just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2007年6月12日(火) このアパートで初めての新聞勧誘
  <ネットカフェ難民>議論の欠陥

今日、NHKで若年貧困層についての特集が放送された。
いわゆる<ネットカフェ難民>をクローズアップしたもの。
最近各局の報道番組で都市(主に東京)の<ネットカフェ難民>について報道が繰り返されているが、それらの報道の中でいつも欠落している視点を感じる。
今日も<派遣社員>の問題点について掘り下げていたけれど、もっと本質的な問題についてはほとんど触れられなかった。
それは、この<気になるんや>ではいつも繰り返しているが、住宅の問題だ。

本題に入る前に、まずその特集でも触れられていた<派遣社員>の問題について語りたい。
はっきり言うけど、僕は<派遣>というのは人身売買だと思う。
本来は求人している会社が直接労働者を採用すべきであって、それを仲介してピンハネするというのは、戦前の人身売買の延長線上にあるとしか思えない。
実際に低賃金労働者が苦しい生活を強いられる原因のひとつはここにある。
それがどれだけ日本経済を支えるものであったとしても。
その上、大手人材派遣会社が東京の一等地の高層ビルに事務所を構えているということは、それだけひどいピンハネをしている証拠に他ならない(僕は超高層ビルに事務所を持っている会社を信じていない)。
以上の理由で、<派遣>というもの(就業の仲介業というもの)は法律で禁止すべきだと僕は思っている。

本題。
僕が繰り返し言っている住宅問題。
これは以前から言っているように、憲法25条が謳う<健康で文化的な最低限度の生活を営む権利>に直接関わってくる問題だ。
国家というものに存在意義があるなら、その国民は原則的には無料で居住空間を与えられるべきだ。
それが大前提の理想であり、少なくとも国家はその理想に向かって最大限の努力をするべきなのだ。
僕が思うに、住宅問題が解消されれば、ホームレス、少子化、若年貧困層、老後不安などのもんだいの多くの部分は解消されるはずだ。
まず、住宅ローンや家賃が生活を圧迫することがなくなる。
保証金や敷金・礼金を廃止すれば転居がスムーズになる。
病気や怪我などで収入が減少した場合、家賃の心配をしなくて済む。
それだけで精神的な負担もかなり軽減されるはずだ。
つまり、僕が思うに憲法25条が謳っている権利は現状ではちゃんと行使されていないのだ。
そう、現実社会は明らかに<違憲状態>である。
憲法改正を云々する前に、現行の憲法の最も重視すべき点について現実を根本的に変革しないのはまさに政治の責任である。
収入が低かろうが、普通に働いている人間が屋根のある場所に正規の形で住めないという状況は完全に間違っている。
豪邸なんかいらないのだ。
逆に言うなら、豪邸に住む奴らからはその財産のほとんどを国が税金として徴収し、それを還元すればいいのだ。
それでモチベーションが下がるような人生なら、ドブに捨てればいい。

<ネットカフェ難民>とは、自然発生したものではない。
この社会のシステムが産み出したものなのだ。
つまり、この社会のシステムに加担しているあなたであり僕が産み出したものなのだ。


  2007年5月28日(月) 昨日と違う空気の質感
  <サムライ>という言葉を問う

松岡農水相が自殺した。
「死者に鞭打つ」という言葉があるが、僕はそれに賛成でも反対でもない。
死によって償われるものなど何もないと僕は思っているので、死は死にしか過ぎない。
あのキチガイ都知事が彼の死について「彼もサムライだったんだろう」と語ったのを聞いて、僕が以前から感じていた<サムライ>という言葉に対する違和感が更に鮮明になった。
それは<ロック>という言葉に対する違和感にとても似ている。
別な言い方をすれば、<長渕剛>に対する違和感ともとても似ている。
そういう事も踏まえて<サムライ>について書く。

語源から言えば、<サムライ>というのは「さぶらふ」から来ている。
<貴人の側に仕える者>という程度の意味だ。
それが転移して武士全般を指す言葉になった。
つまり、その程度のことなのだ。
<ロック>というのもそうだ。
ロックンロールというある種のダンスミュージックの短縮形でしかない。
<長渕剛>というのも、不必要に筋肉を誇示したただのうたうたいでしかない。
そこにいつの間にかある種の精神性が付随して語られるようになった。
これはまさしく言葉における意味のバブルだ。
いわゆるバブル経済のように、実態以上に膨れ上がってしまった言葉を必要以上に珍重している人たちを見る度に、僕は空しさを感じてしまう。

