just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2009年6月21日(日) 午後からミーティング
  三院制試案

臓器移植法の改正を巡る問題で、宗教観にも関わる問題だからということで、各党が党議拘束を掛けずに衆議院での採決が行われた。
いわゆるA案というのが可決された訳だが、今後の参議院での採決がどうなるかは分からないし、違う案が可決された場合に衆議院でA案が再可決されるかどうかも分からない。
今回の問題だけでなく、いわゆる<ねじれ国会>の問題も含めて、実は衆参両議院という二院制そのものに問題があると僕は思っている。

今回の主題ではないので簡単に書くが、まず、僕は脳死が人の死であり得る訳がないと思っている。
喋らなくても、動かなくても、意思を伝えられなくても、ぬくもりを持って生きようとしている命が<死>である訳がない。
脳死などというものは、医療技術の向上が産み出したまやかしである。
それとは別に、僕は臓器移植というものにそもそも反対である。
いつかもっと医療技術が進歩し、臓器というものが大量に培養可能になって、誰も傷つけずに誰からも臓器の摘出をせずに移植(もはや移植とは呼べないが)が出来るようになった場合のみ、僕は賛成する。
だから、A案もB案もC案もD案もない。
世界スタンダードなんて関係ない。
技術の進歩を人間がすべて受け入れる必要はないのだ。
核兵器の例を挙げるまでもなく、人間が科学技術を進歩させる方向性で生存していることとそれを受け入れるかどうかとは全く別問題として議論されるべきなのだ。

さて、本題に入る。
以前から書いている通り、僕は議会制民主主義に反対である。
政治形態として民主主義を採用するならば、直接民主制しかあり得ないと思っている。
本来なら、すべての法案や予算は代表者が幾つかの案を提出して議論を尽くし、それを国民が直接投票で採決すべきである。
議会制民主主義というのは、ある意味で怠惰な民主主義であり、民主主義を装った寡占政治であるとも言える。
その中でも、二院制というのは慎重審議を装った罠であると僕は思う。

日本は明治時代初期にその政治体制の手本を欧米に求めた。
ゼロから新しい政治体制を作るのが困難だったからである。
しかし、それから100年以上経った今、欧米諸国が政治体制を変えていないからと言って、それが絶対的に正しいなどと言うのは思い込みも甚だしい。
欧米に追随する時代はとっくに終わってるし、最高の政治体制の追求は常になされるべきである。

二院制の最も駄目な点は、両院の採決が対立した場合に、廃案か再可決かどちらかの採決の優先という曖昧な結論を迎える点にある。
<人が三人集まれば政治が始まる>という言葉があるが、ここで大切なのは<三人>という数字であり、それが奇数であるということである。
奇数になればパワーバランスの崩れが必然的に生じるということが重要であり、最終的に多数決が民主主義の宿命であるなら、どのレベルにおいても採決には奇数が不可欠なのだ。

話はちょっと逸れるが、エヴァンゲリオンに登場するスーパーコンピューター「MAGIシステム」というのは3台のコンピューターによる合議制を採用している。
これは重要な点だ。
ちなみに、最近のコンピューター将棋界においても、次の指し手を選択するのにこれに似た合議制システム(コンピューター内コンピューターが多数決で指し手を決める)を採用したコンピューターが好成績を上げている。

閑話休題。
つまり、二院制というのは無駄に時間を食うだけで、実質的には既に片方の優越(日本なら衆議院)に支配されているという不備の多いシステムであり、だから参議院不要論などが出て来るのだ。
かと言って、一院制にすると一党独占の強引な政治に陥るリスクが高い。
僕が思うに、二院制ではなく三院制を採用することによって、多少時間は掛かっても民主主義というものがよりよく機能するのではないか。
その場合の三院目をどうするかという問題であるが、これを国民院とし、つまり直接投票にすればいいのだ。

法案や予算が、衆議院と参議院で意見が一致して可決(もしくは否決)された場合は三院目を必要としない。
しかし、もしも両者で採決が対立した場合、すべての国会審議終了後、衆院側か参院側かどちらの採決を可とするかを国民投票するのだ。
確かに、その分の予算も多少は掛かるだろう。
しかし、国民の声がより反映される訳だし、国民の政治に対する感心も増すだろうし、最終決定権を国民の総体が握っているという意識も大きいと思う。

そうなれば、ある党がいずれかの選挙で大勝したからと言ってそれが必ず国会のすべての採決に反映される訳ではなくなるし、参議院の意味も大きくなる(ちなみに、参議院議員の任期は4年にして2年ごとに半数改選にすべきだと思う。任期6年は長過ぎるし、政治家の新陳代謝が出来なさ過ぎる。ただし、解散なし)。
また、衆議院は議決権の優越ではなく、解散があるということの代償としては、首相の任命における優越だけがあればいいと思う。

これは僕の独自案だが、一般的にこういう改革案の議論はなされているのだろうか?
政治家が本当に政治を志すなら、欧米に政治形態を輸出するくらいの意識が必要なのだ。


  2009年6月15日(月) 背中一面にトクホンを貼りつつ
  生涯現役

この言葉について少し前に書こうと思っていたのだが、一昨日プロレスラーの三沢光晴選手がリング上で亡くなったとの報を受け、今書くべきだと思った。

先日、渋谷「BYG」で第99回フォークジャングルのミーティングをしていた時、店のマスターがその輪に加わって来て<生涯現役>について話題になった。
自分が思い描くパフォーマンスが出来なくなったら潔く現役から身を引くべきなのか、ボロボロになっても現役を続けるべきなのかという問題。
自分が納得行かない、もしくはお客さんに失礼だと思えるようなパフォーマンスしか出来なくなったら辞めるべきだという美学を語るマスターの意見と、自分がやり続ける意志がある限りボロボロになってもやり続けるという僕の意見が対立した。

高田渡がうたうたいとして人生を全うしたこともひとつの生き方だし、森田童子が音楽活動から離れてしまったこともひとつの生き方だと思う。
ジャイアント馬場は死の1ヶ月前まで現役選手としてリングに上がっていたが、アントニオ猪木が盛大な引退興行を行って早々と引退したというのもまたひとつの生き方だ。
他にも様々なタイプの生き方の例がある。
将棋の大山康晴十五世名人は69歳で亡くなるまで現役A級棋士のままだったし、漫画家の水木しげるは87歳だが、「ビッグコミック」に「水木しげるの遠野物語」を現在も連載している。
対照的に、サッカーの中田英寿は29歳にしてワールドカップを引退の舞台に選んだし、ボクシングのロッキー・マルシアノは無敗の世界チャンピオンのまま32歳で引退した。
また、F1レーサーのアイルトン・セナやこれを書くキッカケになったプロレスラーの三沢光晴は、突然の死亡によって現役のままその生涯を終えた。

いつまでも現役にこだわる人に対しては「ボロボロになってみっともない」と思う人もいるだろうし、早々と引退する人に対しては「まだやれるのに根性がない」と思う人もいるだろう。
いずれにしても自分の人生は自分のものであり、納得のいく生き方を貫くことが出来れば、それが恐らくその人にとっての幸せなのだろう。
僕自身は、キーが下がろうが、声量が落ちようが、ギターを弾く手が震えようが、うたとともに生きようと決めている。
結果的にどうなるかは、神のみぞ知るということだ。

