just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2007年12月27日(木) 朝から「ラジかるッ」で鳥居みゆきを観る
  春夏秋冬〜うたの力〜

少し前の話。
薬害肝炎問題で、首相が議員立法の方針を出す前、和解交渉が決裂を迎え、原告団の朝倉美津子さんが記者会見で「今日ですべてが終わる、今日ですべてが報われる、と思って頑張ってきたのに・・・」と語っていた。

僕はそれをテレビで観ていて、勿論瞬時にピンと来た。
彼女は泉谷しげるの「春夏秋冬」の歌詞を引用しているんだ、と。
きっと同時に僕と同じことを感じた人は日本中に何百人か、或いは何千人か何万人かいるだろうし、逆に出典を知らない人は、上記の発言を一般的な言葉として受け流したことだろう。
実際、これを書くに当たって「薬害肝炎・春夏秋冬」というキーワードで検索したら何件かのブログにヒットした。

何が言いたいかというと、これが<うたの力>なんだということ。

ひとつは、朝倉美津子さんの中には「春夏秋冬」といううたが確実に根付いていて、公式の場の発言でその歌詞を引用するほど強烈に彼女の人生に影響を与えているということ。
もうひとつは、その発言を聞いて、僕や他のブログで書いている人や或いは書いていないけれどピンと来た人たちに、小さい(もしくは大きい)共鳴の輪を一瞬にして作り上げたということ。

これが僕がうたを信じているひとつの理由でもある。
「春夏秋冬」といううたは、三十数年前のうたであり、シングルとして大ヒットした訳でもないし、テレビで頻繁にうたわれている訳でもないが、泉谷しげるの代表曲として根付いているうたである。
この<根付いている>というのがひとつの重要なキーワードであって、どれだけ売れても聴き流され使い捨てられるうたはうたとしての力がないということだ。
そういう意味で、「春夏秋冬」といううたは間違いなく本物で、力を持ったうただと言える。

僕が作りたいうたはそういううただ。
多分、僕の人生の野望はそれだ。


  2007年12月20日(木) クリスマスとフォークジャングルの準備
  ロボットにおけるパラダイム・シフト

パラダイム・シフトというのは、それまで立っていた土台が根本的に地殻変動する状況を指す。
よく例に挙げられるのが、天動説から地動説への移行。
つまり、土台が変わることによって、あらゆる考え方や在り方が根本的に変わること。

最近のニュースで、僕はそのひとつを知った。
それは、ホンダが作っている<ASIMO>というヒューマノイド・ロボット(二足歩行の人型ロボット)が、自分で充電をする能力を身につけたというニュース。
これは、蒸気機関が開発されたのと同じくらいの科学革命だと思った。
つまり、ロボットが空腹を感じ、自力で食事を出来るようになったということなのだ。
これによって、ロボットは半永久的に活動を続けられるようになるという前提条件を満たした。
今迄喧伝されていた二足歩行とか、形状が人間に似ているとかいうことは実はどうでもいい機能で、この自力で食事をするという能力こそが、ロボットが赤ん坊の状態から自立した(パラダイム・シフトした)という画期的な変化なのだ。
「遂にここまで来たか」の感を得、僕は驚嘆と同時にある種の絶望感に包まれた。

この段階に入りさえすれば、後はその延長線上に少しずつ能力を追加するだけでいいのだ。
あらゆる種類の自己管理能力や自己修復能力を身につければ(プログラミングすれば)、彼らは自力で回復を繰り返しながら様々なことをこなしていくだろう。
そのうちに自分でプログラミングもするようになるかもしれない。
それは想像に難くない。
恐らく百年を切るような単位で、ロボットは現在人間がしている仕事のかなり多くの部分を担当するようになるに違いない。
それはバラ色の未来かもしれないが、最悪の未来かもしれない。
今はなんとも言えない。
ひとつ言えることは、遂に<一線を踏み越えてしまった>ということだ。
善し悪しにかかわらず、もう後戻りは出来ない。
多分、この後の人類に必要なことは、ある種の<覚悟>なのだと思う。


  2007年12月19日(水) 村上春樹の「東京奇譚」を読む
  BGM

先日、近所のラーメン屋に入った。
最近出来たラーメン屋で、今回が2度目。
線路沿いの踏み切りの近くにある店だ。

そこでラーメンが出るのを待ちながら本を読んでいると、BGMで小田和正が掛かっているのに気付いた。
ポップス系の有線かと思っていると、次の曲も小田和正、その次の曲も小田和正、その次も・・・。
CDかMDか分からないが、とにかくずっと小田和正が掛かっていたのだ。
しかも、軽く微かなBGMではなく、はっきりと店内を覆うくらいの音量で。
僕の前に何人かの客がいたうえに、太麺を使っているその店は茹で時間も長いので、僕はずっとそれを聴かされるはめになった。
正直、とても苦痛だった。
ある種の拷問かと思った。
もしくはこれもまた神が与えた試練なのかと。
これなら、電車の通過音と踏み切りの警報音を聞いている方が余程マシだと思った。
ラーメンは決して不味くないが、とにかく一刻も早く食べ終わってこの店を出たいと思いながら食べた。

僕は小田和正が極端に嫌いという訳ではない。
しかし、好きでもない。
問題はそういう事ではなく、ラーメンに小田和正は全く合わないということと、僕はその時小田和正なんて聴きたい気分ではなかったということ。。
食というのは五感で味わうものであり、実は聴覚も大切な要素。
いくらそのラーメン屋の趣味であろうと、客に対する配慮が余りにも欠けているように思えた。

けれど、この店だけがこういう配慮を欠いている訳ではない。
たとえばジャズ喫茶はジャズが流れる場所であり、クラシック喫茶はクラシックが流れる場所であり、そういう類の音楽が好みでないなら店に入る前に敬遠することが出来る。
ところが、最近はあらゆる店でうんざりするようなBGMが流れている。
ラーメン屋だけでなく、牛丼屋でも焼肉屋でも定食屋でも。
ある時近所のカフェに入ったら、何故かその日に限ってジョン・レノンがずっと流れていた。
僕は決してジョン・レノンは嫌いではないが、僕の場合、ジョン・レノンを聴くにはそれなりの心構えが要るのだ。
リラックスして本を読もうと思っていたのに、全くリラックスが出来なかった。
ある蕎麦屋でずっと長淵剛が流れている時にはうんざりを通り越して、ちょっと笑ってしまったが。

音楽を売りにしている店以外は、出来ればBGMは掛けないでほしい。
音がないのがそんなに淋しいのだろうか?
特にご飯を食べる場所では、会話や食べる音が微かに店内に漂っているくらいが一番心地よいと僕は感じる。
もしもどうしても音楽を掛けたいなら、聞こえるか聞こえない程度の微かな音にしてほしいと切に願う。


