just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2010年6月18日(金)W杯決勝はドイツ対ブラジルと予想
  消費税論〜まっちゃん党党首演説風〜

まっちゃん党党首の選挙演説。

「みなさま、昨今、与野党ともに消費税の論議を活発化させようという動きがあります。
ここ数年、マスコミの論調も『これだけ財政難なら消費税を上げても仕方ないんじゃないか』とか『10%位までなら構わないか』などと思わせる方向へ世論を導こうとしており、少しずつ国民の消費税アレルギーを解消しようとしてきました。
しかし、消費税というのは、人類史上最悪の税制であると同時に、無能な政治家にとってこれほど便利な税制はないのです。
無能な政治家に騙されないで下さい。
バカなマスコミの論調に流されないで下さい。
私はまっちゃん党党首としてここにはっきりと断言します。
世界から消費税を恒久的に撤廃することこそ必要なのだと。

『欧米の消費税は日本よりも遥かに高い、だから日本も消費税を上げるべきだ』という主張をする方がいます。
そういうことをいう奴は間違いなくバカです。
欧米が先進的で素晴らしい政治を行っているなどというのは遥か昔の幻想であり、各国でどれだけ貧困層が苦しんでいるか。
本当に能力のある政治家なら、欧米の悪しきモノマネではなく、日本発で新しい税制を世界に示すべきなのです。
それが今まで出来なかったということは、そして、今も欧米のやり方を踏襲しようとしているということは、日本の政治家たちがいかに無能かを証明していることでもあるのです。

国家というものが存在する理由があるとすれば、それは、弱き者、貧しき者、病める者などが国家全体の富の再分配によって保護されることです。
富める者が貧しき者から富を吸い上げ、武力で守られた要塞の中に暮らすという、前時代的な世界のあり方が今も形を変えて踏襲されているということに、みなさんは憤りを感じないのですか?
『セコムしてますか?』などというバカげたコマーシャルは、今も殿様がお城に住んでいた時代を踏襲していることを示しているのです。
一揆を起こすことも革命を成し遂げることもなく、ただ、<ほんの少しだけマシな暮らし>のために命を磨り減らすことを人生と呼んで満足ですか?
そういう考えを持っている方々は、わが党にとって敵でしかありません。
もっと言うならば、すべての人民の敵でもあるのです。
そういう方々は、わが党に投票していただかなくて結構です。

民主主義の最大の欠陥は、最大多数が力を握っているということです。
『当然じゃないか』とお考えですか?
ところが、最大多数が既にある程度の富を持ち、弱者を切り捨てることを厭わないなら、簡単に弱者は切り捨てられます。
それが民主主義というものです。
つまり、民主主義は最高の政治制度でもなんでもないのです。
無能な首相が<最大多数の最大幸福>などとベンサムの言葉を引用していますが、これなどは愚の骨頂です。
多数者が基準ではなく、最弱者が常に基準とならなければ国家など意味がないのです。
多くの人が負担を抱えることになっても、最弱者を救済することこそが国家の第一義的意味です。
幼い頃から教え込まれ、無反省に受け入れて来た民主主義というものの欠陥をちゃんと認識し、国家というもののあるべき姿を一から考え直す時、現状がいかにクレイジーな状況か、みなさまにも分かっていただけるはずです。

それを踏まえた上で、消費税の対案をこれから発表します。
まず、超累進課税の導入(2008年9月12日<気になるんや>参照)です。
同時に、相続税と贈与税を100%とします。
更には、個人及び各企業が所有している土地は今後10年以内に国家へ返還していただきます。
そして、それ以外の株式や預貯金に関しても一定の税を掛けます。
更には特殊法人や宗教法人に対する優遇税制も撤廃します。
これを主な財源として消費税を廃止します。

更に、年金は廃止し、生活保護に一元化します。
老齢者でも所得や財産のある方には、年金に代わる生活保護費は支給しません。
憲法にもあるように勤労は国民の義務であり、疾病や老齢等で労働できない方を除き、一定期間以上失業している方には、好む好まざるに関わらず、国家が仕事を割り当てます。
これは主に国有地での農業です。
農作物の自給率を100%以上にすることを、あらゆる産業に優先して行う課題として位置付けます。

