just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2008年12月18日(木) 将棋界の快挙を知る
  棲み家〜憲法25条から再び考える〜

以前にも取り上げたが、ここにまず憲法25条を記してみる。

【憲法25条】
1.すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2.国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。


これも以前書いたが、日本国憲法の最も重要な点はこの条文に要約されていると僕は思っている(ちなみに、憲法前文には問題があると思っているが、それはまた別の機会に書く)。
例えば、基本的人権の尊重も平和主義も国民主権も、結局のところ「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ためにはどうすればいいか、ということの具体的な方法を表しているのだと思う。
極論すれば、この条文がなければ日本国憲法は背骨のない憲法だとも言える。
さて、それを踏まえて昨今の解雇された派遣社員の住居問題とホームレスの住居問題を重ねて書く。

今日のニュースでも、神奈川県では住居を失った求職者(主に派遣社員を指していると思われる)に、一定期間の条件付で県営住宅を敷金や保証金なしで提供する(家賃は3300〜4100円取るらしい)という報道があった。
この他にもハローワークが中心になって解雇された(されつつある)派遣社員の住宅問題に対応している。
これは決して悪いことではない。
しかし、これらの措置をしようとしている人たちには、現存しているホームレスは見えていないのだろうか?

これらの住居提供においては、求職活動をしていることが重要な要件のようである。
しかし、もう一度憲法25条を読み返してほしい。
この文章の主語は「すべての国民は」と書かれている。
「すべての求職者は」とは決して書かれていない。
これは、憲法の根本精神に関わる重要な問題なのだ。

今まで各自治体もホームレスを全く支援してこなかったとは言わない。
しかし、今更県営住宅を一部の人の為に提供するとはどういうことか?
これこそ正に差別である。
不景気になったから失業者が増えるのは当然であるが、景気がいいと言われていた時も、空き缶を潰してビニール袋にパンパンに詰めて自転車で運んでいたおっさんたちは実際に存在していたし、ビニールシートで家を作って暮らしている人たちはいたのだ。
彼らは放置されていたというのに。
まるで、癌を予防する為には努力するけれど、既に発病した癌患者は見捨てるようなものだ。

「健康で文化的な最低限度の生活」とは何かというのは憲法解釈の問題になるのだろうが、「健康で文化的」という部分を差し引いたとしても、少なくとも住居があり、最低限の食料があり、最低限の衣服がある暮らしであることは明らかである。
そう考えると、住居を借りるのに敷金や礼金や保証金や更新料などが存在するのは論外であり、生活保護費で住居費と食費は最低でも賄われなければならないと考えると、住居費は国(地方自治体)が上限を設定すべきだ。
あるいは、もっと根本的なことを言えば、住居はすべて国(または地方自治体)が提供すべきだ。
それ以外の場所に住みたいなら、超高額な税金を払わなければならないようにすればいい。
相続税も超累進課税にすればいい。
土地や現金を相続できるのが当たり前のように思われているが、そんなものは持てる者たちが考えた自己防衛策でしかないのだから。

現在行われている措置が暫定的に何人かを救えるなら、それはそれでいい。
しかし、それはあくまでも暫定策であり、根本的な住環境改革がなされなければ、この国自体が違憲状態であると言える。

ちょっと話は逸れるが、解雇になったある派遣社員がインタビューに答えて「手取り14万円で、家賃が6万円のところに暮らしていたが、仕事がなくなったので実家に帰る」と語っていた。
ナンセンスだ。
あまりにもナンセンスだ。
何がナンセンスかと言うと、収入に対する住居費の割合が異常なのだ。
けれど、多くの都市生活者が似たような状況を受け入れているのであり、やはり異常なのだ。
これが異常だと気付いていない、もしくは気付いているけど馴らされている状況は、この国(もしくは多くの先進国と呼ばれる野蛮な国々)の最も重い病だし、この国の教育の貧しさを露呈している。

こんな状況であるからこそ、今、ある意味でチャンスだとも考えられる。
この国の仕組みを根底から変える為の。


  2008年12月14日(日) 雨と寒さで炬燵に引き籠る
  手裏剣

先日あるデパートでエレベーターに乗り込もうとした時のこと。
僕の横で70歳は越えているであろうおじいさんもエレベーターが来るのを待っていた。
やって来たエレベーターのドアが開くと、4歳くらいの男の子を連れたお母さんが降りて来た。
すると、おじいさんはその親子とすれ違い様にポケットから何か取り出して子供に手渡したのだ。
僕もお母さんも一瞬ちょっとした緊張が走ったのだが、その子供の手に渡された物は、赤と黄色の折り紙で作った手裏剣だった。
お母さんはとっさに「あっ、手裏剣」と呟き、子供に「ありがとうって言いなさい」と告げた。
子供はすごく滑舌よくはっきりした声で「ありがとう」と言い、僕はそのタイミングを見てエレベーターのドアの閉まるのボタンを押した。
おじいさんはドアが閉まるまで子供に笑いかけていた。

さて、この出来事で僕が一番気になったのは、おじいさんが何故ポケットに折り紙の手裏剣を持っていたかではなく、知らない人から物をもらうことを一瞬怖いと感じたことでもなく、子供の異常にはきはきとした「ありがとう」の発声でもなく、<手裏剣>という物をそこにいる4人全員が共通認識として知っていたということなのだ。

恐らく、今生きている日本人のほとんどが実生活で<手裏剣>を使ったことはないのに、情報として<手裏剣>の存在は知っている。
僕自身もその子供の年齢くらいの時には既に<手裏剣>の存在を知っていた。
ところが、恐らく日本以外の国の人たちに<手裏剣>を見せて「これは何ですか?」と尋ねても、ほとんどの人が答えられないと思う(一部の日本通や忍者に興味がある人を除いて)。
つまり、これが固有の文化ということなのだ。

例えば、帽子とかコップとか傘なら、その国々による様式の違いはあっても多くの人がその用途を理解できると思うけれど、<手裏剣>はその独特の歴史的背景によって生まれた為に全く知らない人がその用途を想像するのは難しいと思う。
逆に、僕たちが知らないだけで、ある国の人たちにとっては馴染み深い物も沢山あるはず。
国家の違いだけではなく、ある世代には当然のことを10歳位の年齢差があるとまるで通じない文化もある。

僕が言いたいのは、だから日本の固有の文化を守るべきだということではなく、違う国なら勿論、同じ国の中でさえ、それぞれに違う文化圏で暮らしている人たちがこの世界に混在しているということ。
人と触れるということは、その人の文化と自分の文化を交流させるということ。
思いもしなかった共通の文化を発見したり、全く相容れない文化をぶつけ合ったり。

今回、<手裏剣>というひとつの物を通して、そこにいた世代の違う4人が一瞬繋がったことによって僕が覚えた小さな感動は、普段は潜在化している無言の絆のようなものが一瞬にしてスパークしたことによるものだ。
これもまた、生きているという感じ。


  2008年12月4日(木) パチンコで負け、パチスロで勝つ
  救急医療への提言

ここ数年、救急患者の受け入れ拒否による死亡が何度も問題になっている。
受け入れる病院側の問題と同時に、救急車をタクシー代わりに使ったり、程度の軽い症状でも救急車を呼ぶなどの利用者側の問題も表面化している。
医者の数が少ないとも言われているが、工夫すればそれをカバー出来ると思う。
先日、僕の友人の脳外科医に僕の考えをぶつけたら基本的に賛同を得たので、その意見をもう少し掘り下げて書く。

現状では、昼間も診察を行っている病院の当直医が夜間の救急患者を受け入れている。
病院によって設備の差はあるけど。
大きな病院であっても、夜間診察に当てられる医者の数は限られているし、普段から入院患者がいるからそのケアもしなければならない。
それでは救急患者が重なった場合、受け入れ態勢が充分でないのは当たり前。
「なるべく受け入れたくない」という心理も働くと思う。

そこで、救急患者専門の病院を作る。
その病院では普段は診察しない。
基本的に入院患者も受け入れない(救急で搬送された患者が、そのままICUに入って移動不可能な場合を除く。治療後に入院が必要な場合も、移動可能なら他の病院へ転院させる)。
そういう救急患者だけを受け入れる24時間体制の病院を作れば他の病院の負担も減るし、受け入れ拒否もほぼなくなると思う。
救急患者と言っても、救急隊員の判断で生命にとって緊急性を要しない場合(たとえば、足を骨折したとか)はその病院への搬送は出来ないようにする。
そうすれば、本当に緊急性を要する患者を優先的に、しかも確実に治療することが出来る。
そういう病院を少なくとも各都道府県にひとつ(大都市圏なら複数)、公立(または国立)病院として作ればどうか。
新しい道路なんか作る財源があるなら、こういうことに回すべきだ。
公立(国立)の病院を建設するのも公共事業なのだから。

もうひとつ、基本的に救急車は有料にする。
僕も以前、救急車を呼んだことが2度ある。
2度(妹と彼女)とも恐らく食中毒で、夜中に嘔吐し続けたので救急車を呼んだ。
その時救急隊員の方に「出来れば救急車を呼ばずにタクシーを呼んで下さい」と言われた。
しかし、そう言われてもタクシーを呼んでもどの病院が受け入れてくれるかも分からず、タウンページで調べている余裕もなく、やはり救急車を呼んでしまうのは仕方ないと思った。
どれ位の料金設定にしたらいいのかは分からないけれど、本当に緊急なら、救急車が有料であってもちゃんと料金は支払うと思う。

と、こんな所に書いてみても何の役にも立たないような気もするが。


  2008年11月27日(木) フォークジャングルのアンケートを読む
  殺す理由と殺される理由

元厚生省事務次官連続殺傷事件の容疑者が、その犯行の理由として「犬を保健所に殺されたから」と語ったという。それを最初に聞いた時、真相を隠す為の馬鹿げた嘘だと思った。しかし、捜査の過程が明らかになるにつれ、彼の発言の真意が分かるようになってきた。と同時に、この事件をどう捉えればいいのかも分かってきた。
そして、それは僕自身にとっても大切な問題なのだ。 「犬が保健所に殺されたから」というのは、元厚生事務次官が<殺される理由>にはならない。
しかし、<殺す理由>にはなるのだ。保健所の管轄が各都道府県であり、厚生労働省が直接的に管轄している訳ではないとしても、そんな事は関係ないのだ。
あるひとりの人間の中で、殺すという行為と殺される相手が何らかの回路で繋がっていれば、それがどんな不条理な理由であれ、<殺す理由>になるのだ。

