just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2008年6月29日(日) 朝から心地よい雨音
  落書き〜見誤らないために〜

イタリア・フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に女子大生や私大生が落書きしていたことが大きな話題になった。
多くの場合、日本人のモラル、或いは最近の若者のモラルの問題として語られているこの出来事の本当の問題点は、この出来事を捉えている側にあると僕は見ている。

江戸時代の使節団がアンコールワットに落書きを残していたという歴史を見ても、最近の日本人が特にモラルが低く落書きを残すようになった訳ではないということが分かるし、金箔を張り替える前の金閣寺にも大量に落書きがあったのは、落書きをするのは今の若者に限られたことではないということを証明している。

今回この問題が何故こんなにも大きく取り上げられたかというと、ひとつにはここ数年来の<世界遺産>ブームがある。
恐らく、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂以外にも以前から日本人は落書きをしているのだろうが、この建物がたまたま<世界遺産>だからこんなにも大きく取り上げられたのだ。

また、こういう状況が起こった背景には、夏休みや卒業旅行で学生が手軽に海外に行けるという状況がある。
学生に限らず、30年位前から誰でもあまりも簡単に海外に行けるようになったということが招いた事態でもある。

で、根本的な話に戻る。
これはモラルの問題ではない。
頭が悪いかどうかという問題だ。
では、頭が悪いとはどういうことか?
それは、ある種の想像力が欠如していることである。
例えば、煙草を吸いながら道を歩いている人間が全員モラルがないかというとそうではない。
道で煙草を吸うことが他人に与える影響に対して、リアルな想像力が働かないのだ。
彼らの中には他の部分でとても道徳的な人間だって沢山いる。
それは、落書きでも同じである。
自分の行為が招く結果についてのまっとうな想像力が欠如しているのだ。
海外旅行に行く人間が大量にいる限り、彼らは繰り返し輸出される。

ということよりも、僕が本当に書きたいことは別のことだ。
それは、<世界遺産>に落書きした奴らより、街で壁やシャッターに落書きしている奴らの方が余程悪質であり、それにもかかわらず、<世界遺産>の落書きになると急にいきり立って非難する態度の方がより危険だということだ。

<世界遺産>に落書きした奴らは、少なくとも計画的に落書きしたのではないと思う(彼らの行為を擁護している訳ではない)。
スプレーや彫刻刀をわざわざ持参して書いた訳ではないから。
ところが、街で落書きしている奴らは完全に計画的に落書きをしている。
しかも、落書きされる相手が不快に思うのを知りつつ書いている。
どう考えたって、こちらの方が悪質だ。
そう、彼らは頭が悪いのではなく、悪質なのだ。
衝動殺人と計画殺人の判決の重さの違いを考えてもいい。
僕は、街でスプレーで落書きをする奴らは極刑でいいとさえ思っている。
現行の器物損壊罪や建造物等損壊罪ではあまりにも軽過ぎる。

最初の話にも関連するが、今回は<世界遺産>だから大きな問題になった。
実は、普通の民家なら落書きしても大したことはないが、<世界遺産>だと大問題だという発想こそがかなり危険だ。
確かに、<世界遺産>はなかなか再生が効かないからこそ重要であるのだが、建造物というものは所詮は人間が作ったものである。
知床半島を全焼させるのと訳が違うし、グランドキャニオンを爆破するのとは訳が違う。
歴史的建造物は確かに素晴らしいし大切にすべきだが、例えば僕にとっては<世界遺産>も築数十年の木造のぼろアパートも、同じように歴史的価値があるものだ。
<世界遺産>というレッテルを貼れば何でも価値がある訳ではないし、それはひとつの価値基準にしか過ぎない。
実はこれは建物の評価付けの中に隠された人間の差別の助長なのだ。
今回の出来事が大きく取り上げられたということは、誰かが定めた既存の価値基準によって、すべての人間の行為を評価しようとする姿勢の表れだ。
こういう意識・無意識の浸透こそが最も恐ろしい。


  2008年6月22日(日) 日曜日に午前中、バイト
  死刑執行について

鳩山法相が朝日新聞のコラムに「死に神」と書かれたことに怒っていた。
この出来事自体は頭の悪い新聞に対して頭の悪い政治家が文句を言ったというだけのこと。
ただ、死刑執行に対して、国家(国民)がもっと態度をはっきりさせるべきだと僕は以前から思っている。

<死刑>についてはこの欄に何度も書いている。
<死刑執行>についてもちらっと書いたことがあるが、もう少し踏み込んで書く。

まず、<死刑>に対しての論議は結構盛んに行われているのに、<死刑執行>に対する論議が少なすぎると僕は思う。
各省庁、都道府県や市町村の役所の無駄遣いについて細かく指摘されている中、受刑者に使われている税金に対する論議がほとんど行われていないのはおかしい。
彼らには間違いなく税金が使われている。
世間に迷惑を掛けたのにも拘らず、彼らは税金によって生かされているというのはおかしいという議論があっても不思議ではないのに。
何度も犯罪を繰り返し、もう職も見つけられないような高齢の受刑者は、釈放されてもすぐに犯罪を犯して刑務所に戻ろうとする傾向が強いらしい。
それは、シャバにいるよりも刑務所にいる方が生活が楽だからだ。
それは社会自体が根本的な問題を抱えているとも言えるのだが、受刑者に対してあまりにも安易に税金が使われているとも言える。

そのことを踏まえた上で、死刑確定囚というのは、決して懲役刑や禁固刑と<死刑>を並列して執行されている訳ではないという点が大切なのだ。
<死刑>が確定した後に禁固されるのは間違っている。
本来なら、死刑が確定したらその場で執行されてしかるべきだと思う。
それは、先ほど述べた税金の無駄遣いを減らすという観点からと刑の執行の正当な手順として。
少なくとも、死刑確定後一ヶ月以内に執行しなければ、法務大臣は罷免されるというような法律でも作るべきだ。
こういうことをちゃんとまな板の上に乗せて議論すべきなのだ。

さて、僕は敢えてひとつの問題を迂回してきた。
それは冤罪の問題である。
今迄<死刑>が確定したまま長く執行されなかった例を見ると、冤罪の可能性が高かった事件が多い。
有名な例を挙げれば、帝銀事件で死刑が確定した平沢さんは、死刑確定後32年間獄中で過ごして刑の執行がされないまま亡くなった。
つまり、死刑は執行してしまったら終わりなのである。
ここから逆に<死刑>という制度を見つめ直すことが出来る。
<死刑>は確定したらすぐに執行されるものであると決まっていたら、冤罪の可能性が少しでもある事件に対しては<死刑>判決は下すことが出来ないという方向性も考えていいのだ。
物的証拠、犯人の自白、状況証拠等がすべて整合している場合にのみ、<死刑>という判決を下すことが出来るようにするというのは一つの案だ。