  2007年12月16日(日) 鳥居みゆきの動画をひたすら観る日々
  同じ根

ふたつのことを関連して書く。

まず、つい先日の佐世保での銃乱射事件。
これに対して<アメリカ型銃社会>の事件と結び付けて語る人がいるが、これは全く違う。
結果的に起こったことは似ているが、憲法で銃所持が認められ、銃が氾濫した社会で必然的に起こる事件と相似形で捉えるのは無理がある。
アメリカの人口は日本の2倍強だが、銃所持数は恐らく日本の1000倍を超えているはずだからだ。
日本を銃社会と呼ぶのには無理がある。
ただ、<銃が存在する社会>であることには違いがない。

日本の首相はこの事件に関して「<銃規制>という方向に行っていいのかどうか・・・」とあまりにも頭の悪いコメントを出していた。
逆にマスコミは、今回のような衝撃的な事件が起こると、すぐに<銃規制>や警察の対応について語りだす。
暴力団員が殺されても何も言わないくせに。
どちらもバカだし、どちらも遅いのだ。
たとえば、狩猟を生業にする者以外の銃所持を一切禁止すれば、どれだけ銃が減るか、考えれば簡単に分かることだ。
狩猟を生業にしている人口は日本にどれだけいるだろうか?

僕は以前からこの欄でも銃規制と銃に対する厳罰化について述べてきた。
事実、少しずつ<銃規制>は強化されている。
最近国会で改正銃刀法が成立し、組織的な銃犯罪に関して罰金額の引き上げと懲役刑の強化が決まった(マスコミはこのニュースの扱いがあまりにも小さい)。
しかし、根本的な発想が違うのだ。
この国がアメリカと違って自衛の為の銃所持を認めないというのであれば、本来は銃は日常には存在してはいけないはずだし、それならば銃の製造・売買・所持・発射等すべてを含めて極刑にすればいいのだ(これも以前に書いた)。
曖昧さを美徳とする民族の美徳をこんな所に持ち込む必要はない(曖昧さが美徳だとも僕は思わないが)。
銃はこの社会に存在してはいけないものなのだという根本的な方針を明確化すればいいだけだ。

で、結局何が言いたいかと言えば、そんな法律は、本来日本国憲法が出来た時に出来ていないといけない法律なのだ。
しかし未だに出来ていない。
その度ごとの修正の繰り返し。
新に命が幾つか奪われないと次の法律が作られないのは、政治の怠慢であると同時に国民の怠慢である。
想像したら簡単に分かることなのに。

と、ここまでが前半。

石油価格の高騰が止まらない。
あらゆる産業や国民の生活に直接影響が出ていて、政府は相変わらず応急処置しか出来ない。
国際情勢の変化等で石油の値段が著しく変動することがあるということは、少なくとも1970年代のオイルショックの時に気付いたはずだ。
ところが、今も目先の、そして小手先の対応しか出来ない政府(国民)は無能であるとしか言いようがない。

1970年代の時点で、基本的なエネルギー政策を転換すべきであったし、少なくとも今からでも根本的な転換をすればいいのだ。
これもこの欄で何度も書いたが、まず太陽光発電を各建築物に義務付けるべきだ。
自家用車は所有を規制して(これに関しては細かい案があるが、それはまた別の機会に)、同時にソーラーカーを実用化(少なくとも他の燃料との共用車の早期実用化)すべきだ。
あらゆる部門で脱・石油の取り組みをした上で、どうしても石油しか使えないことだけに限定して使用するという基本方針さえ持てば、必ずコストパフォーマンスも上がる。
それはもしかしたら国際社会全体の指針になるかもしれないし、そうなればそれこそが国際貢献でもあるはずだ。
ドバイがバベルの塔になる日も遠くないかもしれない。


ふたつの、まるで関連のないことを書いたように見えるけれど、実は根は同じだ。
それは、この国には根本的な方針というものが存在しないということだ。
僕は、僕が今書いたことが必ずしも絶対だと言っている訳ではない。
僕より知識を持っている方々や現場に携わっている方々がいるはずだし、その方々の中にはもっといい案を持っている方がいるのかもしれない。
しかし、少なくとも日本の政治家からそんな理想が語られたのを聞いたことがない。
そして、それは恐らく単に政治家の責任ではなく、そういう理想を望まない国民の責任なのだ。
国民が目先の利益や利権や利便性を求める限り、政治家の姿勢も変わらないし、この国も変わらない。

十年先の未来を想定して法律や指針を立てるためには、百年、二百年先への視線が必要だ。
自分の年金だけ確保できたらいいと思っているような国民は、バベルの塔の瓦礫の下敷きになればいい。


  2007年11月29日(木) 渡辺竜王の逆転負けに驚く
  言論の自由と責任〜<若槻千夏、引退>という記事への抗議〜

他人のブログの引用で申し訳ないが、分かりやすく説明するために全文そのまま引用させてもらう。
若槻千夏のプログ「マーボー豆腐は飲み物です。」の11月26日の「今」というタイトルの記事。


「頭の中がごちゃごちゃしていて、自分らしいblogが書けそうもないので、少しblogをお休みさせて頂きます。



楽しみにしてた人も、そうでない人もごめんね。



時間ください。」


みなさん、これを読んで若槻千夏の<引退宣言>だと思う?
もし試験に「この文章を要約せよ」という問題が出て、「引退します」という意味と答えたら、僕なら0点を付ける。
義務教育を終えた程度の国語力があれば、これはどこからどう読んでも「ブログを少し休みます」としか読めないと僕は思う。
それなのに日刊スポーツという新聞は、このブログが書かれた次の日にこのブログの書き込みを取り上げ、「若槻千夏、年内にも引退へ」という記事を大々的に載せた。
その記事の中で、彼らの得意な<関係者によると>(特定の名前を挙げられないなら書くな!)という前置きで、若槻千夏が引退したいと周囲に漏らしているとも書かれていた。

その新聞記事が出た日、「少しblogをお休みさせて頂きます」と書いていたにも拘らず、若槻千夏はその新聞記事を読んでいる自分自身の写真を載せつつ、「引退しない」とはっきりブログに書いていた。
一体芸能マスコミはどういう責任を持って記事を書いているのか?
他人の人生を勝手に決めつけて、それを商売にし、何の責任も負わないというのが許されていいのかと僕は激怒した。

何度も言うが、僕はマスコミの横暴が許せない。
<言論の自由>とは、<言論に対する責任>を背負っているからこそ許される訳であり、こういう記事を書くからには、間違っていたら重いペナルティを負うべきである。
かつ、取材源が誰でも見ることの出来るブログであるということの安易さも、その無料(タダ)の素材で商売しようという卑しさも、ともに許されるべきではないと思う。
少なくともこの文責者は辞職するべきであるし、もっと言えば、こういう記事に対する損害賠償をシステム化し、多額の賠償金が発生するようにすれば、こんな安易な記事は決して載せられないようになると思う。