「犬を保健所に殺されたから」というのは、周りから見ると、彼が自分の行為の不条理さを正当化する為の脆弱な支えにしか見えない。
しかし、借金の為か、自分の能力の限界を感じたからか、人間に対する嫌悪からか、彼を殺人へ導いた大きな流れが何なのかという問題とは別に、「犬を保健所に殺されたから」という理由が彼の行為(或いは意志)を支えたことは間違いないと思う。

「そんなことで殺されたらたまらない」と誰もが思う。
だから、殺人事件が起こるとみんな<理由>を探し、その<理由>に納得できないと憤る。
しかし、みんな「そんなことで」殺されてきたのだ。
「犬を保健所に殺されたから」より「天皇の傍にいる奸臣を除くため」(二・二六事件)の方が人を殺す為の高尚な理由だと思う者がいるとしたら、それは完全な誤謬だ。
人を殺すのに高尚な、或いは正当な理由など存在しない。
どんな理由であれ、たとえ多くの人がその理由を支持しようとも、<殺す理由>にはなっても<殺される理由>になんかならないのだ。
殺すという行為は常に現実的な行為であり、それはまた常に不条理な理由でなされてきたのだ。

というのは、一般論だ。
続いて僕のことを書く。
僕は、自分がいつ人を殺すかもしれないといつも思っている。
普段から<非暴力主義>と言っているのと矛盾すると思われるかもしれないが、先日も書いたように自分に内在する暴力を制御することは出来ても否定することは出来ないから。
人を殺す力を持つ者が、他の人間と関係を持ち続ける限り、その暴力がいつ発露するかなんて分からない。
もしも僕が人を殺すとしたら、今まで僕を振った女性を殺すかもしれないし、親兄弟を殺すかもしれないし、不味いラーメン屋に行列を作っている奴らを殺すかもしれないし、ヘッドフォンで音楽を聴きながらケータイを観て歩き煙草をしている奴を探して殺すかもしれないし、家を出て最初に出会った奴を殺すかもしれない。
どれも、僕にとっては<殺す理由>になるのだが、相手にとってはあまりにも不条理で<殺される理由>にはならない。
殺すことと殺すことの関係はそういうことだ。
逆に、僕自身がどんな理由で誰に殺されるかも分からない。

問題は何かというと、一見不条理に思える理由で人が殺される時、「理解できない」とか「信じられない」と蓋をしてしまう人間が多いことだ。
僕からすれば、何故「理解できない」のか「信じられない」のかの方が分からない。
人は心の中にある自分だけにしか分からない(或いは自分でも把握できない)複雑な回路で世界と繋がっている。
電車の中で足を踏まれたから駅員を殺すということも、恋人に振られたから総理大臣を殺すということもあり得るのだ。
そして、人をそういう行為に駆り立てる暗い情動が生きている人間たちの中に蠢いているのだ。
「理解できない」とか「信じられない」と言う人は、心に一点の暗闇も抱えていないというのか?

先日の第97回フォークジャングルの時にも、この事件に対する想いを込めてうたおうかと考えていたうた「通りゃんせ」の中にこういう歌詞がある。

 君の暗闇は僕の暗闇
 心の奥から通りゃんせ

もしもフォークジャングルの会場で彼が犯行前に僕のうたを聴いても、人を殺すのをやめようと思う確率は限りなく低いだろう。
でも、ほんの僅かな確率でも下げることが出来るなら、それが僕がうたをうたったことの意味(うたう意味ではない)なのだと思う。
人を<殺す理由>は数え切れない程あるが、殺すことを踏み止まらせる方法も同じ位の数があるはずだから。


  2008年11月25日(火) 今年最後のフォークジャングルを終える
  見える熊、見えない熊〜テロリズムについて〜

昔、北海道を一人で旅していた時のこと。
JR川湯温泉駅で下車し、川湯温泉の共同浴場に入りに行った。
行きはバスで行ったのだが本数は少なく、帰りは駅までの2、3kmの道を歩くことにした。
ところが、この道というのが林道で、舗装されてはいるが両側は鬱蒼とした森。
しかも、夜。
街灯も少ないし、車の通行もほとんどない。
わずか2、3kmの道なのだが、バスで来た時と違って恐ろしく長く感じられ、僕はずっと独りで恐怖と闘っていた。
その恐怖の一番大きなものは、熊との遭遇。
本当にいつ熊が襲ってきてもおかしくないような場所だった。
もしも暗闇の森の中に熊がいたとしても、かなり近づくまで気付かないに違いない。
僕は出来るだけ早足で歩き、駅前に着いた時には恐怖のあまりそこにあった民宿に飛び込んだ。
それが僕が今までに感じた最大の恐怖だ。

たとえば、その同じ道を昼間歩いたらそれほどの恐怖は感じなかったはず。
熊に出会う確率は昼も夜も変わらないとしても。
それは、<見える>ことと<見えないこと>の違いなのだと思う。

テロリズムの語源が<terror(恐怖)>にあるということを僕は今まで知らなかったのだが、言われてみればなるほどである。
恐怖というのは、自分が危機に晒されるかもしれないという極度の不安に根ざしている。
テロリズムとは、普段は人の心の中で眠っている恐怖を暴力的手段によって覚醒させることである。
テロリズムが何故脅威かというと、その暴力の威力や回数ではなく、その暴力の発露の過程や今後の方向性が人々からは<見えない>からである。
人々は<見えない>熊に怯えるのだ。

それに対して軍隊というものがある。
これは普通に考えてある種のテロ集団よりも圧倒的に大きな暴力を内在している。
ところが、自分の国の軍隊に対してテロリストに感じるような大きな恐怖を感じている人は少ないはず。
これは<見える>熊だからだ。
この熊は人間が飼い慣らし、今までも急に襲いかかって来たことがないから怖くないと多くの人は思い込んでいるのだ。
この熊は自分たちに爪を向けたり噛み付いたりすることはないと信じ込んでいるのだ。
何の根拠もなく、ただの経験則で。
けれど、実はテロリストの暴力も軍隊の暴力も同じようにいつ発露するか分からない。
軍隊が国民に銃を向けた例は数え切れないほどある。
この認識が欠如しているものが、テロリズムの恐怖によって必要以上に右往左往するのだと僕は思っている。

「この犬は絶対噛み付きませんから」という犬の飼い主が時々いる。
けれど、僕はそんな言葉を一度も信じたことがない。
その犬が歯を持っている限り、そして犬である限り、今まで噛み付いたことがなくても、今初めて噛み付くかもしれないと思っているからだ。
「君子危うきに近寄らず」ということを言いたいのではない。
内在的な暴力がそこにある限り、いつ発露してもおかしくないのだという認識を持ち、その内在的な暴力そのものを嫌悪しているのだ。

テロリズムを否定するなら、同時に軍隊や暴力団も否定しなければ嘘だ。
テロリズムは特別な暴力ではない。


  2008年11月1日(土) 「新世紀エヴァンゲリオン」第弐拾話まで観る
  <侵略>という言葉をきちんと定義することから始める

自衛隊の航空幕僚長が書いた論文が問題になり、更迭された。
「大東亜戦争は侵略戦争ではない」という趣旨の論文である。
大東亜戦争については様々な歴史観で多くの人が語っているが、改めて<侵略>という言葉の定義付けをしてみたい。

実は、すごく簡単な話である。
<侵略>というのは、「一国の軍隊が武装解除せずに他国に侵入すること」である。
余りにも明快である。
戦闘のあるなしや<侵略>がもたらした結果の功罪などとは全く関係なく、その事実のみをもって<侵略>と呼ぶ。
その点が理解されていないから、すれ違いの議論ばかりになるのだ。

大東亜戦争というものは、西欧諸国によって植民地化されたアジア諸国を解放するとう大義名分で行われたのだが、その大義名分に対する賛否にかかわらず、それが<侵略>であったという事実には変わりない。
植民地の住民が喜んでいたとかとないとか、相手国の政府が容認したとかしないとか、そんな事とは全く関係のない問題なのだ。
数年前にフセイン政権下のイラクにアメリカ軍(国連軍)が侵攻したのが、それが<聖戦>と呼ばれようと<解放戦争>と呼ばれようと、<侵略>であることに変わりはない。
つまり、それは歴史観の問題ではなく、物理的事実の問題なのだ。

<侵略>という言葉を定義付けした後に問わなければならないのは、<侵略>に善悪はあるのかということである。
ここが見解の分かれる問題なのだ。
<侵略>であってもそれが大義名分を持っていれば正当化されるのだという思想の持ち主は沢山いる。
戦前も戦後も、日本でも外国でも。
しかし、例えば北朝鮮が「日本に住む朝鮮人たちを解放するために日本に侵攻する」という大義名分の下に<侵略>して来たら、それを容認するのだろうか?
もっと例を挙げるなら、チンギス・ハーンがモンゴルから中国へ侵攻したことを「中国大陸を漢民族の支配から解放した偉大な出来事である」という歴史的評価も可能であるし、アメリカ大陸へ侵攻した西欧人たちは、「原住民を非文明から解放するのだ」という旗印を掲げて略奪と殺戮を繰り返した。大義名分というのは、歴史上のどんな場面においても、誰かにとって都合のいい正しさでしかない。
<侵略>を正当化したい者たちは、常に自分の<侵略>だけを正当化するのであって、他者からの<侵略>を正当化しようとはしない。
<侵略>を認めるなら、「どんな国家も他国に<侵略>する権利を有する」というという思想であるべきだ。
それが世界中の人民の多数に支持されるかどうかは別として。

もう一点。
僕はこのニュースを聞いた時、「皇帝のいない八月」という映画を思い出した。
渡瀬恒彦主演で、自衛隊員たちが列車を占拠してクーデターを起こすという内容の映画。
この論文を書いた航空幕僚長は、かつても問題発言をしていたから、この論文が書かれた本当の意図は図りかねるが、少なくとも自衛隊にこういう思想の持ち主がいる限り、いつクーデターが起こってもおかしくない。
その成否は別にして。
たとえクーデターが失敗に終わったとしても、その過程で民間人が犠牲になる可能性は否定できない。
つまり、国家内に武器があり軍人がいる限り、国民は常にクーデターの危機を抱えているのだ。
自衛隊はシビリアンコントロールなどと謳っているが、実際に本気で突然武力行使を始めたら、シビリアンコントロールなんて鍵のないドアと同じだ。
これは、まるでフィクションのようでもあるが、忘れてはいけない事実である。

