just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜



  2013年6月23日(日) 開高健「輝ける闇」を読みつつの東京
  <平和>という言葉は何故弱いのか

時々街で見かける<世界人類が平和でありますように>という看板が、<金・プラチナ 高価買取します>という謳い文句と同じくらい無機質に感じるのは、その看板のいかがわしさだけでなく、<平和>という言葉に割り当てられてしまっている強度の低さによる部分も大きいと僕は思う。
僕が思うに、2013年現在、<平和>という言葉の強度は綿菓子くらいだ。

<平和>という言葉のの問題点は、ひとつはそれが<戦争>の対義語として<非−交戦状態>という影の部分を担わされている点にもあるし、他の語られ方をしてもユートピア的な扱いをされてしまう点にもある。
つまり、常に<不在>について語っているような手応えのなさが付き纏ってしまうのだ。

僕が提案したいのは、<平和>という言葉を再定義すること。
再定義するということは、根本的な意識付けを変えるということであり、思想の原点でもある。

まず第一段階として、<平和>という言葉を具体化させたい。
<平和>とは、徴兵制が存在せず、職業軍人が存在せず、軍事組織が存在せず、武器の製造・売買・贈与・使用等を禁止している社会のことである、と定義してみる。
これだけで随分見えやすくなったはず。
これは誰もが敵意もなく隣人を愛するなどというユートピアではなく、ある種の理想を制度として具現化した社会のことである。
それが直ちに可能かどうかは別として。

仮にこう定義した時、現状では世界中のほとんどの社会が<平和>ではないと言える。
と同時に、<平和>を具現化するためにその社会が何をするればいいのかもはっきり見えるはず。
徴兵制のある国ではそれを廃止すればいいし、武器を製造している国ではそれを禁止すればいい。
国際機関や国際条約でそれをひとつずつ実現していくことが、リアルな意味で<平和>への道である。

人間の本来的な好戦性とか、個人が国家の存続を願う理由とか、宗教間の排他性とか、そのほか様々な交戦状態を引き起こす契機になる精神的な問題は、<平和>という言葉とは別の新たな言葉で語ればいい。
これらを綯い交ぜにしないことが肝要である。
ここで僕は、或いは僕たちは、具体的な<平和>について語っているのであって、学術的に<平和>を研究しているのではない。

僕が今語った<平和>が実現したとしても、全人類が幸せになる訳ではない。
それは、ただ<平和>が実現しただけに過ぎない。
けれど、それは人類史にとって、月面に到達したことよりも遥かに大きな一歩に違いない。
だからこそ、まずはこの意識改革から。


  2013年5月25日(土) 1ヶ月振りにマスクを外すの東京
  神対応・塩対応・キャバ対応

握手会については以前から書きたいと思っていたし、ホームページの<しゃべるんや(仮々)>でも何度か予告してきた。
今回、自分の中でやっと焦点が定まったと感じたので、握手会について感じていることを書く。

握手会でのメンバーの対応について、以前から神対応・塩対応という言葉が使われてきた。
神対応とはざっくりと言えば<自分の希望通りの、或いは想像を超えた対応>のことで、塩対応とはしょっぱい対応のことであり<がっかりさせられるような対応>のことを指す。
僕はそのように呼ばれるメンバーの対応そのものよりも、そういうメンバーの対応に対するファンの側の反応の方に興味を覚えている。

