just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2009年11月16日(月) 久し振りに「祝杯」を練習した
  マクドナルドのコーヒー

僕はかつて、マクドナルドのコーヒーを決して飲まなかった。
何故なら、劇的に不味かったから。
いくら安くても、僕にとってマクドナルドのコーヒーは、ただの<黒い色を付けたお湯>にしか過ぎなかった。
それが、ある時を境にまさに劇的な変化を遂げ、<飲めるコーヒー>に変わった。
実は、この辺りにも不況の現在におけるマクドナルドの快進撃の原因があるのではないかと思っている。
 
ところで、何故これまでマクドナルドのコーヒーは不味かったのか。
それは、マクドナルドが今までいわゆる<女子供>を対象に販売戦略を展開してきたからだ。
「コーヒーなんて不味くたって、どうせみんなコーラとかマックシェイクを注文するんだから関係ない」くらいの姿勢でいたのだと、少なくとも僕には見えた。
ところが、ある時マクドナルドの幹部は気付いた。
<女子供>だけを相手にしているだけではジリ貧だ、と。
外食産業の多様化やヘルシー志向の中、もっと幅広い層をターゲットにしなければいけない、と。
それが、恐らく<コーヒーを美味しくする>という戦術に繋がったのだと思う。
 
実際、僕自身も今年マクドナルドのコーヒーを何十杯も飲んでいる。
僕がレジの前に並んでいる時、同年代かそれ以上の男性の姿もよく見かける(特に朝)。
彼らはコーヒー単品を買うか、コーヒーを含めたセットを注文していることが多い。
この層を顧客にするというのが、恐らくマクドナルドの戦略だったのだと思う。
それが見事に当たったということだ。
 
成功した理由は幾つかあると思う。
ひとつは、無料で(サンプルとして)コーヒーを提供したこと。
マクドナルドのコーヒーは以前とは違うという印象を与えるために、この大胆な<損して得とれ>作戦は十分に効果を発揮したと思う。
それまでドトールやスターバックスでコーヒーを飲んでた(テイクアウトしていた)層の何%かは獲得できたはずた。
ちなみに、無料の時は普段決してコーヒーなんて飲まないだろうと思える中学生たちまでコーヒーを注文しているのを見かけた。
 
ひとつは、無料でない時の値段設定がいい。
コーヒー1杯120円。
これは、自動販売機で缶コーヒーを買うのと同じ値段だ。
ところが、缶コーヒーよりも明らかに美味い(というか、缶コーヒーそのものの限界なのかもしれないが、いつまでたっても不味い)。
確かに缶コーヒーの方が手軽に違いないが、それに匹敵しないにしても、大都市圏ではマクドナルドは至る所に存在している。
同じ値段ならマシなコーヒーを飲みたいと思うのがコーヒー好きの心理だ(少なくとも僕はそうだ)。
 
もうひとつは、コーヒーの提供の仕方がいい。
多くのコーヒー専門チェーンでは、その場で機械がドリップしたものを提供するシステムを採っている。
ところが、マクドナルドは作り置きのコーヒーをコーヒーポットからカップに注ぐ。
喫茶店でペーパーやサイフォンのドリップを待つのと、こういうチェーン店で機械がドリップを待つのは全然意味が違う。
好き嫌いが分かれるかもしれないが、機械がドリップしているのを待つのよりもコーヒーポットから注がれる方が人間的な温かみが感じられるし、注文してから受け取るまでのスピードが圧倒的に速い。
本当は、作り置くことによって、コーヒーは少しずつ酸化しているのだが。
 
いろんな意味で、マクドナルドのコーヒーは計算され尽くしている。
この戦略と戦術には、流石としか言いようがない。


  2009年10月19日(月) 読売テレビの川田アナがかわいいと思う
  あなたはいつから「いただきます」と言わなくなったのか

ラーメン屋で、定食屋で、居酒屋で、「いただきます」を言わずに食べ始める大人たちを見かける。
と言うか、ほとんどの人が何も言わずに、目の前に出された食事を黙々と食べ始める。
他人のことだからどうでもいいことなのかもしれないけれど、僕はいつもそれを淋しい気持ちで眺めている。

「いただきます」を言う・言わないに関しては、一時期話題になっていたことがあった。
「給食費を払っているのだから」という理由で、学校で「いただきます」を子供に言わせないでほしいという親がいたことが一部で論議されていた。
この事例は論外だと思うのでここでは詳しく考察しないが、この国で「いただきます」と発する行為がどういう位置づけになっているのか考えるキッカケになった。

