just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2010年11月28日(日)昨日近所のパチンコ屋に神谷明さんが来た
  <はやぶさ>の功罪

小惑星探査機<はやぶさ>が小惑星イトカワから帰還したニュースは、今夏大々的に報道され、<はやぶさ>は2010年の新語・流行語大賞にもノミネートされている。
遥かな宇宙の旅、満身創痍になりながらの任務遂行と帰還等がドラマチックに語られているし、イトカワから運ばれた微粒子の分析結果次第では、もっと大きな成果が確認されるかもしれない。
ここまで書くと、<はやぶさ>を巡る出来事はいいことしかないように思える。
だが、もう少し想像力を羽搏かせてみると、僕には恐怖が映る。

ここからは僕の想像。
もしも、イトカワの表面に空気がなくても生き続けられるウイルスのようなものが存在していたとする。
そして、そのウイルスは空気に触れると爆発的な勢いで増殖するとする。
そして、そのウイルスは人類を簡単に死滅させ、抗体もすぐには作れないとする。
だとすれば、イトカワから持ち帰ったほんの小さな微粒子が、人類の存亡に関わることになる。
これはあくまでも僕の想像の範疇だが、このプロジェクトを実行した人たちはここまで想像しているだろうか?

僕が述べたのはあまりにもSF的な想像だが、非現実的だとは思えない。
今後もっと科学技術が進歩していく中で、イトカワだけでなく他の小惑星や惑星等に探査機を送って、そこからなんらかの物質を地球へ運び込むことのリスクをどう考えているのだろうか?
類似的な例で言うなら、海外から生物を輸入して繁殖させてしまうことや海外からの貨物船の排水(バラスト水)に含まれる微生物や水生生物等による生態系の破壊の問題がある。
これが他の天体からの輸入(?)になるともっと深刻な問題だと僕には思える。
もちろん、この問題はアポロが月へ行った時から始まっているのだが。

この問題のもっと根源を探るなら、科学者は<もっと知りたい>や<本当のことを知りたい>という欲望を、その影響の大きさや多様性を考慮することを怠りながら肥大化させているし、技術者は<より精密に>や<より速く>や<より効果的に>等の一次的成果を貪欲に追い求め、それが二次的・三次的にもたらす影響まで考慮していない(ダイナマイトや飛行機の発明がその顕著な例)。
人類
というのは、科学・技術の発展を<是>とする以外にないのか、それとも暴走を始めた欲望(僕にはそう映る)を止める手段はないのか。
少なくとも現実に起きている問題に照らし合わせて、想像力を駆使して<未来を反省してみる>という作業は最低限必要なのではないかと思う。

追記として。
これを書く前にこの問題について熟考している時にふと気付いたこと。
リスクにばかり目を向けていたけど、逆に癌やHIVを撲滅することが出来るウイルスのようなものがそこから見つかる可能性もある。
ただ、それが短期的に見て有効であっても、長期的に見てどうなのかというのも考え出したらキリがない。
いずれにしても、手放しで喜んでばかりはいられないリスクの大きさについて目を向けてほしいというのが結論。


  2010年10月30日(土)台風は結局上陸せず
  30歳の前田敦子を想う

僕がAKB48にのめり込むようになったのは、2010年4月に「AKB48のオールナイトニッポン」が始まってから。
それ以前にも勿論存在としては知っていたけど、ラジオで彼女たちの声を聴くようになって興味が深まり、特にチームKの梅田彩佳の声としゃべりに魅かれて以来、毎日彼女たちの動向を追うファンになった。
結成が2005年だから、僕は新参のファンだと言える。
それで、過去に遡って様々な映像を観ていくうちに、ひとつすごく気になる場面に出会った。
それは、2009年のいわゆる第1回総選挙(AKB48 13thシングル選抜総選挙「神様に誓ってガチです」)で、1位になった時の前田敦子のステージ上でのコメント。
ちなみに彼女はAKB48の創設当初からのメンバー(初期メンバー)で、この時点でまだ17歳だったけれど、AKB48として既に3年半の月日を過ごしていた。
以下、僕が気になった部分を抜粋する。

「私はAKB48に自分の人生を捧げるというのを決めている」

これは恐ろしく重い言葉だと僕は思う。
僕が気になるのは、「人生を捧げる」という表現。
例えば、「すべてを捧げる」という表現なら、<私の命>というような重い意味だけでなく、<今出し切れるの全精力>という意味にも取れる。
しかし、「人生を捧げる」というのは、文字通りに捉えたら<死ぬまでやり続ける>という意味だけど、少なくともこれから長期間に亘って自分の精力を惜しみなく注ぐという意味である。
更には、「決めている」という表現も重い。
これは、何時の時点でかは分からないけれど、彼女はある種の<決心>もしくは<覚悟>したという声明である。