こうして掘り下げてみると、あの他愛もない記事と反論だって少しは役に立っている。
逆に言うと、この機会を逃して<死刑執行>について掘り下げないのは、いつまでもこの国の<死刑>という制度が宙ぶらりんにされるということでもある。


  2008年6月11日(水) 昨日はゴールデン街で飲んだ
  加害者としての秋葉原通り魔殺人事件

この事件についてはあちこちに書かれているので、今更僕が書くこともないかもしれないが、僕の視点で書かせてもらう。

僕が最も怖いと思うのは、こういう事件に対して多くの人が被害者の立場に立とうとすることだ。
確かに、そういう人は無差別に人を殺すなどということをしないのかもしれない。
しかし、この社会に生きている限り、多かれ少なかれ誰もがこういう犯罪に加担していると僕は思っている。

あなたは家族で楽しくドライヴするだろう。
しかし、その排気ガスが誰かを咳き込ませるだろう。
あなたはケータイでメールを打ちながら歩くだろう。
向かいから歩いて来る人はあなたを避けて歩かなければいけないだろう。
あなたは笑いながら誰かに「キモイ」と言うだろう。
言われた人は笑いながら心にわだかまりを作るだろう。
あなたの子供は電車や飛行機の中で泣きじゃくるだろう。
そこで睡眠不足を補おうとしていた人は眠れないだろう。
あなたは機嫌よく酔っ払って電車で眠るだろう。
あなたの酒臭い息や鼾は周りに迷惑を掛けるだろう。
あなたは学生時代に誰かの机に「死ね」と落書きするだろう。
それを書かれた誰かはそのことをずっと恨みに思うだろう。
確かに、あなたは法律を犯していないかもしれない。
けれど、あなたが誰かをほんの少し傷つけ、その傷の上にまた誰かが傷つけ、そのまた上に誰かが傷つけ、そうやって耐えられなくなる誰かがいるのだ。

僕は人を殺すことを勿論肯定しない。
ただ、僕もあなたも人殺しの背中を押した何万人かのうちの一人なのだという自覚がない限り、あなたが彼を非難する声はいつも上滑りだ。
あなたはいつだって加害者だし、同時に被害者にもなり得る存在なのだ。

そして、あなたも誰かによって日々傷つけれ、背中を押されている。
あなたはたまたま臆病で、あなたにはたまたま守るべきものがあり、あなたはたまたま人を殺すことを踏みとどまる方法を知っているだけだ。
戦争で人を殺してきたのは普通の人だということを思い出せばいい。
あなただっていつ人を殺すかなんて分からない。
彼だって<無差別殺人鬼養成ギブス>を付けられて殺人鬼になるために教育されてきた訳ではないのだ。

あなたが自分が加害者であることに無自覚でいるということは、あなたが被害者になる可能性がいつまでも大きくなり続けるということだ。
あなたは今も<彼>を産もうとしている。


  2008年6月7日(土) 友人たちは24時間リレーマラソン中
  街宣車で靖国神社の鳥居をくぐる者たち

あらかじめ言っておくが、僕は愛国主義者ではない。
国家などというものは人類において<過程>でしかないと思っているし、本質的には不要だと思っている。
それだけが理由ではないが、靖国神社に立ち入ったことすらない。
先日、その靖国神社の前を通った時に不思議な光景を見たのでそのことを書く。

何の催しがあったのかは知らないが、街宣車が数台連なって靖国通りを走っていた。
そして、大鳥居の方ではなく、靖国通りに面した小さめの鳥居をくぐって神社の中へ入って行った。
僕はそれを見て「おや?」と思った。

靖国神社の中に駐車場があるらしいので、街宣車の群れはそこに車を停めるために入ったらしい。
僕が不思議に思ったのは、鳥居を車に乗ってくぐるのは非礼ではないのかということ。
何度も言うが、僕は愛国主義者ではないし、神道を信仰してもいない。
しかし、車で鳥居をくぐるなどという行為は、僕の中では非礼にしか見えなかった。
その鳥居をくぐってもまだ聖域に入っていないにしても、それが鳥居である以上、そこからが神社の敷地であることは間違いない。
愛国主義者でない、神道を信仰していない僕でも、決してそんなことはしない。
僕ならば、車を一旦降りて歩いて入るだろう。
それが正式な作法かどうかは別にして、敬意を表するということはそういうことだ。
百歩譲って運転手は仕方ない(本来は靖国神社内の駐車場に車を停めること自体が疑問だが)。
しかし、運転手でも一旦降りてせめて一礼して(車で鳥居をくぐるという非礼を詫びて)、再び車に乗ってから入るべきだと思う。

僕は街宣車に乗っている右翼を信じていない。
彼らの思想に説得力がないのはこういう点にもあると僕は思った。
靖国神社に参拝したい者は勝手に参拝すればいい。
しかし、死んだ者を<英霊>などと修飾する思想はカルト以外の何ものでもないという自覚は持つべきだ。
生きている者を階級付ける者は死んだ者まで階級付けたがるのだ。
その思想の傲慢さと、鳥居を車でくぐる非礼さは根底で繋がっているようにしか見えない。


  2008年5月26日(月) 久々に吉野家の牛丼を食べてみる
  災害に思うこと

先日、ある方から送られて来たメールマガジンに川柳が書かれていた。
その方は毎回メールマガジンに時事ネタ川柳を添えて送って来て下さる。
それを読んだ時、僕は何か引っ掛かり、違和感を覚えた。
その川柳を無断転載させていただく。
これから書くことは、その川柳の作者の意図を否定しているのではなく、ここから僕が考えされたことを書いただけだとまずお断りしておく。

何万の 命 地球が 奪い取る

これは今回の四川大地震について詠まれた川柳だと思う。
僕は自分が覚えた違和感が何なのか、暫く考えてみた。
違和感は二つあった。

ひとつは、<何万の命>というのは人間としての見方であって、実は<命>としては犬も猫もリスもねずみも蟻も死んでいるのになぁということ。
僕は動物愛護主義者ではないけど、人間はやっぱり人間のことしか考えないし、違う観点で言えば、先日関西地区や中部地区で大型地震が起きた時の経済損失の試算というのが発表されていたけど、経済のことしか考えてない人間にとっては、損失額の数値が問題であって、そこで失われるひとつひとつの命のことなんか考えられていない。
本当は損失額なんて所詮人間が築き上げたものが一時的に失われるだけにしか過ぎないのに。