この国は、報道機関に対するペナルティが甘い。
言論にとって、検閲や規制という名の圧力に屈しないことが大切なのであり、発した後の責任は全面的に負うことを基本としなければならないという意識が余りにも低い。
今回は芸能マスコミについて書いたが、これはあらゆるマスコミ、もっと押し並べていうと全国民の言論に対する意識の問題なのだ。


  2007年11月29日(木) パチンコしながら歌詞を考える
  一流

昨日、バイトの現場近くを歩いていたら、ある塾の看板が目に入った。
東京では時々名前を目にする塾。
そこには<一流中高受験>の文字。
「一流?」と僕は首を傾げた。

<有名>なら分かる。
たとえば、野球で有名なPL学園とか駒大苫小牧とか。
駅伝で有名な西脇工業とか仙台育英とか。
バレーボールで有名な八王子実践とか深谷とか。
<難関>でも分かる。
灘とか麻布とかラサールとか。

さて、<一流>とは何か?
受験偏差値が高い学校が<一流>だとでも言いたいのか?
それとも金持ちの子供が通うから<一流>だとでも言いたいのか?
そこに通う学生は<一流>な学生であり、<一流>大学へ進学し、<一流>企業に就職して、<一流>な人生を歩むのか?

言いがかりのようだが、<一流>という言葉は必然的に<二流>や<三流>を前提として存在している。
誰が何を基準にそういう判断を下すのか?
<一流>などという言葉を平気で使う人間は、極端な差別主義者か国語力が皆無かだ。

その塾に通う学生が<一流>中高に進学するかどうかは知らないが、少なくともその塾が<一流>でもなんでもないことをその看板が証明している。


  2007年11月26日(月) 夜中ずっとGyaOを観る
  鳥居みゆき

ネット上の<注目のキーワード>に出ていたのをなんとなく覚えてただけで、特に検索もしなかった。
昨日、たまたまGyaOを観ていたら、「超サンミュージック」という番組に彼女が出演していた。
かなりの衝撃!
で、他の映像もYOU-TUBEで検索してみた。
特に「まさこ」と「みちこ」というネタの完成度は素晴らしい。
雑そうに見えて、実はすべて計算され尽くしている。
そのキャラ作りの徹底性と言葉のセンスのよさ、そして何よりもそのルックスの美しさに感動した。
眞鍋かをり(そう言えば昨日も夢に出て来た)とか柴田倫世に似た細面の美人。
妄想の世界に没入している彼女は、ほんとうに眞鍋かをりと相似形で、方向性がお笑い芸人かタレントかという違いだけで、突き抜け方も似ている。

彼女に対する評価で、「地上波での放送は無理じゃないか」というのがGyaOのレビューに幾つか寄せられていたが、僕は今の世の中の許容範囲なら可能ではないかと思う。
実際、出演情報を観ると今日(11/26)深夜25:20からフジテレビの「爆笑ピンクカーペット」(「爆笑レッドカーペット」の予選番組)に出演することになっている。
もっと彼女を観てみたい。


  2007年11月5日(月) 午前4時過ぎにまだ起きている
  <勝てば官軍>という言葉の本質

僕は小沢一郎という政治家が嫌いだ。
石原慎太郎と同じくらいに。
彼があれだけもてはやされる理由は理解できるが、もてはやす奴らは馬鹿だと思っている。
今回彼が民主党の代表を辞めると発言したことが大きなニュースになっていて、彼に対する評価が分かれているが、僕は彼が去ることによって政界はほんの少しだけマシになると思っている。
それについて書く。

まず、余談から。
僕は<人間は顔だ>と思っている。
顔貌は遺伝のせいで美形であったり、非美形であったりする。
しかし、それとは別に、ある程度年齢を重ねた人間の顔には、その人が生きてきた歴史や人格が明らかに刻み込まれていると僕は思う。
小沢一郎の顔を見て、彼の内面のどす黒いものを感じない人がいるとしたら、それは人間としての経験不足と観察力不足だと思う。
僕ならば、彼にどんなに実力があったとしても支持する気にはなれない。
しかし、これは僕の個人的な美意識の問題でもあるので、あくまでも余談である。

僕が議会制民主主義を支持しない理由はこの欄に何度か書いてきた。
改めて違う角度から書く。
それは、議会制民主主義というものが、選挙という勝負によって支えられている点だ。
つまり、議員になるためには、その理想の高さや潔白さや誠実さや政治的実行力とは全く無関係に、選挙に当選するという技術と力が必要とされるのだ。
多くの人が疑いを持たないことが実は不思議なのだが、政治を実行する能力と選挙に当選する能力はまるで別物なのに、政治家にはこの二つが要求されている。
と言うか、実際は後者の能力さえあれば、政治を行う者として無能であっても政治家を続けることは出来るのだ。
僕から見て、小沢一郎にあるのは、当選する能力と党派を形成する能力だけだと思う。
しかし、政治の世界において重要視されるのは、本質からズレているそういう能力なのだ。
本当に成熟した民主主義なら、選挙ではなくランダムに選ばれた人が交代で政治家をするべきであり、そうなると小沢一郎のような人間は必要ないのだ。

と、ここまでは実は長い長い前置きである。

<勝てば官軍>という言葉がある。
この言葉には二つのニュアンスが含まれている。
ひとつは、「どんなことをしてでも勝ちさえすればいいのだ」という思想。
もうひとつは、「どんなことをしても勝てばいいのかよ」という批判。
しかし、それだけではこの言葉の意味の本質を学んだことにはならない。
大化の改新、源平合戦、関が原の戦い、明治維新等、いわゆる歴史的な<勝てば官軍>の後に何が起こったか?
それは、賊軍に対する粛清である。
歴史は常に勝者を中心に語られるが、実は多くの敗者もその同じ歴史の中で生き続けているのだ。
つまり、<勝てば官軍>という言葉には、勝者のための歴史を作ろうとする思想が含まれているのだ。

話は戻るが、議会制民主主義は各議員の、そして各政党の勝敗争いから成り立っている。
つまり、政治の世界は勝者の思想によって彩られているのだ。
僕から見ると、小沢一郎という政治家は、結局自分が勝者になるためだけに政治家をやっているようにしか見えないのだ。
それは、国民のための政治とは全く乖離したものである。
というか、多かれ少なかれ議会制民主主義における政治家というのは、そうならざるを得ないのが現状なのだ。
これが現在の民主主義のありさまであるという認識の上に立ち、それでもこの制度を続けるのだとしたら、それは恐るべき勇気か恐るべき怠慢か恐るべき鈍感さのいずれかだと思う。

先の落合監督の投手交代の問題にも関連するのだが、勝つことにしか価値基準がないというのはどうしようもなく貧しい社会だ。
歴史からその勝敗の瞬間だけを学ぶのではなく、<勝った官軍>たちの末路まで学ぶべきだ。