僕自身のこととして考えるなら、僕はフォークジャングルというコンサートを丸20年間続けてきた。
しかし、僕は「フォークジャングルに人生を捧げる」とは言えない自分がいるのが分かる。
フォークジャングルには愛着があるし、やめる気もないし、仲間たちも大切だと思いっているし、お客様たちにも勿論感謝している。
けれど、フォークジャングルは僕が生きていく上ですべてではないし、僕個人の事情だけで続けていくことも出来ない。
もしも僕に<すべてを捧げる>と言えるものがあるとしたら、それは<うた>である。
「本当に全精力を注いでいるのか」と訊かれたら、自分のぬるさを省みないではいられないが、少なくともこの道を志して以来ずっと<うた>とともに生きていく覚悟はしている。
話は戻るけれど、だからこそ前田敦子の「私はAKB48に自分の人生を捧げるというのを決めている」という言葉の重さを余計に感じるのだ。

しかし、所詮言葉は言葉である。
この言葉は映像として残り続けるけれど、彼女の気持ちも変わるかも分からないし、実はそんなに重い決心で語った言葉ではないのかもしれないし、17歳という年齢が語らせた言葉なのかもしれない。
そうだとしたら、僕は前田敦子という人はそれだけの人だと思うだけだ。
だから、僕は30歳の前田敦子を想う。
一生とは言わない。
彼女がいつかトップの座を後輩たちに譲ったとしても、それでもAKB48を支え続けて30歳を迎えたら、僕は彼女に最大の賛辞を送りたいと思う。
実は、前田敦子という人というよりも、渾身の決意を語った人を信じたいという想いが僕の中にあるのだ。


  2010年9月5日(日)プチダイエットは無駄なのか
  店内BGM

今朝、近所のなか卯で朝定食を食べていた時のこと。
店内のBGMがすごく気になった。
有線放送のいわゆるJ−POPのチャンネルだと思うが、長渕剛が「俺たち島人(しまんちゅ)は・・・」というような歌詞をうたっているうたが流れていた。
それはまさにうんざりするようなうただった。
僕は機嫌よく納豆定食を食べていたのだが、その朝食の味が一瞬にして味気なくなった。
流れてきてしまったものはもう仕方ないから、せめて僕が食べ終わるまでに三木道三の「Lifetime Respect」や槙原敬之の「どんなときも。」等が流れて来ないことを祈りながら、さっさと食べて店を出た。
もしかしたら、これは客を出来るだけ回転させるためにわざとうんざりするようなBGMを流しているのではないか、とさえ思った。

これは、僕の音楽の趣味がたまたまその店のBGMと合わなかっただけだとも言えるが、BGMに関して無頓着な店があまりにも多いように感じる。
これだけマーケティングについて様々な研究がされている中で、勿論店内BGMにつても研究されているはず。
それなのにも関わらず、適当なBGMが無駄に耳障りな音量で流れている大手チェーン店も多い。

少し話は逸れる。
僕が初めて店内BGMというものを意識したのは、恐らく小学生の頃だと思う。
それは、ミスタードーナツの店内にエンドレスで流れていた「こんにちは、ミスタードーナツ(ミスタードーナツ)♪」といううた。
今思えば、すごくあからさまな刷り込みではあるけれど、ここまであからさまだと逆に潔ささえ感じる。
これはこれでひとつの戦術として成立していると思う。

ジャズ喫茶やクラシック喫茶やロック喫茶など、初めから店内に流れている音楽が好きな人が集まる場所は勿論それでいいし、僕のバイト先の近くにあるラーメン屋は矢沢永吉しか流さないというポリシーでやっていて、そういう店も一度行ったら好き嫌いを選べるのでこれまた潔い。
そうでないならば、聴こえるか聴こえない程度の音でクラシックやジャズやイージーリスニングを流すという、いわゆる無難な選択をするというのもまたひとつのやり方。
けれど、僕が最もいいと思うBGMは、無音である。
人々のざわめき、食器の音や食事する音、あるいは調理する音など、その店そのものが醸し出す音が、最高のBGMになっている店こそが理想的な店だと僕は思う。

うたうたいである僕から敢えて言わせてもらうが、「No music,No life,No thank you」だ。
音楽が最高なのではない。
最高の音楽が最高なだけだ。
ちゃんと主張があって音楽を流しているのでないならば、音楽なんて要らない。


