正しいとか正しくないとか判断する前に、僕にとって最初に何が一番大切かというと、違和感があるかどうか。
「何か違う」という直感的な手触りは、それだけでは何の説得力もないけれど、その違和感を掘り下げてみると案外辿り着くべき結論に向かっていることが多い。
僕とって民主主義に対して幼い頃から抱いていた違和感は、<選挙に行きましょう>というマスコミの喧伝と選挙結果に対するお祭り騒ぎ。
昔はその違和感の暗示するものが理解できなかったけれど、ある時期からおぼろげな形を示すようにはなってきた。
この喧騒は、何かを見落とさせているんじゃないか、もっと言えば、何かを覆い隠しているんじゃないか、と。
民主主義そのものの是非を今は保留しつつ、議会制民主主義を批判してみる。
結論から書く。
民主主義の本質とは、政治の委託を断固として拒否し、国民(市民)が政治の実質的決定権を握ることである。
そういう意味で、21世紀における最大の政治的対立点は、<議会制民主主義対直接民主制>であるべきだということ。
冒頭に掲げた題名の意味を示す一番顕著な例を挙げるなら、それはアメリカ大統領選挙である。
この選挙は、アメリカ市民の政治的不平不満をガス抜きする為のお祭りだとよく言われる。
よく観れば、これはまさに競馬のダービーと同じ構造だと気付く。
ダービーは、少しずつ勝ち上がって実績を重ねてきたサラブレッドたちが、幾つかの前哨戦のレースで振り落とされ、最終的な栄冠を目指すもの。
そのひとつずつのレースに賭けながら一喜一憂し、馬券を当てても外しても、最終的には栄冠を掴んだ馬を歓喜の声で迎えるのが競馬ファンである大衆だ。
大統領選でも、小さな地区の選挙から始まり、民主党と共和党の両党の候補を選ぶ選挙を経て、最終的に両党の候補がぶつかり合う。
その過程で、市民は自分たちの手で民主主義を体感したような気になり、自分たちで何らかの政治的決定をしたような気になる。
興奮の中で感じたそれらのことは、しかしながら、ただの錯覚である。
言うまでもなく、競馬は賭け事である。
<賭け>というのは、自分の運命を自分以外の対象に委託する方法である。
その過程で、どれだけ深い分析をしようと、どれだけ熱烈に一身を託そうと。
実は、議会制民主主義における選挙というものも、それが議員を選出するものであれ首長を選出するものであれ、結局は<賭け>でしかないのだ。
競走馬がレースで期待通りに走るかどうかなんて分からないように、議員や首長や大統領が自分たちの思い通りの政治をするとは限らない。
選挙が終わった後で、やっぱりこちらを選ぶべきじゃなかったとか、政治家はダメだというのは、競馬で自分で馬券を買いながら、外れたレースの後であれこれと愚痴をこぼすのと同じだ。
それでもそれを「よし」とするのは、自分で走ることを放棄して馬を走らせて歓ぶ者たちの怠慢である。
本質的な意味で政治形態を問題にするなら、王様であれ、独裁者であれ、貴族サークルであれ、大統領であれ、議員であれ、誰かにその最終的政治的決定権を委ねるという意味では同じである。
つまり、議会制民主主義というものは、大いに宣伝され、大いに教育され、普及していく中で、民主主義という政治形態の代表のように扱われているけれど、実態は本質的な意味での民主主義とは程遠いものなのだ。
歴史的過程としての<今>に存在しながらはっきりと言えることは、世界においてまだ<民主主義>は成立していないということだ。
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