<サムライ>というものを美化する者達がいる。
彼らがイメージする<サムライ>とは、実際の侍とはかけ離れたものであり、<サムライ>という存在の本質を抽出してその精神性の高みを求めているかのようであるが、実はそれは神を捏造する工程と同じなのだ。
自ら神を捏造しておいてその神を崇めるのと同じように、美化した<サムライ>のイメージから逆に<サムライ>の美学をよしとする発想は、自家中毒でしかない。
そのことをどれだけの人たちが理解しているのだろうか。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉がある。
この言葉の善し悪しは別にして、これは<死ぬ>ことでケジメをつけるという意味ではない。
逆に<命を全うする>という意味なのだ。
腹はいつでも切れる。
その覚悟を常に秘めつつ、命懸けであるということだ。
「逆境ナイン」の中で、主人公・不屈闘志の台詞に「命懸け程度ですよ」というのがある。
つまり、そういうことだ。


  2007年5月14日(月) やっと冬物を仕舞う
  18と50000

最近気になっている政治の世界の数字がある。
それが<18>と<50000>。
この数字を見ただけでお分かりの方も多いのではないか。

まず<18>。
これは今日成立すると見られている国民投票法案での有権者年齢。
そもそも一体何処から出て来た数字かが分からない上に、その根拠も全く分からない。
僕は他の選挙と同じで現行の20歳でいいと思うが、それでも変更しようというなら二つ提案がある。

ひとつは、国民投票法案だけ独自の年齢設定にするならば、義務教育を終えた15歳から投票権を与えるべきだ。
義務教育を終えたということは、国民としての最低限の教育を受けたということであり、当然憲法についても歴史についても学んでいる訳だから、年齢制限を引き下げるならそこまで引き下げるべきだ。
もうひとつは、国民投票法案の投票権の年齢に他の様々な年齢設定(成人や少年法の適応など)を合わせると言うならば、まず被選挙権の年齢を下げるべきだ。
現行の地方議会議員と衆議院議員の25歳と各都道府県の首長と参議院議員の30歳という年齢制限もそもそも何の根拠もない。
選挙権と被選挙権は同じ年齢で統一すべきだ。
そうすることによって、政治家の平均年齢が下がるはずであり、老害や官僚出身の政治家を少しは減らすことが出来るはずだ。
こういう議論なしに<18>という数字を僕は認められない。

そして、<50000>。
これは少し前から書こうと思っていた。
ここのところ話題になっている国会議員の事務所経費に関する数字。
領収書の添付に当たって、5万円以上についてだけ領収書の添付を義務付けるという気が狂った法案。
領収書の添付を義務付ける必要がないとするキチガイ政党もそうだが、5万円以上だけ添付するというこれまた何の根拠もない数字を持ち出すキチガイ政党が連立して政権を担っているこの国は一体何なのか?
本当に有権者がこれらの政党に投票しているのだとしたら、一番気が狂っているのは有権者全体なのではないかと、先日の都知事選も含めて思わざるを得ない。
僕個人の話で言えば、ここ十年間で5万円以上を一度に使ったのは、パソコンを購入した時だけ。
十年間でたった一度だけだ(!)。
もっと言えば、僕が人生で5万円以上の買い物をしたのは、パソコン以外にはギターだけだ。
いくら僕が貧しいからと言って、世間がそんなに5万円以上の出費をしているとは思えない。
車を買ったりブランド品を買う人たちも多いだろうが、余程の金持ちでない限り、そんなに頻繁に5万円以上使うことはないはず。
<50000>というのは、彼ら政治家の金銭感覚がいかに壊れているかということを示す数字だと僕は思う。

もしも、これらの数字に関して僕の感覚の方がズレているのならば、僕はこの国の少数民族として独立運動でも起こさなければいけないのだろう。


  2007年5月11日(金) 抽選に負け、「バベル」を観る
  <天国>を啓蒙する人々

これは随分前から気になっていた。
それを書こうと思ったきっかけ二つある。
ひとつは、先日友人と話していた時に、彼があの和服を着た小太りのスピリチュアル・カウンセラーについて言及したからだ。
彼は「魂のステージを上げる」ということを話していた。
勿論彼がそういうことを信じるのは自由だが、昨今、そういった宗教的思想が知らず知らずのうちに啓蒙されている場面に多くぶつかることが僕はずっと気になっていた。
もうひとつは、最近読んだ伊坂幸太郎の「アヒルと鴨のコインロッカー」という小説にブータン人の死生観が描かれていたからだ。
それは正に仏教の輪廻転生に基づいた死生観だった。
それはそれでいい。
彼らはそういう死生観の教育がなされる土壌で生活をしているからだ。
ただ、彼らに他の死生観にも触れ、思索し、選択する情況が与えられていないのだとしたら、それは問題だ。
知らないことで幸せだという考え方もあるが。
このふたつのきっかけで、<天国>という言葉の普及について書く気になった。