  2010年8月14日(土)蝉の泣き声の弱々しさを感じつつ
  セクシャル・マイノリティ

今日、東京・渋谷で<東京プライドパレード>というものが行われたらしい。
朝のラジオで、その準備の様子をレポートしているニュースが流れていた。
<東京プライドパレード>のホームページによると、それは<社会に向けて性的マイノリティの理解を広げていく活動>の一環として行われるパレードらしく、ニュースでもしきりに<セクシャル・マイノリティ>という言葉が繰り返されていた。

僕自身がゲイやレズビアンに対して本当の意味で理解があるのかどうかは自分でもよく分からないけれど、特別な嫌悪感がないことだけは事実だ。
けれど、<セクシャル・マイノリティ>という言葉は僕には引っ掛かる。
その他にも幾つか引っ掛かっている事象も含めて書いてみたい。

<セクシャル・マイノリティ>という言葉からみなさんは何を連想するだろうか。
<東京プライドパレード>では、恐らくゲイやレズビアンや性同一性障害の人たちやその支援者たちが中心になっていると思う。
それはそれでいい。
しかし、<セクシャル・マイノリティ>という言葉を広義に捉えると(というか、丁寧に捉えると)、児童偏愛者や近親愛者や死体偏愛者など、その性嗜好がマイノリティである人たちも含めて考えなくてはいけないと僕は思う。
というか、その人たちのことこそ考えなくてはならないと。

勿論、法的に様々な問題があるし、僕個人がそれを是としている訳ではないことを予め書いておくが、たとえば幼児にしか性欲を覚えない人は、現在、たとえそれが合意の上であれ、その欲望を満たそうとしたら犯罪者になるし、死んだ肉体にしか性的欲望を感じない人は、身近な誰かの死を待つか、自ら誰かを殺してからでないとその性的欲求を満たせない。
僕が思うのは、そういう嗜好を持つ人間の存在そのものをハナから否定してしまっては、この問題は語れないということ。
あらゆる形の性的欲望が存在する訳で、それをたまたま現実社会が犯罪と見做しているかどうかというだけの違い。
たとえば、もしもこの社会が<死んだ人に対してはどんな性行為を行っても罪になりません>と規定している社会だとしたら、そういう嗜好の人は犯罪者にならずに済む。
こういう犯罪スレスレ(もしくは犯罪そのもの)の<セクシャル・マイノリティ>の問題こそ、最も議論すべきことなのではないかと僕は思う。
同性愛に対する偏見や差別も大きな問題だが、こちらの方がよりハードな問題なのではないか。

ちょっと別の角度から。
同性の結婚について。
結婚という制度がそもそも何なのかという所まで踏み込むと複雑になるけれど、同性間の結婚を認めている国や地域もあるし、パートナーシップ制のような形で認めている国もある。
現在もアメリカなどは州によって法律が違うし、同性婚が違法であるとされている州も合法とされている州もあり、それについて裁判で争われているケースも少なくない。
そういう場合に法の下の平等とか、結婚に性別は関係ないとかいうけれど、それなら、年齢制限も含めてすべて取り払うべきではないのか。
少なくとも個人が自分の意思で結婚をしたいと思えば、3歳でも5歳でも結婚できるような制度にすべきだと思う。
そうではないというなら、結婚というものはオールドファッションな制度のひとつとして異性間で行われるものであり、同性間では結婚という制度が適用されなくても仕方ないような気がするが。

もうひとつ、別の角度から。
これは以前も述べたかもしれないけれど、僕は性同一性障害というものが大いに疑問なのだ。
この病気(?)が様々なストレスを自分自身に抱え込んだり、差別に苦しんだりするというのは分かる。
それは解決させるべき問題だとも思う。
ただ、根本的な治療(性の同一性を確立する)ことを本人が望まない場合、つまり病気(これが病気だとして)から治りたくないけれど、それに伴う諸状況だけ改善したいと願う場合、性同一性障害は本来的な意味で病気と言えるのだろうか。
逆に、本来の性を意識としても取り戻したいと願う人にとっては、薬物療法や脳の外科手術などを施せばいいし、それはやはり病気といえるのかもしれないが。
たとえば、自分が男性でも女性でもなく中性なのだという意識を持ってしまう性同一性障害を持ち、かつ治療を望まない場合、その相手に対してどう接すればいいのか、あるいはその人が現実社会の中で男女という性別を選ばずにどう生きていけばいいのかは、頗る難しい問題だとも思うが。