蛇足になるが、問題の論文は「アパグループ」の懸賞論文の最優秀賞を受賞したらしい。
<侵略>という言葉の意味も分からない者が書いた論文が最優秀賞を取ることに、<裏>を感じないではいられない。
ちなみに懸賞金は300万円(!)らしい。
もうひとつ。
更迭ということは、懲戒免職ではないということだ。
驚くべきことに、彼はまだ自衛隊員なのだ。


  2008年10月27日(月) やるべきことをひとつだけやった
  <夢>や<希望>という言葉はデコレーションじゃないんだぜ

橋下大阪府知事の教育問題に関する発言が問題になっている。
彼は石原東京都知事と並ぶバカだから、その発言についていちいち目くじらを立てても仕方ないとは思っているが、僕が引っ掛かった点が一つあるのでそのことについて書く。

僕が気になったのは、中山元国交相擁護発言や体罰容認発言や教育委員会批判についてではない(勿論僕は彼と同意見ではないが、語るほどの事でもない)。
「子供たちが<夢>や<希望>を持つことが大切」であり、そのために「学力の向上が必要である」という彼の発言内容。
これは二重の意味でイカれた発言である。

まず、分かりやすい方から書く。
仮に、彼の言う意味での<夢>や<希望>というものが大切だとしても、それを実現する為に必ずしも学力は必要ではないということ。
簡単な例を挙げるなら、プロ野球選手になりたい子供の成績がいい必要はないし、小説家になりたい子供は文才さえあればいい。
仮に、そういうものになるのが<夢>だとしたら、学力などどうでもいいのだ。
学力などというものは、人間の才能の一部でしかない。
それはある種の試験に合格するためにだけ必要な能力であり、人生の可能性の一部を満たすものでしかない。
教育というのは様々な面で大切であるが、学力というのは走るのが速いとか漫画を描くのが上手いとか人を笑わせるのが得意というのと同等の能力でしかないことを彼は理解していないのだ。
そして、先程から「仮に」という言い方をしてきたが、たとえば「プロ野球になる」というのは<夢>ではない。
それは<目標>である。
才能と努力の先にある、達成可能な目標である。
達成出来るかどうかは別にして、そこへ辿り着く為の方法が既に確立されているものを<夢>とは呼ばない。

次が僕が本当に書きたいことなのだが、<夢>や<希望>を持つことが本当に大切かという問題。
まず、<夢>について書く。
たとえば、自分の子供が「将来の夢」として「世界中の人を素手で皆殺しにすること」と言ったらどうするだろうか?
或いは「東京という街を完全に破壊して、その跡地をすべて農地に変える」と言ったらどうするだろうか?
これは、間違いなく壮大な<夢>である。
並大抵の努力では出来ないし、自ら道を切り拓かなくてはいけないし、人生を賭ける覚悟も必要である。
あなたの子供がそういう作文を書いたらどうするだろうか?
もしくはあなたが教師で、生徒が真面目にそういう作文を提出したらどうするだろうか?
価値観というのは多様である。
ヒトラーを賛美する者もいればガンジーを崇拝する者もいる。
そういう子供がいてもおかしくない。
<夢>を持つことは大切だと教えながら、その子供の<夢>を否定することが出来るだろうか?
<希望>について書く。
<希望>というのは、漠然とした明るい未来のことではない。
<希望>というのは、絶望的で強固な現実の中で、針の穴のように見える光に向かって進む覚悟のことである。
「なんとなくよくなるんじゃないかな」という楽観のことを<希望>と呼ぶのではない。
「どうしようもないかもしれない」状況の中で、自分が進む道に命を掛けることである。
それを子供に要求すべきなのだろうか?

つまり、僕が言いたいのは、彼の発言にしろ、街に流れる流行歌にしろ、<夢>や<希望>という言葉をあまりにも安易に、それ故に蔑ろに使い過ぎているということだ。
<夢>や<希望>は人生を飾るデコレーションではない。
これらの言葉には、人類がこれまで背負ってきたものと等量の苦悩や苦痛が代償として含まれているのだ。
たとえば、「世界中から核兵器を廃絶する」のを<夢>だとするなら、それは人類が生まれ持っている暴力の問題から解決しなくてはいけない。
決して簡単なことではないのだ。
だからこそ逆に、<夢>や<希望>を持たずに生きる人生を否定する権利は誰にもない。
そういうものと無縁に生きたって構わないのだ。

言葉を安易に使う人間を僕は信用しない。
きらびやかな言葉を使いたがる人間を特に信用しない。
少なくとも大人と呼ばれる人間は、自分の発言する言葉の意味を正確に理解しておく必要がある。
そうでなければ、子供たちに<夢>や<希望>の本当の意味を教えることは出来ない。


  2008年10月26日(日) またもや会場が取れず
  女流プロ雀士の指を見て思ったこと

GyAOで麻雀の番組を観てみた。
麻雀にも女流プロがいるというのはなんとなく知ってたけど、こんなにも沢山いて、しかも美しい人が多いのにびっくりした。
で、他の室内ゲームの女流プロと比較してどこが違うのか考えてみた。

まず、将棋や囲碁の女流棋士に比べて、麻雀の女流プロになる方が確実に易しい。
例えば、将棋の場合、競技団体は基本的に一つしかなく(女流は二つだが)、育成会や奨励会での長年に亘る実践での勝敗がすべてであり、少しずつ昇段を積み重ね、勝ち続けなければプロになれないし、プロの枠は年間数名しかない。
しかし、麻雀では各競技団体がプロを認定していて、かつ、筆記試験と実技試験の一発勝負なので、修行期間というものはほとんどないと言っていいに等しい。
と言っても簡単になれる訳ではないが、タレントのくまきりあさ美もプロ雀士の資格を持っていることでその難易度が分かると思う。
タレントが将棋の女流プロになるのはほぼ不可能と言っていいから。

けれど、それには良い面も悪い面もある。
良い面は、様々な女性がプロになる可能性を秘めている点である。
先程くまきりあさ美が女流プロの資格を取ったと書いたが、女流プロ雀士の中には、元タレント、元レースクィーン、元ミス奈良など様々な経歴の持ち主がいる。
つまり、幅広い層のファンを取り込む可能性を秘めているということが言える。
更に、その職業を目指しやすいということは、有望な新人を取り込みやすいということも言える。
悪い面は、技術力が全体的に低くなってしまうということ。
プロと名乗る限り、アマチュアとは明らかにレベルの差があるべきである。
しかし、麻雀というゲームの持つ偶然性に依存する部分を除いたとしても、恐らく女流プロ雀士はアマチュアのかなりの愛好家より強いとは言えない。
将棋や囲碁では、プロは少なくともアマチュアのトップよりは強いのと対照的である。
ただ、女流プロ雀士というのは、単にトーナメントプロという要素よりもレッスンプロとしての役割が大きく、ファンが美しい女流プロと卓を囲めることによって麻雀の普及に貢献しているという面は計り知れず大きい。

前置きが長くなったが、、僕が本当に書きたかったことは、女流プロ雀士たちの手、指、爪の美しさである(勿論顔が美しい人も多く、特に二階堂姉妹の姉・瑠美さんはとてもタイプ)。
勿論対局の邪魔になるので付け爪などはしていないし、ネイルアートをしている人も少ないが、女流プロ雀士たちの手、指、爪は本当に美しく、よく手入れされているのがはっきりと分かる。
ちょっと見とれてしまうくらい。
つまり、手や指や爪を綺麗に整えるということに細心の注意を払っているということが、女流雀士たちのプロ意識の表れなのだと僕は思った。
プロというのは、技術力の高さだけが問われるのではなくて、牌をツモる所作の美しさ、指先の華麗さ、爪の光沢なども含めて、<魅せる>ということを意識すべきである。
そういう意味で、彼女達は本当の意味でプロなのだなぁと感心した。

プロというのは、色んな面で最高のクウォリティーを提供する者の呼び名なのだということを彼女達から学んだ。


  2008年10月24日(金) 4連休初日をぼんやり過ごす
  給食のパンを喉に詰まらせて死んだ子供の責任問題を問うなら

千葉で給食のパンを喉に詰まられて小学6年生の児童が死んだ。
この問題の責任の所在について書く。

まず、結論。
100%児童の責任。
これは、赤信号で横断歩道を突っ切って車に轢かれるのと同じこと。
パン製造会社にも学校側にも責任はない。
小学6年生の児童が学校で死んだことを可哀相だと思う気持ちと、責任問題を混同してはいけない。
僕自身も小学生時代にパンを無理矢理頬張ったこともあるし、牛乳を一気飲みしたこともある。
もしあの時死んでいたら、それは間違いなく僕の責任だ。
そして、他の様々な問題で学校側の責任が問われるのなら、この事件によって授業が停滞したこと等について親に損害賠償を求めるべき。
その位しないと、子供を甘やかす親がいつまでも増長することになる。
何故、もっと児童と親の責任を問う論調が多くないのか不思議だ。
勿論、子供を持っている親は違う角度でこの問題を捉えているのだろうが。

僕は観ていなかったが、少し前に<モンスター・ペアレント>を題材にしたドラマが放映されていた。
思うに、もはや「昔はよかった」などと言っている場合ではなく、<モンスター・ペアレント>の暴力に対して、学校側が法的にきちんと対抗する措置がとられるべきである。

最近知ったのだが、ネット上に<署名サイト>なるものがあり、誰かが問題を提唱し、ネット上で署名活動をするのをバックアップしているサイトである。
その中で現在最も署名数が多いのが、「こんにゃく入りゼリーの販売中止に対する反対署名」である。
僕個人としてはどちらでもいいが、餅を喉に詰まらせるにしても、蒟蒻ゼリーを喉に詰まらせるにしても、それは間違いなく食べる側の責任であると僕は思う。

