just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2011年5月2日(月)久し振りにカレーに生卵を入れて食べた
  それは<風評被害>ではない

このことについては、先日<しゃべるんや(仮々)>にも書いたが、放射線の影響を受けた農産物等に対して相変わらず誤用され続けているので、ここにまとめて書き留めておくことにする。

まず<風評被害>とは何か。
現実とは異なる噂や噂の波及効果によって、いわれなく(この点が大切!)回避や拒否する者が増えたために被害が発生する現象をいうのだと僕は定義する。

かつて、学校給食におけるO−157の集団感染で死者が出た時、「カイワレが疑われる」との厚生省の発表により、一時カイワレ大根がスーパーの店頭から消えるという騒ぎがあった。
結果的には、あの感染の原因は特定されなかった(もしくは、特定されていたかもしれないけれど公表されなかった)。
少なくとも、あの時点でカイワレを出荷した農家ならいざ知らず、他の農家のカイワレとO−157とは直接的な関係性がない。
にも関わらず、他の農家も被害を被ったということで、これはまさに<風評被害>の典型である。

ここで大切なのは、あの当時、厚生大臣であった菅直人がカイワレを食べて安全性をアピールしたことと、今回、鹿野農水大臣がホウレンソウを食べて安全性をアピールしことでは意味が全然違うことを理解しなければいけないということ。

少なくとも、現在の福島や茨城に完全に安全なホウレンソウなど存在しない。
放射線量に多少の差があるだけ。
鹿野農水大臣が食べたホウレンソウも勿論安全ではない。
ただ、O−157のように急激にそして劇的に症状に表れないというだけのこと。
だから、彼は食べて<偽りの安全>をアピールすることが出来ただけのことなのだ。

食品の安全基準というのがある。
それは、暫定的に安全の指標として存在している。
そう、こんなものは常に暫定値でしかない。
生物は元来いくばくかの毒素を持っていたり、発がん性を持っていたりする。
だから、食べるということは、そもそも栄養を得ていると同時に毒も喰らっているということなのだ。
更に、現代では農薬や着色料や保存料を食物とともに日々摂取している。
だから、完全に安全な食物など存在していないという理屈も存在する。
と同時に、その影響の表れ方にも個人差が確実にある。
ただ、ある程度は許容して食べなければ生きていけないから、そこに安全基準などという不可思議な尺度が登場することになる。

しかし、その安全基準にしたところで疑問なのだ。
まず、現在問題になっている放射線は、わざわざ食物を通して体内に入れる必要の全くないものであるということを忘れてはいけない。
そもそも許容して食べるべきものではないのだから。
だから、今言われている食物における放射線の安全基準というものも、その原初からしてナンセンスなのだ。
発がん確率がどれだけ上がるから問題だとか、煙草の副流煙(路上喫煙による副流煙には厳罰を!)に比べて影響はどちらが大きいとか、そんなことは第二義的な問題なのだ。
食物を通して摂取する放射線の安全基準などは、本来存在してはいけないものなのだ。

<風評被害>と生産者や政府(地方自治体)やマスコミは言う。
違うのだ。
安全ではないものを選ばないというのは、正確な回避行動である。
農作物が微量であろうと放射線を浴びている限り、それは<風評被害>の問題ではなく、原発事故による直接的な<被害>の問題なのだ。
生産者が被害者であり続けているのと同時に、消費者も被害者であり続けているのだ。
これを間違えてはいけない。
もしも、西日本で生産された食物で日本中の食卓を賄えるなら、東電が東日本のすべての農家の農作物に対して損害賠償を支払い、西日本の食物を食べればいいと僕は思っている。
それが現実的に不可能だから、暫定的にある程度安全ではない農作物を食べて生きていかなくてはいけないということだ。

「安全ですよ」とアピールしながら、福島や茨城などの農家からの野菜を東京で直売している映像を何度か見た。
僕は問いたい。
あなたが言う<安全>とは何か。
安全基準値を下回っているから<安全>な訳ではない。
被害を被害として捉え、ちゃんとそれだけの賠償責任を問うべきなのだ。