そもそも財政難とは、収入以上に支出があることが問題なのであって、収入以上の予算を組んだこれまでの政府に責任があるのです。
よって、今後は当然のことですが、収入以上の予算は組みません。
それによって削らなければいけない部分は徹底的に削ります。
まず、すべての公務員の給与は、国家の収支を基準に変動するものとし、最大限に削ります。
国家公務員は国民に奉仕することを第一義と考える者だけがなってくれればよく、それが嫌ならば辞めていただきます。
同時に、都道府県・市町村という地方公共団体を全廃します。
今、地方自治が声高に叫ばれていますが、あれは権力志向の無能な首長によるものです。
地方議会というものがいかに無駄で、地方公共団体がいかに無駄遣いをし、みなさまの税金を浪費しているか。
それを全廃することによって、地元の議員の権力の乱用やその利権に群がる構造を完全に廃止することができます。
これを国家に一元化することによって、無駄な支出を大幅に削減できます。

その他、改正すべき様々な項目がありますが、今回は財政面を中心に述べさせていただきました。
最後に、我が党が国会で2/3以上の議席を獲得しましたら、悪しき政党政治を具現化している議会制民主主義を撤廃し、直接民主主義へ移行すべく憲法を改正します。
直接民主主義も完全な制度ではありませんが、議会制民主主義よりは遥かに国民の声が直接政治に反映される制度になります。
つまり、この選挙が議会制民主主義の終焉となるのです。
みなさまのご支持をよろしくお願いいたします」


  2010年5月31日(月)暑くて寒かった5月が終わる
  必要悪

僕が高校生の頃、父親と二人きりで話す機会があった。
南禅寺門前の湯豆腐屋だったと思う。
本当に二人でゆっくり話をしたのは、結局それが最初で最後だったような気がする。
その頃生意気盛りだった僕は、やくざである父に「やくざというのは必要なのか?」という質問をした。
突拍子もない無礼な質問である。
父は湯豆腐をつついて酒を飲みながら、たったひと言「必要悪や」と静かに答えたのを今でも覚えている。
父はやくざという生き方をしてはいたが頭のいい人で、僕はこの質問に対して父の人生哲学のようなものを聞けると期待していた。
だから当時の僕は、「なんて生ぬるい答えやろう」と思い、ちょっと失望しつつも、それ以上深く突っ込みはしなかった。
ただ、その<必要悪>という言葉は、それ以来ずっと僕の心に引っ掛かっている。

<必要悪>という言葉は<ありがた迷惑>という言葉にその構成上似ている。
<必要であるけれど、悪である>というのと<ありがたいけれど、迷惑である>という二重感覚を持ち合わせた言葉として。
しかし、実はここがこれらの言葉の罠でもある。
以前<ありがた迷惑>についても書いたことがあるが、これは<ありがたい>と一般的に思われる行為を笠に着た、ただの<迷惑>なのだ。
<必要悪>というのは、<必要>と一般に思い込ませられているけれど、実はただの<悪>なのだ。
しかし、<必要悪>の方が更に難しい問題を秘めている。

まずひとつは<必要>という言葉の誤用にある。
この言葉が使われる多くの場合、<必要>という言葉の意味と<ニーズがある>という意味が混淆している。
<必要>というのは、文字通り<必ず要る>ということであり、それは空気や水や食料や地球という環境そのものなどを指すべきものであり、やくざや軍隊や携帯電話やコンドームは<必要>なのではなく<ニーズがある>だけなのだ。
かつての<奴隷>を例に挙げれば分かりやすいだろうか。
かつて<奴隷>は<ニーズがある>ものであり、多くの人がそれを<必要悪>として許してきたのだ。
そういうものまで含めて<必要>と呼んでしまうから、そこに「必要だから仕方ないのだ」という洗脳が発生してしまう。
だから、本当は<必要>なのではなく、<必要>だと思い込まされているものがこの世には溢れている。
それによって得をする誰かがいるからだ。

もうひとつは、<悪>という言葉が持つ曖昧さ。
<悪>というのは多面的な言葉であり、軸の定かではない価値表現である。
誰かが<悪>と呼ぶものを、誰かが簡単に<正義>と呼べるような、ぬるぬるした言葉である。
どんなデメリットを持ったものでも少しでも価値があれば、<必要悪>という言葉で括っておけば許されたような気がする、ちょっとした魔法の言葉なのだ。
だからこそ、危険な言葉なのだ。