もうひとつは、命を奪い取ったのは地球ではないということ。
よく天災という言葉を言うけど、今回の地震で亡くなった方々も、阪神大震災で亡くなった方々も、古くは関東大震災で亡くなった方々も、純粋に地震そのものによって亡くなったのは極々少数だと思う。
つまり、純粋に地震で亡くなるというのは、地割れした大地に落ちるとか、地滑りした土砂に飲み込まれるとか、揺れによるショック死とかだけであり、建物の下敷きになるとか、建物の火災によって亡くなった方々は、耐震強度の問題は別としても人間が築いてきたものによって亡くなっているのだ。
つまり、大きな意味で人災と言える。
僕たちがみんな屋根もない野原で寝起きしていたら、地震そのもので亡くなる人々も激減していたはずだから。
つまり、人間は便利さと同時にリスクも手に入れているということ。
いつか空中に浮遊する住居にみんなが住むような時代になれば、地震の被害なんて関係なくなるかもしれないけど。

今回の地震は中国で起きた。
中国も歴史的に大災害が繰り返し起きている場所であるが、日本も同じだ。
以前も書いたけど、世界中で起きている震度3以上の地震の1/4(!)は日本で起きている。
この数字は驚異的な数字だ。
この国は、海の幸にも山の幸にも恵まれ、四季の移り変わりも美しいかわりに、毎年台風も来るし地震も起きるし寒暖の差も激しい。
こういう土地で培われた民族は、政治がどれだけ腐敗しようが理不尽であろうが、耐えて耐えてコツコツと生きていく性質になってきたんだろうなぁ、とそこまで感慨が及んだ。


  2008年4月26日(土) 「パンク蛹化の女」をループで聴きながら
  死刑再考

先日、山口県光市母子殺害事件の差し戻し審の判決が出た。
この事件に関しては、事件そのものに対する議論から一般論として<死刑の存廃>についての議論に至るまで様々な議論がマスメディアでもネット上でもなされている。
この事件はそれだけ多岐に亘った問題点を含んでいるということが言える。
僕自身も過去にこの場所に刑法について書いたことがある(2007年1月22日及び同年2月3日<気になるんや>参照)。
今回改めて一般論としての<死刑>という問題に焦点を当てて書きたいと思う。

まず、単純に<死刑>は必要かどうか。
僕は<死刑>を論ずる時に、遺族感情とか報復とか抑止力論について考慮するのは無意味だと思っている。

個々について書くなら、遺族感情というのは国家が執行する法律上の制度としての<死刑>とは相容れない。
<償い>という言葉がまやかしの言葉であり、人を殺した人間を殺すことによって何ひとつ<償う>ことなどできないし、遺族感情を癒すことも出来ない。
ちょっと話は逸れるが、強姦された人の心の傷を刑罰でどうやって<償う>ことが出来るだろうか?
もしも遺族が本当に強烈な殺意を加害者に対して抱いているとしたら、<死刑>よりもむしろすぐに釈放してもらって自分の手で殺すことを望むのではないか。
だから、この点は考慮に値しないし、考慮すべきではない。
ただ、これについては後に別の角度から書く。

次に報復としての<死刑>は国家が行うものではない。
これも先程の遺族感情と繋がるが、国家が遺族の代わりに報復行為を行うという姿勢は間違っている。
国家がすべきことは、国民全体の安全を考慮した上で、加害者をどう処置するかということである。

抑止力論については、難しい問題ではあるが、本当に人を殺したいという欲望を切実に抱いている者を<死刑>という制度が止めることが出来ると僕は思えない。
自分が死んでもいいから誰かを殺したいという欲望を抱いている者に対して<死刑>は無力だ。
ただ、自分は生き残って相手だけを殺せたらいいと思っている者に対しては有効かもしれない。
その割合がどのくらいかは分からない。
時折死刑を廃止した国のデータについて語られることがあるが、死刑を廃止することによって凶暴犯が極度に増加するという例はないらしい。
これが日本でも当てはまるかどうかは実際に廃止してみないと分からないと僕は思う。
つまり、抑止力論は曖昧な議論しか生まないと思える。

<死刑>の存廃について考える以前に、まず根本的な問題は、殺人を犯した者を国家はどう処置すべきかということだ。
というか、もっと大きな括りでいうなら、あらゆる犯罪者に対して国家はどう処置すべきかという問題になる。
この問題に対する答えを国民一人一人が考え、それを付き合わせることが結局<死刑>という問題を考える基準になるはずだと僕は思っている。

僕の考えを述べる。
まず、殺人だから極刑、窃盗だから軽い刑というような区別をやめるべきだ。
犯罪を大別するとしたら、故意と過失の二つに分けるべきだと思う。
たとえば、飲酒運転は酒を飲んで運転した時点で故意であり、不注意で轢死させてしまった場合は過失である。
これをまず区別して、故意の犯罪は基本的にすべて重い刑を処すべきで、過失は軽い刑を処せられるべきだ。
その上で犯罪の結果を鑑みて情状について考慮すればいい。
また、刑法の根本的な誤りは、<更正>というのを重視し過ぎている点にあると僕は思っている。
以前にも書いたが犯罪をポイント制にし、再犯は即座に極刑とすれば、それこそ抑止力になり得るだろう。

細かく議論しすぎている気もするが、もう少し細かく書く。
僕が思うに、刑罰の基本は<更正>ではなく社会からの<隔離>だと思っている。
ここが今の刑法の精神と僕の考えが最も違う点だ。
<隔離>の最たるものが<死刑>である。
この世から<隔離>する訳だ。
終身刑としての無期懲役を作るべきだと主張する人がいるが、たとえば巨大地震が起きて刑務所が崩壊した場合、終身刑の者が脱獄する可能性は0%ではない。
そういう意味でも<死刑>と終身刑は違う。
仮に終身刑を採用するにしても、<死刑>に準ずる終身刑にするなら、面会、書簡のやり取り、差し入れなどをすべて禁止した上での完全な<隔離>としての終身刑であるべきだと思う。
犯罪というものは犯してしまった以上取り返しがつかないのである。
だから、刑罰というのは、次の犯罪の可能性を徹底的に減らすために行われる処置であるべきなのだと思う。
そういう意味で最初の設問に答えるなら、<死刑>は必要かもしれない。

ちょっと話は逸れるが、犯罪を繰り返す者に対して数年単位の懲役刑は無意味だ。
国家は<更正>というものの基準を何ひとつ示さないまま、犯罪の軽重を適当に決めて懲役刑など科すというのはある種の怠慢であるとさえ言える。
次の犯罪をほんの少し遅らせているだけだ。