  2007年11月3日(土) 森田童子の新曲があることを今頃知る
  あえて幻の完全試合について〜価値観の決定的な違い〜

中日と日本ハムの日本シリーズは中日の優勝で幕を閉じた。
最終戦で8回の終わりまでパーフェクトに抑えていた山井を岩瀬に替えた落合采配に賛否両論が飛び交っている。

試合終了後、すぐにそれについて書こうかと思ったが、とりあえず落合監督のインタビューをスポーツニュースで聞いてからにしようと思い、幾つかのインタビューを観た。
そこで答えていたことが事実だとすれば、あの交代の理由は山井の手の豆にあったという。
真偽は分からないが。
それを聞いて、これはきっと賛否両論があるだろうとすぐに予測できた。
と同時に、この賛否両論というのは全く意味がないとも思った。

僕は野球に限らずあらゆるスポーツにおいて、圧倒的である者が好きだ。
よく、野球の試合で理想的なのは1対0で勝つことだと言われるが、僕は100対0で勝つのが理想的だと思う。
相手の戦意ごと根こそぎ刈り取るような勝ち方こそが、あらゆるスポーツにおいて最高の形だと。
接戦の美学というものも確かにあるが、圧倒する者の美しさの方が僕は断然好きだ。
だから、僕が本当に見たいのは十割バッターであり、毎試合全打者を三振に取るピッチャーである。
それは確かに理想に過ぎないが、その理想を追わない者をスポーツにおいて美しいとは思わない。

さて、そういう意味で僕と落合監督は価値観が完全に違うのだ。
彼は日本シリーズの前に「4つ勝つ方法を考える」と発言していた。ちなみにクライマックスシリーズの前にも同様の発言をしていた。
つまり、どんな策を使おうが、どんな選手起用であろうが、勝てばいいというのが彼の考え方であり、価値基準なのだ。
記録や感動というものは、そのためには当然排除されるのだ。
だから、賛否両論などという場面すらなく、ただ果てしなく遠いのだ。
優勝と完全試合のどちらに価値があるかという価値観が完全に違う時、何を言っても無駄なのだ。
ただひとつ言えるのは、僕が監督なら「あと一回、死んでも投げろ」と言うということだ。

今回の件の後、僕はある漫画の一場面を思い出した。。
あまりにも有名な「巨人の星」。
その最後、星飛雄馬はセ・リーグ優勝を決める最後の試合に登板し、自分の左腕と引き換えに完全試合を達成する。
彼は優勝と完全試合を手に入れる代わりに投手生命を失うのだ。
それは馬鹿げているが美しい。
実利のみを求める者には永遠に分からない話だ。
ちなみに、その試合の星飛雄馬(巨人)の対戦相手は、奇しくも中日ドラゴンズだった。


  2007年10月14日(日) 4連休の3日目
  「ヒャー!」〜生きた伝説・加藤一二三〜

先日、将棋を知らない人には全く知られていないニュースが将棋界では話題になった。
それは、加藤一二三(かとうひふみ)九段(67歳)が通産千敗(千二百六十二勝)を達成したというニュース。
これは将棋界史上最多敗戦数であり、間違いなく偉業である。
なぜなら、敗戦数の多さは闘い続けているからこその勲章であるから。
彼は現在B級2組(A,B1,B2,C1,C2,フリーの6クラス)のバリバリの現役棋士であり、順位戦でも若手相手に現在3勝2敗と勝ち越している。
最多対局数も更新中である彼は、将棋界史上初の中学生棋士(以後は谷川浩司、羽生善治、渡辺明の計4人のみ)でもあり、かつて「神武以来の天才(日本国開闢以来の天才という意味)」と呼ばれた。
彼の凄さはその早熟な天才ぶりだけでなく、今尚将棋への情熱を失わずに闘い続けていることである。

彼はまた奇行・奇癖の持ち主としても有名で、数々ある伝説の中でひとつ挙げると、名人戦で彼が初めて(そして唯一)名人位を獲得した対局で、相手の王に詰みがあるのを発見した時、対局中にもかかわらず「ヒョー!」と叫んだらしい。
いくらなんでもそれは嘘っぽいと僕は思っていたが、僕は今日彼が「ヒャー!」と叫ぶのを聞いた。

今日放送されたNHK杯将棋トーナメントの羽生善治二冠(王将・王座)対中川大輔七段の解説を加藤一二三九段がされていた。
終盤、素人の僕から見ても圧倒的大差で中川七段が優勢だった。ところが、後はどう決めるかだけという局面になって、いわゆる<羽生マジック>が炸裂した。
羽生二冠が妖しい手を繰り出して粘り続けた結果、何通りか勝ち手順がある中で、やってはいけない手を中川七段が指してしまい、いわゆる<頓死(とんし)>を食らってしまったのだ。
大逆転劇である。
途中で逆転したことに気付いた加藤一二三九段は「ヒャー!これはNHK杯史上最大の逆転劇じゃないですか!?」と叫んだのだ。
67歳のおっさんが「ヒャー!」と叫ぶのを僕は初めて見た。
しかも、他人の将棋を見て興奮して発したのである。
この人はどれだけ将棋を愛しているのだろうと思うと、僕は彼がとても愛しく思えた(元々僕は彼のファンである)。
生きている限り棋士として闘い続けていてほしい人である。


  2007年10月8日(月) 雨の体育の日=ハッピーマンデー反対
  伝えたかったことと伝わったこと〜長井さんの残した映像〜

ミャンマーで銃弾に斃れた長井さんというジャーナリストの映像を今日初めて観た。

彼が伝えたかったことは恐らくミャンマーで起こっている出来事のリアルな姿だったのだと思う。
それが現場主義のジャーナリストの本分だから。
けれど、危険を冒した緊迫感のある映像がより多くのことを伝えるとは僕は思わない。
これは現場のジャーナリストと僕との決定的な温度差であるといつも感じている。

例えば、台風中継を見る度に豪雨と強風の中でレポートする人の姿に僕はいつも冷めてしまう。
そのレポーターが冒している危険や苦痛の分、定点カメラの映像より多くのことを伝えているとは僕は思わないし、逆にそこに秘められているジャーナリストの思い上がりのようなものを感じてしまう。
正確な報道は必要だが、その先には受け取る側の想像力に委ねる余地があるはずである。
それを信じていないからこそ、より緊迫感のある刺激的な映像を求めるのではないか。