<食の安全>というのは、食物自体に危険性のある成分が含まれているかどうかという問題であり、食べる時の責任は100%個人にあるということをこの際徹底すべきである。


  2008年10月9日(木) 拳法の使い手と闘う夢を見る
  世界同時株安

完全に門外漢の僕がこのテーマについて書くのはおかしいかもしれないけど、あえて素人としての見解を書く。

マスコミはこの件について煽り立てて報道している。
でも、僕はすごく楽観視している。
すべての会社が倒産する訳ではないとしたら、いつか必ず株価は底を打つ訳だし、だとすれば、行きつ戻りつしながら下落しているのではなく、こんな風に直線的に下落している今は長期的に観ると逆にチャンスと言えるのではないか。
僕が大金持ちだったら、今こそ株を買うけどね。
今は底が見えないし、底の時期がどれくらい長く続くか分からないけど、平均株価が0円になるということはないし(それは国が潰れる時)、現実的に企業はちゃんと存続して生産活動をしているし(倒産する企業も幾つかあると思うけど)、だとしたら今のうちに複数の株を買ってしばらく持っていたら絶対にいつかは儲かるはず。
少なくとも現在の平均株価の水準は、素人目にも既に明らかに下がり過ぎている。
たとえば、平均株価7000円になんてなるとはとても思えない(なったらゴメン)。
僕は本当は株なんて興味ないし、マスコミが一時デイトレーダーをもてはやした時なんて馬鹿げてると思ってたけど、お金が有り余っている人はチャンスと観るべきだと思う。
あくまでも、金持ちだったらの話だけど。

何よりも僕が言いたいのは、マスコミが連日報道しているほど悲観すべきではないということ。
もっと楽観視する姿勢、その楽観視が作り出す空気感こそが大切だと思う。

それはそれとして、僕の義理の弟(妹の旦那)は証券マンだから大変みたい。
僕だったら「今がチャンスでっせ」とあくまでも強気にお客さんたちに言うけどね。


  2008年9月27日(土) 新しいカポを買う
  アンチ<電マ>論

ここ数年、<電マ>なるものがアダルトビデオ業界を席巻している。
いわゆるハンディ型の電動マッサージ機のことだ。
それを本来の用途ではなく、大人のオモチャ代わりに使用しているのだ。
この類のものは以前からアダルトビデオで使用されていたが、<電マ>の性能が向上したようで、今ではこれが使われていない作品の方が少ないのではないかとさえ思える。
電池ではなくコンセントからの電源を使う為に強力で、本来の大人のオモチャであるバイブレーターやローターよりも使用効果が遥かに大きいようだ。
<電マ>を使えば簡単に女性をイカせることが出来るらしく、また近年流行している<潮吹き>をさせるためにも有効らしい。

しかし、僕はこれが使われる場面が嫌いなのだ。
無料エロサンプル動画をダウンロードする時も、これが使われている場面はほとんど削除している。
見ていると、確かに女性は気持ちよさそうなのだが、僕はそれに反比例して醒めていくのを感じる。
何故自分が<電マ>を嫌いなのか、そういう場面で醒めてしまうのか、今読んでいる谷崎潤一郎がちょっとヒントになって考えがまとまったので書いてみることにする。

僕は多分どちらかというとMだ。
「私、どMなんです」とか「俺、どSだから」とかいう言葉にうんざりしている(本物のどSやどMの人は恐らく生死の境で勝負している)し、そういう色分けを簡単にするのは好きではないが、「SはサービスのS」という言い方を信じるなら、僕はどちらかというと受身である。
ただし、僕は基本的に痛いのが嫌いなので、例えば刺青やピアスなどを見ているだけでも嫌な気分になる(「蛇とピアス」なんて観に行く気にならない)。
そういう意味も含めて、鞭で打たれたりとか蝋燭の蝋をたらされたりなどというクラシックなSMのやり方も一切興味がないし、ましてや<拷問>という言葉を聞いただけでゾクゾクするというタイプでもない。
しかし、美しい人に踏みつけられたり、唾を吐きかけられたり、聖水を浴びせられたりするのには、とても興味がある。
と言うか、してほしい。
是非して欲しい。
この違いは何か?
で、考えたのだが、鞭で打たれることと踏みつけられることの差は何かというと、痛みの違いだけではなく直接的か間接的かということだと気付いた。
自分と相手の間に、鞭という道具が介在しているか、そうではなくて直接(体液の場合もある意味で直接だと思う)触れられているかの違いなのだ。
SがMの肉体をいたぶることによって、精神的には奉仕しているという意味では変わりはないのかもしれないが、僕はそこに決定的な違いに感じる。
たとえば、ビニール手袋を嵌めて愛撫されるのを想像してみたらいい。

元の話に戻る。
<電マ>はあくまでも間接的な道具である。
女性のエクスタシーにとってどれだけ大きな効果をもたらすとしても。
それは、触感というものを無視し、女性の体に間接的に触れ、効果の大きさだけを期待するものであり、皮膚感覚に基づく相手と自分の関係性を断絶させている。
アダルトビデオを観るということは、セックスの仮想体験であるのだが、そこには本質的に触感へのあくなき飢餓が存在している。
アダルトビデオによって視覚や聴覚は疑似体験によって満たされるかもしれないが、そもそも最も満たされないものが触覚なのだ。
<電マ>は、その最も飢えたる部分を初めから排除している点で、最もアダルトビデオの本質から懸け離れた存在なのだと僕は断言したい。

アダルトビデオをひとつのショーと考え、女優が<電マ>で激しく感じたり、<潮吹き>をするのを見せるだけのものであるとしても、そのショーはあまりにもステレオタイプだ。
それは、男優がこれでもかいうくらい速く腰を振るだけのショーと同じくらい安直だ。
激しく腰を使うのがセックスなのではない(かつて吉原君から教えられた<スポーツセックス>という言葉が正にこれに当てはまる)。
撫で回し、舐め回し、涎を垂らし、唾を吐きかけ、息遣いを感じ、そこから搾り出される声に包まれ、悶える相手を見つめる恍惚。
そうして研ぎ澄まされると同時に拡散していく感覚の中にいることが、セックスなのだ。
<電マ>では、どこまで行ってもそこにたどり着くことは出来ない。


  2008年9月20日(土) 久し振りの風邪ひき
  つゆだくの基準

僕は牛丼を注文する時はほぼ<つゆだく>でお願いしている。
牛丼の具そのものよりも、どちらかと言うとあのつゆが掛かっているご飯の方に魅力を感じるからだ。
余談になるけど、ちらし寿司を食べる時はご飯の上からわさびを溶いた醤油を掛ける主義だ。
具として載っている刺身よりも、わさび醤油の味がほのかに付いた酢飯が好きだからだ。

本題。
先日、松屋で牛丼<つゆだく>をテイクアウトして家で食べてみると、どう見ても普通の<つゆ>の量よりも少ないくらいの牛丼だった。
逆に、随分前に別の店で<つゆだく>を注文したら、ご飯が完全に水没するくらいシャバシャバの<つゆだく>が出て来たことがあった。
<つゆだく>という注文に対して出て来る牛丼にあまりにも差があるため、「<つゆだく>の基準って一体どうなってるんや?」と疑問に思った。
で、今後のことも考えて、松屋フーズに<つゆだく>の基準について質問のメールを送ったところ、丁寧な返事が返って来た。

結論を言うと、松屋では<つゆだく>というのは「マニュアルで規定量の2倍までを限度」としてつゆを掛けている状態だとそうだ。
吉野家のことは知らないが、おそらく似たような基準があると思う(僕は吉野家派ではないので、吉野家で<つゆだく>を食べたことがない)。
それにしても、「規定量の2倍までを限度」ということは、1倍以上2倍以下というかなり大きな振れ幅がある。
それでは店によって違いがあるのは仕方ない。
もしも本気の<つゆだく>が欲しかったら、「<つゆだく>マックスで」と注文しなければならないのだろう。


  2008年9月12日(金) 41歳最後の日
  消費税廃止論

現在、自民党の総裁選が行われている。
その候補の中には消費税率アップを公言しているキチガイがいるが、以前予告していた通り、そういうキチガイに対して真正面から消費税廃止論を書きたいと思う。
 
まず、一点。
消費税率引き上げ分を福祉のためだけに使うという<福祉目的税>化を唱えるキチガイがいる。
しかし、そもそも消費税自体が反福祉税であり、それを福祉に充てるという発想自体が間違っている。
それによって恩恵を蒙る人もいるだろうけれど、恩恵を蒙ることなくより一層困窮する人も出て来る。
そう考えれば<福祉目的税>などと言える訳がない。
そんなことを言う奴らは、キチガイと断定して間違いない。
 
次の点。
欧米と比較して日本は消費税率が低いという意見。
まず、欧米と比較する必要などなく、この国が世界最高のオリジナルな税制を作ればいいという発想がないのは、政治の貧困である。
たとえば仮に比較するなら、日本の現行の消費税では、日常生活品目も一律の税金が掛かっている。
欧米の多くの国では生活必需品の税率は下げている。
そういう議論も蔑ろにされているし、欧米の税制が成功している訳でもなく、やはり貧困層の不満は蓄積している事実も見逃してはいけない。
 
別件であるが一点。
公明党が<定額減税案>を打ち出している。
確かにそれは低所得者層には有利である。
しかし、それはそれこそ<ばら撒き>以外の何物でもない。
恒久的な定額減税ならば話は別だ。
しかし、それにしても例えば失業して完全に所得がない者に対しては減税にならない。
けれど、そんな人も相変わらず消費税は払い続けているのだ。
これでは駄目なのだ。
それに、たとえば労働者一人当たり1万円ずつ減税したとしても、6400億円必要になる。
一人一人に対しては<焼け石に水>でありながら国庫の負担が大き過ぎて、何の解決策にもなっていない。
 
そして、僕が最も強調したい点。
財源の確保のためには、まず所得税の累進化税率を上げるべきである。
これについては詳しく書く。
 
ちょっと余談になるが、先日友人と喋っていた時、小泉内閣が所得格差の元凶のように彼は言った。
同様の意見を述べる評論家も多い。
しかし、実はその路線は遥かに前から引かれていたのだ。
 
現在、所得税の最高税率は、1800万円以上に対する40%である。
(ちなみに最低税率は195万円以下に対する5%)
ところが、25年前の1983年までは、所得税の最高税率は8000万円超に対する75%だったのだ。
それが1984年に8000万円超に対して70%に引き下げられ、更に1987年には5000万円超に対して60%にまで引き下げられたのだ。
ちなみに、この連続引き下げが行われたのは、あの最悪な中曽根内閣の時である。
そういう意味では、中曽根内閣が現在の所得格差の元凶であるとも言える。
そうとも言えるが、それもこれも結局は国民が選んだことなのだから、本当の元凶は国民全体であるということは忘れてはいけない。
更に言うなら、1800万円超に対して37%という過去最低税率に引き下げられたのは1999年から2006年まで、引き下げ当時は小渕内閣である。
そう、この路線は小泉内閣より遥か以前に軌道に乗ってしまっていたし、ずっと継承されてきたのだ(小泉内閣を擁護するわけではなく、真相を捉えるために書いた)。