一番顕著な例を挙げる。
芸能人の訃報に触れ、親しかった人たちがインタビューに応えるという場面がしばしばある。
そういう時に、「天国でゆっくり休んでほしい」とか「天国で先に逝った○○さんと仲良くやってほしい」というような発言を耳にすることが多々ある。
これは、宗教的に深い意味のない儀礼的で形式的な発言なのかもしれないが、繰り返し<天国>という言葉が使われることにより、知らず知らず<天国>という存在を啓蒙していることになるという事実には変わりがない。
ちなみに、これは永六輔の受け売りだが、日本では故人がいる場所のことを古来<草葉の陰>と呼んでいた。
もっと仏教的にいうなら<極楽浄土>でもいい。
それが、近年明らかに<天国>という言葉が普及している。
そのこと自体の善し悪しではなく、この啓蒙のあり方に問題があると僕は思っている。

例えば、あの金満家の小太りの占い師の女がテレビで「地獄に堕ちるわよ」と言う時、<地獄>という存在が啓蒙されているのだ。
先にも挙げたスピリチュアル・カウンセラーが<魂のステージ>とテレビで言う時、輪廻転生を前提とした<魂>の存在が啓蒙されているのだ。
最近の子供たちの多くがが生まれ変わりを信じているという話を聞いたことがあるが、そう信じるからには、アニメか絵本かその他何かによってそういう啓蒙を受けているに違いない。
日本のように宗教観や宗教教育が統一されていない国では、死生観は本来千差万別であるはずなのに。

死生観は、ひとりの人間が生死の選択を迫られた時、どう選択するかのバックボーンにもなり得る。
戦争の是非、死刑の存廃などの議論にも大きく影響する。
僕は世間に僕の死生観を押し付けるつもりはないが、安易な気持ちで<天国>などと口にすることの怖さをもっと感じてほしいと思う。


  2007年5月2日(木) やや二日酔い
  再び<高野連>を叩く

今年の1月15日の<気になるんや>に高校野球の<指定宿舎>について書いた。
そこで僕は、全国の高校は高野連を脱退して新しい組織を作ることを提言した。
僕の発言が常にラディカルであることは自分でも認識しているが、今回この項を書くに当たってネット上の幾つかの意見を読んでみたら、高野連を脱退して新しい組織を作るべきという僕と同様のラディカルな意見が幾つか見られた。
つまり、今回の裏金問題から続く流れの特待生問題について、多くの人が高野連に対して相当怒っているのだと分かる。

順を追って話す。
まず、僕は特待生問題については、正直どちらでもいいと思っている。
つまり、特待生という制度を廃止することも、特待生という制度を存続させることも。
つまり、どんなスポーツでもそうだが、上手い選手、有望な選手ばかりを集めて強豪校を作る必要は本来なく、特待生制度がなくて選手がバラけることにより、様々な高校があらゆる競技において全国大会に出場する可能性が増える方がいいという考え方もあるし、実際にお金がなくても公立高校でスポーツを続けることは出来るはずだ。
逆に、特待生制度を認め、特待生ばかり集めた強豪校を寄せ集めのチームが倒すという醍醐味を残すという考え方もある。

問題なのは、今も世間で言われているように、野球だけが特待生制度を認めていないという点なのだ。
これについては各紙面、テレビ、ネット上でほぼ同意見で語り尽くされているから僕はあえて書かない。
一点に要約するなら、高野連はキチガイ集団だということだ。
全国の高校は本気で脱退すべきだ。
そのためには、それこそ長島茂雄とか王貞治とか星野仙一とかネームバリューがあり説得力のある人物が新しい組織を立ち上げる旗頭になってほしい。
たとえば今年の夏の大会を甲子園ではなく他の球場で行うような事態になったとしても、今やるべきだ。
滅びろ、高野連。