話を戻す。
彼が残した映像で僕にとって一番心に残ったのは、決してミャンマーの僧侶達の映像でも警官達の映像でも何処からともなく聞こえた銃声でもない。
彼に付いていたガイドが「引き返そう」と言ったことと、それに対して彼が「大丈夫、俺はアフガニスタンにもイラクにも行ったことがあるから」と言ったことが最も印象的だった。
僕は彼のガイドに共感する。
なぜなら、僕もとても臆病な人間だから。
僕が絶対的に平和主義者であるのは単に臆病だからだ。
戦争などという状況に絶対に巻き込まれたくないのだ。
それを究極に押し広げたら、世界中から戦争がなくなればそんな心配をする必要がなくなる。
彼のガイドは、恐らく僕と同様に決して危険な状況に巻き込まれたくないのだ。
報道だけ見ていると、まるでミャンマー全体が危険な状況であるように見えてしまうが、多くの一般市民は普通に生活している訳であり、ミャンマーにもより安全な場所があるはずなのだ。
それに対して彼のジャーナリストの欲望はより緊迫した映像を求めた結果、死を迎えたのだ。

彼の死が僕に対して物語っているのは、アフガニスタンやイラクで生き残れたからって、ミャンマーで生き残れる保証はないということ。
どんな危険な状況を乗り越えたことがあったとしても、次を乗り越えられる保証はどこにもないのだ。
僕に伝わったのは、恐らく彼の意思に反してその事だけだ。
そして、僕は冒険家・植村直己の死を彼の死にオーバーラップさせて思い出した。
臆病な僕は戦場ジャーナリストにも冒険家にも軍人にも決してならない。
僕はその<臆病さ>を恥じていないし、そのことを自分の中で再確認した。

ちなみに、僕とは違う形でこの<臆病さ>を究極の形で体現しているのがゴルゴ13であり、それ故に学ぶところが多いのだとも再認識した。


  2007年10月7日(日) バイトの日曜日
  成熟した民主主義

森喜朗が公演で民主党の対抗姿勢を牽制し、「二大政党制という<成熟した民主主義>へ向かうためには話し合いが必要である」と述べたというニュースを観た。
森喜朗の発言など正直言ってどうでもいいのだが、「二大政党制という<成熟した民主主義>」という言い方がどうにもひっかかった。

僕は以前から述べているように二大政党制には反対である。
ところが、それがさも<成熟した民主主義>であるかのように語られ、まるで疑問の余地のない前提であるかのような意識が蔓延している状況は問題だと感じている。
これはある種の緩やかな洗脳である。

そこには根本的な問い掛けが不在なのだ。
<成熟した民主主義>とは何かという問い掛けが。

民主主義というのが絶対的に価値があるかどうかは疑問であると以前から述べてきたが、それは置いておいて<成熟した民主主義>について考察してみる。

その前にまず二大政党制であるが、それを「(国民が)二人の召使を切磋琢磨させる」素晴らしい制度だとあるホームページに書かれているのを読んだ。
しかし、どう考えても二人の召使よりも三人の召使の方が選択に多様性がある訳で、三人よりも四人、四人よりも五人となればより多様に、よりその長所を選択できるはずである。
僕が思うに、二大政党制というのは「いかにも民主主義っぽく見える手っ取り早い政治体制」でしかない。
本来は選択肢がA、B、C、D、E、F・・・とあるのを、まず最初にAかBかの二択にしてしまうという短絡的なやり方であり、そういう意味では<成熟した>などという言葉とは遥かにかけ離れた、というか正反対の体制であるとさえいえる。
もっと分かりやすく言うなら、現在日本で言われている二大政党制は自民党と民主党を指すが、例えば公明党と共産党の二大政党制だって可能性としては(あくまでも可能性として)考えられる訳で、つまり、民主主義としての弾力性を初めから失っているのだ。

では<成熟した民主主義>とは何か?
それは、常に無限の可能性の中から、直接民主制によって法案や予算や外交が決定される形である。
おそらくそれを実現している国家は存在していない。
それは、政党の否定でもある。
すべては個人から発せられ、幾つもの選択肢が議論の俎上に載せられ、その選択を国民が直接行い、故に全国民がその選択に責任を負う。
しかし、個々の国民が高度な政治的知識と行動力を有するような教育がなされ、かつ人生の時間のかなりの部分を全国民が政治のために割くことを義務付けられた国家以外、これを可能には出来ない。

繰り返すが、二大政党制はこの<成熟した民主主義>へ向かう過程ですらない。


  2007年9月30日(日) 何故かキム・グヮンソクのCDを聴きながら
  ビデオ判定と審判

先日、女子レスリングの世界選手権で浜口京子が誤審で敗れたことが大きく報道された。
その際、試合中に審判がビデオによる確認をしなかったことが問題になった。
今、僕はその試合について云々するつもりはない。
スポーツ全体における審判のあり方について考えたいと思う。

実はこの問題について考えるきっかけはもう少し前にあった。
それは今年のテニスのウインブルドン大会を観ていた時に遡る。
微妙なライン判定の時、不利な判定を受けた選手が<チャレンジ>という権利を行使する(基本的に1セット2回まで)とビデオ判定をしてもらえるというインスタントリプレイシステムを初めて知り、僕は少なからず衝撃を受けた。
つまり、それは審判の絶対性を、そしてスポーツにおいて人間が審判をすることの意味を否定するものだからだ。

大相撲でも以前からビデオによる確認が導入されているが、これは選手(力士)による判定の要求権がなく、審判員の物言いによって初めてビデオ確認がなされるという非常に不完全な形のものだ。
他にはプロ野球でもサッカーでもビデオ判定は導入されていない。

逆に、ビデオではないが、陸上の百メートルではスターティングブロックにフライング判定システムが導入されているし、同様のことが水泳競技でも行われている。
このように、競技によって精密機器の技術が判定に導入されていたり、審判が<絶対者>であったりと様々なのだ。

ここまでが前提の話。
微妙な判定に決着をつけるために精密機器の力を借りるというのは、公平性の観点から確かに一理ある。
もちろん、先日の女子レスリングの場合のように、その使用方法にも公平性を確保できるルールの確立が必要であるのだが。
しかし、それだけではない問題を僕は感じている。

スポーツというのは、あくまでも人間が行うものであり、競技者も審判員も人間であるということにその全体の意味があると僕は考えている。
たとえば、すごく精巧なロボットが出来て、それが人間では不可能なテクニックを見せる時代が来たとしたら、それはスポーツとはまた別の物になっているような気がする。
人間であるから選手がミスをするように審判員もミスをする。
それも含めてスポーツではないのか。
選手の技術向上に審判の技術が伴っていないというのが多くの競技の現状であるとしても、機械が判定する時点でスポーツの意味と楽しさの何割かが失われているような気がする。
審判は<ミスをする絶対者>であっていいと思うのは僕だけだろうか。


  2007年9月30日(日) 何故かノラ・ジョーンズのCDを聴きながら
  おっぱっぴー

言わずと知れた、小島よしおのギャグである。
今日書きたいことは、流行語とは時として大衆の無意識に訴えかけてくるし、逆に時代の総体の意識が反映されて登場するものでもあるということ。