 高額所得者の所得税率がこのように引き下げられているのにも関わらず、財源確保のために消費税率を上げるという考え方は全くイカレている。
金を持っている奴からまず出来るだけ金を取って、それで足りない場合のみ消費税率の話をすべきなのだ。
 
僕が考える累進課税について書く。
現在の日本の累進課税は、単純累進課税と呼ばれるもの。
これでは、その基準額の前後で大幅に税率が変わるため、所得を敢えて抑えるというような操作が行われるし、よく言われているように労働意欲の問題も絡んでくる。
そうではなくて、超過累進課税型で、かつその段階を細かく分けるべきなのだ。
 
数値を単純化して、簡単に説明する。
たとえば、100万円の所得者(A)に対して1%、200万円の所得者(B)に対して2%、1000万円の所得者(C)に対して10%の所得税だとする。
この場合、Aの所得税は1万円、Bの所得税は4万円、Cの所得税は100万円となる。
ところが、199万円の所得者は1%課税になるので所得税は1万9900円で、Bとの所得差は1万円にも拘らず、所得税は2万100円も安い。
同様に、999万円の所得者は2%課税になるので、所得税は19万9800円となり、Cとの所得差は1万円にも拘らず、所得税はは81万200円も安くなる。
数値を単純化したが、僅か1万円の所得差でこの税額の差は激しすぎる。
これが現行の税制の例である。

そうではなく、0〜100万円までは1%、100万円〜200万円までは2%、200万円から300万円までは3%というように、一人の所得者に対して、所得額を輪切りにして何段階かの累進課税率を掛けるようにする。
こうすると、100万円の所得者(A)に対して1%で所得税1万円、200万円の所得者(B)に対しては100万円までの1万円と200万円までの2万円を併せて所得税3万円、1000万円の所得者(C)に対しては10段階の税率が掛けられ55万円となる。
この場合、199万円の所得者の税額は2万9800円、999万円の所得者の税額は54万9千円となり、段階による所得税差が少なくなる。
ということは、その1万円を稼いだら税金が高くなるから働かないという考えがなくなる。

今は分かりやすい数字を使ったが、例えば累進率を等比級数的に上げて、100万円まで1%、200万円まで2%、300万円まで4%、400万円まで8%、500万円まで16%というような形も可能である。
これでも1万円の所得の違いで劇的に税金が上がることはない。
なぜなら、常にある一定の所得は確保されているからだ。
この税制は、一見計算がややこしいように思えるが、一旦パソコンに計算式を入力すれば、簡単に答えの出せる計算である。
だから、どれだけの累進化税率にすれば現行の消費税分を賄えるかという逆試算も簡単なはずだ。
 
例えば、1億円以上の所得者に対して現行のやり方で99.9%の税率を課せば10万円しか残らなくなるが、輪切り型の累進課税の場合、1億円以上の所得分にだけ99.9%の税率が掛かるので、他の生活者と同じように生活する分の金額は保障される。
この方式だと、<超>の付く金持ちがいなくなり、貧困層は潤う。
 
今は所得税だけの累進課税の話をしたが、有価証券への課税、固定資産税等もこの方式の累進課税を導入すれば、超豪邸もなくなるし株成金もなくなる。
その分、庶民が潤う仕組みになる。
 
後は、これを是とするか非とするかである。
消費税は1%が2兆3000億円くらいと言われているので現行の5%を廃止したら、11兆5000億円ほどの減収になる。
これは恐らく、所得税等の超累進課税化で賄える金額である。
逆に、現在の所得税総額は15〜20兆円ほどなので、仮に所得税を廃止してすべて消費税にするなら消費税は12〜14%になる。
どういう路線を選ぶかは国民次第である。
しかし、本気でこの国の国民が弱者切捨ての方針を変えないなら、僕も本気になろうと思う。
 
今は税収だけの話になったが、勿論歳出の問題も多々ある。
そういう点も加味すれば、消費税は充分に廃止できるし、頭の悪い政治家が簡単に操作可能な<消費税率>という道具を彼らに与えてはいけないと僕は思う。


  2008年8月25日(月) 開会・閉会のセレモニーも不要と思う
  「勝った者が強い」という言葉の浅はかさ

昨日、この項に<五輪に要らないもの>を書き、それで今回の五輪について書くのは終わりにしようと思っていた。
しかし、野球の星野監督の帰国会見の内容を知り、やはり書かねばと思い直した。
彼は「勝った者が強い」と言ったらしい。

今回の星野JAPANに対して、様々な批判があるのは当たり前だし、僕がわざわざ書くこともないと思っていた。
恐らく各方面で批判されていることはほぼ当たっているし、キューバに一敗、アメリカに二敗、韓国に二敗したからこそ、紛れもなく(そう、文字通り<紛れ>がなく)4位だったのだ。
それが問題なのではなく、彼の発言が問題なのだ。

「勝った者が強い」。
この言葉は、スポーツだけでなくあらゆる闘いの中で繰り返し使われてきた言葉だ。
すごく似た言葉で「勝てば官軍」という言葉があるが、この違いが分からないで使っている人が案外多いのではないだろうか。
僕は以前から「勝った者が強い」という言葉には疑問を持ち続けてきた。
特に、敗者が言い訳するのを避けるためにこの言葉が繰り返し使われてきたように思える。
敗れた日本の柔道選手が口にするのを何度も聞いたことがあるように記憶している。
しかし、僕はこの言葉はあまりにも浅はかだと思う。

<強い・弱い>というのは、あくまでも相対的なことだ。
ヒクソン・グレイシーは四百戦無敗だと言うが、機関銃を持った少年に勝てるはずはない。
天才と呼ばれる将棋の羽生善治でも、通算勝率は7割強にしか過ぎない(それでも凄いが)。
北島康介が100m平泳ぎ決勝の同じ選手達と百回レースをして百回勝てるとはとても思えない。
つまり、「勝った者が強い」のでも「強いから勝った」のでもなく、誰かがその時の勝利を掴んだに過ぎないのだ。
<強い・弱い>というのは、時間軸の中、相手との関係性の中で常に揺れ動いている。
そういう意味でも、「勝った者が強い」という認識の単純化は、その後に何も生み出しはしない。

大切なのは、勝利というものは、一瞬のものでしかないという認識だ。
その勝利の栄光がその後いつまで続くかは別として。
その認識を誤っている者は、勝てば驕り、負ければ無反省にうつむくことだけしか出来ない。
一瞬の勝利を掴むために、常に最大の努力をすること。
闘いはその繰り返しでしかないのだ。
その認識が出来ていない者は、それまで<たまたま>勝ち続けていた者であっても、必ずもろくも敗れる時が早晩やって来る。
平家や日本陸軍の例を持ち出すまでもなく。

だから、僕は「勝った者が強い」という言葉を信じていないし、そういう発言をする者を認めない。
少なくとも日本のスポーツ界において、今後この言葉が絶滅することを願う。


  2008年8月24日(日) 高橋和巳と三島由紀夫の対談を読む
  五輪に要らないもの

北京五輪をずっと観ていた。
僕は基本的に五輪廃止論者である。
そのことは4年前にもこの項に書いたから繰り返さないが、今もその考えは変わらない。
ただ、僕はあらゆるスポーツが好きなので、世界最高レベルの選手達の闘いを観るために五輪は出来る限り観る。
そんな中で、この五輪で要らないと感じたものについて書く。

まず、うた。

最悪だったのは、フジテレビの中継でCMに入る前に流れる「あきらめないで♪」といううた声。
ほとんどの選手が、最後の最後まで全力で闘っている。
しかも彼らは世界最高峰の選手たちである。
そんな選手達に対して、「あきらめないで」というのは失礼にも程がある。
その声が聞こえる度にうんざりすると同時に、仕方ないとはいえ、競技が続いているのにも関わらずCMに入る民放は五輪を中継すべきではないとつくづく思った(するなら、最初と最後にまとめてCMを流すべき)。

もうひとつはNHKで使われているMr.Childrenの「GIFT」といううた。
大会のダイジェスト映像を流しているBGMでこのうたが掛かっているのを聴きながら、なんて下らないうただろうと思った。
これは、槙原敬之の「世界に一つだけの花」以来日本の音楽界に続く、似非平等主義と似非個性主義の歌詞の流れの中にあるうたであり、うたうたいとして僕の乗り越えるべき課題でもある。
五輪という場所は、世界各地で己を研鑽してきたアスリート達が白黒を付けるために集まった場所であり、それ以外の何ものでもない。
ちょっと脱線するが、平和の祭典という理念があるとはいえ、それが絵に書いた餅であるということは、ボイコット問題があったモスクワ五輪やロサンゼルス五輪を経験した僕たちは実体験として知っている。
そういう五輪にあって、ひと言で要約すれば「あなたはあなた色で輝いている」というメッセージのうたは全く五輪の本質から外れている。
「みんなよく頑張ってる」というメッセージをうたで流しながら、メダリスト達のダイジェスト映像を流す矛盾を感じつつ、「みんなよく頑張ってる」のは当たり前のことであり、その先にあるものを選手達は求めている訳だし、だからこそ観る側は感動するのだ。
そのダイジェスト映像を、音を消して観たら、うたによって覆い隠されてしまった本当のスポーツの美しさが見えて来るのが分かるはずだ。
スポーツの背景にうたは要らない。

最後に、馬術競技に日本人最年長で出場した法華津選手の馬が、場内の巨大ビジョンに驚いて突然走り出してしまったこと。
どんな競技でも、同じ条件で闘っている訳で、彼の馬だけが驚いたことは敗北の理由になんかならない(同様に、野球の星野監督の言い訳は馬鹿げている)。
ただ、そもそも馬術競技場に巨大ビジョンの必要などないのだ。
観客にとってはそれによって競技が観やすくなっているのだろうが、競技者にとっては妨げにしかならない。
「競技は、選手達のものであって、他の誰のものでもない」という基本的な思想が覆されているからそういうことが起こるのであり、それは競泳の決勝種目がアメリカの放送局の都合で午前中に行われたことと同じ問題なのだ。
本当にスポーツを愛している者は、彼らが最高のコンディションで最高の闘いを見せてくれること、それだけを望んでいる。
五輪というものがそういう場でありえないなら、最初の話に戻るが、五輪なんかなくなった方がいい。