「いただきます」を言う理由・言わない理由は、実はかなり多様だと思う。
その多様性を考察することが、「いただきます」を考えることに繋がるような気がする。

<いただく>という言葉が<もらう>という言葉の謙譲語であることから、植物や動物の命を食事としてもらい受けることに対する感謝の意が込められているという考え方は、僕も賛同しているし、すごく立派な解釈であると思うが、後付け的な印象も感じられる。
特に、狩猟民族が狩りに成功した時に神に感謝する行為が簡略化されて「いただきます」という言葉に集約されたのならまだしも、農耕民族が収穫を祝う祭祀以外の日常の中で神への感謝を繰り返していたのだとしたら、それは余程感謝が好きな民族だと考えなければならない。
僕は文化人類学者ではないので断言できないが。
ただ、そういう歴史的な側面を離れて、大地の恵みや日々の食事を得られることに対する感謝を「いただきます」という言葉に込めている現代人は、意外と多いかもしれない。

料理を作ってくれた人や提供してくれた人への感謝という考えは、それよりもずっと現実的な考え方である。
何故なら、「いただきます」と伝える(感謝する)対象がずっとはっきりと見えるから。
けれど、「お金を払っているのだから、感謝の意を表する必要はない」という馬鹿げた逆説もまた、ここから生まれて来るのだと思う。
或いは、大量生産されている缶詰やカップ麺や工場で流れ作業で作られたコンビニの弁当を食す時、具体的であったはずの感謝の対象は急にぼやけてしまう。
現代のそういう事情も、「いただきます」離れを引き起こしているのかもしれない。
ちなみに、「ご馳走様でした」というのは、食事を提供するために<馳せ・走った>相手に対するねぎらいの意味であり、この感覚に近い。

今挙げた二つは、「いただきます」の直接的な意味から考えたのだが、言葉を発するという行為には、別の文化的な意味も内包されている場合がある。
例えば、誰かと食事をする時、相手が「いただきます」と言ったから自分も同調して言う場合。
子供が発する「いただきます」は教育による習慣化であるが、この同調は(子供もするが)別な意味が込められている。
相手への好意の表明であったり、元々自分もかつては「いただきます」と言っていたという習慣の喚起であったり、「いただきます」と言わない自分は失礼なのではないかという儀礼的な意識であったりする。
この場合、発せられた「いただきます」という言葉自体は空虚だけれど、「いただきます」と発した行為自体には大いに意味があると言える。

さて、長々と書いたが、僕のことについて話す。
僕は独りで食事をする時も、「いただきます」と「ご馳走様でした」と言う。

ひとつには、日常の他の時間と食事の時間に一線を引くという意味もある。
今は食事という特別な時間なのだと。

またひとつは、こうして発することがきっと体のためにもいいと思っている。
自分の発した声を自分の耳で聞くことによって、体(脳)がこれから食事する準備をする(胃が活発に活動しようとする)し、体がこれで食事は終わりなのだとはっきり認識する(満腹中枢が理解する)と考えている。

またひとつには、単純に日本の文化として美しい習慣だと感じているから。
だから、僕は独りで定食やラーメン屋に行っても、照れずに(独りで「いただきます」と言うのは恥ずかしいと思っている人も多いと思う)はっきりと「いただきます」と言う。
それは、大袈裟に言えば、自分が尊重している文化を伝承している姿を出来るだけ多くの人に示すためでもある。
余談になるが、英語に「いただきます」や「ご馳走様」に当たる言葉がないということで、日本文化の方が素晴らしいのだというトンチンカンな議論をする人がたまにいる。
しかし、彼ら西欧人は、「いただきます」や「ご馳走様」という簡略化された言葉の代わりに、本来は食事の前に長々と神に祈りを捧げる訳で、どちらの文化が優れているなどということはないのだ。

そして、勿論こうして食事を出来ている<今>に感謝する意味で言う。
その対象は、大地の恵みや農業・畜産業・漁業に従事している人たち、それを運搬している人たち、料理を作ってくれた人などの他者だけではなく、労働して食費を稼いだ自分、健康で美味しくごはんを食べられる自分という存在も含めて、その<今>に感謝を込めて。
この<今>がこれからも続きますようにという祈りも込めて。