神対応も塩対応も、メンバーがやっていることように見えて、実はファンの側が勝手に感じて勝手に評していることに過ぎない。
例えば、何をもって神対応と呼ぶかはファン個人の感じ方によって大幅に変わる。
すごく力強く手を握ってくれるのを神対応と呼ぶのか、強弱をつけて手をマッサージするように握手してくれるのを神対応と呼ぶのか、<せっせっせ>をするみたいに両手で握手をしてくれるのを神対応と呼ぶのか、1回行っただけで顔と名前を覚えてくれるのを神対応と呼ぶのか、ファンの年齢に関係なくフレンドリーに接してくれるのを神対応と呼ぶのか、すごく丁寧に話しかけてくれるのを神対応と呼ぶのか、受け答えに機転が利くのを神対応と呼ぶのか、要求に応えてくれる(モノマネをしてくれたり言ってほしい台詞を言ってくれる)のを神対応と呼ぶのか、まっすぐに目を逸らさず見つめてくれるのを神対応と呼ぶのか、いつもハイテンションなのを神対応と呼ぶのか、初心者も常連も分け隔てないのを神対応と呼ぶのか。
今、数多くの例を挙げたけれど、そのどれにも当てはまらないことを神対応と呼ぶファンもいれば、上記のようなことをすべて欲するファンもいる。
だから、他人の評価など全く当てにならないし、誰かにとって神対応であるメンバーは、同じ対応をしていても他の誰かにとっては塩対応と感じられているのかもしれない。
もっと言うなら、その日のお互いの体調や気分によっても感じ方は左右される。

個人的なことを少し書く。
僕は個別握手会(誰と握手したいかを事前に指名して握手券付CDを買う)と呼ばれる握手会で握手したことがあるのは今までに3人だけ。
その3人とは、AKB48・梅田彩佳、SKE48・大矢真那、NMB48・木下春奈。
誰一人として特別なハイテンションでもなければ、誰一人としてテクニカルな握手をする訳でもないけれど、僕から見れば3人とも神対応だった。
僕にとっては、わざわざ握手しに行きたい(会いに行きたい)と思える人がそこにいて、間近で彼女たちを見られて、自分の想いを伝えることも出来る状態そのものがそもそも<神>であり、彼女たちが普通に優しく対応してくれることが既に神対応なのである。

もっと細かい例を挙げると、NMB48・木下春奈と初めて握手した時、僕が名前を名乗ると、彼女に「あれ!?聞いたことありますよ」と言われて驚いたことをよく覚えている。
その名前とは、僕が普段から彼女のブログにコメントをする際に使っているハンドルネーム(ちなみに<フォークジャングル>)であり、彼女はブログのコメント欄を読んで知っていてくれたのだ。
それ以降、僕は一度も名乗っていない。
何故なら、行く度に彼女の方からまず「あっ、フォークジャングルさん」と声を掛けてくれるからだ。
これを神対応と呼ばずして何が神対応なのか。
実は、そんな彼女のことを塩対応と呼ぶ人が多いのもまた事実なのだが、一体世間は何を求めているのか。

その答えのひとつとして、ひとつの造語を提案する。
それはギャバ対応という言葉。
これは以前からよく言われるキャバクラ嬢的な対応をひとつの概念として固定させたもの。
僕はキャバクラという場所に行ったことがないので、メディア情報やイメージでしかないので実際のキャバクラと違っていたら申し訳ないのだが、「また来てくれてありがとう」的な出迎えから始まり、擦り寄るような接近をし、「また来てね」的な見送りをする媚を売る対応のことを指す。
握手会での人気は、部数(どれだけ長時間握手会をするか)と完売速度(第何次募集で個別握手会が完売するか)によって示され、それはそのグループ内でのCD選抜メンバーの選考やメディア露出の序列にも影響するシビアなのものでもある。
メディア露出が多くないメンバーで握手会人気が高いのは、このキャバ対応をするメンバーが多いと僕は感じている。
そういう対応を神対応と呼ぶ人も多いし、そういう対応を求めているファンも実際に多い。
それはそれでいいのだが、僕はそれを神対応と区別してキャバ対応と呼びたい。
僕にとっては何の魅力もない対応なのだ。