ある女性にこの話をしたら、「そんなことにこだわるのは男だけ」と言われてちょっと腰砕けになったが、森田童子は女性だし、<男>の問題というよりも特別なパフォーマンスをする者たちの問題なのかとも思った。

<虎は死して皮を残し、人は死して名を残す>という言葉があるが、僕は<名を残す>ことに何の魅力も感じない。
名前なんかすぐに忘れられていい。
生きている間に人の心に何を刻み込めるかということがすべてだと思っている。
それを受けとめた者が、自分の中でそれを血肉にしてまた誰かに伝える。
崇められる名前などよりも、そうして受け継がれていくものこそが自分が生きたしるしだと僕は思っている。


  2009年6月7日(日) 午前4時前にカラスが鳴いてる
  「折り畳み傘を持ってお出掛け下さい」

民放のニュース番組などの天気予報のコーナーを観ていると、時々この言葉に出くわす。
僕はその度に砂を浴びせかけられたような気分になる。

この言葉は、午後や夜になってから雨が降り出すという予報の時によく使われる。
雨は朝は降らないから、折り畳みではない傘を持って行くと朝の通勤・通学時に邪魔になることに対して、親切心で言っているのだろうと想像できる。
しかし、この言葉は全く想像力の欠如した無駄なアドバイスであり、正確に言ってお節介だ。

この場合、天気予報の中で必要な情報は、「朝からは雨が降らない」ということと「午後(夜)になると雨が降る」という情報だけだ。
雨具の選択は、全く個人的なものなのだ。
折り畳み傘であろうが、普通の傘であろうが、カッパと長靴であろうが、雨具は持たない主義であろうが、それは情報を受け止める側の自由な選択なのだ。
「折り畳み傘を持ってお出掛け下さい」というのは、それぞれの事情を知らないのに、個人的な問題にまで口出しする愚かさの表明である。

更に言うなら、日本人の折り畳み傘の保有率を100%と想定して言っているようにも聞こえる。
僕は折り畳み傘の保有率が何%なのか知らないが、少なくとも僕は折り畳み傘を持っていないので、100%でないことは確かだ(だから、文句をつけてると取られるだろうか)。

恐らく、お天気お姉さんたちは決まり文句のようにこの言葉を言っている(言わされている)だけなのだろうが、報道に携わるものとして、言葉にもっと繊細であってほしいと望む。


  2009年6月7日(日) コーヒーの飲み過ぎで深夜目覚める
  綺麗事のススメ

先日のインフルエンザ騒動の中でおかしな光景を観た。

ある報道番組で、インフルエンザに感染しないためにどういう行動をとるべきか、ということを医療関係者(医者だったと思う)がレクチャーしていた。
丁寧な手洗いの仕方、うがい、ドアノブの消毒(それはどうかと思うが)等の他に、<してはいけないこと>として咳やくしゃみをする時に手で口を押さえることというのがあった。
「意外なことを言うなぁ」と思ってよく聞いてみると、自分の手にウイルスが付着している可能性があり、その手で口を塞ぐとウイルスが口から入ってくる可能性があるというのだ。

確かに、その人の言ってることは正しいのだろう。
自分をインフルエンザから守るという意味では。
しかし、周りに他人がいる場合、自分の咳やくしゃみを誰かに浴びせるというのは非常識の極みであり、仮に自分が既にインフルエンザに感染していたら周りに感染を広げることにもなる。
そういうことを平気で報道する側にも問題があるが、その根底には「自分がよければ他人は被害を受けてもいい」という意識(無意識)が存在しているのだ。

似たような例をもうひとつ。
先日池袋(豊島区)を歩いていたら、「北区安全パトロール」という黄色い布を自転車後部の籠に貼り付けたおばさんが信号待ちをしていた。
「北区安全パトロール」と書かれた布には、他に「公立小・中学生の安全・・・」等と書かれていた。
問題なのは、その自転車のおばさんが煙草を吸っていたことだ。
そこは路上喫煙禁止地域である。
それは路面にも書かれているし、立看板もある。
信号が変わると、そのおばさんは煙草の火が付いてる方を外側に向けたまま、自転車に乗って走り去った。
そこは通学路ではなかったが、朝の通勤・通学の時間帯だった。

彼女は、自分が住んでいる地域でも、或いは自分の子供の通学路でも同じ行為をするのだろうか?
そうだとしたら「安全パトロール」などと名乗る資格はないし、そうじゃなくて他の地域だからそういう行為をしているのだとしたら、やはり最初に挙げた話と同じで「自分(が帰属している集団)がよければ他人は被害を受けてもいい」という意識(無意識)なのだと思う。

彼らの行為は些細なことかもしれない。
しかし、この意識(無意識)の延長上に、民族や国家間の紛争や戦争も存在するのだと僕は思っている。
個人レベルの意識の積み重ねが、社会全体の意識を形作っているからだ。
「自分がよければ他人は被害を受けてもいい」と積極的に意識して生きている人は少ないかもしれないが、危機的な状況が訪れた時にどういう選択をするかは、長年培ってきた意識(無意識)が最も大きく影響すると僕は思っている。

つまり、これは教育の問題なのだ(いつも言うように、学校教育だけでなく、すべてのメディア、すべての生活者の行動なども含めて教育である)。
咳やくしゃみをする時に手で塞がない行為、「安全パトロール」と謳いながら自転車に乗りながら煙草を吸う行為など、それらは彼らが受けてきた教育の結果であり、同時に誰かに対して教育効果として働くのだ。
そういう無自覚の教育効果の積み重ねが、社会全体を誤った道に導く可能性は大きい。

蛇足だが、僕がアメリカという国を嫌いな理由は、銃で自分(家族)を守ることが出来るという妄想を、個人レベルでも国家レベルでも教育されていることだ。
あの国が変わるためには、教育を根本的に改めなくてはならない(百年単位の問題だ)。

僕自身、「自分がよければ他人は被害を受けてもいい」と全く思っていないと言えば嘘になる。
僕だって自分がかわいい。
けれど、自分の命が大切だということは、それと等価である他人の命も大切だと認めることだという意識は常に持っている。
「そんなの綺麗事だ」と分かったような顔をするつもりはないし、そういうことを平気で言う奴らに僕は与しない。
そう言った途端に、誰かにとって自分の命は簡単に踏み潰してもいいものになってしまうからだ。

綺麗事を綺麗事と意識した上で実践しようとする意識付けこそが、恐らく教育の根本的なテーマなのだと思う。


  2009年4月24日(金) ドラマに出演してる太った松坂慶子もいい
  義務教育における諸経費

朝日新聞に書かれていた記事としてラジオで紹介されたのを聴いて、その記事の趣旨以外の部分が気になったのでここに記す。
いかにも朝日らしい内容の記事で、ある種の意図の匂いがプンプンするのだが、記事の内容をかいつまんで先ず書く。

茨城県のある公立中学校(記事では実名)で、教材費などの諸経費を滞納していた家庭の生徒に卒業アルバムや卒業文集が渡されなかった。
その後「アルバム代は払う」と言ってきた母親の申し出に対しても学校側は拒否した。
その中には6人の子供を母親一人で育てている家庭もあり、その生徒の未納分は20万円余だった。
学校側は後に「配慮が足りなかった」と述べている。

