just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜



  2013年9月18日(水) 電車の隣りの席で女性が泣き続けていたの東京
  タンポポの綿毛

人によって怖いものは様々だと思う。
人間が作り出した物(原爆やサリンや各種の拷問器具等)とか人間の内面的な狂気や残虐性や剥き出しの欲望などは別にして、自然界に存在するものにも怖いものは幾つもある。

僕は子供の頃から雷が怖かったし、今も非常に怖い。
閃光と轟音による威嚇、無防備な相手に対する圧倒的な力、逃げ場がない時に被害者になる偶然性、どれをとっても恐ろしい。
地震を怖いと言うけれど、地震はその揺れ自体を敏感に恐怖と感じる人以外にとっては、人為的な物体(家や壁や電信柱など)の倒壊に対する恐怖や、派生する火事やパニックに巻き込まれる恐怖等、人為的、或いは二次的な災害に対する恐怖の方が大きい。
それよりも、東日本大震災を経験してからは、津波の方が圧倒的に怖くなった。

そんな中、僕がタンポポの綿毛が怖いと言ったらふざけていると思われるだろうか。
でも、僕は実はこれも昔から怖かったし、今も時々ゾッとする。

都市伝説だろうか。
タンポポの綿毛が耳に入ると耳が聞こえなくなるというのは。
僕は今も密かにそれを信じていてる。
いや、本当のことを言えば、<耳が聞こえなくなる>のを素直に信じているのではなく、耳の中にタンポポの綿毛が入って、耳が聞こえにくくなったり、取れなくなってずっとガサゴソという音が聴こ続けたりすることに対する恐怖心を拭えないでいる。
だから、宙を舞っているタンポポの綿毛を見る度に、取り敢えず「近づいて来るな」といつも祈っているし、風に乗って近づいて来たら、逃げるか払いのけるか耳を塞ぐ。

それと同時に、タンポポの綿毛が怖いなどと言っていられる時代が続くことを切に願う。


  2013年9月16日(月) 台風18号の中の東京
  「みんな持っているから欲しい」という欲望

先日、妹と電話で話している時に、小学生の甥っ子が話があると電話を代わった。

彼が僕に話がある時は、間違いなくモノをねだる時。
彼の誕生日には何かほしいモノを買ってあげることはあるが、普段から彼の言いなりにホイホイとモノを買い与えるほど僕は甘い伯父ではないが、話だけは聞いた。
彼の言い分は、ゲームソフトか何かを「みんなが持っているから欲しい」ということだった。
僕は初めから何も買ってやるつもりはなかったが、その言葉を聞いた瞬間に、より一層頑なに「買ってやるものか」と思った。
電話を切った後、僕のこの頑なな感覚って何なのかと考えてみた。

彼の言葉をもう少し分析的に考える。
「みんなが持っているから欲しい」という言葉の真意が、本当に周りのみんなが持っているから欲しているということなのか、こういう理由を付けると要求が通りやすいと考えているだけなのか、或いはその両方なのか、それは分からない。
ただ、ひとつはっきりと言えることは、少なくとも彼の中では、この言説が幾分かの正当性を持った言説として認識されているということだ。

「みんなが持っているから欲しい」という心理状況が存在することを僕も勿論知っている。
ちょっとズレるかもしれないけれど、似たような例を大学時代の心理学の授業で聞いたことがある。
軍隊で、一部のエリートだけが昇進するグループよりも多くの仲間が昇進する次々とグループの方が、仲間の昇進に対する嫉妬(ストレス)は大きいらしい。
つまり、みんなと同じようになりたいという欲求は、多くの人間の中に存在しているということなのだろう。

この正反対も考えてみる。
「みんなが持っていないものが欲しい」という欲求。
しかし、これは「みんなが持っているから欲しい」の真逆のようでいて、根を同じくした欲望なのだ。
つまり、これらの欲望にとって、対象となっているモノそれ自体が問題なのではなくて、<みんな>との対比が問題であるという意味で。