安全基準値を超えていると知りつつホウレンソウを売っていた農家もあった。
恐らく当面の金のためだろう。
そういうことがあると、他にもあるかも知れないと思わせてしまう。
彼らが産むものこそが<風評被害>なのだ。

今回は農作物のことだけを書いたが、他の業種においても、<福島から来た人から放射能が感染する>などといういわれなき差別(この差別は徹底的に糾弾して法で裁かれるべき)を除いては、ほとんどが<風評被害>ではなく<被害>そのものであるということを最後に記しておく。


  2011年3月30日(水)マスクを二重にして屋外作業
  <自粛を呼び掛ける>ことの怖さ

東日本大震災の発生以後、<自粛>という言葉を頻繁に目にする(耳にする)。
その度に、この言葉のその脅威の拡散を感じている。

<自粛>という言葉を字義通りに捉えると、<自ら粛(つつし)む>ということ。
行動や言動を自分の意思で控えるようにすることを意味する。
ここで大切なのは、誰かが強制するのではなく、<自ら>粛むということだ。

現在の状況下で、<自粛>は大きく分けると3通りあるように見える。
ひとつは、文字通り<自粛する>ということ。
もうひとつは、漠然と広がっている<自粛ムード>。
そして、もうひとつは、本来の意味から完全にかけ離れた<自粛を呼び掛ける>ということ。
どう考えても、まっとうなのは1番目しかない。
あとの二つは、全体主義の危険性を孕んでいる。
というか、既に全体主義的思想そのものである。
僕はこの状況にかなりの脅威を感じている。

僕が日頃からキチガイと呼んでいる石原慎太郎の今年の花見についての発言をここで引用する。

「今ごろ、花見じゃない。同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感が出来てくる」

「(太平洋)戦争の時はみんな自分を抑え、こらえた。戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しい」

この発言を見ただけで、彼がキチガイだとすぐに分かる。
まず、花見をするかどうかと痛みを分かち合うことは全く無関係であることぐらい、小学生でも分かる。
そして、まさにこれがポイントなのだが、あの戦争の時、多くの人たちは<自分を抑え、こらえた>のではなく、自分を抑えさせられ、こらえさせられたのだ。
この部分を理解していなければ、ものごとの本質を決定的に見失ってしまう。
更に言うなら、連帯感も強要されるものではない。

一番大切なことを書く。
それは、人はそれぞれだということだ。
花見をしながら痛飲するという痛みの分かち合い方だってある。
ドンチャン騒ぎをして死を弔うこともある。
それを傍から見たら、無神経だと映るかもしれないし、非常識と映るかもしれない。
誰も他人の本当の心のうちなど分からない。

別の角度で言えば、人は震災だけで死ぬのではない。
震災だけで苦しむのでもない。
日々の派遣切りを、日々の児童虐待を、日々の交通事故を、悼むために<自粛する>必要はないのか?
何度も繰り返すけれど、<自粛>とは<自ら粛む>ことであり、花見をするような気分ではない人だけが花見をしなければいいし、音楽を聴くような気にならない人は音楽を聴かなければいい。
ただそれだけのことだ。

あの戦争の時代にも、<自粛ムード>の蔓延があり、それが<自粛の呼び掛け>以上の<自粛の強要>へと繋がっていった。
<自粛>を呼び掛けるということが、言葉そのものに矛盾を孕んでいることさえ気付かない者たちこそが、全体主義の中で多くの命を奪っていった者たちと通底している。

僕は「自粛するな」と言っているのではない。
自分で考えて、今やるべきこととやるべきでないことを見極めればいい。
僕が言いたいのは、<自粛呼び掛ける>者たちをきちんと拒むべきだということ。
<自粛ムード>に流され、<自粛ムード>を作り上げている者たちをきちんと拒むべきだということ。
少なくともそういう奴らとは連帯する必要などない。