AKB48グループの<会いにいけるアイドル>というコンセプトの凄さは、専用劇場を持っていることと握手会を続けていることに集約される。
例えば、キャンディーズが専用劇場でライヴを続け、握手会を頻繁に行っていたと想像したら、衝撃的な出来事だったと思う。
AKB48グループは、個々のメンバーの容姿や才能が秀でているからまず注目されるのではなく、ファンが間近で見ることによって、容姿や才能の秀でているメンバーが発見される状況を作り出すという手法を開発したことが凄いのだ。

僕は彼女たちがアイドルだから好きなのではない。
キャンディーズがアイドルだったから好きなのではなく、キャンディーズだから好きなのだし、それ以降のアイドルにはほぼ興味がなかった。
だから、僕は自分が好きなメンバーに対してアイドルらしさなんて微塵も求めない。
AKB48グループの画期的なコンセプトの中で、たまたま発見したすばらしく魅力的な超絶美少女(NMB48・木下春奈)に魅了され、推しているだけだ。
握手会とは、その魅力的な少女と合法的に会えるというだけで充分に<神>な場所なのである、という当たり前のような結論を示しておく。
極論するなら、僕にとって神対応とは、僕が会いたいと願う彼女がそこに元気な姿でいることだ。


  2013年4月27日(土) NMB48日本武道館単独コンサートの余韻の中の東京
  頭の悪い男子中学生の考えそうな「国民の憲法」

産経新聞が「国民の憲法」なる憲法改正草案のようなものを発表した。
内容は批判にも値しないけれど、批判すべき点が別にあるのでここに記すことにした。

<この憲法改正草案を誰が作ったか>という試験問題が出されたとしたら、僕は解答欄に<頭の悪い男子中学生>と書くと思う。
僕が目を通した限り、内容のレベルはその程度だ。
まず、過去の歴史に対する洞察力と未来の姿に対する想像力が著しく欠如している。
そして、今後の世界のあるべき姿への創造力が皆無である。
そこに何らかのまともなビジョンが提示されていて、それが仮に僕が描いているビジョンと異なっていたとしても、それは真摯な批判に値する。
しかし、そこに描かれているのは、旧弊な伝統の踏襲と妄信とも呼べる信仰だけであり、無能の表明としか捉えられない。

敢えて批判めいたことを書くなら、こういうことになる。
能無しの臆病者は、力(権力や武力)を持ちたがる。
それが自分を守る術だと信じているから。
能無しの臆病者は、旧弊な伝統や信仰に頼りたがる。
それが自分を支える術だと信じているから。
明治以降の日本という国において、その力と信仰を大雑把な形で表現すると、軍隊と天皇ということになる。
彼らはきっと、そんな能無しで臆病な自分たちが好きで好きでたまらないのだろう。

ここでの本当の問題は何か。
それは、彼らが<頭の悪い男子中学生>レベルだということ自体ではない。
本当の問題は、彼らに自分たちが<頭の悪い男子中学生>レベルであるという自覚がないことなのだ。
それだからこそ、こんなアホみたいな草案がメジャー新聞の紙面を飾ることになるのだし、メジャー新聞の知的レベルが改めて露呈されることになる。
いつの時代もこの自覚のなさが危機を招いているという歴史認識なんて、彼らは当然持ってないのだ。

自分たちの存在意義を示したいのか、大衆を誘導したいのか、時流に乗りたいだけなのか、彼らが今この<国民の憲法>を提示した動機は僕にはよく分からない。
けれど、少なくとも中学校の教室でも、もう少しまともな生徒たちによって、もう少しまともな憲法改正草案が提示できるだろうことは想像に難くない。


  2013年4月6日(土) 激しい雨と風の始まりの東京
  肯定的な意味でのガラパゴス

僕自身が携帯電話を持っていないし、その存在を否定している立場でもあるから、それに関する用語にも全く興味がなかった。
だから、<ガラケー>という言葉はぼんやりと聞き知っていても、それが<ガラパゴス携帯>の略だということを知ったのは去年の終わり頃だった。
しかも、それが日本において<独特の進化を遂げた>という肯定的な面よりも、<世界標準から取り残された>という否定的な面を揶揄する意味合いが強い言葉だと知り、<ガラケー>擁護ではなく、<ガラパゴス化>擁護をしてみたいと思う。

