just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2011年12月28日(水)整骨院で右肩の治療を始める
  議会制民主主義における選挙とは、競馬の馬券を買うようなもの

正しいとか正しくないとか判断する前に、僕にとって最初に何が一番大切かというと、違和感があるかどうか。
「何か違う」という直感的な手触りは、それだけでは何の説得力もないけれど、その違和感を掘り下げてみると案外辿り着くべき結論に向かっていることが多い。
僕とって民主主義に対して幼い頃から抱いていた違和感は、<選挙に行きましょう>というマスコミの喧伝と選挙結果に対するお祭り騒ぎ。
昔はその違和感の暗示するものが理解できなかったけれど、ある時期からおぼろげな形を示すようにはなってきた。
この喧騒は、何かを見落とさせているんじゃないか、もっと言えば、何かを覆い隠しているんじゃないか、と。
民主主義そのものの是非を今は保留しつつ、議会制民主主義を批判してみる。

結論から書く。
民主主義の本質とは、政治の委託を断固として拒否し、国民(市民)が政治の実質的決定権を握ることである。
そういう意味で、21世紀における最大の政治的対立点は、<議会制民主主義対直接民主制>であるべきだということ。

冒頭に掲げた題名の意味を示す一番顕著な例を挙げるなら、それはアメリカ大統領選挙である。
この選挙は、アメリカ市民の政治的不平不満をガス抜きする為のお祭りだとよく言われる。
よく観れば、これはまさに競馬のダービーと同じ構造だと気付く。

ダービーは、少しずつ勝ち上がって実績を重ねてきたサラブレッドたちが、幾つかの前哨戦のレースで振り落とされ、最終的な栄冠を目指すもの。
そのひとつずつのレースに賭けながら一喜一憂し、馬券を当てても外しても、最終的には栄冠を掴んだ馬を歓喜の声で迎えるのが競馬ファンである大衆だ。
大統領選でも、小さな地区の選挙から始まり、民主党と共和党の両党の候補を選ぶ選挙を経て、最終的に両党の候補がぶつかり合う。
その過程で、市民は自分たちの手で民主主義を体感したような気になり、自分たちで何らかの政治的決定をしたような気になる。
興奮の中で感じたそれらのことは、しかしながら、ただの錯覚である。

言うまでもなく、競馬は賭け事である。
<賭け>というのは、自分の運命を自分以外の対象に委託する方法である。
その過程で、どれだけ深い分析をしようと、どれだけ熱烈に一身を託そうと。
実は、議会制民主主義における選挙というものも、それが議員を選出するものであれ首長を選出するものであれ、結局は<賭け>でしかないのだ。
競走馬がレースで期待通りに走るかどうかなんて分からないように、議員や首長や大統領が自分たちの思い通りの政治をするとは限らない。
選挙が終わった後で、やっぱりこちらを選ぶべきじゃなかったとか、政治家はダメだというのは、競馬で自分で馬券を買いながら、外れたレースの後であれこれと愚痴をこぼすのと同じだ。
それでもそれを「よし」とするのは、自分で走ることを放棄して馬を走らせて歓ぶ者たちの怠慢である。

本質的な意味で政治形態を問題にするなら、王様であれ、独裁者であれ、貴族サークルであれ、大統領であれ、議員であれ、誰かにその最終的政治的決定権を委ねるという意味では同じである。
つまり、議会制民主主義というものは、大いに宣伝され、大いに教育され、普及していく中で、民主主義という政治形態の代表のように扱われているけれど、実態は本質的な意味での民主主義とは程遠いものなのだ。

歴史的過程としての<今>に存在しながらはっきりと言えることは、世界においてまだ<民主主義>は成立していないということだ。


  2011年11月13日(日)2年連続のスノーフェアリーのすんごい末脚
  LIZ LISA

最初に宣言しておくけど、今日は深いことは一切書かない。
最近ただ本当に気になったことを書く。

LIZ LISAという女性のファッションブランドがあるらしい。
<あるらしい>というのは、実際にそのショップに行ったこともないし、その服を着ている女性を実際に見たこともない(見たことはあったとしても、分からない)から。
それなのに何故このブランドが気になっているかというと、僕が好きなAKB48やNMB48のメンバーのブログを読んでいると、握手会等で着ていた服のブランド名がよく書かれていて、その<LIZ LISA>の頻度が異常に高いからだ。