ここまで考えてきてはっきりと分かることは、これは愛の問題だということ。
モノ(対象)と自分との間にあるやむにやまれない欲求が愛であるとするなら、「みんなが持っているから欲しい」という発想には愛は存在していない。
そこに存在しているのは、プライドや虚栄心や安心感と呼ばれているものだ。
資本主義の需要と供給の幾分かは、そういう心理が形作っているのだ。
僕を頑なにさせたものの正体は、どうやにその辺りのようだ。

子供の頃に何かを「みんなが持っているから欲しい」と思ったことはあるだろうかと思い返してみても、僕自身に関してはちょっと思い当たらない。
もしかしたら、自転車くらいはそう思っていたのかもしれないが、はっきりとは思い出せない。
少なくとも、今、誰かが持っているから何かが欲しいという発想は僕の中にはない。
僕が世間からズレている理由のひとつは、こういう点にもあるのかもしれないとふと思った。


  2013年7月18日(木) 平日の連休初日の東京
  夏の高校野球の本質

夏の全国高校野球大会予選で、炎天下で倒れた選手を批判した<大人>が逆に批判されたり、そもそも真夏の日中に何試合も連続で野球をすること自体が無謀だと批判されたりしている昨今、僕は別の角度からこの問題を考えたい。

夏の全国高校野球大会がこれほどまでにメジャーになった理由は幾つかある。
その歴史の長さ、会場が甲子園であること、朝日新聞が主催していること、NHKが本戦全試合をラジオ・テレビ中継していること、各都道府県の代表を応援するという郷土愛を刺激していること、学生の夏休みに当たるので多くの子供たちも観戦できること、全国すべての高校が予選に参加できること等々。
けれど、それらはすべて夏の高校野球の本質とは無関係である。
夏の高校野球大会の本質は、その<アホさ加減>なのだと僕は思う。
夏の昼間に野球をやり、エースは何試合も連投し、応援団はスタンドで汗だくになり、賞金も出ない大会のたったひとつの優勝旗を目指すという<アホさ加減>こそ、評価できることなのである。

それは、何十mという橋の上から遊びで海に飛び込んで死んだ高校生とは全くレベルの違う<アホさ加減>である。
一回戦で負けたらたった一試合で終わる大会のために、日々練習を重ねる<アホさ加減>である。
夏の甲子園大会が終わると、馬鹿げた閉会セレモニーが行われ、文部科学大臣や日本高等学校野球連盟(高野連)の老人が毎回うんざりするような言葉を吐くが、そんな言葉では触れることが出来ない<アホさ加減>である。
それを美しいと呼ぶことも出来るし、感動的と呼ぶことも出来るし、どうでもいいと無視することも出来るし、別の<アホさ加減>の方が素晴らしいと思うことも出来るような<アホさ加減>である。

ひとつ比較論で言うなら、今や何故か人気スポーツになった箱根駅伝と高校野球は全く違う。
元来オリンピック選手育成を目的とした大会として始まった箱根駅伝も、東京から箱根の山にマラソンで登って帰って来るという<アホさ加減>は持ち合わせている。
ある意味の酔狂である。
しかし、あれは所詮関東の大学限定の狭い大会であるし、前年の10位以内の大学は翌年シードされるという馬鹿げた優先システムを持つという意味で、<アホ>ではなく<こざかしい>としか僕には映らない。
前年の優勝校が予選初戦で敗退する可能性がある高校野球とは、そのシビアさにおいて雲泥の差がある。

冒頭の話に戻ると、夏の高校野球というこのアホな自虐行為で倒れたからと言って、その選手は誰に批判される筋合いもないのである。
監督は勿論、高校野球OBにも、当然部外者にも。
彼らは進んでアホなことをしている訳で、倒れたら倒れただけのことであり、肩を壊したら壊しただけのことだ。
鍛え方が足りないという批判も受ける筋合いはない。
もしもその批判をする資格がある者がいるとしたら、それはその大会を共に闘っている他の高校野球選手たちだけだ。

これは教育の素晴らしい成果でも過程でもない。
ただ、若者たちがアホなことを一生懸命しているだけのことであって、それ以上でもそれ以下でもない。