個々の心の中にあるものが同じならば、離れていても、表現方法が違っていても、既に繋がっているのだ。


  2011年2月10日(木)雪に備えて非常食を買い込む
  反著作権

様々な権利が法律で保護されいてる。
自分たちが生まれる前から存在する権利は、まるでそれが疑う余地がなくに認められているように感じてしまいがちである。
しかし、権利などというものは、ある集団(ムラでも教団でも国家でもいい)がその集団の構成員にとって都合がいいから保障しようとしているものに過ぎない。

本題から外れて、代表的な権利で言うなら、<基本的人権>というものがある。
「人は生まれながらにして、自由・平等である」というのはひとつの近代思想にしか過ぎないのであって、それが集団の多くの構成員にとって有益だから認められているだけのことである。
これは、<基本的(fundamental)>などという言葉によって塗装されているから本質が見えにくくなっているのだ。
生まれ落ちた丸裸のひとつの命が、宇宙の一点で何かの権利を初めから所有している訳ではない。
ちょっと考えれば簡単に分かることだ。

このことを踏まえた上で、僕は<著作権>というのは必要ないと思う。
もっと正確に言うなら、<著作権>が行使される社会自体が根本的に間違っていると思う。

まず、<著作権>の思想的な問題点。
例えば、モーツァルトが生み出したメロディーの著作権はモーツァルトにあるという。
確かに、そのメロディーを思いついたのはモーツァルトだろう。
しかし、音楽そのものを生み出したのはモーツァルトではない。
それは人類が総体として生み出したものである。
何か独創的な(或いは、独創的に見える)ものを個人が生み出したとしても、それは総体としての人類が生み出したものに過ぎないと考えるべきではないだろうか。
ダ・ヴィンチの絵もドストエフスキーの小説も。
著作者としての表示は与えられても構わないけれど、それを権利としてしまうのは文化というものを閉塞的に捉えているように思える。

そして、これが恐らく<著作権>がこんなにも広く流布されている最も大きな原因であり、最大の問題点であるのだが、それは<著作権>が財産権であり、つまり金の問題であるという点。
そもそも、ほとんどの人間がこのことを問題としてきたのだ。
つまり、誰かが生み出した独創的(或いは、独創的に見える)言葉や音楽や映像の複製によって儲けられるから、<著作権>などという、僕から見ればいかがわしい権利が主張されるようになったのだ。
言葉は発した瞬間、音楽は演奏した瞬間、映像は放映(上映)した瞬間だけ、その労働の対価としての報酬を受けられるようにすればいいのだ。
そうすれば、無意味な巨大音楽産業もなくなり、音楽はライヴと無料の複製コンテンツが中心になるだろうし、作家というのは特定の出版社との結び付きを失い、言葉を発するすべての人間の作品が共有されるようになるだろう。
つまり、僕が言いたいのは、そもそも<権利>が金儲けと癒着するべきではないとうことだ。

<特権化>や<独占>というのは資本主義の常套手段だ。
そうやって資本主義は、実体のない様々な金儲けの手口を編み出してきた。
そして、金を儲ける方法が多様であることは素晴らしいことだと啓蒙してきた。
しかし、<著作権>などというものは、株の売買と同じように、生き物としての人間の本質から完全に遊離した、人類の悪知恵でしかないと僕は思う。

太り過ぎた豚は、生きることではなく、ある時から太ることを目的に変えてしまったのだ。
美味しいと思っているうちは、やめないのだろう。


  2011年1月3日(月)映画「ノルウェイの森」を観た(2回目)
  峯岸みなみの底力

AKB48は人材の宝庫と言っても過言ではない。
その中でも、峯岸みなみは群を抜いてしゃべりの才能があるし、トーク力だけで言えば、テレビやラジオでMCとして活躍しいる人たちに引けを取らない力を持っていると僕は思う。
彼女が番組(特にラジオ番組)を仕切っているを聴いていると、おしゃべりなのとトーク力があるのとのははっきり違うということが分かる。
「AKB48のオールナイトニッポン」で彼女が出演する回は絶対に外れがないし、先日放送された「ノースリーブスのオールナイトニッポン」でもその実力を見せつけた。