「いただきます」というのは、外国人が日本に来て初めて覚える言葉のうちのひとつだと思う。
それは、さりげない言葉であると同時に、日本の文化のある深奥も含んだ言葉であり、僕が外国人だったらきっとすごく興味を覚える言葉だ。
そういう意味も含めて、僕にとっては大切にしたい言葉のひとつでもある。
少なくとも、僕は「いただきます」と「ご馳走様でした」はこれからも言い続けようと思っている。


  2009年10月4日(日) マクドナルドのコーヒーを飲みながら
  鳴る靴

今、買い物に出たら、若い母親と2歳か3歳位の女の子が歩いていた。
女の子が歩く度に、ピュッピュッと靴が鳴る。
昔、妹も幼い頃に同じような靴を履いていたことを思い出しつつ、何十年も変わらずにあるこの<鳴る靴>について想いを巡らせてた。

僕は昔はこの靴が好きではなかった。
妹はピュッピュッと靴を鳴らしながら、おぼつかない足取りで嬉しそうに歩いていたけれど、僕は母親に対して「どういうセンス(センスという言葉を、僕が当時知っていたかどうかは分からない)でこんな靴を買うんやろ」と思っていた。
大人たちは「かわいい、かわいい」と言うけれど、あの音は決して心地よい音でなく、どちらかというと耳に付くうるさい音なのに、と。

今改めて、<鳴る靴>を履いている女の子を見て、昔と違う想いを抱いた。
ひとつは、母親が子供の居場所が分かりやすいように作られているということに気付いたこと。
急に走り出したり、ふと目を離して姿が見えなくなった時、その靴の音が子供の居場所を知らせてくれるということに、僕は今まで思い至らなかった
というか、考えもしなかった。
それに気付いたのは、僕自身が親の目線で(僕には子供はいないが)その女の子を見ていたからだと思う。

もうひとつは、子供自身がきっと<歩く>ということを楽しめるように作られているということに気付いたこと。
速く歩けば速く音が鳴り、ゆっくり歩けばゆっくり音が鳴り、規則正しく歩けば規則正しく音が鳴り、リズムを変えて歩けばそのリズムで音が鳴る。
子供は、その音を楽しみながら、同時に歩くことそのものも楽しむようになるのだと思う。
そう思えば、すごくよく考えられた靴だと思う。

静かにしなければいけない場所(病院や劇場など)で、子供にそういう靴を履かせたままでいる親は最低だ。
現代は、そういう面の方がきっと喧しく言われるだろうし、僕自身もそういう場所で出会ったら、ただうるさいと感じるだけなのかもしれない。
しかし、ノスタルジックな気分だけではなく、今の僕にはこの<鳴る靴>が、守るべき平和な光景の象徴に映った。


  2009年9月25日(金) やまと豚の肉せいろを食す
  スタミナ定食の正体

例えば、あなたは<スタミナ定食>と聞いてどんな定食を想像するだろうか?
<肉野菜炒め定食>や<とんかつ定食>と言われたら、ディテールの違いはあれ、多くの人が似通ったものを想像するはずだ。
ところが、<スタミナ定食>と言われたら、人によって少なくとも何種類かの全く異なった映像が思い浮かべられているはずだ。
或いは、僕もそうであるように、一人の人間の中にも何種類もの<スタミナ定食>がある場合もある。
ちなみに、今日僕が中華料理屋で注文した<スタミナ定食>は、ニンニクをふんだんに使った肉野菜炒めに、恐らく豆板醤をベースにした辛いタレを絡めたものだった。

僕は決して<スタミナ定食>というものを定義付けしたいと思ってこの文章を書いている訳ではない。
この<スタミナ定食>(或いはスタミナ丼でもスタミナランチでもいいのだが)という得体の知れないものの魅力について述べたいだけだ。

思えば、僕にとって<スタミナ>という言葉を冠する食べ物との強烈な出会いは、かつて京都・河原町丸太町上ル東側にあった中華料理屋の<スタミナ丼>だった。
それは、魚介類が何種類も入った中華丼を、醤油味や塩味ではなく、八丁味噌(?)と豆板醤を使った濃厚な味噌味に仕上げ、最後に生卵を真ん中にボンと落としたものだった。
その店は随分前に閉店してしまったので今では検証のしようがないが、かなり衝撃的で、オリジナリティが感じられ、かつ美味かったという記憶がある。
ちなみに、それ以来僕は味噌味の中華丼に出あったことがない。