おそらく、世間で<必要悪>と呼ばれているすべてのものは、廃棄すべきものである。
やくざも軍隊も政治家もその他諸々も。
それらを廃棄して全く新しいシステムを作り上げる莫大な労力を使うくらいなら、<必要悪>と括っておいて今のままでいいじゃないかと思っている人が大半だからこそ、<必要悪>というものがなくならないのだ。
そして、人間世界に存在する最も大きな本質的な対立は、いつの時代にも<必要悪>を廃棄しようとする側と維持しようとする側の対立なのだ。

ちなみに、僕が思う最大の<必要悪>はお金である。
勿論、具体的なモノとしてのお金ではなく、貨幣経済(電子マネーも勿論含む)そのもののことだ。
ここ数千年間、人類はこの<必要悪>を抱え続けて来ている。
これは人類が産み出した最も強力で最も魔力のある<必要悪>であり、二十世紀の共産主義という脆弱なシステムでは乗り越えられなかったものだ。
人類がお金を捨てる時、それが人類にとって全く新しい段階に入ることを意味するのだと思うが、それがどういう状況によって訪れ得るのか僕には分からない。
きっとこのままでいいと思っている人が大半であり、だからこそ余計に難しい問題でもあるのだが。


  2010年4月1日(木)東京の桜は満開だという
  パワースポットについて

昨今、<パワースポット>というものが取り沙汰されているのを見聞きし、多くの人が<パワースポット>という場所を勘違いしているんじゃないかと感じている。
<パワースポット>を訪れる人たちにも様々な理由があると思うけれど、その場所に行ってその土地の<パワー>なるものを自分も享受しようと考えている人が多いのではないだろうか。
しかし、僕が思うに、それは全く逆ではないか。

<パワースポット>なる場所が実際に存在するとして、そこに<パワー>が集まっているのだとしたら、そこは<パワー>を放出する場所ではなく、<パワー>を吸収する場所であると考えるべきである。
だから、その場に不動であるべき神殿や宮殿や要塞を建てるのに適している場所でもある。
例えば、伊勢神宮というのが<パワースポット>であるというのは、伊勢神宮の周りの地形の影響や地勢そのもの強さによって<パワー>がそこに集約しているということであり、そこを参拝する人たちはその土地の<パワー>を感じることが出来たとしても、<パワー>を与えられる訳ではない。
逆に、その土地の力が強ければ強いほど、自分の<パワー>さえも吸い取られると考えるべきだ。
そもそも、生命といものは恐るべき<パワー>を生み出しているものであり、<パワースポット>に行って更に<パワー>を得ようなどというのは強欲以外の何ものでもない。

<パワースポット>にわざわざ行く意味があるとしたら、自分の生命から放たれている<邪気>や<邪欲>という負のエネルギーをその場所に吸い取ってもらい、浄化することである。
そういう<邪心>や<邪欲>の少ない人が行くと、自分の生命の<パワー>が吸い取られることによる悪影響が現れてもおかしくない。
実際にそういうことが起こるのかどうかは分からないけれど、そういう風に考えるのが自然である。
だから、単純に<パワースポット>というものを崇拝すべきではないし、安易に訪れるべきでもないと僕は思う。

全くの余談になるが、<風水>による方角の吉凶をすべての場所に当て嵌めるのは間違いだとも僕は思っている。
<風水>は、地形や地質や山脈や水脈の位置関係から発生した方角判断であり、たとえば近くに南北に流れる川があるのか東西に流れる川があるのか、北に山地があるのか南に海があるのか等々、その土地土地で地勢的な条件がすべて異なる訳で、すべての場所で単純にどちらの方角が金運がいいとか仕事運が上がるとか言える訳がない。
それぞれの土地、それぞれの家で個々に判断するのなら別だが、上記したような汎用論は無意味だ。

これらは厳密に言うと信仰ではないが、鵜呑みにすることの怖さや付和雷同することの怖さは、盲目な信仰の怖さに繋がるものだと思える。


  2010年3月11日(木)東京スカイツリーを池袋から眺める
  日本カーリング界の将来

僕がバンクーバー五輪で最も興奮したのは、上村愛子選手でも高橋大輔選手でも安藤美姫選手でも浅田真央選手でもなく、カーリングのチーム青森に対してだった。
カーリングという競技の面白さは、長野五輪の時に初めて知ったのだが、今回ほど長時間この競技をじっくり観戦したことはない。
観れば観るほど奥深さが伝わり、ひとつひとつのショットの意味を考えさせられる。
各ショットが伏線になり、得点を決める最後のショットの難易度が変わる。
更に、各エンドで使われたコースは、スウィープされることにより次第にペブル(リンクの表面に作られた小さな氷の粒)を失って、時々刻々とスピードや曲がり方を変えていき、両チームがそれを読み合う面白さもある。
ストーンを投げるデリバリーの正確さだけでなく、スウィープする選手の読みと技量も加わり、一投一投がチーム全体の協力のもとに成立しているという点にも、チームスポーツとしての面白みがある。
スピード感や派手さはないけれど、スポーツの醍醐味を充分に感じさせてくれる。
 