ここまで書くと僕は<死刑>賛成論者のように思われるかもしれない。
しかし、僕の中では未だに結論が出ていない問題なのだ。

先にちょっと触れたが、全く別の観点から書く。
たとえば、僕が誰かに殺されたとしても、僕を愛してくれている人、僕の友人たちには、加害者に対して<死刑>を望んでほしくない。
その加害者が殺されたところで、僕自身が生まれ変わる訳でもないし、僕の魂が救われる訳でもない。
僕を愛した人が癒される訳でもない。
<死刑>が行われるとしたら、それは僕自身とは全く無関係に行われるのだ。
先程も述べたが、次の犯罪を防ぐ為にその加害者が<死刑>にされるなら、それは仕方ないと思う。
けれど、完全な<隔離>を伴う終身刑ならそれでも構わない。
もっと言うなら、その加害者がもう二度と犯罪を犯さないのなら無罪でも構わない。
生きて<償う>ということが無意味なように、死んで<償う>ということもまた無意味なのだ。
もちろん僕は誰にも殺されたくはないが。

本当に長々と述べた。
全文読んでくれた方がいるとしたら感謝する。


  2008年4月22日(火) 鳥居みゆき「ハッピーマンデー」発売前日
  <どや顔>の侵食

<どや顔>という言葉が巷で定着しつつある。
どうやら元々は松本人志が使い出した言葉らしい。
<どや顔>というのは、何かを上手くやった時の「どうや!」と自慢げな顔のこと。
それに対する柔らかな批判がこの言葉には含まれている。
しかし、少し前まではこの言葉に相当する言葉は<したり顔>だった。

<したり顔>も<どや顔>同様、「してやった!」という得意げな顔という意味であり、ほぼ同義語と考えていい。
しかし、この言葉の使用頻度は年々下がっていたのではないだろうか。
<したり顔>という状況が存在することもそれに対する批判的な気持ちが存在することも昔も今も変わらないのに、<したり>という言葉自体が文語であり、現代感覚の言葉ではなかったのがその原因だと思われる。
<したり顔>は限りなく死語に近づいていた言葉だった。

そこに<どや顔>という言葉が登場した。
この言葉が力を持ったのは、まず目新しい言葉だということ、大阪弁独特のユーモラスな響きがあること、お笑い芸人たちが広めたこと、そして、何よりも世間にこういうニュアンスの言葉に対するニーズがあったということ。

僕が何故今回この言葉を取り上げたのかと言うと、ひとつの言葉が別の言葉によって駆逐されるダイナミズムが興味深かったから。
まるで外来種の生物が在来種を駆逐するような現象が、言葉の世界にも起こっているのだ。


  2008年4月5日(土) キャンディーズ解散30年と1日
  泡般若

自分の無知を晒す。

僕は<泡般若>という言葉をつい最近まで知らなかった。
正確に言うと、一昨日まで知らなかった。
<泡般若>が大好きなのにもかかわらず。
先日、GyAOの「鳥居みゆきの社交辞令でハイタッチ#6」を観ていると、番組の中で鳥居みゆきがビールのことを<泡般若>と呼んでいた。
てっきり彼女独特の造語だろうと思ってやり過ごしていたのだが、調べてみると実際に存在する言葉だった。

<泡般若>とは山門でのビールの隠語らしい。
確かに精進を旨とする山門らしい言葉だ。
ちなみに酒のことを<般若湯>という所からの転用らしい。

それにしても、鳥居みゆきの語彙の豊富さと奥行きの深さとセンスにはいつも感嘆する。
かなりの読書家であることは間違いないが、それだけではなく言葉選びの瞬発力も凄まじい。

僕はこの素晴らしい言葉をこれから場面場面で使っていこうと思っているので、ここを読んでいる僕の友人諸氏はご理解いただきたい。
それにしても、ビール会社もこの名前を使ったら斬新でカッコいいのではないだろうか。
<超泡般若>とか<黒泡般若>とか、いいネーミングだと思うのは僕だけだろうか。


  2008年3月31日(月) 二日酔いでほとんど寝て過ごす
  <神>という形容名詞

そういう言葉があるのかどうか知らないが、形容詞でも形容動詞でもない形容名詞というものが存在する。
僕が知っている限り、<神>という言葉がそれに当たる。

ニコニコ動画の画面に書かれているコメントを観ていて、「神動画」とか「神曲」(ダンテの場合は「しんきょく」と読むが、この場合は「かみきょく」と読むのだと思う」)とか「ここからが神」とか書かれているがずっと気になっていた。
先日「ズームイン!!SUPER」を観ていると、女子高生の間でもこの<神>という表現が定着しているらしい。
元々がネット発信なのか女子高生発信なのかは知らないが、とても興味深い表現だと思った。

<神>というのは即ち<最高>という言葉の置き換えなのだが、賞賛や感動を表現する為の最上級のインフレーションはどんどん進んでいる。
ちなみに<超神>という言葉も目にしたことがあるが、こんな軽い表現で簡単に<神>を越える訳だ。
キリスト教世界ではちょっと考えられない表現だと思う。
しかし、最上級のインフレーションは直線的に進むのではなく、少しずつ変化球を交えたり、別な形に移行したりしながら、螺旋状に進むという特徴もある。
<神>という表現もそのうちに何か別の表現に取って代わられると思う。

それはいいのだが、この<神>という表現はいかにもネット上で普及しやすい言葉だとも思った。
僕自身にもそういう傾向はあるのだが、ネット上に表現されるものは、圧倒的な賞賛か徹底的な罵倒である傾向が強い。
何故そうなるのかというと、そういう表現が見ていて分かり易いという点もあるし、わざわざ時間をかけて利益にもならないことを書き綴る原動力になるのは、やはり感動を伝えたいという気持ちか、それと真逆の強烈な怒りや嫌悪感のどちらかである場合が多いからだと思う。
<神>の反対語が何かは知らないが(<庶民>と答えていた女子高生がいたが、ちょっとズレていると思う)、賞賛と罵倒は表裏として存在しているのも確かだと思う。


ちなみに、<神>という表現を観て、絶対者でありながら絶対者ではない、「ドラゴンボール」に登場する<神様>を僕は思い出した。


  2008年3月28日(金) 鳥居みゆきが表紙の雑誌を衝動買い
  「誰でもよかった」という嘘

ここの所立て続けに無差別殺人に見える事件が起きた。
茨城のJR荒川沖駅の事件と岡山のホームから突き落とし事件。
ともに容疑者が語っているのが、「誰でもよかった」という言葉。
僕は、この言葉は嘘だと思っている。

「特定の誰かではなくてよかった」というのと「誰でもよかった」というのは実は意味が違う。
彼らの言う<誰でも>というのは、自分より弱い<誰か>であり、無防備な<誰か>であり、油断している<誰か>という限定された人々のことなのだ。
彼らは決して総理大臣を殺そうとも警察官を殺そうともやくざを殺そうともしていない。
彼らはともに<安全に>殺そうとしたのだ。
「誰でもよかった」というのは、彼らがそれを意識しているか意識していないかは別として、自分自身の架空のオールマイティ性を誇示する為に偽装された言葉に過ぎない。
つまり、それは彼ら自身が作り出した神話なのだ。

