもちゃの改札鋏も子供たちに人気があった。
乗降客がいなくて暇な時、駅員が改札口で手持ち無沙汰に独自のリズムで改札鋏をカチカチ鳴らしている姿は、それがそのまま駅というものを代表する風景だった。
そんな風景は、今ではどこにも存在しない。

逆に、早晩失くなるだろうと思っていたのに、今でもしぶとく存在していると僕が感じている物のひとつが、黒板。
科学技術が進歩したらすぐに失くなるだろうと思っていた。
たまに教師に指名されて黒板に字を書くのもチョークって書きにくいし、チョークの粉は不衛生だし、黒板消しで毎回消すのは手間が掛かるし、黒板消しを掃除するクリーナーはうるさい上になかなかきれいにならないし、余りにも欠点が多過ぎるとずっと思っていた。
しかし、こんなものが生き残るのが現実世界だと、今では思い知らされている。


  2014年1月29日(水) 「まどかのまどから」を何十回も聴き返しているの東京
  マスクのふたつの面

この時期、マスクをしている人をよく見かけるし、僕も場面によっては使う。
どういう意識でしているかは人それぞれかとも思う。
市販のマスクが謳っているほどの効果がないにしても、様々な面で効果があるのは確か。
しかし、咳やくしゃみが出るのにマスクを全然使わないどころか、いわゆる咳エチケットと言われることを全くしない人もいる。
こういう状況を改善するためにも、端的にふたつに纏めて、小学生から大人まで<道徳>として教育すべきやと思う。

ひとつ目。
インフルエンザは勿論、風邪や花粉症などで頻繁に咳やくしゃみが出る人は、マスクは<義務>。
ふたつ目。
風邪やインフルエンザや花粉からなるべく身を守りたい人は、マスクは<自己責任>。


  2014年1月29日(水) 今年最初のライヴを昨日終えたの東京
  予約と個人情報

以前からちょっと疑問に思っていたことが、去年のクリスマスに自分の中で鮮明になった。

インターネットで調べたあるお店に予約の電話を掛けた時のこと。
日時を予約したら、こちらの電話番号を教えてほしいと言われた。
これまでも大抵のお店で電話番号を訊かれて来たれけど、その度にいつも引っ掛かりを感じていた。
それでも、一応いつものように家の電話番号を伝えたら、携帯電話の番号を教えてほしいと言われた。
僕をご存知の方なら知っていると思うが、僕は勿論携帯電話なんか持ってない。
ここで予約を諦めることも出来たけれど、とりあえず一緒に行く予定の相手の電話番号を伝えた。

ここでまず僕が気になったのは、家の電話が何故駄目で携帯電話なら何故いいのか、という問題。
個人情報としての電話番号を<担保>として抑えるのなら、家の電話番号でも携帯電話の番号でも変わらないはず。
店側にとっては、連絡もなく時間になっても来ない客に対して連絡ができるという理由なのだろうか。
連絡もなく時間通りに来ない客の予約なんて解消すれば済むという考え方にはならないのだろうか。
また、携帯電話とはいえ、必ずしも相手と連絡が取れるとも限らないのに。

しかし、僕がもっと大きな問題だと思っているのは、そもそも店側に電話番号を教えること自体。
予約する権利と引き換えに、何故こんな重要な個人情報を伝えなければならないのか。
これでは客側のリスクが余りにも大きくないだろうか。
そして、このことに対する疑問の声があまり聞こえて来ないのは何故なのか。

ホテルや旅客機等はともかく、飲食店の予約は、昔ならば常連客からしか受け付けなかったはず。
ところが、雑誌やテレビからインターネットまで情報が拡散している現在では、一見の客が平気で予約できるようになった(僕もそのひとり)。
昔に比べて、年を経るごとに<予約する>という行為は多岐に亘り恐ろしく増加していると思われる。
それは同時に、予約を受けているのに唐突にキャンセルされる、もしくは何の連絡もなく予約の時間に来ないという、店側にとってのリスクの増加も意味している。

ここまでは僕も理解できる。
しかし、先程も書いたが、予約する権利に対して、担保として電話番号を伝えることは、逆に客側のリスクが余りににも大きくないだろうか。
顧客データのインターネットへの流出の問題だけでなく、個人的なストーキングやいやがらせなどの可能性も否定できない。
著名人は秘書やマネージャーを介することで少しは回避できるかもしれないが、それでも彼らのリスクは増大することになる。

実は、ここまで書いたことは去年のうちに頭の中でほぼ纏まっていた。
ところが、相応しい解決方法がなかなか思いつかず、それがここに記すのが今に至った理由のひとつでもある。
顧客データを大規模に取り扱う会社などでは、個人情報の取り扱いに関する同意を取り付けるのが昨今では常識になっている。
それだけで完全な安全が保障されている訳ではないが、個人情報を取り扱う上での責任を明記しているという点は大きい。
しかし、小規模経営の店、個人商店などではそういう同意ないままに個人情報の受け渡しが日常的に行われている。

短絡的に考えるなら、予約というシステムをなくすか、予約時に電話番号を訊くことを禁止するか、というのが分かりやすい。
現在客側が負っているリスクを解消するために、客側が利便性を放棄し、かつ店側が顧客確保の可能性を減らすか、店側がリスクを一手に引き受けるかという選択になる。

店側も客側も登録制にする<予約>という巨大サイトを立ち上げ、そこが個人情報を一括して管理するというのはひとつの解決策かもしれない。
客側は予約する際、店側に名前とそのサイトへの登録コードだけを伝える。
もしも連絡なしの予約破棄などがあれば、その客はそのサイトでマイナスポイントが付き、度重なるとブラックリストに載るなどのペナルティーを科せられるシステムにすればどうだろう。

これもひとつの案でしかない。
いずれにせよ、現状を受け入れてるのは、客側も店側も個人情報の取り扱いに対して甘過ぎると僕は思う。