すごく簡単に要約するとこういうことになる。
給食費の滞納問題もまだ深刻である昨今、この問題で保護者側が悪いのか、学校側が悪いのか、教育行政が悪いのか、それは個々の考えに委ねられることと思う。
この記事を書いた朝日新聞の記者の意図は、恐らく教育現場である学校の非情さを非難したかったのだろう。
そのことについては、今僕は語るつもりはない。
僕が気になっていたのは、ある生徒が中学2年生の途中から卒業までに未納だった金額が、20万円余だったということだ。
僕は何よりもその数字の大きさに驚いた。
義務教育を受けている子供を養うだけでも大変なのに、公立の中学校がどうしてそんな金額を要求するのか?
ちなみに、この20万円余には、この学校の場合は給食費も含まれているので他の中学校と単純に比較は出来ないが、それでも大きな金額である。

今回この項を書くに当たって調べたのだが、「義務教育は無償である」という範囲は、過去の判例によると授業料が無償であるということに留められている。
他の要件は、立法政策の解決すべき事柄であるとされている。
だとしたら、戦後日本の立法及び行政はいかに教育政策において無能であったかということだ。

以前、定額給付金のことについて、子供には本来渡す必要はないし、渡すとしても大人と同額であるべきだという意見を僕は述べた。
子供が優遇される謂われは何もないからだ。
しかし、義務教育というのが国の根幹的な施策であるならば、完全無料にすべきだと僕は思う。
私立学校への助成金など完全に廃止し、その分の金をこちらに回すべきだ。
私立学校など無くなってもいいのだし、みんなが高校や大学の高等教育を受ける必要もない。

逆の方向から見るなら、各地域や各学校に委ねられている修学旅行費やアルバム代などは一律にして支給し、給食と弁当の区別もなくして(農業政策とも連関させて)一律に給食とし、もっと言うなら制服も例えば年間2着は支給するなど、子供を持っている親だけではなく、すべての国民がすべての児童・生徒の義務教育費全般を負担すればいい。
それこそが国家的施策としての義務教育と言える。
しかし、そうするからには、修学旅行は各駅停車で行くべきだし、アルバムはすべての装飾を排した物にすべきだし、制服は最も安い生地の物にすべきだ。

今回アルバムが配られない生徒が出たように、今でも貧しくて修学旅行に行けない児童・生徒がいる。
お金がない者は仕方ないというなら、逆に修学旅行そのものを廃止すべきだ。
こういう問題が解決されていない状況を放置し続けてきたのは、教育行政という名の<お上>だけの問題ではなく、豊かさの陰にある貧困から目を背けてきたすべての国民の問題なのだ。
ここで気を付けなければいけないのは、これを<情>の問題にすり替えてはいけないということ。

少子化対策とは一体何なのだろうか?
こんな状況下で、子供を産み育てることを国家が要求するというのはどういうことなのか?
今更ながら、修学旅行代やアルバム代の心配をせずに学校に通わせてくれた親に感謝すると同時に、僕がそんな親になれる自信はとてもないと痛感する。


  2009年4月23日(木) まだ肌寒い夜
  <最低の人間>とは

「事実であれば、めちゃくちゃな怒りを感じている。なんでそんな者をイメージキャラクターに選んだのか。恥ずかしいし、最低の人間だ。絶対許さない」
これは、地上デジタル放送推進キャラクターでもある草g剛が公然猥褻罪で逮捕されたことに対する、鳩山邦夫総務相の発言である。
まず、司法官でも直接的被害者でもないのに「絶対に許さない」という発言が疑問であるし、たかだか裸になったこと(もしくはそういう人間をイメージキャラクターに選んだこと)が<絶対に許されない>ことであるなら、世界は<絶対に許されない>ことだらけになる。
けれども、僕にとってもっと引っ掛かった言葉は<最低な人間>という発言である。

さて、<最低の人間>とは何か?
これは仮にも総務相の公式な発言である。
お笑い芸人が「おまえ、最低やな」と相方にツッコむのとは訳が違う。
それは、大学生がコンパで酔っ払って校内で裸になっているのと、有名な芸能人が公園で裸になっているのとの違いと同じとも言える。

公然猥褻罪で現行犯逮捕された者をかばう必要はない。
恐らく起訴猶予処分になるだろうが、相当の社会的責任は負わされるだろう。
しかし、酔っ払って裸になることなど、すべての犯罪の中で最も他愛ない罪であり、直接的な被害も神経質な近隣住民以外には恐らく与えていない。
世の中には、様々な暴力、様々な不正が横行しているというのに、ただ裸になった人間が<最低の人間>であり得るだろうか?
少なくとも、路上喫煙している奴や権力を利用して金を儲けている奴の方が余程<最低>に近いし、それよりも直接的暴力に訴えて、タクシー運転手やホームレスを襲う奴らの方がどう考えても<最低>だ。

僕が言いたいのは、こういうことで安易に<最低>などという言葉を使うことによって、本当に<最低>なものが見逃されてしまうということ。
「税金から給料を貰って人殺しの練習をする奴ら(そして、それを容認している奴ら)の方が余程最低だ」と僕が言っても、あの頭の悪い総務相は草g剛の方が最低だと言うだろうか?
つまり、誰かに対して<最低な人間>と呼ぶ限り、少なくとも自分の価値基準が体系化されていて明確であり、その序列の中で最下位に属する者に対してのみ使うべきである。
もしも、本当に彼の価値基準の中で草g剛の行為が<最低>なのだとしたら、そんな馬鹿げた価値基準を持つ者を一国の国務大臣に据えておくべきではない。
即時解任すべきである。

さて、先程も<最低の人間>について例を挙げたが、僕が思う<最低の人間>について最後に書く。
<最低の人間>とは、誰かを傷つけても自分(または自分が愛する者・物)は救われようとする者のことである。
こういう姿勢が、すべての暴力、殺戮、戦争等の根源にある。
しかし、こう書いている僕自身の中にそういう部分がないと言えば嘘になる。
もっと言うなら、そういう部分を持っているからこそ、それを抑制するのに懸命になりながら生きているというのが事実だ。

<最低の人間>という言葉は、そんなに軽い言葉ではない。


  2009年4月15日(水) 今更ながら合体ロボに興味が湧く
  <味がブレる>という言葉について

ラーメンデータベースというホームページがある。
登録した人たちが、自分が食べたラーメンについて個々に採点・評価し、それが集積されたのがそのホームページ。
そこで時々使われているのが<味がブレる>という言葉。
ある店のラーメンについて、行く度に味が変わるというような意味だろうか。
それは悪い評価として使われている言葉なのだが、果たしてそうなのだろうか?
 