実は書かないままでいたけれど、オリエンタル・ラジオが登場してきた時、武勇伝のうたの中で「意味はないけれど、ムシャクシャしたから♪」というフレーズがとても気になっていた。
僕はすごく嫌な気分にさせられる言葉だけど、時代の空気、若い奴らの気持ちから的確に抽出された言葉だと思った。
ただ「ムシャクシャしたから」ということを行為の理由として堂々と述べている点が、ひとつの世代の特徴を表している。

すごく昔、「ヤングおー!おー!」という番組で司会者の桂三枝が下らないギャグを言うと、客席が一斉に「しょーもなー(しょうもない)」と大合唱でツッコむのが流行ったことがあった。
それも、いわゆる「シラケ世代」の言葉として時代の空気の中から生まれたものだった。
全く無視するのではなく、「しょーもなー」という否定的な言葉を発しつつ積極的に関わり合うという、その世代の若者のひねくれた優しさが表れている。

さて、本題の<おっぱっぴー>を語る前に、今年の流行語大賞の最有力候補である<でも、そんなの関係ねぇ>について。
これこそ時代の総体の意識が顕在化した言葉だと言える。
みんな、それぞれに様々な場面で<でも、そんなの関係ねぇ>と少なからず思っていたのだ。
そんなみんなの中のにある小声の<でも、そんなの関係ねぇ>が、小島よしおという拡声器を通して世間を覆ったのだ。
だから、彼のキャラクターや動きの面白さの力を超えてこれだけの爆発力を持って流行したのだと思う。
だから、これは流行るべくして流行った言葉なのだ。

この言葉の流行の中で、彼が放つ<おっぱっぴー>という意味不明の言葉も付随的に流行っている。
彼はこれを<オーシャン・パシフィック・ピース>の略だと語っているが、これが彼の芸人としてのセンスであり、人間としての意識を表しているのだと僕は思っている。
直訳すれば「太平洋に平和を」という意味だと彼が語っているのも、文法的な誤りだと指摘する必要はない。
もちろん彼はそんなこと百も承知なのだ。
と同時に、彼が潜在的な意識に平和を訴えるためにそう言っているという計算ずくの平和主義者であるとも僕は思わない。
ただ、その語感が大事にし、かつ政治的な雰囲気を持つ言葉を笑いの中にさりげなく取り入れるのが彼のセンスなのだと思う。
しかし、彼がどう考えていようが、言葉は発せられた瞬間から意識に、そして無意識に訴えかけてくるものである。
無意味な掛け声という捉え方も、平和ボケを象徴するふざけた言葉という捉え方も、ふざけているが故により平和を実感させる言葉だという捉え方も、そういう様々な受け取れ方がある言葉として僕はすごく好きな言葉だ。
戦後60年を越え、実はこの「太平洋に平和を」という本当か嘘か分からない訳は、「太平洋戦争」の対義語になっているということに何人が気付いているだろうか?


  2007年8月24日(金) 旧友へ手紙を書く
  ピンクの漬物

先日、浅草の今半本店で牛丼を食べた。
言わずと知れたすき焼きの老舗である。
箸袋にも「明治・大正・昭和・平成」とわざわざ書かれていて、その歴史を強調している。
945円の牛丼の価値はともかく、セットになっているお吸い物と漬物を見て僕は愕然とした。
お吸い物はいいとして、漬物がピンクなのである。
大根の梅酢漬けなどという洒落たものではなく、いわゆるほかほか弁当の類に付いて来る、あの毒々しいピンクの漬物なのだ。
僕は自分が注文した物である以上、出されたものは余程のことがない限り残さない主義なので食べたが、この漬物を出す店の神経が僕には分からない。

あれはどう見ても合成着色料の塊にしか僕には見えないし、食欲をそそる色にも見えない。
この項を書くに当たって<ピンクの漬物>で検索したところ、モーニング娘。の亀井絵里がこの<ピンクの漬物>を好きだということで、世の中にはそういう人もいるのかと感心したが、僕は今までの人生で1度だってこの漬物を好んで食べたことはない。
あの<ピンクの漬物>を出すくらいなら漬物なんていらないといつも思う。
それが安価を売りにしている弁当屋ならまだ分かる。
今半本店などという老舗が出すのはどういうことか?

同じような例をもうひとつ挙げる。
以前、おばちゃん二人が切り盛りしているある定食屋で定食に納豆を付けた時、納豆がパックのまま出されたのには閉口した。
ちゃんとした焼き魚の定食を出す店なのに。
僕はあの発泡スチロールの容器で納豆をかき混ぜるのが嫌で、時にあの容器に箸が刺さったりすると一気に食欲が萎えてしまう。
あれは、一人暮らしで食器を使うのが面倒な人間だけに許されている手段だと僕は思っている。
納豆を新に小鉢に移し変えるのは手間だし、洗うのも面倒かもしれないけれど、そういうことも含めての<馳走>ではないのか?
それは、コスト計算から添えられる<ピンクの漬物>と同根の発想のような気がしてならない。
そう、愛が足りないのだ。

以前にも書いた<包み渡し>的過剰サービスが行われる一方で、この<ピンクの漬物>的打算が蔓延しているのがこの国の姿だ。
そして、こういう何気ない所にこそ、看板や装飾を取り払った本質が見えるものなのだ。


  2007年8月20日(月) やるべきことをやらなかった日が終わる
  <頭がいい>ということ

ネタばらしって程でもないけど、僕はこういう文章を書き出す時には頭の中で文章を最後までほぼ組み立て終わってる。
細かい表現とかは別として。
文章の設計図を描いて、最後の内装まで考えて、書き始める。
だから、僕がキーボードを打つ速度と同じ速度で文章は大体仕上がる。
でも、今日は結論を決めずに書き出した。
玄関だけ設計して家を建て始めるという無謀なもの。
でも、取りあえずこの玄関がずっと気になってたから。
そして、ついさっき若槻千夏のブログ経由で品川祐のブログを読んで、「これは書かねば」と思ったから。
と、長い前置きになった。

僕は<頭が悪い>人よりは<頭がいい>人が好きだ。
でも、すべての<頭がいい>人を好きな訳ではない。

よく言われるのが、勉強は出来なくても<頭がいい>人はいるし、勉強は出来ても<頭が悪い>人はいるという言い方。
僕もその意見はほぼ肯定するけど、そういうことを声高に言う人が<頭がいい>ということを極度に重要視する態度は好きになれない。

例えば、僕は島田紳助的な<頭のよさ>には反感を覚える。
品川庄司の品川祐的<頭のよさ>と言い換えてもいいが。
多分、僕がそいういうものに反感を覚えるのは、彼らの<頭のよさ>が余りにも実利的過ぎるからだ。

恐らく、彼らはどんな時代に生きてどんな職業に就いても上手く世の中を渡っていくのだと思う。
彼らがやろうとしていることは、実際の局面に即した方法論の確立とその実戦にある。
それは、お笑いの現場だけでなく、ビジネスの現場であれ、戦地であれ通用するやり方だ。
逆に、彼らにとって<頭が悪い>ということは、方法論も技術もなく場当たり的に現場に臨む者のことである。
確かにそれは勉強が出来るとか出来ないとかは関係ない。