メダリストたちの凱旋帰国に浮かれているのはそれでいいが、この五輪をちゃんと評価し直すのもメディアの責任だ。


  2008年8月22日(金) 最近、揺れで震度がほぼ分かるようになる
  「す」

軽い話をひとつ。

僕は、手の甲にメモを書いている女の子がすごく好きだ。
はっきり言って、愛おしい。
自分の左手の親指の付け根の辺りに、忘れないようにとボールペンでメモを書いている女の子。
コンビニの店員さんが、「ゴミ出し」と書いていたり、事務員の女の子が「きって(切手)」と書いていたり。
そういうのを見つける度に、その文字ごとその女の子の手の甲を舐めたい変態的な衝動に駆られる。
そう、言うまでもなく僕は変態なので、その女の子が許してくれるなら、人前であろうがお構いなしに、僕はその場でその手を舐め回すだろう。

先日、パチンコ屋のカウンターにいるかわいい女性店員さんの手の甲にメモが書かれているのを見つけた。
僕は相変わらずドキッとしたのだが、その文字が何故か「す」の一文字だった。
「す」?
どういう意味?
パチンコ屋で「す」って何?
その「す」がどういう意味か尋ねたい衝動をぐっと抑えてその場を去ったものの、今も気になっている。


  2008年8月17日(日) 男女の卓球に感動する
  「父母未生以前汝が本来の面目如何」

夏目漱石の「門」を読み終えた。
今更何故夏目漱石なのかというと、現在読みかけ(何故読みかけなのかは別の場所で話す)の高橋和巳の「邪宗門」に、上記の公案「父母未生以前汝が本来の面目如何」が載っていて、それは夏目漱石の「門」の中でも課せられた公案なのだと書かれていたから。
夏目漱石が一体どういう答えを用意したのかを知りたかったからだ(結局、答えの部分は伏せられたままだったが)。

さて、「父母未生以前汝が本来の面目如何」というのは有名な公案らしいが、僕は初めて知った。
というのは嘘で、昔「邪宗門」を初めて読んだ時(20代前半だったか)に触れているはずなのに、その時は意識しなかったのか、全く覚えていない。
この公案は噛み砕いて言うと、「父母が生まれる以前のおまえの本当の姿とは何か?」というような意味らしい。
難問と言えば難問である。
これまでに、禅宗の僧のみならず多くの人がこの公案に向かったのであろう。
僕なりに答えてみる。

ちょっと前置きになるが、この少し前に僕はドゥルーズの「フーコー」を読んでいた。
これは、いわゆる西洋哲学(形而上学)批判の中から生まれた現代思想の奔流の中のひとつの流れを示すもので、禅宗の公案とは基本的に無関係の物であるが、僕にとっては同じ延長線上にあるのだと感じられた。

まず、ひとつ大枠の答えとして、「<設問>というものが、そもそも<魔>である」。

この世には、ありとあらゆる<設問>が存在する。
「神様とは何ですか?」
「あなたは今幸せですか?」
「戦争をなくすためにはどうしたらいいですか?」
「あなたが命を懸けても守りたいものは何ですか?」
「死刑は必要ですか?」
「生きている意味って何ですか?」
等々、数限りない<設問>が僕たちの目の前にある。
勿論、そのひとつひとつに答える必要などない。
しかし、生きていく中でふと、何かの<設問>に絡め取られる時がある。
或いは、自ら望んで何らかの<設問>に立ち向かうことがある。
ところが、それが<魔>なのだ。
<設問>に捕えられると、答えを求める無間地獄に陥ることになる。
つまり、<設問>というのは、まるで何処かに決まった答えがあるかのようなしらっとした顔をしてそこに存在するのだが、それは、半身だけ作られた彫像のようなもので、実は本当はそれだけで完結した存在なのだ。
「?」は、残りの半身が何処かにあるかのように見せかける罠なのである。
形而上学というのは、大雑把に言えば、この罠の上に建てられた巨大な空中楼閣だとも言える。
凄く単純な罠なのだが、西洋では<神>という架空の答えを最初に据えてしまったために、あらゆる<設問>に対して、あらゆる架空の答えを創作しなければならなくなったのだ。
これが西洋哲学史の根本的な問題点であり、現代思想はこの批判から始まる。
いわゆる「<神>は死んだ」(byニーチェ)。

言葉という存在の問題を軸に据えて、もう少し書く。
これは長くなるので別の項目に書こうと思ったのだが、同じ根を持つ問題なのでここに書くことにする。

言葉というのは、言わば<蜘蛛の巣>である。
果ても見えず、あまりにも複雑に絡み合った<蜘蛛の巣>である。
しかも、誰かがひと言語る度に、絶えずその様相を変え続ける<蜘蛛の巣>である。
更に、困ったことに、蜘蛛であるはずの自分もそこに絡め取られて身動きが出来なくなる可能性を秘めた<蜘蛛の巣>なのである。
もっと困ったことに、その蜘蛛の糸は体の内部にまで常に繋がっていて、半ば肉体化してしまっているのである。

これを前提に更に比喩的に書くなら、西洋の形而上学というのは、見渡す限り何処をどう取っても正六角形で出来た整然とした<蜘蛛の巣>を張ろうという試みの歴史であると言える。
「周りがどれだけ複雑に思えても、最後はこの整然とした正六角形の<蜘蛛の巣>に帰結するはずだ。何故なら<神>がいるから」というのが、少なくともヘーゲルまでの西洋思想史の本流である。
ところが、正六角形の<蜘蛛の巣>というのは、人間があくまで作為的に作り出したものにしか過ぎない。
「ほら、これが綺麗だろ!<神>もこれがお望みだろ!」って。

言葉というのは、<道具>にしか過ぎない。
包丁やバットや歯ブラシ等と同じである。
ところが、それらの<道具>が常に人間の外側にあるのと違い、言葉は人間にとって肉体化した{<道具>でもあるという点が、言葉の問題を複雑化しているのだ。
包丁は、手を離せばもうその瞬間に縁が切れている。
ところが、言葉は語らなくても常に<蜘蛛の巣>と繋がったままなのだ。
それ故に、単に<道具>にしか過ぎない言葉を、人間は自分自身であると勘違いしてしまいがちなのだ。
本当は、言葉で捉えることが出来るのは言葉だけでしかない。
それを見失った時、言葉への過信が始まる。
ただ、過信するのもあながち無理はない。
他の様々な<道具>と違い、言葉はあまりにも複雑な機能を持った<道具>でもあるからだ。
包丁は何かを切るか、何かを刺すかくらいだが、言葉は、人を喜ばせ、悲しませ、怒らせ、立ち止まらせ、歩ませ、奮い立たせ、沈ませ、悩ませ、狂わせ、死なせるような恐るべき<道具>だからだ。
だから、普段はそれが<道具>にしか過ぎないことを見落としがちなのだ。

で、元の問題に戻る。
西洋思想史から外れ、東洋哲学史(主にインドから中国)においても勿論、言葉に対する過信はあり、様々な<設問>の中で真理は探求されてきた。
しかし、東洋史にとって幸いだったのは、絶対的な<神>の不在である。
それ故に、<悟り>という概念が登場するのである。
僕なりに解釈するなら、<悟り>というものは、「肉体化してしまった言葉を超克すること」である。
これは非常に難しいし、ぶっちゃけて言えば<悟る>必要なども一切ないのだが、真理の探求の方法論として、西洋よりも明らかに深化している。
つまり、西洋の現代思想というのは、言葉という<道具>そのものによって、これまでの言葉が築き上げてきた<蜘蛛の巣>に闘いを挑んでいるのだが、東洋思想の方法論は、そもそもその<道具>を棄ててしまおうということである。
簡単に言うなら、武装に対抗して更に強力な武装をするのが西洋哲学なら、武力放棄によって平和を求める方法論が東洋哲学である。
しかし、東洋哲学においても、そこで求められるものは、真理などという架空の化け物ではない。
ひと言で言うなら、<言葉に支配されない感覚への到達>である。
例えば、「色即是空 空即是色」などという言葉も、それを真理として捉えるのではなくて、<悟り>へのヒントが書かれた詩であるという位の解釈でいいと思う。
勿論僕は悟ってなどいないので分からないが、<悟り>というものも、人間の、或いは言葉という<道具>に呪縛された人間の、そこから解放されようという欲望の果ての断崖からの投身を意味しているのかもしれない。
<悟り>がある種の<絶対>を仮定しているのだとしても、あくまでも相対的な意味で、人間の在り方のひとつの形態でしかないと僕は捉えている。
人間がいつか言葉という<道具>を棄てる日が来れば(何万年後かに本当に来るかもしれない)、<悟る>意味もなくなってしまう。
逆に言うなら、言葉という<道具>を使い続ける限り、僕たちは常に<魔>と格闘し続けなければならない。

本当に元の問題に戻る。
禅宗における公案を考えるということは、言葉という<道具>を用いながらも、<言葉に支配されない感覚への到達>する(<悟る>)ためのヒントを得る修行である。
それは素晴らしいことではあるが、それを絶対視してはいけない。
「父母未生以前汝が本来の面目如何」という公案に僕が答えるとすれば、「答えなし。答える必要なし」である。
あまりにも変化球の答えで申し訳ないが、僕自身に生きる意味があるとすれば、それは<悟らない>ことにあるのではないかと、少なくとも今は思っているからだ。


  2008年8月13日(水) ダルビッシュの投球姿を観ながら
  スポーツ新聞の一面

今朝、テレビの情報番組を観ている時点で嫌な予感はしていた。
ニュースの時間配分が妙だったからだ。
こういう嫌な予感は往々にして当たる。
で、バイトへ向かう途中の駅の売店を覗いてみたら、正に僕の予感は的中していた。

東京で発売されている朝刊のスポーツ紙は六紙ある。
日刊スポーツ、スポーツニッポン、スポーツ報知、サンケイスポーツ、デイリースポーツ、東京中日スポーツ。
今日、その内の四紙の一面は、柔道の谷本選手の金メダルだった。
これは当然である。
僕は、報道の画一化には常々危機を感じているが、スポーツ紙と名乗る限り、昨日の最大のニュースはそれに違いない。
しかも、ただの金メダルではなく、二大会連続オール一本勝ちというのは、他の競技で言うならば世界新記録の更新に匹敵すると思う。
昨日のスポーツ界でそれに匹敵するニュースなどひとつもなかった。
僕は、スポーツ紙全紙が文句なくこの記事をトップにすると思っていた。
ところが、である。
日刊スポーツとデイリースポーツは、マラソンの野口選手の出場辞退のニュースを一面にしたのだ。
僕はそれを見て、「こういう奴らがいるから日本のスポーツ文化は低迷したままなのだ」と思った。