まず、<ブレる>という言葉。
近年この言葉は、特に否定形の<ブレない>という形でよく使われるようになっている。
「軸がブレない」「主張がブレない」「生き方がブレない」など、安定感があることや筋が通っていることを評価する言葉として。
そのこと自体は悪くない。
しかし、その価値観が浸透・固定し、逆に移ろいやすいものや千変万化するものについて、ただそれだけの理由で悪い評価をする傾向があるように思える。
 
<味>というものは、常に移ろうものである。
作り手の側でも変化するし、受け手の側でも変化する。
<味がブレる>と評価するということは、作り手側に対して常に同じ味のものを提供することを潜在的に望んでいるという意識が含まれている。
しかし、受けて側の味覚の変化も僅かなものではない。
たとえば、全く同じ味のものでも、真夏に食べるのと真冬に食べるのでは感じ方が違うし、雨の日に食べるのと晴れた日に食べるのでは感じ方が違う。
その時の気分によっても味の感じ方は違うし、その人の食の体験が増せば味覚も変わるし、年齢によっても舌そのものの感じ方が変わる(子供の方が苦味をより強く感じるらしい)。
たとえば、「あのラーメン屋は昔は美味かった」と言う時、実際にその店が努力を怠って不味くなった場合もあれば、その人の味覚が変わってしまったということもあるのだ。
 
別の見方をする。
ある店が常に必ず同じ味のものを提供する必要があるだろうか?
たとえば、マクドナルドなどは、その製造の過程からしてどの店もほぼ同じ味である。
それでも、マックフライポテトの出来のいい日と悪い日、当たりと外れはある。
吉野家や松屋などのようなチェーンの牛丼屋も、店によって日によって味が微妙に違う。
同じ人が作るラーメン屋だって、店主の調子やほんの僅かな分量の違いで、日によって味が変わっても仕方ない。
もっと言えば、刺身や焼き魚なんて、調理法が同じであってもひとつひとつの個体の味が違うのだから、その時々で味が変わって当然なのだ。
それに対して同じ味のものを提供するのを望むのは、あまりにもデジタルな発想だ。
つまり、<味がブレる>のは当たり前のこととして受け入れるべきなのである(ライヴだって出来の良し悪しがある)。
あまり好きな言葉ではないが、正に一期一会なのだ。
その時に美味ければそれでよいし、その時に不味ければ不運と思えばいい。
 
ちなみに、荻窪のラーメン店・春木屋の主人が「『昔と変わらず美味いね』と言ってくれる人がいるけれど、本当は少しずつ変えていってるんですよ。お客さんの舌も変わっていきますからね」と語っていたことがある。
さて、この話に<ブレる>という言葉は当てはまるのだろうか?
少なくとも僕には含蓄のある言葉に聞こえた。


  2009年4月7日(火) エヴァンゲリオンの新台を初めて打つ
  軍艦島のこと

僕は軍艦島(長崎市端島)に2度行ったことがある。
1度目は高校1年生の時で、2度目は28歳の時。
どちらも本当は入島禁止だったのだが、漁船を着けてもらって上陸した。

高校生の時は、<資源のない島・ニッポン>というテレビCMを観て、廃墟になったこの島の姿をどうしてもこの目で見たくて行った。
28歳の時は、僕のファーストアルバム「街でうたううた」のジャケット写真撮影のために行った。
朽ち果てたものと今生きているものとの対比を撮ってジャケット写真にしたかったから。

僕が初めて上陸した時、閉山・無人島化から既に8年が経っていた。
確かに廃墟ではあったが、学校に少年マガジンが落ちていたり、病院にレントゲン写真が散乱していたり、まだ生活の痕跡がリアルに残されていた。
2度目に上陸した時は、それから更に10年以上放置されたままだったせいで、建物の老朽化が顕著で、島の荒廃が明らかに進んでいるのを感じた。
そして、その時からもまた更に十数年が経った先日、ちょっと驚くべきニュースに触れた。
それは、軍艦島を観光客に開放し、旅行会社のツアーも組むというニュース。
早ければ今年の4月下旬から始まるらしい。
そのニュースを聞いて、僕は少し複雑な気持ちになった。

数年前には写真集が何冊も発売されるほどの<廃墟ブーム>が起こり、軍艦島はその中でも代表的な廃墟として取り上げられていた。
現在どれだけの人が廃墟というものに興味を持っているのか知らないが、上陸が一般に許可されたらかなりの数の観光客が島に入るだろうと想像できる。
しかし、廃墟というのは荒廃されているままに放置されているから廃墟なのであって、観光客の安全を考慮して整備されたら、それは本当の意味での廃墟ではなくなるような気がする。
観光客が入ればそこはただの観光地になるかもしれない。

軍艦島が他の廃墟と違う点は、陸続きの場所ではなく、海の真ん中にぽつんと放り出されていること。
その隔絶感に叙情がある。
見捨てられたものの潔さがある。
一度見捨てられたものが再び人々にちやほやされるのはどうなのだろうか?
世界遺産に登録しようという動きもあるみたいだが、モン・サン・ミッシェルみたいに観光客だらけの島になったらきっと興醒めするだろう。

僕は廃墟としての軍艦島にも魅力を感じるのだが、もしも現在も炭鉱として賑わう不思議な小島として存在していたとしても、きっと軍艦島を訪れたいと思っただろう。
炭鉱夫たちが交代制で24時間採掘し続けていたため、全盛期の軍艦島は海に浮かぶ不夜城だったという。
東京23区より人口密度が高かったというのだから、その繁栄ぶりが分かる。
けれど、新宿歌舞伎町が不夜城だというのとは訳が違う。
まるで隔離されたようなこの小さな島にあらゆる娯楽が凝縮されていたというのに、そんな不思議な街を囲む巨大な壁の向こうはすべて海というこのコントラスト。
そこにはきっと、嘘みたいな陽気さと淋しさが濃密な影を落としていたはずだ。
そう、この島の最大の魅力は、<嘘みたい>なところだと僕は思う。
そんな場所で、坑夫たちに混じって、よそ者扱いされながら酒を飲めたら、死にたくなるほど生きてるって感じたことだろう。

とかなんとか言いながらも、僕はこのニュースに触れて軍艦島にまた行きたいと強く思った。
上陸は許可されても宿泊は許可されないだろうが、本当は月を眺めながらこの島で酒を飲みたいのだ。
かつてここで暮らしていた坑夫たちの魂と酒を酌み交わしたいのだ。


  2009年3月16日(月) 早起きしてWBCの日本対キューバを観る
  レンゲ問題〜犯人はおまえだ!〜

何度も書くが、僕はラーメンを食べる時にレンゲを使わないし、ラーメンの丼に初めからレンゲが入っている状況もよしとしない。
というか、そういう状況をこの世界から廃絶したいと思っている。
紛れもないアンチ・レンゲ派である。
その僕が先日あるラーメン屋でレンゲが入っているラーメンを出された時、何故これほどまでにラーメンにレンゲが入れられることが一般化したのか分かった気がした。

その前に、何故僕がアンチ・レンゲ派かを書く。

まず、何よりも邪魔だからだ。
丼を両手で持って出汁をいただくのが基本の姿であるのにも拘らず、レンゲが入れられていると丼を持ち上げる時にレンゲまで手で抑えなくてはならない。
レンゲを使わない者にとって、レンゲは不必要なだけでなく、無駄な労力を要求する存在なのだ。

そして、うどんや蕎麦にはレンゲを使わないのに、ラーメンだけにレンゲを使うことに対する矛盾についての考察がなくレンゲを使用している者たちの無思想に僕は与しない。
最近はラーメン業界から伝播して、カレーうどん等にレンゲが添えられていることがあるが、あれはサービスではなく堕落である。

子供や女性は丼を持つのが大変だという話もあるが、究極の言い方をすれば、それならラーメンなど食うなと言いたい。
少なくとも、僕が子供の頃にはラーメンにレンゲなど入っていなかったので、丼をちゃんと持って食べられるようになるまでは、小さな器に取り分けられたものを食べていた。
片手しかない方がラーメンを食べるのに不自由するというなら、その時に初めてレンゲなりスプーンを要求すればよい。

以前も書いたが、あるラーメン漫画でレンゲの問題が取り上げられていて、最近のラーメンは進化しているから、スープに幾層もある場合、レンゲを使えばすべての層のスープを一度に掬えるからとレンゲ派を擁護していた。
しかし、そういうスープだとしても、レンゲで食べるように店側が要求するならそれは店側の傲慢である。
福岡のある豚骨ラーメン屋は、油、スープ、髄の三層に分かれているが、それを順々に楽しんで食べるという方法もある。