今回の五輪での日本チームの試合を幾つか観ていてまず感じたことは、他の国のチームの選手の年齢の幅の広さである。
日本チームは最年少の近江谷選手が20歳、最年長の石崎選手が31歳。
ところが、他のチームは40代の選手も数多くいた。
スイスのスキップのオット選手(38歳)はヨーロッパ選手権やオリンピックで何度もメダルを獲得しているベテランだし、イギリスのスキップのミュアヘッド選手(19歳)のようにジュニア時代から活躍していた若手も選手もいる。
それは選手層の厚さだと言えるし、選手層の厚さは即ちそれぞれの国の競技人口の多さや競技場の充実を意味する。
 
たとえば、野球場やサッカー場はどこの自治体にもあるし、体育館にはバスケットボールやバレーボールが出来るコートや卓球台などが整備されている。
スイミングプールも各地(各学校)にあるし、陸上競技場も多い。
しかし、調べてみたらカーリングのリンクが常設されているのは、全国で十数ヶ所しかない。
しかも、常設のシートがある場所は僅かであり、更にその場所もほとんどが北海道・東北・長野などに集中している。
たとえば、今回の五輪を観て子供たちがカーリングを始めたいと思っても、九州や四国や関西や関東などの子供たちは通える範囲にカーリングのリンクは存在しない。
こんな状況で後進が育つ訳がないし、日本が世界に比肩する実力を得る可能性は低いと言わざるを得ない。
 
この状況を変えるには、カーリング場が増えるに越したことはないし、各学校にカーリング部が出来るに越したことはない。
しかし、例えばスキーのジャンプ競技の選手が夏場は雪のないジャンプ台で練習するように、氷ではなくても表面を滑りやすくしたボーリング場のようなリンクを作り、本物(スコットランドのアルサクレッグ島産)のストーンではなくても同じ重さの合成素材のストーンを使って競技をする(近いものではカローリングという日本で生まれた〔!〕競技があるらしい)というのはどうか。
そうすれば、ウインター・スポーツの施設が整っていない地域でも若いうちから才能を発掘できるし、その中から本格的にカーリングを続けていく選手が登場するだろう。
勿論、スウィーピングが出来ないとか、氷上のようにコースの状況が変わらないとかいう違いはきっと大きいと思うが、現状よりも遥かにマシだと思う。
 
いずれにしても、カーリングは4年毎の五輪の時にだけ注目されるのでは勿体ない魅力的な競技だ。
なんなら僕自身がこれから五輪代表を目指したいくらいである。


  2010年3月5日(金)「あしたのジョー」を読み返す
  ルールと権力について

 勝ち負けなんてルールを変えれば簡単に変わっちまうのさ♪
 
これは僕の「ヒットエンドラーンのうた」の中の歌詞。
最近、オリンピックや政治家の動向など、全然別の分野を見ながらも、共通して<ルール>というもののあり方を改めて考えさせられた。
 
スポーツにしても日常生活にしても、僕たちは様々な<ルール>の中で生きている。
それは、ある場所では<法律>や<校則>と呼ばれ、ある場所では<掟>や<暗黙の了解>と呼ばれ、ある場所ではそのまま<ルール>と呼ばれる。
しかし、そもそもその<ルール>とは誰が誰のために作り、誰が守らせ守ろうとしているのか?
 