その<頭のよさ>をビジネスの場で使うのは悪くないし、それこそがいわゆる成功への近道なのだろう。
けれど、<恋愛の方法>とか<人生のあり方>にまで持ち込まれるのには閉口する。
僕は計算のない恋愛下手な人も好きだし、成功とは縁遠いけれどぶれない生き方も好きだ。
そういものも方法論の確立と実戦によって成功の確率を上げられるのだろうけれど、そんな生き方が魅力的だとは僕には思えない。
人生は時間が限られているから、より有効なマニュアルを持っている者が勝者になるのはそれでいい。
それは勝手にやってくれ。
それよりも、無償で無謀な情熱だけを持って生きる人を僕は魅力的だと思う。
周りには馬鹿に見えても。

逆に、<頭が悪い>人は周りを巻き込む致命的なものでさえなければいい。
例えば、最悪の<頭の悪さ>はブッシュ大統領的<頭の悪さ>である。
安部晋三的<頭の悪さ>と言い換えてもいいが。

玄関から建て始めた家が建ったら、こんな結論になった。
僕は若槻千夏は好きだが、品川祐は好きではない。
二人とも同じように<頭がいい>が、多分二人は<頭のよさ>の使い方と要求範囲が違うからだ。
使い方が違うということは、根本的な生き方が違うということであり、要求範囲が違うということは欲深さが違うということだ。

「不器用ですから」と言う人をカッコイイとは思わないが、「不器用ですから」という言葉を使うこともないような不器用な人はその生き方を静かに全うしてほしいと思う。


  2007年8月8日(水) また<キャンディーズ係数>が上がる
  朝昼キャバ

昨日のバイトの現場は新宿・歌舞伎町。
朝9時からだったから、勿論いつもの夜の喧騒はない。
休憩時間になって、近くのコンビニに飲み物を買いに行った時、炎天下の飲み屋ビルの前で若くて綺麗なおねえさんたちが呼び込みをしているのに出くわした。
くどいようだけど、朝の話(その時で10時過ぎ)。
これは一体どういうことだろうと思っていると、立看板に<朝昼キャバ>の文字。
僕は驚くと同時に、小さく感動さえした。

歌舞伎町は眠らない街とは言うけれど、眠らないどころか、朝からキャバクラが営業をしているとは!
この商売が成り立っているということは、それだけニーズがあるということだ。
確かに、みんなが働いている時間帯に綺麗なおねえさんたちをはべらせて飲むというのは、この上もない快楽なのかもしれない。
僕はキャバクラという場所に行ったことがないし、ほとんど興味はないけれど、<朝昼キャバ>というものの存在には若干興味がある。
特に、朝から働くキャバクラ嬢たちの心情について。
少なくとも彼女らは僕と同じくらい早起きをしているはずだし、あの炎天下で呼び込みをするのも楽ではない。
そこまでしてキャバクラ嬢をするのは、純粋に金のためなのだろうか。

地方の街にはキャバクラはあってもきっと<朝昼キャバ>はないと思う。
東京という街の深みをまた垣間見た気がした。


  2007年8月3日(金) 何度目かの「路上」を読み終える
  指定されていない暴力団〜楳図かずおの新居を巡って〜

楳図かずおの新居建築を巡って、またキチガイたちが騒ぎ出した。
家の壁を彼のトレードマークである紅白の横縞模様にペイントしようとしていることに対して、近隣住民たちが建築中止の仮処分申請をしたらしい。
住民の一人は、そのペイントのことを「色の暴力」と呼んでいた。
僕から見れば、その住民たちの主張の方が余程ひどい<暴力>だ。
しかも、ただの<暴力>ではない。
自覚のない、被害者ヅラした<暴力>であるだけに余計に性質(たち)が悪い。
そして、こういう<暴力>が蔓延していることがこの国の根本的な欠陥であるということを多くの人たちが自覚していないという点も、またこの国の絶望的な点だ。

僕は同様の問題(イタリア文化会館の壁の<赤>)について、2006年3月20日の<気になるんや>に書いているのでそちらも参照してほしいが、他人の住居に関して、日照権や騒音や悪臭などの直接的被害以外の<センス>の問題について干渉するのは横暴以外の何ものでもない。
どうしても紅白の縞模様の壁の家の隣人であることが嫌なら、自分が風致地区にでも引っ越せばいいのだ。
赤と白の縞模様が「色の暴力」であるとするなら、白地に赤い丸の日本の国旗は正に「色の暴力」に当たるのではないか。
祝祭日に家の前に日の丸を掲げていたら、「色の暴力だ!」と抗議するのか。
こういう訳の分からない難癖をつけるのは、暴力団のやり口と同じだ。
<閑静な住宅地>に住んでいることで、自分たちは良識のある市民だとでも思っているのかもしれないが、実際には<指定されていない暴力団>とでも呼ばれるべき存在なのだ。
横暴さと頑迷さで正論を捻じ曲げてしまおうとする恐るべき連中なのだ。
自分たちと違う嗜好や趣味を持っている者たちを排除しようとする思想は、<差別主義>でもある。
こういう連中のことを「道徳」の教科書に載せて、反差別教育のために役立てるべきだ。
繰り返し書くが、彼らが暴力団よりも性質(たち)が悪いのは、自覚がないという点だ。
自覚のない暴力団ということは、もはや<キチガイ集団>であるとも言える。
誰か見識のある人間が、マスコミを通してでも「あなたたちは<キチガイ集団>です」と教えてあげる必要がある。
そう教えられても、彼らはきっと理解できないだろうが。

もしも、僕の発言が過激に聞こえるのだとしたら、それは余りにも無自覚の暴力に毒されているせいだ。
僕は<日常の暴力>を最も憎んでいる。
何故かと言うと、それが結局は巨悪を産む土壌となり、巨悪を育てる肥やしとなるからだ。
そこから断ち切らなくては、公正な社会や平和などあり得ない。
僕たちは、<日常の暴力>をつぶさに検討し、批判し、除去することを行動の原点とするべきだと思う。


  2007年7月27日(金) The Endから葉書が届く
  <まっちゃん党>のマニフェスト

参議院議員選挙が近い。
今回も僕は投票には行かない。
世論調査では、今回の投票に行かないと決めている人は4%らしい。
僕もその一人だ。
だが、東京都で立候補している人のポスターは、どこに行っても貼られていない2番の人以外の19枚はつぶさに読んだ。
幾つかの政党のマニフェストも読んだ。
結局僕とは相容れないのだ。
という訳で、たった一人の<まっちゃん党>のマニフェストをここに掲げる。