さて、以上の難問を放り出したまま話を戻す。
先程も述べたが、本来は犯罪スレスレ(あるいは犯罪そのもの)の<セクシャル・マイノリティ>でありながら、それを抱え込んで隠したまま生きている人も実は沢山いるんじゃないかと僕は想像している。
それは、性同一性障害の問題に近い難しさで存在しているような気がする。
単純に児童ポルノ禁止とかレイプものの映像の放映禁止とか、そうやって蓋をすることでは何も解決にならないし、恐らく現実の被害は食い止められないし、かつ彼らの<セクシャル・マイノリティ>としての位置付けも定かではないままだ。
現実的に犯罪は繰り返され、被害者も生まれ続けているのに、その根本的な解決については何も語られていない。

ルイ・ヴィトンのバッグを買って欲望が満たされる人は幸せだ。
ケータイをいじっていて欲望が満たされる人は幸せだ。
ソープランドに行って欲望が満たされる人は幸せだ。
しかし、決して満たされることのない根源的な欲求を抱え続けている人はどうすればいいのか。
犯罪者になる前に。
だからと言って犯罪を許してはいけないと簡単に人は言う。
当事者でない限り、言うのはいつでも簡単だ。
彼らに刑罰を与えるだけでは何の解決にもならない。
誤解を招くような言い方になるかもしれないが、そういう性的犯罪の被害者も加害者も含めて、大きな意味で、<セクシャル・マイノリティ>の問題に向き合わうことを避けている社会そのものの被害者なのではないかとさえ僕には思えるのだ。


  2010年8月9日(月)全裸でホットコーヒーを飲む真昼
  反敬老論

かつて上岡龍太郎が<男らしさ・女らしさ>についてこんなことを語っていた。
男は元来(いわゆる)男らしくないから「男らしくしろ」と言われ、女は元来(いわゆる)女らしくないから「女らしくしろ」と言われる、と。
もっともな意見だと思った。

<敬老>という言葉がある。
<老人を敬う(或いは敬え)>という意味。
問題は、何故わざわざそんな言葉が存在するかということ。
これは恐らく儒教思想に由来する言葉だと思うが、<美人を敬え>とか<金持ちを敬え>という言葉が存在しないのに<敬老>という言葉だけが存在するのは、逆説的に考えると、わざわざ「老人を敬え」と教育しなければ、多くの人は老人を敬わないということを意味するのだと思う。

街を歩いていても、うんざりするような老人は多い。
僕が見る限り、平気で路上喫煙をしているのは中高年が多いし、電車の座席に荷物を置いたり、列に割り込んだりするのも圧倒的に老人が多い。
店員に横柄な態度を取ったり、ややこしい注文を付けたりする老人も多い。
一体彼らの何処をどう敬えばいいと言うのか。

ちょっと回り道をする。

ほとんどの政治家が<老人福祉>という言葉を念仏のように繰り返す。
政党によっては、まるでその言葉が伝家の宝刀でもあるかのように振りかざす。
それが大切であることがまるで自明の事実でもみあるように。
しかし、果たしてそうなのか?

国民が最終的にどう選択するかはともかく、子供手当てを充実させるために老人福祉を切り捨てるという意見があってもいいはずだし、年金制度を廃止し、年齢に関係なく貧しいものには生活保護で対応するという考え方があってもいいはず。
しかし、政治家の口からはまずそんな言葉は発せられない。
ひとつは、現実的に選挙権を持っている者の多くが老人であり、その層からの得票を失いたくないため。
ひとつは、<老人福祉>という言葉が他の世代にとっても耳障りがよく、かつ<敬老>精神が広く教育されている中で若年層も反対しにくい表現であるため。
そんな状況の中で、<老人福祉>というものがある意味で聖域化してしまっていることは、実は大きな問題である。
本来、政治が語られる場に聖域などあってはいけないからだ。
天皇や軍隊が聖域であった時代を振り返るまでもなく、すべての領域に深くメスを差し込めるからこそ、政治は闊達に機能するのだ。

「今のこの世界(国)を作ってくれたのは、お年寄りのおかげだ」という人もいるが、僕は逆にこんな世界にしてしまった責任をどう取るつもりなのかと問いたい。
それでも老人を敬うようにと先人が教えたということは、最初に書いた通り、放っておいたら老人は敬われるどころか見捨てられるような存在であるから、あえて敬えと教えているという面もあると思う。
また、若い者たちがいずれ老人になった時に、因果応報で迫害されないための智恵として「老人を敬え」と教えているのかもしれない。
或いは、かつて情報源の乏しい時代には、老人は経験や知識や智恵の宝庫としての<利用価値>(ひどい言い方かもしれないが、現実的な問題として)があったからかもしれない。

そういうことをすべて踏まえて、<敬老>という言葉は無自覚に受け入れるべき言葉ではない。
体力の劣る人に座席を譲ったり、年長者に敬語で接したりするのとは別の次元の問題として、年齢に関係なく、敬うべき人を敬えばそれでいいのだと思う。