たとえば、野球でホームランは何故1点なのか?
もしもホームラン1本が5点で、タイムリーヒットや押し出し等での得点が1点だけという<ルール>だとしたら、野球の戦術そのものが変わる。
出来るだけホームランバッターを集めるようなチーム構成になるだろうし、ピッチャーもヒットは打たれてもホームランは打たれない投球術というのがより重要視されるようになる。
ありえない話のように聞こえるかもしれないけれど、「次回のWBCからはそういう<ルール>にする」とメジャーリーグ機構が決定すれば、各国から反対は出たとしても押し切られる可能性はある。
実際に、スポーツでは頻繁に<ルール変更>が行われている。
 僕がスポーツを観るようになってからでも、バレーボールのラリーポイント制導入やスキージャンプの身長・体重差によるスキーの長さ制限や背泳ぎのバサロスタートの距離制限など、その競技の勝敗の根幹に関わるような変更がなされてきた。
そして、それによって明らかに誰かが有利になり誰かが不利になってきた。
 
政治の分野でも、日本において政権交代(この<政権>という言葉についても後で触れる)が実現した大きな原因は、小選挙区制の導入という<ルール変更>だったとも思われる。
当時の自民党政権が中選挙区制よりも圧倒的に議席数を確保できると判断して選挙制度を改正したのだと思うが、結果的には墓穴を掘ることになった。
自分のために有利に<ルール変更>したことが、相手に利するということも稀にはあるということ。
だから、本当に巧妙な者たちは<ルール>作りに対して徹底してシビアである。
自分たちが勝ち続けるために。
 
<ルール>というものは、それを守る者も破る者も含めて、大きな意味でその<ルール>の下にいるすべての者たちの意識に影響を与え、行動を規定している。
実は、それが本質的な意味での<支配>ということであり、その<ルール>を決定する権限のことを<権力>と呼ぶのだ。
たとえば、<政権>というと少しだけクリーンなイメージになるけれど、それは即ち<政治的権力>の略であり、国家の<ルール>を制定する<権力>ということである。
だから、当然だけれども<政権>を握った者は、自分たちの都合のいいようにしか<ルール>を変更しない。
だから、現在の選挙制度が有利だと思えば変更しないし、風向きが変われば簡単に変更するだろう。
一見国民の為の<ルール変更>と思われることも、それは選挙での得票を前提とした方便にしか過ぎないし、たまたま(そう、たまたま!)それが国民全体の利害と一致することはあるだろうけど、彼らの目線は常に<政権>そのものにしか向いていない。
 
かつて、<反権力>という旗印の下に若者たちが蜂起した時代があった。
彼らのほとんどは結局挫折していくのだが、その挫折には二重の意味があった。
ひとつは、巨大な権力の力そのものに屈した挫折感。
もうひとつは、<反権力>を称しながら、党やセクトなどの活動母体そのものが、その内部において<権力>を志向し、<権力>闘争を繰り返すという二重構造を持たざるを得ないということに対する挫折感。
つまり、<反権力>闘争も別な角度から見れば<権力>闘争でしかないという自己矛盾を抱えているのだ。
 
また、かつて共産主義諸国がことごとく倒れたのは、共産主義が資本主義に敗れたということと同時に、党一極集中の政治システムが実は<権力>維持のシステムとしては強固そうに見えて脆弱だったということでもある。
アメリカのような二大政党制の方が<権力>維持のシステムとしては遥かに強力なのだ。
それはまるで<権力>が民衆の力によって移動する自由なシステムに見えて、大統領が民主党から選ばれようが共和党から選ばれようが、実は国家(を牛耳る資本家)という<権力>主体は一切揺るぐことがないというシステムなのだ。
 
<反権力>ではなく、<反−権力>というものが可能であるとするなら、それは<ルール>そのものの否定か、すべての<ルール>や<秩序>といったものを決定する機関や団体を持たず、すへて個人の意思決定に帰するということになる。
つまり、力が集中する極(きょく)を持たないということが、真の意味で<反−権力>ということになるのだろう。
それは、たとえば民主主義で言うなら、議会制民主主義から直接民主主義への転換ということになる。
常に変転する国民に国家の意思決定権がある限り、<権力>という極を持ち得ない。
そうなると、誰かに擦り寄って利権を得たり、上意下達の一方的な法案を作ったり出来なくなる。
 
古代中国において、革命というのは古き王朝を新しい王朝が超克するということだった。
つまり、革命というものは<権力>の極の移動でしかなかった。
近代においても、革命というものは結局資本家(貴族)から党への<権力>の極の移動でしかなかった。
しかし、革命というものが着せ替え人形遊びを意味するものでないとするならば、本物の革命は<権力>の極からの人民の解放以外にはあり得ない。
それが望まれているのか望まれていないのかは分からないが、人類の進路は、その大転換か<権力>の更なる強大化しかない。
僕は当然あくまでも前者を望む。