もうひとつ、これはあくまでも僕の個人的な美意識の問題だが、レンゲを使ってラーメンを食べている姿というのは下品である。
食事をしながらケータイを使っている人くらい下品に僕には見える。
オールドファッションな考え方かもしれないが、食事においては片手を使い、もう一方の手は添えるのが日本における食文化の基本姿勢だ。
片手で箸を使いもう一方の手でレンゲを使うは論外だし、箸とレンゲを持ち替えるのも無駄な動作だ。
丼を持ち上げる方が遥かに合理的で、器を愛で、押し頂く姿勢というものは美しい。
レンゲを使うくらいなら、断熱手袋で麺を手掴みして食べ、スープはストローで吸ったらいいのだ。

ちょっと話は逸れるが、グルメレポーターやタレントがレンゲでスープをひと口だけ啜って「美味い!」とか叫ぶのをテレビで見ると虫酸が走る。
ラーメンというのは、スープでも麺でもなくチャーシューでもメンマでもなく、その総体であるが故に最後のひと口を食べ終わった後に初めて感想を述べるべきだ。

レンゲ派の人で、レンゲはスープを掬うためでなく、そこでスープと麺を絡めるのだと主張する人がいるが、それが最も下品だし、スープと麺は元々丼の中で絡んでいるし、もっと絡めたければ丼の中で麺を充分に返せばいい。

百万歩譲って、どうしてもレンゲを使いたい人は使えばいい。
僕とは完全に思想が対立しているが、そういう人がこの世界に存在するのは仕方ない。
この世界には、戦争に賛成したり石原慎太郎に投票するイカレた人がいるのだから、レンゲを巡る対立があるのも認めよう。
ただ、初めからラーメンにレンゲを入れるというサービス(反サービス)だけはやめてほしい。
初めての店だと要らないレンゲを置く場所に困るし、予めレンゲが入れられると分かっている店でも、どのタイミングで「レンゲは要りません」と言えば確実にレンゲを入れられずに済むか難しい(「レジ袋は要りません」という感じに似ている)。

さて、あまりにも長い前置きになったが、レンゲがラーメンに入れられるようになった諸悪の根源である犯人について僕の推理を書く。

犯人はコーン、おまえだ!

唐突で申し訳ない。
実は、この日食べていたのは札幌系の味噌ラーメンで、スープにコーンが入っていた。
ラーメンにコーンなど不要だという問題は別にして、確かにスープの中のコーンというのは箸では非常に食べにくい(それでも僕は意地で箸で一粒ずつ食べたが)。
あるサイトでラーメンにレンゲが入るようになったのは昭和49年頃(正確かどうかは知らない)らしく、昭和40年代というと味噌ラーメンという画期的なラーメンが札幌から全国へと伝播された時期と丁度重なる。

そもそも味噌ラーメンにコーンを入れること自体は一般的なことではない。
しかし、安価で彩りがいいコーンがラーメンの具として使われることによって、北海道のイメージをラーメンに投影することが出来ると店側は考えたのだろう。
ところが、このコーンという具は彩りはいいが箸では頗る食べにくい。
そこで、コーンを食べるのにもスープを飲むのにも都合がいいレンゲの普及が加速したのだと僕は推理する。
もしも、味噌ラーメンが札幌ではなく名古屋で開発されて広まったとしたら(可能性としてはあったと思う)、きっと味噌ラーメンにコーンという発想は一般化しなかっただろうし、レンゲもこれほど普及しなかったかもしれない。

長々と、何の役にも立たないことを書いてしまった。
何故かラーメンのことだとついつい熱くなってしまう。
いずれにしても、僕はラーメンにコーンもレンゲも要らないのだ!


  2009年2月24日(火) ものすごく眠たい一日
  「今、大丈夫ですか」考

近所の定食屋に置いてあった読売新聞夕刊に、携帯電話に掛けた時の「今、大丈夫ですか」という問い掛けは必要かいう問題についてのコラムが掲載されていた。
面白い問題だなと思いつつ、僕の考えを書く。

元々は木村祐一の「キム兄の人間設計図」という本の中にこの問題が取り上げられていたらしく、彼によると、「今、大丈夫」だからこそ電話に出る訳で、この問い掛けは不要であるとのこと。更に、大丈夫ではない状況(例えば電車の中とか運転中とか会議中とか)で電話に出る方が問題だとのこと。
確かに一理ある。
しかし、一概にはそうとも言えない場合もあると僕は思う。

自分が掛けられて来た側だとする(僕の場合は携帯電話を持っていないので、単に家の電話の場合)。
例えば、正にこれから大便や小便に行こうとした時に掛かって来た場合、電話を取ることは可能だけど、長話をするとピンチになることがある。
例えば、これから出掛けようとしている時。
2、3分以内に出発しないと間に合わないような状況の時、短い用件なら大丈夫だけど、これも近況報告から始まるような長い会話は出来ない。
例えば、お客さんがいる場合。
電話に出ることは可能だし、時間も融通が利くけど、その間はお客さんを放っておくことになって失礼になる。
例えば、カップラーメンの出来上がるのを待っている時。
これも緊急の事態ではないし、長話も可能だが、後で伸びきったカップラーメンを食べることになる。
例えば、これから風呂に入ろうと脱衣所で裸になった時。
夏ならまだしも、冬は寒いまま裸で話すことになる。

こんな風に、ちょっと思いついただけでもこれだけあるし、まだまだ様々な状況がある。
これは「今は一応大丈夫だけど、今じゃない方がありがたい」場合と言える。
そんな時、自分から「これこれこういう事情で、今じゃない方がありがたい」といきなり言うよりも、相手から「今、大丈夫ですか」と訊かれた時の方が自分の状況を説明しやすい。
「後で掛け直す」とか「短い時間だったら大丈夫」とか「お客さんが来てるから、用件だけなら」とか。
「今、大丈夫ですか」も何もなしに、いきなり深刻な話題が始まった場合には受けた側としても対処に困る。

電話に出ることが大丈夫なのと、電話で話し続けるのが大丈夫なのはちょっと状況が違うのだということを考慮すると、「今、大丈夫ですか」という言葉には大いなる必要性を僕は感じる。
少なくとも僕は、慣例としてではなく、自分が困る場合があるから、相手にも「今、大丈夫ですか」と尋ねるようにしている。


  2009年2月18日(水) フォークジャングル通信を発送した
  <恥の文化>を問う

中川前財務大臣がG7後の酩酊記者会見を理由に辞任した。
様々な批判がなされて当然だと思うし、充分に辞任するに値するとも思う。
ただ、街の声などで「ああいう姿が世界に配信されて恥ずかしい。日本の恥だ」というような意見を聞いて、僕はどうしても肯けなかった。
日本は<恥の文化>だと言われているが、その<恥の文化>について問いたい。

中川前財務大臣の記者会見の何が駄目かというと、公式に世界に対して日本の立場や今後の経済政策について伝えるべき場所で、その責務を果たせなかったこと、その一点である。
その理由が飲酒であろうが、薬のせいであろうが、能力の無さであろうがそんなことは関係ない。
事実として財務大臣の職務を果たせなかったことだけが問題なのだ。