しゃべりが上手い人は幾つかの特長を併せ持っている人である。
テンションの高さ(或いは、敢えて低さ)、テンポのよさ、滑舌のよさ、間の取り方の上手さ、発想の斬新さ、話の内容自体の面白さ、声のよさ、切り返しの上手さ、話の切りどころのタイミングのよさ、等々。
峯岸みなみは、それらのほとんどを持ち合わせているだけでなく、会話を<ドライヴ>させる技術に長けている。

たとえば、峯岸みなみが誰かと会話しているとする。
彼女は、相手が喋ったことの中で、捨てるべき部分と拾うべき部分を瞬時に判断して、自分が拾った部分には責任を持って自分の味付けをして再び送り出す。
それによって第三者である聴き手は、会話の要点を掴むことが出来るし、別な視点(ここでは峯岸みなみの視点)から相手の話を捉えなおすことが出来る。
その取捨選択、味付けのバリエーションこそが会話の個性でもあるし、これはセンスと経験の問題である。

会話はキャッチボールだと言う。
すごく技術の高いキャッチボールを観るのは確かに興味深いことではある。
ただ、それはやる側の技術も高く、観る側の目も肥えていいる場合に限られる。
たとえば、真正面に投げられた球をわざと無視して避けてみたり、急にバットを持ち出して打ち返してみたり、相手が投げているのにこちらからも投げてみたり、そういう変則的な動きをすることによって、キャッチボールという行為の幅が広がる。
それによって、相手が投げてきた力が10であったものを20へと変速させることも出来るし、1へと減速させることも出来る。
それが会話を<ドライヴ>させるということだ。
ただ、それを無闇やたらとやるのではなく、どの場面でちゃんと受け止めて投げ返すべきなのか、どの場面で敢えて暴投すべきなのかを判断できる力があるということが絶対条件であるし、自分の技術と相手への信頼も必要になる。
峯岸みなみは、それらの能力をすべて持ち合わせている。

余談になるが、近年のお笑いブームの影響で、一般人の中にも<ツッコミ>という文化がかなり浸透した。
そのせいで、「違うだろ」とか「何噛んでるんだよ」とか、そういう言葉を言えば<ツッコミ>が成立すると勘違いしている人がやたらと増えた。
同時に、何も面白くないことを言っておいて、「ツッコめよ」とか「そこはツッコむところだろ」とか言うヤカラもやたらと増えた。
<ツッコミ>というのは、相手にツッコむべき点が確実に存在することと、ツッコむ限りは必ず笑いに転嫁させるか、別の局面へと転換させるという責任感が必要なのだ。
そういう意識がなくてやっているのは、<ツッコミ>ではなくてただの<蛇足>だ。

話を戻す。
年齢で人の才能を量ってはいけないが、彼女はまだ18歳の現役女子高生である。
この若さの瞬発力があるからこそ凄いのか、はたまた末恐ろしいのかは分からないが、少なくとも現在18歳にして大舞台でこれだけのトーク力を発揮している人はほとんどいないと思う。
ただ、残念なことに彼女はAKB48の中ではその力を存分に発揮できているのに、異分野の人と絡むとまだその力を発揮し切れていない。
それは、彼女の力不足というよりも、彼女にそれだけの力があることが周知されていないため、相手が子供相手のキャッチボールしかしようとしていない点にもある。
彼女は勘が鋭いので、そういう空気を瞬時に読み、自分もそれに合わせたキャッチボールをしようとしてしまうのだ。
そこでもう一歩踏み込む勇気が、彼女には必要なのかもしれない。

もしかしたら、若干過大評価かもしれない。
ただ、女性のMCとして、上沼恵美子以降で最も可能性があると僕は思っている。
僕は峯岸みなみ推しではないが、それでも彼女の今後を見守っていきたいと思っている。