この問題の本質は、日本経済の将来的展望とか、日本文化の固有性と世界進出とか、そういう問題ではない。
本家であるガラパゴス(ガラパゴス諸島)が地理的・歴史的に与えられてきた情況をどう捉えるかということに他ならない。

ガラパゴス諸島は、陸地から離れて生まれた火山島であることや、海流の関係で長く人類が立ち入らなかったために外来生物が持ち込まれなかったことなどの影響で、その環境に適した独自の進化を遂げた生物たちの宝庫になった。
これは、肯定的に捉えると、その生物たちの独自性の希少価値だけでなく、それを育んでいる独特の環境も評価できるはず。
東洋のガラパゴスと呼ばれている小笠原諸島も同じように評価されている。
逆に言うなら、その独特な環境には適しているけれど、他の環境下では生き残りにくい生物たちであるということも言えるし、もっと繁殖力と環境適応性の強い外来種が入ってきた場合、駆逐される危険性は大いに孕んでいるということでもある。

今までのことを踏まえたうえで、視点を少し変えてみる。
資本主義的経済活動は、その容赦ない網の目ですべての場所・すべての人を一律の価値基準で捉えようとする。
その価値基準とは、よりお金が儲かるかどうか。
それは、まさに一国の価値基準で他国や他地域を侵略してきた帝国主義思想そのものである。
つまり、帝国主義というものは、かつては国家の軍事力を背景に他の地域に経済活動の拠点を広げてきたけれど、今では企業の経済力を背景に世界に活動拠点を広げてきている。
つまり、主体が変わっただけでやり方は同じなのだ。
そういう意味では、人類は何世紀もの間、そして今も、帝国主義的思想を実践しているということになる。
<グローバル化>などという言葉をお題目のように唱え、それを理想のように語る輩がいるけれども、<グローバル化>というのは、取りも直さず帝国主義に他ならない。
<グローバル化>とは、文化的或いは経済的な、見えざる巨大帝国を構築することであり、ある種の緩やかな侵略であり、無批判に称揚すべき精神性でもなんでもない。

話を戻す。
ガラパゴスというものの存在意義は、帝国主義的資本主義的思想、言い換えれば<グローバル化>に対するアンチとして存在していることにあると僕は思う。
<ガラパゴス化>が批判され、敬遠される理由は、ガラパゴス外の一元的価値観から取り残されることを恐れるからだ。
日本はたまたま近世に鎖国という時代を経験し、それを反面教師のようにして近代化を遂げて来た。
しかし、想像してみたらいい。
今でも鎖国を続け、海外との交流を断ち、髷を結い、着物を着、農業人口が大半を占める場所としての日本が存在したとして、その<ガラパゴス化>した日本は果たして不幸せかどうか。
それを測る物差しは現代のどこにも存在しない。
そこは取り残された場所ではなく、独自の価値観を貫いている場所でしかないからだ。
ひとつ理解しなければいけないことは、今ある価値観は今の生活が作り出したものに過ぎないということ。
そんなものは絶対でもなんでもないということ。

僕は鎖国すべきだと言っているのではない。
今までの人類の欲望の方向性が、一元的な価値による<グローバル化>だとしたら、全く逆に、非−帝国主義の<世界総ガラパゴス化>という方向性を提示してもいいはずだ。
そこがどこであれ、<ここ>という場所は常に極地であり、何者にも侵略される謂れなどないのだから。
ゾウガメがミドリガメを羨ましがる必要などどこにもないのだ。


  2013年2月11日(月) 小川洋子の本を1冊読み終えたの東京
  愛国心とヤドカリ

僕にとって不思議な言葉のひとつが、<愛国心>という言葉。
この言葉のもと、多くの人が死に、多くの人が弾圧を受けた歴史が世界中の各地であるのにも関わらず、今でも多くの人がこの言葉を当然のように口にする。
ある種の魔力を持った言葉である。