「勝者には何もやるな」というのはヘミングウェイの短編のタイトルだが、「敗者にはブルースを」と付け加えたのは寺山修司だったか。
昨日も書いたが、勝者にせよ敗者にせよ、その闘いの中にこそ感動があり、勝って得るものも負けて得るものも闘ってこそである。
闘わない者に対して、何の言葉が要るのか。
野口選手は確かに前回大会の金メダリストである。
しかし、今大会はまだ闘ってさえいないのだ。
どういう理由であれ、選考されたのにもかかわらず、自分で故障して出場できなくなった者に対して、他人が掛ける言葉などあるのか。
そのニュースが、谷本選手の金メダルより価値があると誰がどういう基準で判断したのか。

もしも僕が編集者なら、出場辞退の理由、怪我の名前、野口選手のコメントまで含めて、写真のない十行程度の記事を片隅に載せることにする。
それで充分だ。
この事について、街頭でのインタビューに答えていたおっさんが、「出場すれば金メダル確実だったのに、残念」と述べていた。
出場すれば金メダル確実な選手なんて、この世に一人もいない。
それなのに、このおっさんがこんな言葉を語るということは、このおっさんのバカさだけでなく、今のスポーツマスコミにも多大なる責任があると思えてならない。
更に言うなら、特に朝の情報番組が新聞の情報に頼り切って垂れ流しする現状も問題なのだ。
独立した情報番組である以上、独自の取材による独自の観点の情報のみを流すべきなのに、スポーツ新聞の情報を批判することなく流している。。
こういう姿勢も含めて、スポーツ新聞の増長に拍車を掛けているように思えてならない。

スポーツ新聞というのが、本当の意味での<スポーツ>新聞ではないのは分かっている。
しかし、スポーツ新聞を名乗る限り、スポーツへの愛だけは忘れてほしくない。
それを失ったらのなら、<スポーツ>の名前は返上すべきだ。


  2008年8月11日(月) 北島康介の金メダルを商店街で観る
  五輪再考〜100対0の向こう側へ〜

本当はこの北京五輪のすべてが終わってから書くべきなのかもしれないが、恐らく状況は変わらないだろうから今書く。

僕はBSやスポーツ専門チャンネルに加入していないので、地上波放送でしか五輪を観ることが出来ない。
そのせいもあるのだが、偏った種目の偏った場面しか観ることが出来ない。
これはずっと昔からのことである。
しかし、もうそろそろ根本的な姿勢を変えるべきなのではないか。

五輪を放送する側、観る側の最大の問題点は、この場所を<ヒーロー・ヒロインが誕生する場所>と位置付けている点である。
ヒーローやヒロインが誕生するのはそれでいい。
しかし、それはただの結果にしか過ぎない。
ヒーローやヒロインを崇め奉るのは、すべての競技が終了してで充分だ。
彼らは既にヒーローやヒロインになってしまったのであり、彼らの中には何処を探しても感動は最早存在しない。

スポーツの感動は、本来はその競技が行われている中にしかない。
圧倒であったり、接戦であったり、逆転であったり、波乱であったり、華麗さであったり、絶妙さであったり、快挙であったり、そういうものの中にこそ感動は生まれるのだ。
もっと言えば、そこにしか感動はあり得ない。
その他の家族や怪我や苦労などという<物語>はスポーツの外にあるものであり、それはスポーツの感動とは別次元のものだ。
そんなものは、後々にスポーツライターが書けばいいのだ。

だからこそ、スポーツニュースであれ、情報番組であれ、五輪について放送する時間があるなら、どんな競技もほんの少しの時間でもいいから放送してほしい。
様々な規定や大人の事情があるのは分かる。
しかし、金メダルだけが感動ではないのだ。
金メダリストの100分の1でいいから、他の選手の結果ではなく競技の様子を放送してほしい。
それこそが、<スポーツの祭典を観る>ということなのだ。

今日、バトミントン女子ダブルスの末綱・前田組が世界ランク1位の中国ペアを破って準決勝に進出した。
これは快挙として、各局でほんの10秒位放送されていたが、こういう試合こそ、他の試合の中継時間を削ってでも録画放送するべきだ。
こういう試合こそ、スポーツファンのために、同じ競技をしている人たちのために、これからスポーツを始める子供たちのために、放送するべきなのだ。

ちなみに、バトミントン女子シングルスで1回戦、2回戦を勝ち上がった広瀬選手などは、僕が見る限り地上波では1秒も放送されていない。
そんな競技は他にもある。
1回戦負けの柔道選手は生中継されているのに。
とにかく、100対0の扱いだけはやめてほしい。
せめて95対5でいいから放送してほしい。

と書いていたら、今テレビ朝日で末綱・前田組の試合を録画放送している。
ちょっと嬉しくなった。


  2008年8月9日(土) 夏目漱石の「門」を読む
  タモリさんの弔辞

赤塚不二夫さんの告別式でのタモリさんの弔辞が話題になっている。
ひとつは、タモリさんが弔辞を読むということ自体が珍しいから。ひとつは、「私もあなたの作品のひとつです」という言葉など、内容が感動的だったこと。そして、紙に書かれた弔辞を読んでいるように見えたけれど、実はカメラに映されたその紙は白紙で、すべてアドリブだったのではないかということ。

僕は最後の一点が幾つかの意味ですごく気になった。
ひとつは、アドリブで弔辞を語る人は時々いるが、紙を読む振りをすることによって、彼が弔辞を<芸>の域に昇華させたということ。
ただ<芸>に昇華させただけでなく、告別式という席で他の列席者に不快な思いをさせることなく、さりげなく自らの<芸>を披露したという点は彼らしい素晴らしい心遣いだと思う。
僕はその映像を見ながら、歌舞伎の「勧進帳」で弁慶が白紙の勧進帳を読み上げる場面を重ね合わせた。
或いはタモリさんもそれを意識していたのかもしれない。

で、その<芸>の素晴らしさに感動すると同時に、僕の目から鱗が落ちた。
僕は常々詩の朗読について考えていて、<朗読>すべきか<暗誦>すぺきか最近特に悩んでいた。
どちらにもそれぞれのよさがあり、難しい選択であると思っていた。
ところが、今回のタモリさんの<白紙を読む>弔辞を見て、<白紙を読む>という方法もあるのだということに気付かされたのだ。
詩は頭の中に入っていても、紙を持つことによって詩はその紙の上に存在しているという想定で朗読できる。
それは、詩を可視的な存在にし、かつ、その紙を丸める、棄てる、破る、そっと置くなどのパフォーマンスによって詩を物体として取り扱う効果も加えられるのだ。
<暗誦>するのは朗読者の言葉として消化されているという意味でいいし、目の前にある言葉に支配されていないという点でいいのだが、ひとつの詩を朗読し終えても、詩が朗読者の頭の中に留まっている(その場所に留まっている)という印象をどうしても与えてしまう。
それは、詩の刹那性を奪うことになりかねない。
<白紙を読む>ことによって、詩の朗読はかなり自由さを持つことになる。
ほんのちょっしたことだけど、そこには文字通り劇的な違いがあるのだ。
そのことを暗に教えてくれたタモリさんに深く感謝する。

最後に、赤塚不二夫さんについて少し述べる。
僕たちの世代はマンガよりもアニメから彼の作品に入った人が圧倒的に多いと思う。
僕も随分経ってからマンガの「天才バカボン」を読んで、少なからず衝撃を受けた。
絵も言葉も、削りに削った最小限の表現によって成立しているマンガであり、ギャグは完全にトンデいる。
アニメを見慣れていた僕にとっては、初めはちょっと拒否反応が出るくらい洗練されたポップなマンガだった。
いずれにせよ、彼から計り知れない影響を受けたことは確かだ。
確か去年の自分の誕生日に「バカボンのパパと同い年になった」と書いたような気がする。
これは「元祖天才バカボン」のエンディングテーマの影響だし、かつて「タ〜リラ〜リラ〜ンのうた」という詩を書いたこともある。
たぶん、僕の中では今も終わっていないのだ。
合掌。


  2008年8月7日(木) 蚊に刺されて夜中に目を覚ます
  ヒットチャート

夜中に目を覚ましたら、たまたまヒット曲のランキング番組が流れていた。
普段は全く気にも留めないものをじっくり見、それぞれの曲のさわりをちゃんと聴いてみた。
すると、どれひとつとして心に響いてくるうたがないのに唖然としながら、まるで異国のヒットチャートを見ているような気分になった。
そんなことは今に始まったことではない。
僕自身が思春期の頃から今迄のことを考えても、ヒットチャートにランキングされた曲で心に響いたものは数曲しかない。
これは一体どういうことなのか?

僕がうたをうたい続けるきっかけになったのは、岡林信康の「私たちの望むものは」といううただ。
たぶん1969年に作られたうただと思うが、僕がそのうたを初めて聴いたのは1980年ではないかと思う。
リアルタイムというには程遠い。
その一曲が僕のこれまでの生き方を決定付けたと言ってもよく、それ故に僕はこれまでうたというものを人一倍愛しているのだと思っていた。
ところが、今頃ふと気付いたのだが、僕は人一倍うたを愛している(愛していた)のではなく、人一倍うたに飢えている(飢えていた)だけなのかもしれない。

僕が「これは!」と思ううたは、本当に稀にしかない。
厄介なのは、全くないのではなく、稀にはあることなのだろう。
全くなければ僕はこんな場所には足を踏み入れなかった。
悲しいかな、右も左もわからないジャングルの中で、絶世の美女に出会う位の確率で存在するのだ。
そのせいで僕はこんなに密林の奥深くまで入り込んでしまったのだ。

うたに飢えていない人たち、そこらに流れるうたで渇きを満たすことが出来る人たちがヒットチャートを形作っている限り、そこにはまず本物は生まれないと断言していい。
けれど、たぶん世間はそれで満足しているのだ。
彼らは別に本物を求めている訳ではないのだと改めて気付かされた。

強がりのように聞こえるかもしれないし、負け犬の遠吠えのように聞こえるかもしれないが、僕は彼らとあまりにも遠い場所でうたっているのだと痛感した。
僕はたぶん<究極の自己満足>のためにうたっているのだ。
こういうあり方こそが、うたにとって本当にあるべき姿勢なのだということを共感し合える人たちを一人でも多く求めつつ。