何を恥と感じるかは個人の問題である。
例えば、僕は素っ裸で街を歩くことを恥ずかしいとは思わないが、もしもルイ・ヴィトンのバッグを持って街を歩けと言われたら恥ずかしくてとてもそんなことは出来ない。
裏口入学をするよりテストで0点を取ることの方が恥ずかしいと思ってる馬鹿な親もいれば、元本を保証すると謳った詐欺に引っ掛かって恥ずかしげもなく「金を返せ」と言う欲まみれ輩もいる。

その善悪は別にして、ひとつの社会において<恥の文化>というものが本当に成立するためには、何を恥とするかという価値基準が広く深く浸透しているかどうかが問題なのだ。
かつて武士の文化において、「武士は食わねど高楊枝」という意識や主君に対する絶対的な忠誠という精神的な支えがあってこそ<恥の文化>は成立したのだ。
今の日本にその残滓としてはびこっている<恥の文化>というのは、それを下支えする精神性を失ったために、何の根拠もないプライドと体面だけがただ無様に宙に浮いているだけなのだ。

あの記者会見が恥ずかしいと言うのなら、歩き煙草をしている奴らも同様に恥ずかしいし、食事中や電車の中で携帯電話を使ってる奴らも同様に恥ずかしい。
僕は中川前財務大臣を擁護する気などさらさらないが、「恥ずかしいから」と彼に辞任せよと言うなら、自分たちも腹でも切るべきだ。

以前、ある地方のライヴハウスでうたった後の打ち上げに、その近所の居酒屋に入った。
その居酒屋のマスターが話し掛けてきたので、近所のライヴハウスでうたってきたと言ったら、「あの人(ライヴハウスのマスター)を見て、この街の代表みたいに思われたら恥ずかしい」と居酒屋のマスターは言ってきた。
僕から見て、ライヴハウスのマスターは変わり者かもしれないけどすごくいい人で、何も恥ずかしい人ではない。
それよりも、何の根拠もないプライドを盾に、他人を「恥ずかしい」と言う居酒屋のマスターの方が余程無様な人だと思った。

「日本人であることに誇りを持て」などと全く訳の分からないことを言う人が時々いる。
それは、「日本人は最悪だ」という暴論と同じくらい馬鹿らしい話だ。
恥やその裏返しとしての根拠のないプライドを勝手に持つのは構わない。
ただ、それを他人に押し付けるのはもはや暴力でしかない。
文化というのは押し付けられるのでなく自然に熟成するものであるし、また、文化として成立しているものがすべて素晴らしい訳でもない。

自分が恥ずかしいと思うことをしないということと、何が恥ずかしくて何が恥ずかしくないかを決める基準を吟味できる能力を持つことだけで充分だ。
それで充分だが、それが難しいのだ。


  2009年2月11日(水) 野外ステージの使用料を払いに行く
  騙される側の共犯者

円天事件が世間を賑わした。
大阪では女性相場師が多額の資金を集めて姿を消した事件が報じられた。
元本保証と高配当のうたい文句の下に巨額の資金が集められたのだ。
出資者は今更ながら出資金の返還を要求している。
さんざん美味しい目も見た後で。
以前にもここに書いたかもしれないが、僕は「騙される方が悪い」という意見には組しない。
騙す側が悪いに決まっている。
しかし、こういう事件の場合、騙される側も共犯者なのだと僕は思っている。

全く違う次元の詐欺の例を出す。
それは、例えば食品の偽装表示の場合。
真偽を調査することが出来ず、無垢に信用している者を一方的に騙している場合。
こういう詐欺はすこぶる悪質で、現在の刑法ではすごく軽い刑罰しかないが、本当なら極刑にすべきだと思う。

円天事件や一部のオレオレ詐欺はそういう例とはまるで違う。
それは、騙される側の欲望が詐欺を成立させているからだ。
円天事件では濡れ手に粟で儲けようとする欲望が、オレオレ詐欺では示談で事を済ませようとする金満的なずるさが、この詐欺を成立させているのだ。
騙されている側は確かに被害者だが、それと同時にこの犯罪の共犯者でもあると僕は思う。

特に円天事件の場合、元本が保証される投資など存在する訳はないのは常識だし、それでも何百万円、何千万円もの投資をした者が今更「金を返せ」と言うのは、博打に負けたギャンブラーがパチンコ屋やJRAに「金を返せ」と言っているようなものだ。
本当のことを言えば、彼らは詐欺師に騙されたのではなく、己の欲望に騙されたのだ。

こういう詐欺事件が起きる度に、被害者たちを「欲をかくから騙されるのだ」と罵るだけに留めてはいけない。
被害者たちに被害に対する弁済をするのと同時に、法律的に詐欺の共犯者として罰するようにすれば、こういう一連の詐欺は激減すると思う。
これを酷な言い方だと感じる人はぬるいと僕は思うし、この国は金持ちに甘過ぎるとも思う。


  2009年2月8日(日) 近所のラーメン屋が美味くなってた
  <地球に優しい>とは何か?

昨日、ある場所のトイレに貼られていたポスターに<地球に優しく>と書かれていた。
僕は小便しながらそれを見つめていて、ふいに疑問を感じた。
<地球に優しい>とは何か?

近年声高に<エコ>という言葉が叫ばれている。
環境の悪化に対する問題意識を持つことは悪くないと僕も思う。
ただ、<地球に優しい>という言葉はあまりにも安直な言葉ではないのか?

まず、<優しい>という言葉の定義自体が難しいが、それを仮に<相手のためになるように無償で尽力する>ということだとしよう。
だとしたら、地球のためになることとは一体なんだろうか?

そもそも、恐らく地球という惑星は何も望んでいないはず。
ただ、この広大な宇宙の片隅にポツンと生まれ、太陽の周りをグルグル回っているに過ぎないひとつの天体だ。
その天体のために、そこに生まれた人間というひとつの生物が何をしてやれるというのか?

巨大隕石がぶつかって地球が壊れないように、隕石が接近したら宇宙空間で粉々に破壊してあげるというのなら、それを地球が望んでいないにしても<地球に優しい>のかもしれない。
しかし、地球の内部において大気の温度や成分が変わったり、生態系が崩れたり、陸が減って海が増えたりしたところで、地球自体はなんとも感じていないはずだ。
地球上でどんな生物が生まれ、どんな生物が絶滅しようと、それは地球にとって何の問題もない。
火山が噴火しようが、巨大ハリケーンが発生しようが、大地震が起きようが、それは地球にとっては日常茶飯事なのだ。

もう僕が何を言いたいのか分かったと思うが、<地球に優しい>という言葉はデタラメな飾り言葉であって、人間はただただ自分たちが住みやすい環境を維持することだけしか考えていないのだ。
<人間に優しい>という言葉を<地球に優しい>と置き換えることによって、人間のエゴを覆い隠せると考えているのだとしたら、それは今まで平気で環境破壊をし続けてきたのと同じ延長線上にある甘さの露呈でしかない。
死んだ言葉の羅列になってしまうのだ。

エゴがいけないのではない。
人間はどうやったってエゴなのだ。
それを自覚した上で、この地球上でどのように調和するのが最もよい形かを考えることだけが、人間に許されていることなのだと思う。