ここからは僕の勝手な想像にしか過ぎないが、あながち外れていないような気がすることを書く。
テレビゲーム(RPGやシューティングゲームは特に)というものは、知らず知らずのうちに<安全に殺す>というやり方を教育しているのではないか。
明らかにレベルの違う相手と戦うと必ず自分が殺られる。
自分がレベルアップするか、明らかに自分よりレベルの低い相手と戦うことが、ある種のゲームを攻略するための正攻法だ。
彼らはそれを学んで(或いは学ばされて)来たために、「誰でもよかった」と言いながら弱い者を殺したのではないか。
いきなりボスキャラを倒す力がないことを重々分かっていたから。

茨城の事件の容疑者は「複数の人を殺せば死刑になると思った」と語っているという。
もっと簡単に死刑にしてあげられるような法体系があればよかったとも僕は思う。
例えば飲酒運転するだけで死刑なら、例えば路上でケータイを使うだけで死刑なら、そんなカッコつけた言葉を言わせることもなかったのに、と。


  2008年3月14日(金) フォークジャングルまであと2日
  自転車の居場所

少し前のニュースソースになるが、警察庁が発表した道交法改正案によると、13歳未満と70歳以上は自転車による歩道の通行
を認めようということらしい。
逆に言うと、それ以外は車道を走れということだ。

近年増加していると言われている自転車による人身事故対策なのだろうが、いくらなんでも無謀だ。
少なくとも交通量の多い都会の車道を自転車で走るのは相当な技術が必要だ。
まず、車道が狭すぎて歩道との間にスペースがない場合、スピードも強度も違う自動車と自転車が併走したら間違いなくいずれ接触事故が起こる。
その上、違法駐車の車が歩道側に寄せて停められていたら、自転車は車道の内側へ避けなければならない。
更に、何かのきっかけで自転車が転倒したらと考えたら、死亡事故に繋がりかねない。
これは危険極まりない。
しかも、これらはどの場合も自動車側ではなく、自転車側に危険が増している。
どうしてこんな法律を考えつくのだろうか?

自転車専用道路を作ればいいに決まっている。
しかし、この国の道路事情がそれを許さないなら、やはり自転車は歩道を走る方がすべての点で事故の確率は減ると僕は思うのだがどうだろうか?
その上で、自転車の法定速度、車検のようなものの導入などにより、罰則を強化したらいいのではないかと思うのだが。

少し話はズレるが、道路特定財源を巡る一連の問題の中で、自民党の伊吹幹事長が「必要ではない道路なんてない」と発言していた。
違うよ。
道路なんて本当は一本も必要ではない。
少なくとも車が通る道路なんて一本だって必要ではないのだ。
排気ガスを出し、土地を奪い、環境を破壊し、交通事故の原因となる道路などない方がいいのだ。
必要なのではなく、欲望が需要を産み出しているだけなのだ。
欲望が負の価値をねじ伏せているだけなのだ。
だから、東国原宮崎県知事の「地方には道路が必要だ」という主張も詭弁に過ぎない。

自動車を禁止して、現在の車道を自転車が走るようにすればいいとあくまでもラディカルに主張してもいいのだが、現実的に考えて、とりあえずこの道交法改正案にだけは反対だと主張するに留める。


  2008年3月4日(火) 鳥居みゆきのDVDジャケットの美しさに酔う
  <鯨の肉は牛肉より環境に優しい>という上滑りな言葉

<鯨の肉は牛肉より環境に優しい>とノルウェーの捕鯨推進活動家が主張しているらしい。
捕鯨に使う燃料を温室効果ガス排出量で換算した時に、牛肉や豚肉や鶏肉を生産する時より少なくて済むらしい。
一方で環境保護団体のグリーンピースは、肉よりも他のすべての食物の方が環境に優しいと主張しているらしい。
どっちもどっちだ。

不思議なのは、どちらも<環境に優しい>というのが絶対的な基準であるように語られている点だ。
こういう基準は時代の変化によって常に変わってきた。
今、ECOという言葉が万能のキーワードのように使われているが、これもひとつの時代のひとつの価値観にしか過ぎない。
いつか新しい価値観に取って代わられる言葉に過ぎないのだ。

そんなに<環境に優しい>というのを目指すのならば、人間を食べればいいのだ。
人間を食し、人間を減らすことによって、ECOはより実効されるだろう。
もっと言うなら、人間である自分を餌として提供すればいいのだ。

日本の調査捕鯨を妨害している人たちを僕が信じていないのは、彼らが自ら進んで鯨の餌にならないことだ。
環境を破壊する人間としての自分を、彼らが愛する鯨の餌として捧げることは、彼らにとって一石二鳥ではないのか?

彼らが立っている土台なんて、南極の氷よりも早く溶け出すに違いない。


  2008年2月28日(木) バイト先の近所で火事
  僕をマスコミ嫌いにさせた<ロス疑惑>

<ロス疑惑>報道というのがいつ頃のことだかすっかり忘れていたが、今回の三浦和義逮捕で1984年頃のことだと知る。
僕が18歳の頃だ。
当時のこの事件に対する過熱報道が、僕をマスコミ嫌いにさせる大きな要因になった。

これは、単なる保険金目的殺人容疑事件である。
ただそれだけだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
週刊文春が<疑惑の銃弾>と呼んでスッパ抜いたことで有名になったが、だからマスコミは素晴らしいなんてことにはならない。

過熱報道の弊害の方が明らかに大きいことを人々は認識する必要がある。
まず、過熱報道は往々にして人権を無視する。
過熱報道によって他の重大な事件の報道が蔑ろにされる。
過熱報道は繰り返し、蒸し返しが多く、内容が薄くなる。
とにかく、何ひとついいことなどない。
にもかかわらず、視聴率や販売部数を追いかけるマスコミはこぞってひとつのトピカルな話題を追う。
僕は<ロス疑惑>報道が過熱している頃、マスコミは全員バカだと思っていたし、マスコミに就職希望などと言っている奴らは気が狂っていると思っていた。

僕がこの<気になるんや>を書くに当たって、常に指針としていることは、事件の大小や世間の注目度ではなく、自分自身にとっての問題性の大きさだ。
本来は、すべての個人がそういう視点であらゆる報道を取捨選択すべきである。
マスコミというものが、<世間という架空の対象者>の数字を獲得するためにひとつの事件に大きく傾斜して報道する時、それが仮に真実の追究であったとしても、指針として間違っている。
つまり、マスコミは初めからあらゆる個人と背反した存在なのだ。