それ以来、僕は数々の<スタミナ定食・丼・ランチ>を食べてきた。
定食屋や中華料理屋などにそういう名称のメニューがあれば、かなりの確率でそれを選択してきた。
それは、ただのニラ玉定食であったり、ただの豚肉の生姜焼き定食であったりで多少ガッカリしたこともあったが、ホルモン入りの野菜炒めであったり、納豆・卵・山芋・オクラのネバネバ系大集合であったり、「これでもか」という位にニンニクを効かせたステーキであったりと、本当に多種多様だ。
焼き餃子がスープに浮かんでいる<スタミナラーメン>というものもあったし、東京の多摩地区では、豚肉をニンニクたっぷりのタレで炒めたものをご飯の上に載せた<スタミナ丼>を略して<すた丼>と呼ぶ店がチェーン展開していたり、とにかく<それらしい雰囲気>さえ感じさせられたら、それは<スタミナ>という称号を戴冠してもよいというアバウトな感じが面白い。

つまり、ここでいう<スタミナ>とは、決して体力や持久力という意味ではなく、<明日へと立ち向かう根拠のない勢い>とでも捉えればいいのだろうか。
そういう抽象的で前向きな精神性が、<スタミナ定食>というものの中に含まれているような気がする。
オールドファッションな精神性かもしれないけれど、決して<癒し>や<優しさ>や<繊細さ>を求めていない潔さと、それとは真逆のゆるゆるの包容力が共存しているのを、僕は<スタミナ定食>というものに感じる。

これからも、様々なヴァリエーションの<スタミナ定食>が各地で生まれることを切に願う。


  2009年8月15日(土) 仏壇にはゼリーとお茶
  <脳死>は人の死ではない、100%絶対に

2009年前半最後の<気になるんや>の<三院制試案>の中でも、臓器移植法の改正について触れた。
そこに自分の想いのエッセンスは書いたが、<脳死>のことについては改めてちゃんと書かなければいけないと思っていた。
今日、テレビ東京「この子は生きている〜長期脳死児と生きる家族〜」というドキュメンタリー番組(元々は2008年5月にテレビ愛知で放送されたものらしい)を観て、今が書くべきタイミングだと思った。

この番組のサブタイトルにもなっているけど、<長期脳死>という言葉がある。
<脳死>と呼ばれる状態になってからも、長くその状態のまま心臓が動き続いている人(子供)のことを指すらしい。
しかし、もしも<脳死>が人の死だというなら、彼らはずっと死んだまま心臓を動かし続けているということになる。
死んだまま呼吸し、死んだまま喉に痰をからめ、死んだまま排泄物を流し、死んだまま生きている人にぬくもりを伝えているというのか。
そんな馬鹿げた話はない。
実際にそういう子供に会ってみたら誰でも分かるはずだ。
彼らは間違いなく生きている。

臓器移植というのが人を生かすための医療技術だというのは認める。
しかし、それが他人からの臓器の提供を前提とするなら、そんのものは一切認められるべきではない。
たとえそのことによって救われる命があったとしても、だ。
すべての人間は死ぬべき運命であり、少なくとも現在不老不死が不可能なら、どこかで死を受け止めなければならない。
医療技術によって死に臨んでいる命を救うこと自体を否定しないが、それが誰かの死や誰かの肉体の一部を前提とするなら、それは救われているのではなくて犠牲を強いているだけなのだ。
その人の細胞から新しい臓器を培養する技術が完成するか、完璧な人工臓器が開発されるまで、臓器移植手術(それはもはや<移植>とは呼べないと思うが)を認めるべきではないというのが僕の意見である。
何度も言うが、たとえ救われる命があったとしても、だ。

<脳死>などというあざとい言葉を産み出した世界を、僕は徹底的に嫌悪する。
この言葉が何故あざといかと言うと、<死>という言葉を初めから含んでいるからだ(英語でも同様に<brain death>という)。
ここに既に死のイメージが埋め込まれている。
<脳活動停止>と呼んでも構わないはずなのに、<脳死>と呼ぶことで個体の死と直結するイメージを生んでいるのだ。
壊死(えし)などという言葉もあるように、体の一部の機能が損なわれることを古来より<死>と直結する思想がある。
しかし、命というものは、あっけなく失われることがあるのと同時に、ダメージを負いつつもしたたかに強靭に生きていくことがあるのだ。

あと何年か分からない、あと何日か分からない、あと何秒か分からないけれど、自ら生きようとしている命から臓器を奪うことは、殺人以外の何ものでもない。
<脳死>は人の死ではない。
100%絶対に。