  2010年2月4日(木)昨日の残りの豆を食べる
  「〇〇でいいや」という注文の傲慢

ずっと前から気になっていたことなので、もしかしたら既にどこかに書いたかもしれないけど、今日もこの発言を聞いたので書くことにした。

たとえば中華料理屋に入って来たオッサンがいきなり「俺、ラーメンでいいや」というの聞いたことはないだろうか。
たとえばファミリーレストランでさんざん注文を迷った挙句にオバサンが「私、1番のランチでいいわ」というのを聞いたことがないだろうか。
僕はそういう発言を聞く度に、「おまえは一体何様のつもりでそういう注文の仕方をしているのか!」と思う。

そもそも「〇〇でいい」というのは、<譲歩>の表現である。
本当はAを望んでいるけれど、様々な事情がそれを許さないから譲歩してBで我慢する場合に使われる表現である。
たとえば、「昼御飯は食べ過ぎたから、夜は軽いものでいい」(「本来は夜もしっかり食べたい」ということからの譲歩)とか、「A定食が食べたかったけど、10食限定でもう売り切れたらしいから、B定食でいい」(「本当はA定食が食べたかった」ということからの譲歩)とか。
こういう使い方をしている限り、それは正しい表現方法であり、僕も納得する。
しかし、問題は譲歩の表現としてではなく、対象を軽んじる表現として使われる場合である。
それが今回取り上げたものだ。

何の比較対象もなく「ラーメンでいい」と発言するのも、大きな意味では譲歩の表現である。
ただ、どういう譲歩かと言うと、「考えるのが面倒臭いから」とか「それだったら早く出来そうだから」とか「他に大して美味そうなメニューもないから」とか「俺は普段はこんな店では食事しないが」とか、自分自身の立場を勝手に上げておいて、そこからの譲歩を意味しているのだ。
いずれにしても対象(この場合はラーメン)を軽視している意識の表れである。
食事というものを大切に思っているなら、或いは食事をいただけることに感謝の気持ちを抱いているなら、「ラーメンでいい」などという表現は絶対に出て来ないはずだ。

僕から言わせてもらうなら、そういう風に注文する奴らは「メシ食うな!」。


  2010年1月24日(日)キャンパスナイトフジの録画を繰り返し観る
  議会制民主主義を再び問う

ここでも何度か書いているけれど、僕は以前から民主主義というものに疑義を抱いている。
特に、議会制民主主義という多くの国家で採用されている政治システムは、検証すればするほど決して優れたシステムだとは思えない。
それに対する明確な代案を持たない今、僕が書くことは次の別のシステムへの試論にしか過ぎないのだが、今後考えていく過程でのヒントにもなると思うので、現時点での僕の意見をまとめてみることにする。

まず、議員という存在の問題。
議会の議員は、国民による投票という過程を経ているのだから信託されるべきだというような共通認識が作られてしまっているが、果たしてそうなのか。
議員というある種の特権的な存在を選ぶということは、僕には貴族政治の変形にしか見えない。
遺伝的に継承された少数者による貴族政治に対して、国民の投票によって選ばれた代議員による議会制民主主義は、議員の選考過程が違うだけで、少数の者たちに権力が集中するシステムであることに変わりない。
だからこそ、利権目当ての汚職や地元への利益誘導という腐敗や圧倒的多数を取った時の与党の暴走が、システム自体に常に内包されている(各地の選挙区から議員を選ぶというシステムにも大きな問題がある)。
しかも、このシステムでは責任の所在がどこにあるのかも常に曖昧になってしまう。
個々の議員にあるのか、議会そのものにあるのか(これほど曖昧なものはないが)、それとも信託を与えた国民にあるのか。
つまり、議員に特権(本来の意味では議決権、そして付帯的に他の様々な優越権)を与えていのにも拘らず、責任の所在も、それ故に責任の取り方も曖昧なままであるこのシステムが素晴らしいシステムだとは僕にはとても思えない。
政治に直接関わることから逃れるための、国民の怠慢をシステム化し、それをある種の人々が自分の都合がいいように利用しているだけではないのか。

党という問題。
仮に国民の多数が、ある案件に対してA党のa案に賛成し、別の案件では対立するB党のb案に賛成だとする。
しかし、投票においてはいずれかの党の候補者にしか投票できないし、過半数を取れるかどうかは別にして、いずれかの党が第一党になり政権を担うことになり、a案かb案は否決されることになる。
これは国民総体の想いとは反することになる。
議会制民主主義は常にこの問題を内包している。
そういう意味で言えば、小学校や中学校の学級会の方が圧倒的に民主的であるということが分かる。
つまり、直接民主主義を採用する以外にこの問題を解消する方法はない。