  2008年7月17日(木) 2日で134階分の階段を下りる
  ナショナル・イベント

石原慎太郎という名のキチガイがいる。
東京都の知事をしているらしい。
そのキチガイがまたまたキチガイ発言をしている。
2016年の東京五輪を実現する為に、皇太子に演説しろと要請した。そして、それを断わった宮内庁に対して「僭越」だと言ったらしい。

何度も言うが、僕は皇室も尊重してないいし、宮内庁の格式もどうでもいい。
ただ、「僭越」という言葉が当てはまるとしたら、それはあのキチガイ自身に対してだ。
この項を書くに当たって色々検索したところ、一部の右翼もあのキチガイを「不遜・不敬」であると書いていたが、そんなこともどうでもいいことだ。
問題は、五輪を<ナショナル・イベント>と勝手に規定し、その為なら誰でも引きずり出すし、それは国民の熱望でもあるという妄想を振りかざすキチガイが東京都知事をしているということだ。
以前も書いたが、ああいうキチガイがこの世に確率的に存在するのは仕方ない。
ただ、あのキチガイに対して多くの都民が投票したという事実と、現在もリコールされることなく都知事を続けているという事実は、明らかに脅威である。
それは、秋葉原の通り魔殺人事件よりも圧倒的に脅威である。

五輪は<ナショナル・イベント>ではない。
というか、五輪は<ナショナル・イベント>であってはならない。
そういう意識こそが、利権構造の増長とスポーツの政治的プロパガンダへの利用を意味しているのであって、その構造から抜け出せないのなら五輪はそもそもやめるべきだ。
これも以前にも書いたが、どうしても五輪を続けていくのなら、毎回アテネでやればいいのだ。
なんなら、毎年やって世界から飽きられるくらいが丁度いい。
そして、本当にスポーツを愛する者だけが注目する大会になればいいのだ。

石原慎太郎は間違いなく近い未来に死ぬ。
けれど、石原慎太郎に投票した人たちの意識のあり方は死なない。
その意識のあり方を慎重に、そして徹底的に殲滅することこそが、革命というものだ。
決して共産主義社会を実現することや王政を打倒することを革命と呼ぶのではないということを、右翼の方々にも理解していただきたい。


  2008年7月13日(日) 「24」シーズン1を半分観終わる
  <氷山の一角>という言葉が見失っているもの

大分県の教育委員会の教員採用を巡る贈収賄問題が大きなニュースになっている。
まともな感覚を持っている人なら誰しも憤りを感じているだろう。
ただ、その憤りの矛先は様々だ。
大分県の教育委員会に対してなのか、教育委員会の存在そのものに対してなのか、金を払って自分の子供を教員にしようとした親たちに対してなのか、名前の公表されていない県議や校長たちに対してなのか、教育行政という大枠に対してなのか・・・。

僕が今更言うまでもなく、これは常態化していた不正であり、多くの人が想像しているように、恐らく他の都道府県でも行われていたであろうことだ。
それを踏まえた上で、今回の事件に関して<氷山の一角>という言葉が盛んに使われている。
大分県の中での不正も現在公表されているものが<氷山の一角>だという言い方や、他県にもきっとあるだろうという意味で<氷山の一角>と使われているものや。
しかし、<氷山の一角>という比喩があまりにもビジュアル(大海に浮かぶ氷山の水面上に見えているのは全体の氷山のほんの一部でしかなく、水面下に巨大な氷塊が存在しているという絵)に立脚した比喩である為に、物事の本質を見誤る危険性がある。

僕が思うに、<氷山の一角>という言葉はとても危険な言葉である。
それは、逆に言うなら、水面下に存在する巨大な氷塊も含めて、その<氷山>さえ排除してしまえば何もかも解決するようなイメージを与えてしまうからだ(実際はそのこと自体も難しいが)。

今回の事件に関しても、事件に関与した個々人や大分県教育委員会や教育委員会全体を改善しようとしたところで、それは結局ほんのひと時の膿出しにしか過ぎない。
大きく言うなら(というか、本質的なことを言うなら)、これは官僚制そのものが根本的に抱えている問題なのだ。
ここでいう官僚制というのは、日本という社会の中央官庁や地方自治体の官僚だけを指しているのではない。
ピラミッド型のヒエラルキーを持ったシステム(これを仮に官僚制と呼ぶ)が資本主義社会の中に存在する場合、人類が歴史的に根本的に抱えている病なのだ。
つまり、今回の問題は<氷山の一角>なのではなく、システム自体が抱えているウイルスのようなものなのだ。
だから、どんな組織を取り上げたとしても、その規模の大小にかかわらず同じ病に感染している。
違いがあるとしたら、ひどい状態で発病しているか、まだ発病せずに済んでいるかだけの違いだ。

間違えないでほしい。
だから、「仕方がない」と言っているのではない。
見誤らないでほしいだけだ。
その病を食い物にして生きている人たち以外は(けれど、僕も含めてそうではない人たちも、多かれ少なかれこのシステムに加担していることは忘れないでほしい)。
憤るのなら、このシステムを根本的に変えるか、発病した病巣を徹底的に駆除する別のシステムを常に用意することだ。
たとえば官僚すべてに序列をなくす(ヒエラルキーの破壊)とか、贈収賄、権力者による依頼行為はすべて極刑にする(超厳罰化社会)とか、一定以上の財産をもつことを禁ずる(資本主義社会の限定化)とか、そういうことでもしない限り決してこの状態は改善されないだろう(それでも根本的な解決ではない)。
それにしても、もしも国民が<金>や<官僚制>という安逸なものよりも<社会正義>を望むならば、という条件付でだ。

最後に、蛇足なるけど、こんな偉そうに書いている自分だって、そういうシステムのヒエラルキーのトップになっていれば、似たようなことをしている可能性もあると思う。
負け犬の遠吠えのように聞こえるかもしれないけれど、僕はそうなるのが嫌だから、なるべくそういうシステムに関わらずに生きていこうと思ってきたというのはある。
消極的な拒否とあくまでも可能性の話として。


  2008年7月9日(水) サムピックを紙やすりで削る
  <餃子のタレ>考

前回に続いて他愛もない話。

僕は餃子が好きで、ビールに最も合う料理は餃子じゃないかとさえ思っている(乾き物は柿ピー)。
で、最近時々思うのは、餃子のタレはこれで本当に正解なのかということ。

大抵の人は、焼き餃子のタレは醤油と酢とラー油で作る。
その配分は人によって違う(酢を入れない人やラー油だけで食べる人)が、それでも大体この三つの調味料によって作られる。
「餃子の王将」のように予め<餃子のタレ>というものが別に用意されている店もあるし、独特の味噌ダレのようなものを出す店もあるし、醤油に柚子胡椒なんていうちょっとした変化球もあれば、餃子の餡の中に既に調味料が練りこまれていて何も付けずに食べる店も稀にあるが。

僕は決して今の餃子のタレに満足していない訳ではない。
今だって充分に美味い。 けれど、他にも無限の可能性は広がっているはずだ。
実際に実験していないのでなんとも言えないが、例えば醤油とマヨネーズとカラシを混ぜたものに付けてもいいような気もするし、単純にトマトケチャップでもいいだろうし、おろしポン酢でもいいだろう(結構普及してるかな?)。

つまり、僕が言いたいのは、僕たちは案外様々な伝統や習慣に囚われ過ぎているということ。
自分が本当に好きなものを探すのを怠っているだけではないのか、と餃子のタレをきっかけにふと思ったのだ。
もし、みんなが今の餃子のタレに満足していなかったら、多くの人が様々な研究をし、新たな提唱をしていることだろう。
ところが、恐らく多くの人たちが今の餃子のタレに満足しているために、新しい何ものかが生まれる土壌が育まれないのだ。

すごく大雑把な言い方をするなら、今の日本は餃子のタレに満足した人々の集団なんじゃないかと改めて思ったのだ。
それはとても幸せな状態なのかもしれないけれど、逆に言えば絶望的な状態なのかもしれない。


  2008年7月2日(水) アントキノ猪木のインタビューに共感
  関東炊きの季節感

数日前、セブンイレブンでおでんを買おうと思ったら、おでんを販売する鍋そのものがなかった。
場所を移動したのかと店内をぐるりと回ってみたけれど、どこにも見当たらなかった。
そう、いつの間にかおでんの季節が終わっていたのだ。
秋のある日、唐突にペットボトルの麦茶が棚からなくなるように。
確かに、ほとんど買う人がいないのに光熱費と手間を掛けるのは利潤追求の原理に反しているのだろうが、少し淋しい思いをした。

それでふと思ったのだが、僕にとっておでんは実は夏の季語なのだ(勿論、冬も美味しいけど)。
そして、それはおでんという呼び名ではなく、<関東炊き>という呼び名のものだ。

子供の頃、海水浴場の海の家で食べた<関東炊き>こそが僕にとっておでんの原点であり、だからこそ夏の食べ物という想いが強い。
電車での小旅行、海の家、海水浴という状況が重なって思い出が美化されているにしても、あまりにも強烈な印象なのでこの想いを拭い去ることは出来ない。
だから、真夏の暑い日にこそ、ふとおでんを食べたくなることがある。
そしてこの場合、出汁の効いた薄味のものではなく、濃い醤油味のものを僕はイメージする。

この項を書くに当たって<関東炊き>という言葉を調べて、意外な事実に遭遇した。
<関東炊き>というのは元々江戸で流行したおでんが上方(関西地方)に伝わって広まり、それで<関東炊き>なる名称で呼ばれるようになったらしい。
それはよく分かる話なのだが、おでんはその後江戸で廃れていたらしい。
ところが、関東大震災の後、関西から炊き出しに来た人たちによってこの<関東炊き>が振舞われ、東京においておでんが復活したのだという。
だから、現在でも関東のおでんは関西風の出汁が効いたものが主流なのだそうだ。
確かに、僕は東京に来てから濃い醤油味のおでん、いわゆる<関東炊き>に出会ったことがないのはそのせいだったのだ、と目から鱗。

更に、ここで分かるのは、当時(大正時代末期)にボランティアという言葉はなかったにせよ、関西から炊き出しに来た人たちがいたということは、既にボランティアの存在はあったということだ。
しかも、当時はまだ交通網も今ほど発達していないので、何十時間も掛けて関西から東京に来たのだろう。
こういう歴史こそ語り継がれるべきではないのか。

セブンイレブンにおでんがなかったというだけで、これだけのことを学べるとは思ってもいなかった。