僕は基本的にファッションのブランド名に興味がない。
男性ファッションのブランドはかつてちょっとだけ勉強したことがあったが、女性のブランドはほとんど知らない。
「なんでこんな服を着る人がおるんやろ」と思って、かつてPINK HOUSE(森尾由美がよく着ていた)というブランド名を覚えたことがあっただけ。
だから、何かの機会にブランド名を聞くことがあっても、一切記憶に留まらず聞き流すだけだった。
こんな僕でさえ、このブランド名は覚えてしまった。
それ位頻繁にこの名前を目にするからだ。

それで、LIZ LISAのことをネットで調べてみた。
服そのものに関して言えば、かつてのPINK HOUSEほどではないものの、メルヘン感を漂わせつつ、今風に言えばガーリーなデザインの服が多い。
確かに、いかにも10代のアイドルの女の子が着そうな服だ。
渋谷109にも店舗があるこのショップは、元々そういう少女たちが好む服であったのだろうけれど、こうして人気アイドルが実際に着てブログに登場することによって、相乗効果で更に人気のブランドになっているのだろうということは容易に想像が出来る。

もうひとつ、興味深い情報を得た。
LIZ LISAでは、販促の戦術として<香り>を導入しているということ。
ブランドイメージのバラをモチーフにした香りらしく、ローズを中心にゼラニウムやグレープフルーツなど数種類をブレンドした、100%天然素材のいわゆるアロマの香りを店舗の空間演出として使っているらしい。
香りというのは直接脳の情動的な部分に働きかけるから、ブランドイメージを本能の部分にインプットさせる効果があるのかもしれない。
この香りのリネンウォーター(アロマウォーター)やアロマキャンドルも売り出しているというから、その香りによるリピーター増加の相乗効果もあるのだろう。
これまでもこういう手法はあったのかもしれないが、このLIZ LISAの成功によって<香り>をブランドイメージとして取り入れる業種は増えるんじゃないかと思う。

それにしても、学ぶキッカケは何処にあるのか分からないとつくづく思った。


  2011年10月28日(金)ソフトボール部からプロ野球へ
  入試問題から紙幣の肖像画について考える

今朝、電車の中で広告を見ていた。
いつも張ってある日能研の広告が目に付いた。
いつも中学入試問題を掲載している広告。
今回は社会の問題だった。

まず、肖像画の部分が空白になった千円札の絵が示されている。
そして、問題の前段階として、ある少女が現在の肖像画のモデルである野口英世の生家を訪ねて、彼の人物像に触れ、「こういう人だからこそ、現在、1000円札に肖像が印刷されているのだなあと改めて感じた」と書かれている。
で、問題。
上記のことをふまえて、あなたが千円札の肖像を選ぶとしたら、日本の歴史上の人物で誰を選ぶか、理由も説明せよ(ただし、現在お札に肖像が使われている人物は除く)、という問題。
ちょっと面白い問題だなと思った。
いろんな意味で。

まず、中学受験をするということは小学六年生(ちなみに、これは2011年の捜真女学校中学部の試験問題)。
彼らは誰を歴史上の人物の中から選ぶのだろう。
日本人全体で同じ設問があったとしたら、坂本龍馬あたりが一番人気になるのかな。
それともずっと遡って、織田信長とか。
僕が選ぶとしたら誰かと考えてたけど、結局全く思い付かなかった。
今も全く思い付かない
<お札の肖像に相応しい>という条件があまりにも難し過ぎる。

僕が仮に受験で実際にこの問題を与えられたら、合格するために恐らく無難な答えを書くと思う。
他の受験生たちと同じ様に。
しかし、もしもこの設問に対して以下のように書いたらどうなるのだろうか。
「答え・該当者なし。何故なら、歴史上の人物を紙幣の肖像に使うこと自体がナンセンスだから。肖像が使われることによって、あたかもその人物がそのお札の金額の価値でしかないような印象さえ与えかねないし、そもそも紙幣に肖像画が必要かどうかも疑問である」
こういう回答をしたら、0点なのだろうか。
設問に対してきちんと解答してないという意味で点数はもらえないのかな。
それとも、斬新な切り口として何点かはくれるのか。
それ以前に、こんな発想をする奴はうちの学校には要らないと思われるだろうか。
もしくは、実際にこういう回答をする受験生は何人かいるだろうか。