立法と行政が完全に分立していないという問題。
これだけ政治について語っていながら、僕は他国の政治制度について無知なので日本のシステムに限って書かせてもらう。
日本国憲法は三権分立ということを謳っている。
しかし、これは僕の昔からの単純な疑問でもあるのだが、立法府である国会の構成員である国会議員から、行政府である内閣の構成員(総理大臣以下の各大臣。ただし、一部に民間人を起用する場合もある)を選ぶという問題。
このシステムで本当に分立していると言えるのか。
僕は、国会と内閣は全く別のシステムで別の人材を選んでこそ、初めて分権と言えるのではないかと思うがどうだろうか。
少なくとも、司法の最高機関である最高裁判所の裁判官を国会議員から選ぶということはしない(内閣が最高裁判所長官を指名し、最高裁判所判事を任命するだけ)。
国会の意思と内閣の意思が互いに独立して存在し、かつ互いに優越的に案件を送る部分と互いを監視する部分を持ってこそ、癒着や曖昧さのない国家の最高機関としての働きが出来るのではないか。
これについては細かく書き出すといろいろとあるが、とにかくどうして多くの人たちがこの問題に異議を唱えないかが僕には不思議でならない。
大統領制にするかどうかは別にして、少なくとも内閣の諸大臣は衆参両議院の選挙とは別のシステムで国民が直接選ぶべきだ。

地方議会は必要なのかという問題。
最初に書いたこととも関係してくるのだが、議員を選ぶということは、即ちその人物に特権を付与することである。
この国には、国会という議会と相似形をなす別の体系として、都道府県議会と市区町村議会というものが存在する。
つまり、議員に特権を付与するシステムが三重に存在するということである。
地方分権ということが喧しく語られ、まるでそれが正論のようにまかり通っているが、僕はこれも不思議でならない。
道州制などという議論もあるが、それは現在の都道府県の変形にしか過ぎない。
国家というものが必要かどうかは別のの機会に述べているのでここでは詳しく書かないが、国家が存在するのであれば、最終的には市区町村も都道府県も道州制も必要ないのではないか。
国家が一元的に管理して行政サービスを行うシステムにすれば、無駄も省けるし、地域ごとの格差も解消される可能性が高まるし、各地方議員も無くすことが出来る。
ただ、それは各地の声が直接国会に反映するシステムを必要としている(国会議員を各地で選出するというのとは真逆の、直接民主主義の充実)。
どの地域に住んでいても、国民一人一人がひとつの政治的主体として国家に直接声を届けられるシステム(党や議員を介さないシステム)が構築されれば、地方議会は完全に不必要になると僕は思う。

長々と書いたが、これはあくまでも試論である。
しかし、少なくとも僕は今の日本の政治システムを了としないので、これからも僕の中の試行錯誤をこの場所で披露していきたいと思う。


  2010年1月20日(水) 「1984年」を読みつつ
  ガーターベルト

今朝、バイト現場へ向かう途中、ある私鉄の駅でミニスカートにガーターベルトをしている女性を見かけた。
通勤時間、しかも都心のターミナル駅で。
いや、都心でもガーターベルトをしている女性を見かける機会はほぼ皆無に近い。
僕は少なからず興奮した。
その女性が魅力的だったからでなく、ガーターベルトというファッションが魅力的だからだ。

僕がガーターベルトというファッションを初めて知ったのは、恐らく「ルパン三世」の峰不二子からだと思う。
しかし、それ以降現実世界の友人や恋人などでガーターベルトをしている女性に会ったことはない。
風俗業界に行けば会えるのかもしれないけれど、僕はそういう場所に行かないので、今朝実際にガーターベルトをしている女性を見て衝撃を受けた。