  2009年1月21日(水) 明日、鳥居みゆきのDVDを買う予定
  街の落書きと尾崎豊の「卒業」

この文を書くに当たって、YOU-TUBEで尾崎豊の「卒業」を3回聴いた。
1回目は尾崎豊という人を観ながら、2回目は歌詞をじっくり確認しながら、3回目は何か他に感じることがないかと思いながら。
そして、昔思っていたのと同じように、このうたは下らないうただと改めて思った。
以前からそのことについてちゃんと書こうと思っていたが、街の壁の落書きを見て、この機会に書こうと思った。

この「卒業」といううたの何が一番駄目かというと、それはひと言で言うと<甘さ>だ。

例えば、一番顕著なのが、この時代の典型的なフレーズである<本当の自分>という言葉。
この時代(そして今でも)、<本当の自分>を探したり、<本当の自分>に辿り着いたり、<本当の自分>が歪められていたり、歌詞の中でそういう言葉が溢れていた。
しかし、甘えずに向き合う力があるなら、<本当の自分>とは今ある自分以外の何物でもないことに簡単に気付くはずだ。
醜かろうが、自信がなかろうが、言いなりになっていようが、思い通りに行かなかろうが、それが<本当の自分>であることを認めた上で、その先にどう変わるかという理想を語るのなら理解できる。
しかし、今の自分が<本当の自分>ではないとするのは、ただ現実から目をそむけているだけでしかない。
それは自分自身に対する<甘さ>に他ならない。
そして、それは彼の<甘さ>だけでなく、このうたに共感するすべての人たちの<甘さ>でもあると、僕は当時から思っていた。

もうひとつ、このうたの歌詞でよく取り上げられる部分ではあるが、「夜の校舎 窓ガラス壊してまわった」という歌詞。
窓ガラスを壊すことが犯罪だからこの歌詞が駄目なのではない。
問題は「夜の校舎」という方だ。
つまりこれは、相手が無防備な状態でいる所に、自分は決して傷つけ返されることのない安全な態勢から攻撃を加えることを意味している。
それは、今で言えば、ネット上での匿名の書き込みや街の落書きと同様に、すごくずる賢く、匿名性が強く、稚拙で、自己顕示欲の強い、甘えた奴らの表現方法なのだ。
<本当の自分>という歌詞と同じ<甘さ>がそこにはある。

僕自身、校内暴力が連日報道されていた頃に中学時代を過ごした。
その時に感じていたことは、同世代に対するシンパシー(共感)ではなく、完全なる嫌悪感だった。
そんな稚拙な表現方法で世界の本質を変えることなど出来ないどころか、たとえ今はまだ稚拙であったとしても、自分をどう表現するかという問題について真摯に向き合うことなく安易な暴力を選んでいる奴らに常に憤っていた。

彼らはどんな大人になったんだろう、とふと思う。
もしも、オッサンになった今でも学校の窓ガラスを割り続けているのだとしたら、僕はその衰えないパッションによってだけでも彼らを評価する。
学校というものは破壊されるべきものなのだという信念を持って、何度も逮捕されながら繰り返し窓ガラスを割り続けるオッサンになっているのだとしたら。
それはあまりにも愚直かもしれないが、闘うことの本質のひとつにはたゆむことない愚直さというものも含まれている。
同じように、今街中の壁に落書きしている奴らが、壁というものはすべての表現者に解放されるべきものなのだ、或いは壁などというものはこの世界から廃絶すべきものなのだという主張のもと、オッサンやオバハンになってもずっと壁に落書きをし続けて逮捕され続けるのだとしたら、僕は彼らを尊敬はしないが認めはする。

しかし、事実は違う(先に挙げたようなイカれたオッサンやオバハンが一人や二人はいるかもしれないが)。
彼らは、よりずる賢くなり、より匿名性を持って暮らし、ただパッション(情熱というよりも尾崎豊の言葉を借りて<放熱>と言った方が近いか)だけをどんどん失っていくのだ。
そして、「尾崎はよかった」などと言いながらカラオケでうたって酔い痴れるのだ。
彼らを僕は正確な言葉で<なれの果て>と呼ぶ。
こうなることは初めから分かっていたことなのだ。
彼らが自分の<甘さ>に気付いていない時点で。
そして恐らく、本当の意味で彼らはまだ自分の<甘さ>に気付いていないだろう。

まだ誰も<この支配>からも<闘い>からも卒業などしていない。
ここにいるのが<本当の自分>であるということをきちんと受け入れながら、今も闘い続けている者たちだけが、「卒業」を卒業しているのだと言える。


  2009年1月21日(水) ゴミ処理場で思うことあり
  「その原因は一部の人々の貪欲さと無責任さにある」

これはオバマ大統領の就任演説の一節。
経済状況の悪さの原因について述べたものだ。

恐らく、日本の首相なら同じ状況になってもここまで突っ込んだ言葉は語れない。
それは政治が大企業や財界とあまりにも密接な関係にあるからだというのもあるし、こういうことを明言しないのが日本の政治家の特質である曖昧さでもあるからだ。
そういう意味では、このオバマの言葉は評価できる。
ただ、僕に言わせれば、この認識は誤謬だ。

資本主義社会において、<貪欲>なのは一部の人々ではなく、社会の構成員全体が<貪欲>であることを求められているというのが事実なのだ。
そして、それを最も忠実に実践している国こそがアメリカである。
つまり、どの時代においてもアメリカ人は経済活動を<貪欲>に追求してきたし、それを美徳としてきたのがアメリカ人なのである。
経済の不況は、限りない<貪欲>さの中で周期的に来るものであり、オバマがそれを<一部の人々>の責任と本当に思っているのなら、認識不足も甚だしい。
逆に、厳密に、そして真摯に表現するならば、アメリカという存在そのものを否定することになるので、それは彼には出来ないだろう。
それがオバマの、そしてアメリカの限界でもある。

今回の大統領就任演説は、聞き流す分には確かに感動的だった。
これほどまでに社会主義的な思想を語るアメリカ大統領というのはかつてなかったかもしれない。
しかし、一文一文綿密に読んでみると、そこにはやはりアメリカという国のエゴイズムがしっかりと語られていることに気付く。

オバマによって確かに何かは変わるのかもしれない。
しかし、アメリカの本質は何も変わらないだろうということは、この演説を聴いて既に分かった。
本質的な変化をアメリカに求めるには、まだ何十年、何百年も掛かるのかもしれない。


  2009年1月19日(月) バイトが入った月曜日
  平野早矢香のまなざし

昨日、全日本卓球選手権で平野早矢香選手が3連覇を達成した。
18歳で初優勝してから連覇し、1年のスランプを経て今度は3連覇。
この群雄割拠の時代に、5度の優勝は恐るべき記録と言っていい。
それなのに、昨日から今日にかけてのスポーツニュースやスポーツ新聞は福原愛対石川佳純の準々決勝の方を大きく取り上げた。
その前日に女子ダブルスで石川佳純が福原愛を破ったこともあって新旧交代かと注目された面もあったからだ。
しかし、その石川選手とダブルスを組んでいたのも実は平野選手だということを忘れてはいけない。
あまりの報道の酷さに激しい憤りを覚えつつ、平野選手のまなざしについて書く。

平野選手は、間違いなく現在の日本で技術的にも精神的にも肉体的にもトップの選手である。
しかも、微差でトップなのではなく、圧倒的にトップなのだ。
動きに古武術を取り入れていることや、無敗の裏雀士・桜井章一にアドバイスをもらったことがあるということなど様々な理由があると思うが、それを顕著に示しいるのが彼女のまなざしである。