この言葉に対しては、いろんな角度で批判できる。
今回は、ひとつの角度として、ヤドカリに喩えてみようと思う。

ヤドカリにとって、本質であり、重要なものは、ヤドカリという生物本体である。
決して、彼(彼女)が宿っている貝殻ではない。
その貝殻がどれだけ美しく、どれだけ居心地がよく、どれだけ愛着があるものだったとしても。
確かに、ヤドカリは貝殻によって守られている。
しかし、貝殻のないヤドカリがどんなに無様でも、どんなに無防備でも、貝殻を守るために自分の命を捨てるなどというのは本末転倒である。
見誤ってはいけないのは、そこだ。

巨大で頑丈な貝殻の中に、大量のヤドカリが宿を借りている状況を想像してみる。
そのヤドカリたちがその貝殻の中で生まれ育ったとしたら、自分たちは貝殻と一体なのではないかという錯覚さえ感じるかもしれない。
しかし、ヤドカリという生物と貝殻は、どこまで行っても全く別個のものなのだ。
その貝殻を抜け出し、別の貝殻に移るもよし、貝殻のない裸のヤドカリとして生きるもよし、勿論元の貝殻の中でその命を全うするもよし。

思想信条を議論するのではなく、こんな風に単純に考えてみてはどうだろうか。


  2013年1月25日(金) 寄生虫に関する興味深い記事を読んだの東京
  「発言を撤回する」

政治家は、時に完全にイカレた言語感覚を発動する。
しかも、それが何人もの政治家に共通して見受けられることがあるのは、政治家になる人間というのがそもそもイカレているのか、政治家になってしまうとイカレてしまうのか。
それは定かではないが、最近立て続けに使われた言葉で気になったのが「発言を撤回する」という言葉。

これはそもそも「前言を撤回する」という形で使われる常套句である。
しかし、この常套句は、前言であろうと、発言であろうと、言葉というものは一旦発した限り<撤回>など出来ない性質のものであるという理解を欠いている。

「発言当時に自分に事実誤認があったので訂正する」ということは出来る。
ここで出来るのは、発言を撤回することではなく、事実を正確に伝え直すことと、そして発言時における軽率さを謝罪することだけである。
「発言における語法を間違えたので、適切な表現に差し替える」ということも出来る。
これは、自分の言語能力の稚拙さ故に、誤解や曲解を招いたことを修正するということであり、これも発言そのものを撤回できる訳ではない。
絶対的に理解されなければならないのは、発した言葉は決してなかったことになどできないということだ。

政治家に限らず、発表したブログを削除したり、ツイートを削除したり(一括削除する<黒歴史クリーナー>(!?)というのがあるらしい)、アップした映像を消去したり、ネット社会において発言を物理的に消去できることが一見「発言を撤回」しているように見えたとしても、それは消去以降の永続性を終了させただけでしかない。
発言というのは、発した時点で一人以上の受け手がいる限り、後戻りも完全消去も出来ないものなのだ。
「発言を撤回する」という表現を平気で使う人間は、発言に対する責任は、後からいつでも回避できるという精神性を持っている人間である。
つまり、本質的に責任を取れない人間なのだ。

最近、麻生太郎と橋下徹が別々の場所で別々の事案について「発言を撤回する」と発言した。
背中が煤けてるぜ。


  2013年1月14日(月) 妹の誕生日の1日前の東京は大雪の東京
  水戸黄門の印籠としての<国益>

何かについて熟考する前に、直感的に引っ掛かる言葉というのが時々ある。
そのひとつが<国益>という言葉だ。

この言葉自体は昔からある言葉だが、ここ数年やたらと人口に膾炙するようになったと僕は感じている。
それは、現在、多くの人がこの言葉の力を信奉しているからなのだろうし、一面で言えば国家主義的思想が台頭しているということを意味しているのだろうし、この言葉の力が減殺されるほどに批判されていないからなのだろう。
しかし、水戸黄門の印籠のような役割を与えられながら、「この言葉にはひれ伏すしかないだろう」という空気を含みながら誰かの口に上る度に、僕は違和感以外覚えないと言ってもいい。

