このことについては、先日<しゃべるんや(仮々)>にも書いたが、放射線の影響を受けた農産物等に対して相変わらず誤用され続けているので、ここにまとめて書き留めておくことにする。
まず<風評被害>とは何か。
現実とは異なる噂や噂の波及効果によって、いわれなく(この点が大切!)回避や拒否する者が増えたために被害が発生する現象をいうのだと僕は定義する。
かつて、学校給食におけるO−157の集団感染で死者が出た時、「カイワレが疑われる」との厚生省の発表により、一時カイワレ大根がスーパーの店頭から消えるという騒ぎがあった。
結果的には、あの感染の原因は特定されなかった(もしくは、特定されていたかもしれないけれど公表されなかった)。
少なくとも、あの時点でカイワレを出荷した農家ならいざ知らず、他の農家のカイワレとO−157とは直接的な関係性がない。
にも関わらず、他の農家も被害を被ったということで、これはまさに<風評被害>の典型である。
ここで大切なのは、あの当時、厚生大臣であった菅直人がカイワレを食べて安全性をアピールしたことと、今回、鹿野農水大臣がホウレンソウを食べて安全性をアピールしことでは意味が全然違うことを理解しなければいけないということ。
少なくとも、現在の福島や茨城に完全に安全なホウレンソウなど存在しない。
放射線量に多少の差があるだけ。
鹿野農水大臣が食べたホウレンソウも勿論安全ではない。
ただ、O−157のように急激にそして劇的に症状に表れないというだけのこと。
だから、彼は食べて<偽りの安全>をアピールすることが出来ただけのことなのだ。
食品の安全基準というのがある。
それは、暫定的に安全の指標として存在している。
そう、こんなものは常に暫定値でしかない。
生物は元来いくばくかの毒素を持っていたり、発がん性を持っていたりする。
だから、食べるということは、そもそも栄養を得ていると同時に毒も喰らっているということなのだ。
更に、現代では農薬や着色料や保存料を食物とともに日々摂取している。
だから、完全に安全な食物など存在していないという理屈も存在する。
と同時に、その影響の表れ方にも個人差が確実にある。
ただ、ある程度は許容して食べなければ生きていけないから、そこに安全基準などという不可思議な尺度が登場することになる。
しかし、その安全基準にしたところで疑問なのだ。
まず、現在問題になっている放射線は、わざわざ食物を通して体内に入れる必要の全くないものであるということを忘れてはいけない。
そもそも許容して食べるべきものではないのだから。
だから、今言われている食物における放射線の安全基準というものも、その原初からしてナンセンスなのだ。
発がん確率がどれだけ上がるから問題だとか、煙草の副流煙(路上喫煙による副流煙には厳罰を!)に比べて影響はどちらが大きいとか、そんなことは第二義的な問題なのだ。
食物を通して摂取する放射線の安全基準などは、本来存在してはいけないものなのだ。
<風評被害>と生産者や政府(地方自治体)やマスコミは言う。
違うのだ。
安全ではないものを選ばないというのは、正確な回避行動である。
農作物が微量であろうと放射線を浴びている限り、それは<風評被害>の問題ではなく、原発事故による直接的な<被害>の問題なのだ。
生産者が被害者であり続けているのと同時に、消費者も被害者であり続けているのだ。
これを間違えてはいけない。
もしも、西日本で生産された食物で日本中の食卓を賄えるなら、東電が東日本のすべての農家の農作物に対して損害賠償を支払い、西日本の食物を食べればいいと僕は思っている。
それが現実的に不可能だから、暫定的にある程度安全ではない農作物を食べて生きていかなくてはいけないということだ。
「安全ですよ」とアピールしながら、福島や茨城などの農家からの野菜を東京で直売している映像を何度か見た。
僕は問いたい。
あなたが言う<安全>とは何か。
安全基準値を下回っているから<安全>な訳ではない。
被害を被害として捉え、ちゃんとそれだけの賠償責任を問うべきなのだ。
安全基準値を超えていると知りつつホウレンソウを売っていた農家もあった。
恐らく当面の金のためだろう。
そういうことがあると、他にもあるかも知れないと思わせてしまう。
彼らが産むものこそが<風評被害>なのだ。
今回は農作物のことだけを書いたが、他の業種においても、<福島から来た人から放射能が感染する>などといういわれなき差別(この差別は徹底的に糾弾して法で裁かれるべき)を除いては、ほとんどが<風評被害>ではなく<被害>そのものであるということを最後に記しておく。
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