三浦和義逮捕がテレビ画面のテロップにニュース速報として映し出されるのを観た時、僕はただ「へぇ」と思うと同時に、それをニュース速報にしたマスコミのニンマリした不気味な顔を思い浮かべた。


  2008年2月23日(土) 春一番が吹き、キャンディーズを想う
  <お岩さんみたい>という比喩から見えたもの

先日、バイト先の人が顔を打って目の上を腫らした。
いわゆる<お岩さんみたい>な状態になっていた。
その人は僕よりもずっと年上だから、この<お岩さんみたい>という比喩は通用するが、その時に思ったのは、この比喩の有効性は年々減少しているのではないかということ。

<お岩さんみたい>という比喩が通用するのは、その原典の「四谷怪談」で毒によって顔が変容した<お岩さん>を共通認識として持っているからである。
例えばこれは短いフレーズであるにもかかわらず、日本語を勉強している外国人には非常に難しい表現だろうし、同時に古典に触れる機会の少なくなった子供や若者にとっても文化的圏外に当たるのではないだろうか。
僕自身も鶴屋南北の「東海道四谷怪談」なんて読んだことはないし、歌舞伎も観たことがないが、いつ何処で知ったかの記憶もないがいつの間にか<お岩さん>のことは知っていた。
しかし、たぶんこれが文化の伝播のし方として最も重要なことのような気がする。

話は飛躍するが、ひとつの国なり民族なりの文化を学ぶということは、その典型(日本であるなら歌舞伎や相撲や神仏混淆など)を学ぶことによって追究されるされるのではなく、その文化圏で広く伝播されている独特の認識に対する理解であるように思う。
ひとつ例を挙げると、日本では駅のホームでのアナウンスは「白線(黄色い線)の内側に下がってお待ち下さい」だが、韓国で地下鉄に乗った時のアナウンスは「線の外側でお待ち下さい」だった。
僕は韓国で初めてそのアナウンスを聞いた時、ちょっとした文化的衝撃を受けた。
これは小さなことだが、決定的な違いなのだ。
つまり、日本では乗客が主体だが、韓国では電車が主体であるという認識の差なのだ。
こういう認識の差は小さいように思えるが、無意識のうちに思考法にも影響を与えているはずである。

大きな結論を言うなら、僕たちは世代によっても民族によっても違う文化的枠組を持ったもの同士であるという認識を持つことが大切なのだ。
それは、だから理解し合えないという絶望感ではなく、お互いの枠組を認識し合うことが理解し合うための突破口であるという希望なのだ。
これが世界の共通認識になることを願う。


  2008年1月31日(木) 映画「その名にちなんで」を観る
  前向きなため息

バイトの後輩はよくため息をつく。
僕はその度に「ため息つくな!」と言うのだが、暫く前から彼は「これは<前向きなため息>なんです」と言うようになっていた。
「ため息に前向きなんてあるか!」とその度に僕は言い返していたのだが、元ネタが宮崎あおいのCMであることをつい最近知った。

そのCMを観た後も、<前向きなため息>とはやはり不思議な言葉だと思ってずっと考えていた。
で、分かったこと。
<ため息>というのは、そもそも個人的なポーズ(一時休止)の体現なのだ。
それはどうやら体や心をリラックス、リフレッシュするためにはとても効果があるらしい。
そういう意味で、前向きという方向性があるというよりも、すごく実利的なものなのだ。

ただ、それはあくまでも個人的な行為としてである。
宮崎あおいのCMでは、彼女が独りでため息をついて「<前向きなため息>」と呟いている。
しかし、周りに他人がいる場合、ため息は周りの人を否応なしに巻き込む。
オーケストラで演奏しているのに、あるパートの楽器が関係なしに演奏を中断するようなものだ。
それは、周りのリズムを狂わせ、流れを変えてしまう。
「ため息をつくと幸せがひとつ逃げる」と言うのは、その人にとってではなく、周囲にとってなのかもしれない(それは巡り巡ってその人に返るということかもしれないが)。

結論。
ため息は独りでつくべきだ。
前向きであろうと、後ろ向きであろうと。


  2008年1月29日(火) 蕎麦屋で飲む
  スーパーコンピューター

天気予報が当たらない。
70%の精度を持って<予報>というのは明らかにおこがましい。
しかも、気象庁は2年前にいわゆる<スーパーコンピューター>を導入している。
そこには当然億単位の税金が使われ、メンテナンスにも相当の税金が使われているはずである。
しかし、それに見合っただけの精度の向上は見られていない。
これはもはや気象庁に根本的な問題があるとしか思えない。

例えば、今日(1/29)の東京地方の予報が顕著な例である。
昨日、そして今朝の天気予報では、午前中までは雨または雪で午後からは曇りということだった。
ところが、実際は午前中はほとんど雨が降らず、午後から降り始めた。
次に今日の昼の段階で修正された予報では、夜9時頃までで雨は上がるとのことだった。
ところが、現在午後10時過ぎであるが雨は降り続いている。
これは、まるで2択問題にすべて逆の答えを書いた頭の悪い受験生のようだ。
これをどうして<スーパーコンピューター>などと呼べるのか。

天気予報が一般国民にとってどういう役割を果たしているかというと、一番大切なことは、その日に傘を持って出かけるかどうかと洗濯物を干して出掛けるかどうかだと思う。
雨と晴れさえ当てられないなら、<天気予報>などと名乗るべきではない。
<予報>というのは文字を解釈するなら、<あらかじめ報せる>ということであり、それは例えば「明日我が国の首相は先進国首脳会談へ向けて○○国へ出発します」というようなことを意味する。
つまり、余程の不測の事態がない限り、必ず起こる出来事について前もって報せるのが<予報>である。
現在の状況から言うなら、<天気予想>程度にすべきだ。

<スーパーコンピューター>の性能が悪いのか、数値の入力の仕方が悪いのか、コンピューターのプログラミングが悪いのか、それともそもそも<スーパーコンピューター>程度では気象の予測は不可能なのか、いずれにしても、もしもこれが民間の事業だとしたら損害賠償ものであることは間違いない。
少なくとも、月一回程度は前月の的中率と外れた日の問題点を洗い出す気象番組があってもいいと思う。
そういう反省が行われないからいつまで経っても<天気予報>は当たらないのだ。

以前にも書いたかもしれないが、僕は小学6年生の頃、気象委員だった。
気象委員の仕事は、朝早く登校して、その日の新聞の天気図を職員室前の天気図用黒板に書き写すことだった。
僕はその仕事が好きで率先してやっていた。
今のテレビの天気予報は、NHKを除いてほとんどが天気図を示さない。
気象庁の予報より、細かい天気図を示してくれて自分が予想する方がずっとマシな気がする。