相手へのまなざしの送り方は幾つかに大別できる。
ボーっと見る、観察する、見つめる、見下す、見上げる、チラッと見る、睨む等々。
多くの場合、その見方自体が相手との関係性を既に規定してしまっている。
それは、実はある意味で自分の弱さの表明になっていると言える。
例えば、<睨む>というのはいかにも強気のようだが、強気であることをアピールしなければならない時点で既にそれは自分の弱さの表明なのだ。
また、<観察する>というのは冷静そうに思えるが、観察することによって相手の情報を得ようとしているという点で、既に自分の弱みを見せているのである。

さて、では平野選手のまなざしはどうかと言えば、<見据える>という言葉でしか表現しようがないまなざしである。
さっき、<見据える>という言葉をネット上の和英辞典で調べたら、その中に<fix one's eyes on〜>という訳があった。
彼女のまなざしは正にそれで、自分の視線を相手にただ固定するのだ。
それは、獲物を狙う目でも、剥き出しの闘志を伝える目でも、冷静さを装う目でもない。
自分の全存在を注ぐ方向をただひたすらに見ている目なのだ。
このまなざしが、彼女の強さの本質であると僕は思っている。

実際に平野選手と対峙して、そのまなざしを受けた時に自分ならどう感じるだろうと想像してみるのだが、よく分からない。
怖さを感じるのか、こちらも闘志が湧いてくるのか、惹き込まれてしまうのか。
いずれにしても、すべての面でこんなに魅力的なスポーツ選手はなかなかいない。
日本のスポーツ界において、最高の評価に値する数少ない選手の一人であることに間違いない。
マスコミも世間ももっとちゃんと評価してほしいと切に願う。


  2009年1月13日(火) フォークジャングル通信の作業をほんの少し
  「ハンバーガーをナメてるいすべての人たちへ」

最近よく見かけるマクドナルドのクォーターパウンダーのキャッチフレーズ。
その挑発的なメッセージに挑発された訳ではなく、こういう挑発的なメッセージの空虚さを検証する為に僕はちゃんとクォーターパウンダーを食べてみた。
ロッテリアの「絶品チーズバーガー」の時と同じように全く期待せず、そして、実際に結果も予想通り普通のハンバーガーにしか過ぎなかった。
でも、僕が書きたいのはそのことではない。

「ハンバーガーをナメているすべての人たちへ」というメッセージではあるが、本当にハンバーガーをナメているのはマクドナルドの方なんじゃないかと僕には思えるのだ。

恐らく多くの人と同じように、僕も生まれて初めて食べたハンバーガーはマクドナルドだった。
それ以来幾度となくハンバーガーを食べてきたが、マクドナルドが本気で美味いものを作ろうとしているとはとても思えない。

僕が一番気になるのはピクルスで、何故ハンバーガーにピクルスが入っているのかという問題は、何故ラーメンにメンマが入っているのかという問題と同じくらい放置されている重大な問題である。
僕にはそれが幼い頃からの疑問だった。
勿論、ピクルスが入っていても構わないが、ピクルスをわざわざ入れるのなら、それがハンバーガーの脇役として主役をちゃんと盛り立てているというのが最低条件である。
しかし、マクドナルドのハンバーガーでは、その最低条件を満たしているとはとても思えない。
僕自身、大人になるまでピクルスというものをハンバーガーでしか食べたことがなく、ある時にシャレたバーで自家製のピクルスなるものを初めて食べた時に目から鱗が落ちたのを覚えている。
それまで僕はピクルスというのは大して美味くもないものだと思っていた。
しかし、それは今まで食べていたマクドナルドのピクルスに限られた話であって、美味いピクルスというのがこの世には存在するということを知り、日本人に与えたマクドナルドの悪影響というものに気付いた。
いや、怒りさえ覚えた。
マクドナルドはどうしてこんなに質の低いピクルスを入れることにこだわり続けるのか僕には全く理解できない。

マクドナルドが今も繁盛しているのは、あの値段に対して充分なクオリティーを維持していると多く人が判断しているからだろうから、それに対して文句はない。
こう言う僕だって、年に1回か2回はマクドナルドのハンバーガーを食べる。
ただ、「ハンバーガーをナメているすべての人たちへ」と大上段に構えるからには、細部にまでこだわったちゃんとしたものを提供すべきだ。

僕はハンバーガーをナメてなんかいない。
昔、アメリカのカフェレストランで食べたハンバーガーは確かに美味かった。
テリヤキバーガーを考案した日本人も本当に凄いと思う。
だからこそ、このキャッチコピーと品質のギャップに反感を覚えてしまうのだ。


  2009年1月12日(月) フォークジャングル通信の作業の一日
  仮想敵国〜本当の敵とは〜

少し前のニュースになるが、国の防衛予算の増減を巡り、中国の軍事的脅威が増大しているしているから、防衛予算は増やすべきだという与党の見解が報道されていた。
一見もっともな意見のようにも聞こえるけれど、では、その軍事力増強合戦の果てに実際に中国と戦争でもしようと考えているのだろうか?
中国は最終的には日本なんて見ていなくて、アメリカと対等、もしくはアメリカを超えて世界の覇権を握ろうとしている訳で、日本が防衛費の面で中国に追随する必要など全くない。
そんなことはちょっと考えれば分かるはずだ。
それでも、そんな見え透いたことでも言わなければならないのは、防衛予算を大幅に削減されないために、仮想敵国の脅威という口実が必要だからだ。

どの時代においても、そしてどの地域においても、隣国は常に脅威であり、仮想敵国として想定されやすい。
というか、地理的に隣り合った地域でありながら国境線が引かれているという事実自体が既に対立を意味しているのだ。
対立しているということは、互いの持つ正義という幻想をぶつけ合うことであり、そのおかげで多くの命が失われてきた。
国境線を引いた瞬間に敵は生まれたのだ。

右翼と左翼の対立なども同じことだ。
そこに一本の線を引くことで、向こう側にいる相手を敵視し、自分の存在意義を立証しようとしているだけなのだ。
右翼と左翼というのは、ある視点から見れば本当は対立項目ではなく、同じ政治的力学の臍の緒で繋がっている双生児なのだとも言える。

では、本当の敵とは何か?

それは、不条理な暴力そのものであり、それを容認してしまう人間そのものなのだ。
不条理な暴力とは、まさにその一本の線を引くことであり、その向こう側の相手を敵と呼ぶことである。
国家間の対立なんて、そのひとつの現われにしか過ぎない。
イスラエル−パレスチナ問題にしても、どちらかを非難するのは簡単だし、そんなことで物事の本質は解決しない。
何度停戦しても同じことを繰り返すだけだ。

中島みゆきの「ファイト!」といううたの中に「私の敵は私です」という歌詞がある。
このうたでうたわれているのは、自分の中にこそ打ち勝たなければならないものがあるのだという意味だと思う。
けれど、そういう意味ではなく、敵は本来外部にあるものではなく、自分の中で生成されるものなのだという意味で、「私の敵は私です」という言葉は当てはまる。

国境線などというものは本当は存在していなくて、その架空の線は自分が作ったものなのだ(誰かに教え込まれたのだとしても)。
例えば、日本が世界中を征服したとしても、人間そのものが変わらない限り、その世界と化した日本の中にもまた新たな線を引こうとするものが現われて世界は分裂するだろう。

戦争をなくすということは、敵という概念を人類がどう乗り越えるかという問題である。
簡単なパラダイムシフトではない。