@憲法第9条を更に強化すべく改正する。
・あらゆる軍事同盟の禁止。
・自衛力としての武装も禁止し、完全非武装とする。
・世界平和のために積極的に平和外交をし、各国に対して内政干渉に当たるぎりぎりの限界まで非武装化を訴える。

A刑法の厳罰化と司法の透明化
・刑期の上限の撤廃
・再犯者に対しては刑期の倍増、3度目以上の犯罪はどんな軽微な犯罪に対しても極刑までを課せるようにする。
・銃刀法の改正により、武器の売買・所持・使用は即座に極刑。
・禁止薬物の売買・所持・使用も上記と同様。
・酩酊状態及び薬物使用時の責任能力は問わない。逆にそういう状態での犯罪には刑罰を加重する。
・義務教育修了者以上の者には、成人として刑罰を与える(そ の条件として、中学校での基本法規の学習の義務化)。
・警察・検察での取り調べには、必ず録画録音の義務を課す(その監視者として別の組織を作る)。

B参政権の拡大
・義務教育修了者以上に選挙権・被選挙権を与える。
・即ち、現行の各選挙毎の被選挙権者の年齢差を撤廃する。

C全国民への住居の提供の義務化
・全国民に対して、一定の面積の住居を提供する。
・土地に関しては、農耕地以外の固定資産の贈与・相続税は100%とする。
・現行制度の賃貸住宅も併用するが、保証金・敷金・礼金等を禁止し、地価に対して一定以上の家賃の設定を禁止する。
・一定面積以上の土地・建物を所有している者に対しては、所得税率及び最低所得税額を大幅に引き上げる。

D所得税の超累進課税化と消費税の廃止
・一定所得以上の者には大幅な所得税を課す。
・一定所得以下の者は所得税を限りなく0に近づける。
・消費税を廃止する。
・貴金属・自動車・自家用機・古美術などの売買に対しては、別途税金を掛ける。

E日常からの暴力の排除
・迷惑防止法(条例ではない)の新設により、路上喫煙・公共の場所での携帯電話の使用・痴漢行為・騒音・暴走行為・インターネット上の脅迫等を厳罰化する。
・暴力団は全面的に認めない。
・学校内での暴力行為には警察が出動し、厳重に処罰する。

F国際救援隊の新設
・国内外の災害に対して、即座に出動できるよう国際救援隊を新設し、什器の使用・ライフラインの復旧・緊急時の食事作りなどを常時訓練をする。
・ただし、一切の武装は認めない。

G国公立学校・幼稚園の入学金の廃止と授業料の減額化
・国公立学校は、財力によらず能力によって、すべての国民の学ぶ権利を保障する。
・私立学校への助成金の廃止

H国会議員の不逮捕特権等の廃止
・国会議員のあらゆる特権を廃止する。
・任期中は国会議事堂のある都道府県(現在は東京都)を離れる場合は届出を必要とする。
・国会議員・地方議員は、三親等以上の親族及び他人の冠婚葬祭への出席及び電報送付等を禁止する。

I国家公務員試験の受験資格は、義務教育修了者以上とする。

J天下りの禁止と国家公務員の給与の大幅削減
・天下りの斡旋の禁止及び特殊法人への転職の禁止
・国家公務員の給与は、すべての企業の平均給与を超えてはならない。

K農業と食の再生
・外国産農産物には大幅な関税を掛ける。
・休耕地を再利用し、国家及び地方公共団体で農業企業体を作る(農業サラリーマンを増やす)。
・外食産業に生ゴミ排出量規制
・産地・加工者の明記の義務化

M太陽エネルギーの利用
・すべてのビルディングは屋上に太陽光発電装置の設置を義務化する。
・各企業の太陽光及び太陽熱利用・装置のリサイクル化技術の開発に助成金を支給する。
・原子力発電所を始め、火力発電所も漸次削減する。
・ガソリン税を値上げし、無公害エネルギー促進のための助成金とする。

N個人情報の絶対的保護
・個人情報を入手できる立場にある者(個人・企業・法人等)は、それを漏洩した場合、故意・過失に拘らず厳罰に処する。
・個人情報を詐取した者は更に厳罰に処す。
・マスコミ・ミニコミ・インターネットに拘らず、特定の人物の個人情報を報道または掲示したものも厳罰に処す。

O年金の廃止と生活保護への移行
・年金制度を廃止する。
・60歳以上の国民に対しては、生活保護をする。
・ただし、一定以上の所得のある者、固定資産を有する者、預貯金のある者には支給しない。
・住居は既に提供しているという前提で、生活保護費は、最低限度の食費と光熱費を合計した金額とし、生活保護を受けている者の医療費は無料とする。

以上のマニフェストに賛成の方々、7/29の参議院議員選挙の比例代表の投票用紙に<まっちゃん党>と書いても無効票になるだけなので、気を付けて下さい。


  2007年7月12日(木) CD「東京の野蛮」が届く
  加藤晴子

人生とは、数々の二択や三択に出くわすものである。
その後の人生を左右するような重要なものから、他人から見たらどうでもいいような些細なことまで。
そして、その選択にも、胃を痛めるくらい悩ましいものから、何の迷いもなく即断できるものまで。
例えば、キャンディーズで誰がいいかと尋ねられたら即座にランちゃんと答えられるが、PUFFYのどちらが好きかと尋ねられたらかなり逡巡する。
で、今回僕が言いたいのは、あみんのどちらがいいかと尋ねられたら、何の躊躇もなく加藤晴子と答えるということだ。

昨日、あみんが再結成するという特集番組をテレビで観た。
何故その番組を観たかというと、岡村孝子の相方の加藤晴子が気になっていたからだ。
僕は「待つわ」というあの大ヒット曲もその後の岡村孝子のうたも特に好きではないが、あみんが出て来た当時から加藤晴子のことは好きだった。
「待つわ」の作詞・作曲も岡村孝子だし、主旋律も彼女がうたっていたのでどうしても世間的には陰の存在だったのだが、僕の中では圧倒的に加藤晴子の存在の方が大きかった。
しかし、あみんはわずかな活動期間の後に解散し、加藤晴子の方は引退したので、もう二度と彼女を見ることはないだろうと思っていた。

ところが、ここに来て再結成という話である。
20代の姿のまま記憶されていた僕の前に、突然40代の彼女が現われたのだ。
20年以上の時を超えて。
結論を言うと、今の彼女はすごく美しい!
ちょっとびっくりするくらいに。
昔の彼女は、美しさの素質だけを持ったちょっと頑なな感じのする女性だったが、今の彼女は柔らかさと真っ直ぐさを併せ持った美しい女性になっていたのだ。
<いい歳の取り方>というのはこのことだというような年齢の重ね方をしているのを僕は彼女に感じた。
と同時に、僕の見る目に狂いはなかったと思った。

だからと言って、今後あみんのコンサートに行ったり、CDを買ったりすることはないだろうが、僕はこれからも遠くから彼女を見つめ続けていくと思う。