今回、この問題に触れて改めて思ったのは、もはやお札に肖像画は要らないんじゃないか、ということ。
恐らく、偽造防止と金額を人物で認識する分かりやすさのために肖像画があり、更にかつてはその人物の歴史的価値付けという効果も狙いとしてあったと思う。
ちなみに、僕が子供の頃はまだ百円札が流通していて、今思えばちょっと不思議な人選だが、その肖像画は板垣退助だった。
更にちなみに、百円札の肖像画は板垣退助の前は聖徳太子で、その前は藤原鎌足という不思議な変遷を見せている。
かつての五百円札の岩倉具視や千円札の伊藤博文などという、いわゆる明治維新の元勲の肖像を起用していたのも、国家としての歴史的評価を紙幣に込めるという意図があったはず。
けれど、現代において人物の歴史的評価を紙幣の肖像画という形で表現するのはかなり難しいし、もはや必要ない気がする。
単純に、建物でも動物でも自然でも、図柄はもっと一般化されていいのではないか。

いずれにしても、そういうことまで考えさせてくれたという意味で、これはすごくいい問題だと思う。


  2011年10月4日(火)シンボリルドルフ死してカツラギエースを想う
  加害者としてのツイッター〜知る権利よりも知られない権利を〜

先日の「ナインティナインのオールナイトニッポン」で、岡村隆史と矢部浩之が別々の場所で経験した共通の体験について語っていた。
それは、プライベートで過ごしている時に、すぐ近くにいる一般人にツイートされていたという体験だ。
様子がおかしいので検索してみたら、すぐに分かったという。
「〇〇に岡村がいる」、「〇〇で矢部が××している」と書かれていたらしい。
両者ともその体験を「気持ち悪い」と語っていたが、それは既に「気持ち悪い」を超えたレベルにあると僕は思う。

これは何十年も前から思っていることだが、芸能人やプロスポーツ選手や政治家やその他の著名人を含めて、公的な場所(芸能人ならステージやスタジオ、政治家なら議事堂や講演会場や選挙演説中、スポーツ選手なら各種競技場など)以外の場所では、あらゆる撮影やあらゆる取材やあらゆる情報の取得と報道は禁じられるべきだと思う。
公的な場所ではその言動に責任を負うべきだが、それが犯罪行為でない限り、プライベートに関してはすべての人が守られるべきだ。
よく欧米は文化が進んでいるなどという勘違い発言をする人がいるけれど、パパラッチを厳罰化できない(する意志がない)国家など、文化水準はかなり低いと言うべきだ。

報道の自由や言論の自由よりも、個人の生活が守られることが優先されるべきであるというのが正論でないなら、あらゆる人は覗き魔の対象にされてしまう。
守られるべきはまず個人であるというのは基本中の基本だ。
松本サリン事件の被害者を加害者扱いした例を出すまでもなく、報道の自由などという名のもとに現実に被害を受けている人は沢山いるのだ。
マスコミはプライバシーを侵しながら平然と処罰の対象外のような顔をしているのも問題だし、個人情報保護法における適用除外も問題だ。

個人情報保護法で守られるのはデータベースとしての個人情報だが、更に踏み込んで、個人の位置情報、言動に関する情報も守られるべきだと僕は思う。
<今、誰が、何処にいる>という情報や、私的に<誰が、何について、どう言ったか>という情報が、何故開示されてよいのか。
本人がそれを公開しているかどうかという意志がまず尊重されるべきだ。
そういう情報が、ネット上やマスコミの紙面(誌面)に掲載されることが、個人の生活を侵害していることにならない訳がない。
それらを、<知る権利>に対して<知られない権利>として、もっと明確に認知させるべきだ。

話は最初に戻る。
ツイッターの怖さは、その手軽さである。
手軽であるが故に、他人の個人情報を簡単に流失させてしまいながら、自分がその加害者であることに無自覚・無反省でいられるのだ。
僕が以前から提唱している<道具論>(簡単に言えば、道具が人間の行動を規定すること)の通り、あるから使ってしまう典型的な悪例のひとつだ。
「だから、ツイッターを禁止すべき」とは言わない(禁止しても構わないが)。
それはツイッターに有用性があるからではなく、そういう表現方法もあって構わないからという消極的な理由による。
ツイッターであろうがブログであろうが、本人以外が私的情報を無許可で発信した場合、厳罰に処せられるように法改正すべきだ。
加えて言うなら、最近頻繁に見られる、悪意を持ってネット上に個人情報を流出させる行為等は、今すぐ最上級の厳罰を与えるように法改正すべきである。