時々街で見かける<世界人類が平和でありますように>という看板が、<金・プラチナ 高価買取します>という謳い文句と同じくらい無機質に感じるのは、その看板のいかがわしさだけでなく、<平和>という言葉に割り当てられてしまっている強度の低さによる部分も大きいと僕は思う。
僕が思うに、2013年現在、<平和>という言葉の強度は綿菓子くらいだ。
<平和>という言葉のの問題点は、ひとつはそれが<戦争>の対義語として<非−交戦状態>という影の部分を担わされている点にもあるし、他の語られ方をしてもユートピア的な扱いをされてしまう点にもある。
つまり、常に<不在>について語っているような手応えのなさが付き纏ってしまうのだ。
僕が提案したいのは、<平和>という言葉を再定義すること。
再定義するということは、根本的な意識付けを変えるということであり、思想の原点でもある。
まず第一段階として、<平和>という言葉を具体化させたい。
<平和>とは、徴兵制が存在せず、職業軍人が存在せず、軍事組織が存在せず、武器の製造・売買・贈与・使用等を禁止している社会のことである、と定義してみる。
これだけで随分見えやすくなったはず。
これは誰もが敵意もなく隣人を愛するなどというユートピアではなく、ある種の理想を制度として具現化した社会のことである。
それが直ちに可能かどうかは別として。
仮にこう定義した時、現状では世界中のほとんどの社会が<平和>ではないと言える。
と同時に、<平和>を具現化するためにその社会が何をするればいいのかもはっきり見えるはず。
徴兵制のある国ではそれを廃止すればいいし、武器を製造している国ではそれを禁止すればいい。
国際機関や国際条約でそれをひとつずつ実現していくことが、リアルな意味で<平和>への道である。
人間の本来的な好戦性とか、個人が国家の存続を願う理由とか、宗教間の排他性とか、そのほか様々な交戦状態を引き起こす契機になる精神的な問題は、<平和>という言葉とは別の新たな言葉で語ればいい。
これらを綯い交ぜにしないことが肝要である。
ここで僕は、或いは僕たちは、具体的な<平和>について語っているのであって、学術的に<平和>を研究しているのではない。
僕が今語った<平和>が実現したとしても、全人類が幸せになる訳ではない。
それは、ただ<平和>が実現しただけに過ぎない。
けれど、それは人類史にとって、月面に到達したことよりも遥かに大きな一歩に違いない。
だからこそ、まずはこの意識改革から。
|