  2008年1月28日(月) 新曲が少しずつ形になる
  「早ければ2年後」

常用漢字が見直されるという。
随分前から見直しが検討されていたが、この度本格的な作業に入るらしい。
それはそれでいい。
ニュースで例に挙げられていたが、<岡>や<藤>といった字も現在は常用漢字に含まれていない。
これは明らかに実態に合っていないし、パソコンやケータイの変換機能の普及によって使用頻度が増した漢字もあるはずである。
勿論、年を経て使用頻度が減った漢字も数多い。
この見直しは既に遅きに失した感があるが、一旦決定するとすぐに変更する訳にはいかない種類のものであるから、ある程度は仕方ない。

僕が問題視しているのは、新しい常用漢字の発表が「早ければ2年後」ということだ。
慎重に検討するのは分かる。
しかし、ある程度の指針さえ決めれば、使用頻度その他はコンピューターによって簡単に統計できる時代にあって、2年というのは永遠にも相当する馬鹿げた長さだ。
検討委員がどれだけ忙しい人たちか知らないが、メールで情報を好感することも可能な訳で、長く掛かったとしても1年位で結論を出せるはずだ。
それを「早ければ2年後」ということは、遅ければいつになると言うのか?
もしも2年というのが結論に箔を付ける為の時間なのだとしたら、このお役所仕事の怠慢を漫然と報道する側も批判能力が欠如している。

ちなみにであるが、隣国の韓国では戦前は漢字とハングルを交えた表記だったのが、戦後はハングルだけの表記になった。
これは、日本語が仮名だけになった状況を想像してもらったら分かるように、かなりの文化的損失である。
好悪は別にして、日本が中国を中心とした漢字文化圏にあることの文化的な豊かさは紛れもない事実であるし、それを現実に即した形で継承していくことには大いなる意味があるのもまた紛れもない事実である。


  2008年1月24日(木) 寿がきやのカレーうどんを食べる
  LPSA

<LPSA>という文字を見て、瞬時に何の略か分かる人は日本の中でもかなり少数派だと思う。
これは<The Ladies Professional Shogi-players' Association of Japan>の略である。
日本語にすると<日本女子プロ将棋協会>なのだが、これだけを見ると「ああ、女子プロゴルファーの団体みたいな、女性の将棋指しの団体か」と思われるかもしれない。
それは確かに半分は当たっている。
半分というのは、実は昨年女性の棋士の団体は二つに分裂したからだ。
ちなみにもう一つの団体は、<日本将棋連盟・女流棋士会>である。
この二つの団体は、元々<日本将棋連盟・女流棋士会>だったのだが、<LPSA>が分離独立したのだ。

この経緯を簡単に書く。
あくまでも僕が購読している「週刊将棋」の情報を僕なりにまとめたものである。

一昨年辺りから、男性棋士が運営している<日本将棋連盟>の下部団体であった<日本将棋連盟・女流棋士会>から女性棋士が独立して新しい団体を発足させるらしいという報道があった。
その時点では、全女性棋士が参加する新団体設立というような報道だった。
ちなみにその報道を聞いた僕は、それこそ女子プロゴルフのように、今後女性棋士が独自の路線で活動するのはいいことだと考えていた。
ところが、ある時点でその設立に当たって混乱が生じていて設立が遅れているという報道が流れた。
で、結果的には元々の<日本将棋連盟・女流棋士会>におよそ2/3が残り(女流名人・矢内理絵子や女流王将・清水市代などを含む)、1/3が<LPSA>(中井広恵女流六段や女流王位・石橋幸緒など)として独立するという形になった。
ただし、棋戦には従来通り全女性棋士が参加して闘っている。

これはひとつの事件だった。
その裏の裏はあまり詳しく語られていないが、紆余曲折や様々な確執があったことは容易に想像できる。
プロレスファンの方に分かりやすく書くなら、新日本プロレスからUWFが独立した時のような感じだ
ただ、僕は今回この事実だけをみなさんに報せたくて書いたのではない(それも大いにあるが)。

先日(と言っても昨年12月)、マイナビ女子オープントーナメントという新しい棋戦(昨年までのレディースオープントーナメントが解消・発展した)の本戦で、両団体の実力者である斎田晴子女流四段と石橋幸緒女流王位の生々しいまでの激しい闘いを観たからだ。
これもプロレス的に書くなら、新日本プロレスとUWFの対抗戦の藤波辰巳対前田日明のような対戦だ。
<観た>というのは、この棋戦の本戦はすべて無料でウェブ中継され、棋譜も公開されているからだ。

将棋を知らない方は棋譜だけを見ても分からないと思うが、将棋をかじったことがある者が見ると、この闘いが初めから恐ろしいまでの常識破りの乱戦であり、気合いの勝負手が散りばめられた熱戦であり、僕のような素人でさえ一目(ひとめ)こう指したら安全だと思われる手を指さなかったばっかりに生じた大逆転劇であり、かつ、その後も矢尽き刀折れるまで闘い切った死闘だった(ちなみに勝者は斎田晴子女流四段)。
名局というのとはまた違った、まさに激闘だった。
それ故に感動的な一局であった。

彼女たちの心の中にどれ位の熱量の対抗意識があったのかは、僕には量りかねる。
ただ、観る側の意識の中にもある種の思い入れがあることは確かである。
こういう素晴らしい闘いが密かに行われているということを、とにかく伝えたかったから書いた。
こういう闘いに触れると、自分が闘ってゆく勇気になる。


  2008年1月18日(金) 首にタオルケットを巻いて寒さをしのぐ
  「戦争という手段の善悪は別にして」

あるサイトにこの言葉がさりげなく書かれていた。
戦争という問題とは全く関係のないサイトにひっそり。
すごくさりげなくて通り過ぎそうな感じで。
でも、僕はふと立ち止まった。
「これなんだ」と思った。
僕の心の中にずっと引っ掛かっていたことを、この言葉は的確に表現していた。
この言葉こそが、人間としての戦争に対する姿勢の境界線を示す言葉なのだ。

戦争に積極的に賛成という人がいる。
これは僕にとっては論外で、どんな議論をしようが平行線を辿るしかないと思っている。
命より国家の方に、或いは宗教や思想の方に価値があると考えている人たちだ。
彼らはある種の<信者>とも言える。
国家や宗教やある種の思想を信じてしまっているのだ。
これは根本的な立脚点が違うのだ。
こういう人たちとは、僕の命のスパンでは闘い切れない。
何世代にも亘って根強く説得していくしかないのだ。

