「最後に訊きたいことがあるんですけど、いいですか?」
彼女がこの最後の場面で、ファンのみんなに一体何を訊きたいというのか、観客は声を潜めて待ち構えた。
勇気を振り絞るように一瞬の間をおいて、彼女はいつものはにかんだようなクシャっとした笑顔を見せた。
そして、早口でこう尋ねた。
「私は、SKE48に必要な存在になれてましたか?」
間髪入れず、客席からは「必要だよ」の大歓声。
それに続いて、「ありがとう」の声、声、声。
その声を聴いて、彼女は自分の泣き顔を花束で覆った。
これは5月31日に行われたSKE48・今出舞の卒業公演の最後の挨拶での一場面。
AKB48を始めとする48グループには、研究生という制度がある。
他の仕事で劇場公演に出演できない正規メンバーの代役というのが、彼女たちの主な役割である。
それは、彼女たちにとってファンの方々に名前や顔を覚えてもらうチャンスでもあり、いつか正規メンバーへ昇格するためのアピールの場でもある。
しかし、あくまでも代役であることに変わりはない。
正規メンバーが戻って来たら、その場所はいつでも明け渡さなければならない。
彼女たちに本当の意味でのポジションは存在しない。
そんな彼女たちが、「自分は本当に必要な存在なのか」と考えるのは無理もないことである。
今出舞は、SKE48の研究生として、1度も昇格することなく、2年半を過ごした。
その間に後輩たちが次々と昇格していくのを目の前で見てきた。
そんな彼女が、足の怪我と留学という理由で卒業公演を迎え、最後の最後に「私は、SKE48に必要な存在になれてましたか?」という質問をファンに投げかけた。
彼女は、MCも上手く、後輩への気配りも濃やかで、周りの状況を広く見渡せる視野も持っていて、ファンからも愛されている、とても頭がいい女性である。
そんな彼女が、恐らく会場にいる全員に「YES」と答えてもらえると分かっている状況で、敢えてこの質問を投げかけた意味を考えると、胸が痛くなる。
実際に、僕はその姿を観て号泣した。
誰かにとって、或いは何かの組織にとって、必要な存在であると認められること。
そのことが人生を支えることがある。
いや、そのことが人生の意味のほぼすべてだと感じている人もいる。
家族にとって、恋人にとって、生徒にとって、患者にとって、クラスにとって、チームにとって、職場にとって、教団にとって、国家にとって、等々。
その対象の規模は様々だろうけど、<必要とされている>ことを自分のアイデンティティーとさえ感じている人はきっと少なくないと思う。
ただ必要とされているということが重要なのか、それとも特定の<誰か>もしくは<何か>にとって必要とされていることが重要なのか、その人によって異なるだろう。
しかし、いずれにせよ、こういう精神の在り方は、時としてとても痛みを伴う。
今出舞は、卒業に当たって、初めて、そして敢えて、その痛みをファンや仲間の前に晒け出した。
それは、最後の最後に1度だけ、自分を甘やかすことを許した彼女の姿だったのだと僕は思う。
尋ねる前の、一瞬のはにかんだ笑顔の意味を僕はそう解釈している。
そして、分かり切っていた答えを実際に声として聞いたことで、彼女は2年半の苦しい日々をすべて美しい思い出へと昇華させ、卒業することが出来たのだと。
そんな彼女の姿を見て、自分自身のことを考えさせられた。
思えば僕は、敢えてそういう問いを発しないようにして生きてきた気がする。
自分が<誰か>或いは<何か>に必要とされるかどうかではなく、自分が<誰か>或いは<何か>を必要としているということがすべてだと考えるようにして。
それは、裏返してみれば、必要とされているかどうかという不確かな状況(いつ失うか、いつ変わるか、いつ裏切られるか、いつ飽きられるか、分からない状況)によって傷つきたくないという心理の表れなのかもしれない。
逆に、たとえ拒否されようが、疎ましく思われようが、いつまでも手に入らなかろうが、自分が<誰か>或いは<何か>を必要としているという想いを抱き続けるのは、自分だけの問題だから。
そう考えれば、僕はやはりとても臆病なのだろう。
そんなことを、今出舞の卒業公演を観て思った。
最後に、ひとこと。
卒業おめでとう。
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