僕が思うに、<国益>という言葉を信奉している人には2種類ある。
ひとつは、国家というものを信奉している人で、<国益>という言葉を無批判に口にする人。
ひとつは、<国益>を重視することは、最終的にはその構成員である国民の利益にもなると考えている人。
このふたつの立場は、還元される場所が決定的に違い、それこそが右翼とか左翼ではない現代的対立点のひとつだと僕は思っている。
けれど、それでもなお、両者とも結局は小さな輪の中で堂々巡りする思想でしかないとも思う。
僕は勿論国家など信奉していない訳で、個人を重視するという意味では先ほどの後者の立場に似ているように思われるかもしれない。
しかし、僕は両者とも立場を異にする。

まず前提として、<国益>を考えるということは、国レベルでの他国との利害関係を現在の世界情勢の中で考えるということであり、それ自体が短期的な立場か長期的な立場か超長期的な立場かによっても簡単に左右される。
具体的な例として簡単に言えば、アメリカを重視した方がいいのか、東アジアを重視した方がいいのか、もっと広い世界的視野を持つべきなのか、はたまた国際化を否定して孤立主義を採るべきなのかによって、それぞれの利も不利もある。
だから、<国益>を語るすべての人の意見がまず一致する訳がない。
そう考えると、それぞれの立場によって利する人も入れば不利益を被る人もいる以上、<国益>が国民に還元されるという考えも即ち否定される。
たとえ最大多数に利益があっても、必ずそれから除外される人は出てくるのだから。

もう一点。
<国益>というのが、国というレベルでの利害を考える以上、そこには必然的に他国との利害関係が生じる。
一方で友好関係が生じれば、一方で対立関係や摩擦が生じる。
先程も書いたように、その関係が短期的なものであれ、長期的なものであれ。
そういう対立や摩擦を短絡的に解消しようとするものが戦争であり、中長期的に緩和しようとするものが平和外交である。
僕が思うに、この<国益>重視の思想を支持し続けている限り、どこかで国家間の均衡が大きく崩れた時に、戦争を含む武力衝突が起こりえる可能性を常に孕んでいるのが最大の問題なのだ。
<国益>を重視して戦争も辞さないという発想は、いつの時代も本末転倒でしかないということを明記しておきたい。
僕が直感的に引っ掛かったのもこの辺りかもしれない。

さて、僕の理想主義的想いを書く。
すべての思想は、国家から個人に還元されるのではなく、個人からその外(国家であれ、世界であれ)に反映されるべきもの。
以前にも書いたように、例えば日本国憲法の骨子は憲法第25条にあると僕は思っている。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」というその文章の主語を<すべての人間>と置き換えることによって、<国益>を超えた理想が見えてくると僕は思っている。

つまり、この国の構成員が最低限の生活を営む権利があるとするなら、すべての国家のすべての構成員、つまり人間であるすべての存在が、最低限の生活を営む権利があるとすべきであり、それは<国益>などというちっぽけな利害の向こう側にあるはず。
そして、<国益>の対立による国家間の対立によって、武力紛争や戦争や侵略や破壊が生じ、それによってどこかの国の人間の命が脅かされないことこそ、何がしかの利益よりも圧倒的に優先されるべきなのだ。

これを仮に、超個人主義的平和主義と呼んでもいい。
僕はそれしか信奉していない。
今まで書いてきたように、それは明らかに<国益>という思想と対立する思想であるとも言える。
つまり、僕はこの<国益>という水戸黄門の印籠にひれ伏さない者のひとりであるということだ。