ガーターベルトというのは、<エロい>とか<セクシー>というイメージで捉えられることが多いのかもしれないが、僕にとっては<挑発的>というイメージが一番大きい。
つまり、ガーターベルトにはパンクロッカーの巨大なモヒカンと同じ効果があると僕は思う。
もちろんセクシャルな意味でも<挑発的>ではあるけれど、世界に対して<挑発的>なのだ。
<挑発的>なファッションを着こなすということは、それに対する世間の反応を受け止める覚悟とエネルギーが必要である。
商売の一環としてでなく、個人的な趣味でガーターベルトをしている女性のあり方を僕は少なからず尊敬する。
生半可な意識では挑戦できないファッションであるという意味でも魅力的なのだ。
メイド姿の<絶対領域>(このネーミングを最初に考え付いた人は天才だと思う)が<密やかな誘惑>であるのに対して、その部分に数本の紐を上から垂らしてストッキングを吊るすだけで印象がまるっきり変わる。
恐るべきファッションである。
僕が女性なら、一度は試したいファッションでもある。

ガーターベルトが似合う女性を思い描いてみたのだが、やはり限られてくる。
杉本彩では<エロ>と<セクシー>の方に偏り過ぎてあざとささえ感じる。
安室奈美恵も似合いそうだが、顔が若干幼い。
「愛の水中花」をうたっていた頃の松坂慶子は勿論似合うと思うが、今はさすがに厳しい(今の松坂慶子も別な意味で魅力的だが)。
そんな風に考えていくと、僕の中で現在<ガーターベルトが似合う女性bP>は黒木メイサだ。
あの端正でクールな顔立ちと素晴らしいスタイルには間違いなく似合うと思うし、もしも彼女が普段着としてガーターベルトを着用してくれたら、もしかしたら日本でガーターベルトブームが来るかもしれないとさえ思う。

他愛もないことを書いたが、ガーターベルトの益々の繁栄を祈るばかりだ。


  2010年1月18日(月) 浅川マキさんの訃報に触れる
  「キレイに生まれてよかったです」

僕は<キレイな女性には「キレイだ」と言おう委員会>の委員長を勝手に自任している。
今迄に恐らく数百人の女性に「キレイですね」と伝えて来たと思う。
喫茶店のウエイトレス、居酒屋の店員、女性シンガー、街でティッシュを配っている女の子、コンビニエンスストアーの店員、ラーメン屋の店員、CA、ホテルのフロント係等々、僕が心動かされたキレイな女性に対して。
その後に電話番号やメールアドレスを訊く訳でもなく、食事や飲みに誘う訳でもなく、キレイな女性に「キレイだ」と伝えることをまるで使命のようにさえ感じている。
伝えられた相手は迷惑かもしれないが、たとえば逆に僕が「いいうたですね」とか「いい声ですね」と言われたらメチャクチャ嬉しいし、そう言われたことをいつまでも覚えているように、きっと女性も嬉しいと勝手に信じつつ。

当初は、その時に相手がどういう反応をするかということは気にしていなかった。
しかし、多くの女性に伝えていくうちに、その反応は人それぞれ様々だということが分かり、そのリアクションによってその女性の人物像の一端に触れることが出来るということにも気付いてきた。
ちなみに、「ありがとうございます」と「そんなことないです」という反応が圧倒的に多い。
それももっと細分化すると、業務的な「ありがとうございます」と心からの「ありがとうございます」の違いも明らかに存在する。
他に、無言ですごく嫌な顔で睨まれたり、「えっ!?えっ!?」とただ驚かれたり、「いつも言われます」という慣れた感じもあるし、「誰にでも言ってるんでしょ」という逆襲もある(実際は誰にでもは言っていない。本当にキレイだと思う女性にだけ言っている)。

さて、ここからが本題。
先日、ある女性に「キレイですね」と伝えたところ、彼女は真顔でこう答えた。
「キレイに生まれてよかったです」。
この言葉だけ書くとすごく高慢な感じに受け取られるかもしれないけれど、僕がその言葉から汲み取った真意は、「私がキレイに生まれたことで、もしくはあなたが私をキレイだと思ってくれたことで、こうしてコミュニケーションを取ることが出来てよかった」という意味だと思う。
僕はこの答えにブッ飛んだ。
僕の想像の範疇を遥かに超えていく言葉だったからだ。
普段から相手の反応について想像を巡らしている訳ではないが、完全に意表を衝かれた。
小西真奈美のような容貌に、森田童子のような影を宿した彼女は、その容貌だけでなくきっととても魅力的な人なのだろうとその言葉を聞いて思った。

そこで僕が学んだこと。
本当の理想とは、自分が思い描いている最高の形のことではなく、自分の想像を遥かに超えてゆくもののことなんだということ。
軽やかな背面跳びで。
いつ突然現われるか分からないそんな瞬間に出会うために、日々の助走は続いているのかな。