ところが、「状況によれば」とか「相手が攻めてくれば」とか「最悪の場合には」とか、条件付で意見を保留する人たちがいる。
問題はそういう人たちなのだ。
そういう人が上記の「戦争という手段の善悪は別として」というような言葉を軽く吐いて、まるで中立的立場にいるような顔をしてしまうのだ。
しかし、僕が思うに、こういう言葉を使う人は既に戦争を黙認しているのだ。
それは、大きな意味で言うと、自覚のあるなしに拘らず戦争に加担していることに他ならない。
彼らは自覚していないかもしれないが、一旦戦争が起これば、彼らは間違いなく無力に巻き込まれるか、知らず知らず戦争に加担することになるだろう。
それでいいというなら、これまた平行線だが。

戦争を否定するということは、どんな条件による留保もつけず、戦争という手段そのものを放棄することであり、その準備もそれを容認する人たちも認めないことだ。
以前にも書いたが、戦争がないことが即ち平和ということではないが、少なくとも戦争がない状態を望むということは、そういう徹底した決意が必要なのだ。

日本国憲法にそこまでの決意があるかどうかは疑問である。
今の日本人にそこまでの決意があるかどうかはもっと疑問である。
だからこそ、僕は以前にも書いたように、今の保守的政治家たちとはまるで逆方向へ向けての改憲論者である。
護憲ではなく、もっと徹底的な、自衛隊の存在余地もなくすような文言による戦争放棄を謳う憲法であるべきだと思っている。

60年前の日本では、多くの人たちがそんな決意を胸にしていたのだろうか?


  2008年1月16日(水) 将棋のネット中継を観つつ興奮する
  <ヒトラー>という言葉は危険か

あるサイトで<ヒトラー>という言葉が問題になっていた(そのサイト自体は<ヒトラー>との直接的な関係はない)。
細かくは説明しないが、例えば「<ヒトラー>が好き」ということ自体が問題発言かどうかということ。
結論から言うと、僕は全然問題ないと思うのだが、この言葉を見た時に実は<織田信長>を思い浮かべた。

<ヒトラー>は勿論虐殺者である。
ユダヤ人にとっては悪魔の名前に匹敵する。
では、「<ヒトラー>が好き」ということは、虐殺を肯定することと同義だろうか?

例えば、日本人の中には(特に男性の中には)<織田信長>が好きだと言う人がいる。
ただいるというだけでなく、恐らくかなり多くいる。
しかし、<織田信長>は戦を繰り返してきた殺人者であるだけでなく、比叡山焼き討ちという大虐殺も行っている。
好きな歴史上の人物として<織田信長>を挙げても問題はなく、<ヒトラー>を挙げたら問題だというのは全く矛盾していると僕は思う。
歴史的に近いか遠いかだけで英雄に祭り上げたり悪魔と呼んだりするのは、本質的にものごとを見ていないからだし、認識不足であるとも言える。

勿論、虐殺も含めて肯定する人たちもいる。
この項を書くに当たって<アドルフ・ヒトラー>を検索したら、ウィキペディアよりも前に彼を賛美するホームページにヒットした。
同様に、比叡山焼き討ちも含めて<織田信長>を愛好する人もいるだろう。
勿論僕はそれらの人たちとは完全に意見を異にするが、それは彼らの嗜好の問題であり、恐らく何億年経っても平行線であろうと思う。

けれど、そうではなくて、ある一面を見て<ヒトラー>や<織田信長>を好きだと言う人もいる。
例えば、<ヒトラー>の演説の上手さや野望の大きさ、<織田信長>の先見性や進取の精神など、ある一面だけ、もしくは自分にとって魅力的な部分だけを見て「好き」という人。
そういう人を否定すべきかどうかは難しい。
初めに僕は「全然問題ないと思う」と書いたが、それは「放っておいても全然問題ない」という意味であり、彼らの「好き」の度合いは大したことがないという意味でだ。

個人的な思い出を書くと、大学1年生の時、同級生がヒトラー著の「わが闘争」を読んでいるのを見て、ある種の嫌悪感を覚えたのを覚えている。
その嫌悪感は「なぜヒトラーが書いた本なんか読むのか」という所から来たものだ。
僕は今も読んだことがないが、今考えれば、反面教師としても、歴史的に意味がある人物を知る上でも、読んでみる価値はあるかもしれない。
ただ、そのまま洗脳される人がいる可能性はやはり否定できないと今も思う。

歴史的評価というのは刻一刻と移り変わっている。
自分の中に透徹した歴史観を確立した上である人物を評価する力があれば、<ヒトラー>という言葉なと何ひとつ危険ではない。
問題はそこだ。


  2008年1月9日(水) 人生で二度目のファンレターを書く
  <ハラスメント>の拡大解釈を憂う

岩手県奥州市・黒石寺の蘇民祭という裸祭りの観光ポスターを市が駅構内に掲示しようとしたところ、JR東日本から待ったが掛かったという。
そのポスターの写真に写っている「男性の裸に不快感を覚える客が多い」だろうという理由らしい。

いわゆる<セクハラ>になる可能性があるというのだ。
僕はそのポスターを見たが、髭を生やして上半身裸で胸毛が濃いグレート義太夫に似たおっさんが大きく写っていて、他にはふんどし姿の男達が写っているだけだ。
このポスターから特定の誰かに対して不快感を与えようという意図は全く感じられないし、ちんこを出している訳でも肛門を見せている訳でもない。。
これに不快感を覚える人がいるとしたら、それはある種の偏執狂だ。
仮に不快感を覚える人がいたとしても、それが<表現の自由>を侵害するのはおかしい。
セクシャル・ハラスメントというのは、誰かが不快だと思うと予想される表現すべてに適用されるものなのか?
もしも髭や胸毛が不快だというなら、それはある種の身体的特徴に対するあからさまな差別である。
JR東日本は差別助長団体ということになる。

ちなみに、僕は動物が大嫌いである。
犬であろうが猫であろうが。
そういうケダモノが写っているポスターを街でよく目にするが、正直すごく気分が悪い。
大多数がそれを見てかわいいと思おうが、少なくとも僕は不快なのである。
「これは<アニマル・ハラスメント>だ」と僕が訴えれば、公共の場所からケダモノのポスターはなくなるのだろうか?

<ハラスメント>の意味がどんどん拡大解釈されるのは非常に危険なことである。
ある特定の人、特定の民族、特定の集団に対する嫌がらせを<ハラスメント>と呼ぶべきであると僕は思う。
繰り返し言うが、不特定多数の<快・不快>の問題をそこに持ち込むべきではないし、それを予想の段階で持ち込むのは明らかに<表現の自由>への侵害である。
僕が思うに、<表現の自由>より優先されるのは<プライバシー>以外にはない。

胸毛のおっさんが<セクハラ>なら、叶姉妹なんて明らかな<セクハラ>ではないのか?