イタリア・フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に女子大生や私大生が落書きしていたことが大きな話題になった。
多くの場合、日本人のモラル、或いは最近の若者のモラルの問題として語られているこの出来事の本当の問題点は、この出来事を捉えている側にあると僕は見ている。
江戸時代の使節団がアンコールワットに落書きを残していたという歴史を見ても、最近の日本人が特にモラルが低く落書きを残すようになった訳ではないということが分かるし、金箔を張り替える前の金閣寺にも大量に落書きがあったのは、落書きをするのは今の若者に限られたことではないということを証明している。
今回この問題が何故こんなにも大きく取り上げられたかというと、ひとつにはここ数年来の<世界遺産>ブームがある。
恐らく、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂以外にも以前から日本人は落書きをしているのだろうが、この建物がたまたま<世界遺産>だからこんなにも大きく取り上げられたのだ。
また、こういう状況が起こった背景には、夏休みや卒業旅行で学生が手軽に海外に行けるという状況がある。
学生に限らず、30年位前から誰でもあまりも簡単に海外に行けるようになったということが招いた事態でもある。
で、根本的な話に戻る。
これはモラルの問題ではない。
頭が悪いかどうかという問題だ。
では、頭が悪いとはどういうことか?
それは、ある種の想像力が欠如していることである。
例えば、煙草を吸いながら道を歩いている人間が全員モラルがないかというとそうではない。
道で煙草を吸うことが他人に与える影響に対して、リアルな想像力が働かないのだ。
彼らの中には他の部分でとても道徳的な人間だって沢山いる。
それは、落書きでも同じである。
自分の行為が招く結果についてのまっとうな想像力が欠如しているのだ。
海外旅行に行く人間が大量にいる限り、彼らは繰り返し輸出される。
ということよりも、僕が本当に書きたいことは別のことだ。
それは、<世界遺産>に落書きした奴らより、街で壁やシャッターに落書きしている奴らの方が余程悪質であり、それにもかかわらず、<世界遺産>の落書きになると急にいきり立って非難する態度の方がより危険だということだ。
<世界遺産>に落書きした奴らは、少なくとも計画的に落書きしたのではないと思う(彼らの行為を擁護している訳ではない)。
スプレーや彫刻刀をわざわざ持参して書いた訳ではないから。
ところが、街で落書きしている奴らは完全に計画的に落書きをしている。
しかも、落書きされる相手が不快に思うのを知りつつ書いている。
どう考えたって、こちらの方が悪質だ。
そう、彼らは頭が悪いのではなく、悪質なのだ。
衝動殺人と計画殺人の判決の重さの違いを考えてもいい。
僕は、街でスプレーで落書きをする奴らは極刑でいいとさえ思っている。
現行の器物損壊罪や建造物等損壊罪ではあまりにも軽過ぎる。
最初の話にも関連するが、今回は<世界遺産>だから大きな問題になった。
実は、普通の民家なら落書きしても大したことはないが、<世界遺産>だと大問題だという発想こそがかなり危険だ。
確かに、<世界遺産>はなかなか再生が効かないからこそ重要であるのだが、建造物というものは所詮は人間が作ったものである。
知床半島を全焼させるのと訳が違うし、グランドキャニオンを爆破するのとは訳が違う。
歴史的建造物は確かに素晴らしいし大切にすべきだが、例えば僕にとっては<世界遺産>も築数十年の木造のぼろアパートも、同じように歴史的価値があるものだ。
<世界遺産>というレッテルを貼れば何でも価値がある訳ではないし、それはひとつの価値基準にしか過ぎない。
実はこれは建物の評価付けの中に隠された人間の差別の助長なのだ。
今回の出来事が大きく取り上げられたということは、誰かが定めた既存の価値基準によって、すべての人間の行為を評価しようとする姿勢の表れだ。
こういう意識・無意識の浸透こそが最も恐ろしい。
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