  2007年4月30日(月) 赤い字の日だけ休みのGW(2日目)
  「銃は悪くない、人間が悪いんだ」と主張する国の愚かさ

あらかじめ言っとくけど、今回は長くなる。
まずは個人的な回想から。

僕が小学1年生か2年生の頃だと思う。
その時母は家事をしていたのか、僕は部屋に妹と二人でいたのだと思う。
何気なく家の箪笥の一番上の抽斗を開けると、そこに煙草の箱くらいの小さな箱が入っていた。
その箱を開けてみると、中には長さ3、4cmの金色の円柱状の物体がきれいに並べられていた。
そのうちのひとつを取り出してみると、それはテレビの刑事ドラマで見たことがある銃弾そのものだった。
不思議な話だが、僕がその瞬間にまず思ったのは「あっ、指紋がついてもうた。警察に捕まってまう」ということだった。
その頃の刑事ドラマの影響だろう。
父が帰って来た日に(父は毎日は帰って来なかった)、「お父ちゃん、抽斗の鉄砲の弾、触ってもうたんやけど、捕まる?」と訊いたら、父はそれほど驚いた様子でもなく、「大丈夫や。秀(父は僕をそう呼んでいた)は子供やから」と言った。
僕はひと安心したが、「ということは、いつか大人になったら逮捕されるかもしれへん」と思ったのを覚えている。
けれど、その会話を聞いていた母は父に「あんたがそんな所に置いてるから!」と怒っていた。
それ以来その抽斗に銃弾が置かれることはなくなった。
やくざだった父も数年前に亡くなったし、この出来事も30年以上前のことなので銃刀法違反としても時効だろうが、僕は今でも僕が触ったあの銃弾が誰かの命を奪ったり、誰かの体を傷つけたのではないだろうかと思うと、僕もその一端を担ったような気持ちになる。
以上は実話であり、前置きである。

本題に入る。
最近、銃による事件が国内外で大きなニュースになった。
バージニア工科大銃乱射事件と長崎市長銃撃事件を受けて、政府も各野党も各メディアも敏感な反応をしていた。
けれど、みんなどこかで諦めているか、ぬるい批判に終わっている。
戦争放棄の議論と同じで、根本的な解決を模索しようとせず、現実と妥協しようとしている姿が結局次の悲劇を生むのだ。
世界は新しい教訓として「結局妥協が悲劇を招く」という言葉を付け加えるべきだ。

昨今報道されている数字を見て、僕は自分の考えが間違っていないことを確信した。
その数字とは、銃による殺人件数だ。
日本がここ数年ずっと40〜50件に対して、アメリカは1万件以上なのだ。
単純に人口比で言うなら、アメリカは日本の2.5倍であるのに対して、銃による殺人は200倍以上というのは誰がどう見ても異常な数字だ。
その理由を、アメリカは日本より貧困層が多いとか、教育水準が低いとかどこかの馬鹿な政治家みたいに考えるのは明らかに間違っているし、死刑制度の有無(アメリカでは州によって違う)から論じるのも的外れだ。
そう、銃の存在そのものがこの数字の原因だ。

僕は以前携帯電話のことについて書いた時にも同じ<道具論>を展開したが、結局道具が人間の行動を誘い、導き、規定するのだ。
そう、銃があるから人は撃つのだ。
つまり、冒頭に掲げた「銃は悪くない、人間が悪いんだ」という言葉は完全に間違っていて、銃という存在そのものが、人間を誰かを撃つように誘い、導くのだ。
道具というものは、作り出された時点からそういう作用を始めるものなのだ。
スプレー式塗料があるから壁への落書きするガキが増える。
携帯電話があるから電車の優先席でもメールを打つ馬鹿がいなくならない。
それは、道徳心があるとかないとかいう問題や教育が行き届いているとかいないとかいう問題を超越しているのだ。
例えば、もしある動物に殴ったり蹴ったり噛み付いたりする能力がなかったとしたら、敵に出会った時その動物はきっと一目散に逃げるだけだろう。
その逆に、鋭い爪や大きな牙を持っている動物は、臆することなく戦いを挑むだろう。
つまり、銃という道具を持つことによって人間は<新しい牙を手に入れた獣>になるのだ。

結論を言う。
僕はアメリカ人ではないのでアメリカの法律を云々する権利はないが、歴史の継承と利権のために銃社会の現状を変えようとしないアメリカ社会を僕は軽蔑する(ちなみに南米の方が銃による事件の発生率は高いが)。
日本においては、銃刀法は甘過ぎる。
銃は、作っても売買しても所持していても勿論使用しても、すべて極刑にするように改正すべきだと思う。
例えば、包丁による殺人と銃による殺人は全く質が違う。
包丁は日常の道具であり、それを殺人目的に転化したものだが、銃というのはそもそもその存在が殺傷及び脅迫を目的としているからだ。
まともな人間で、この法律改正に反対する人間なんて存在し得ないと僕は思う。
銃で殺される人間を限りなく0にするために。
その法律を施行するに当たって、例えば半年の間に現在保有する銃を警察に差し出したらそれに関しては罪に問われないようにすれば、現在潜伏している銃をある程度処分することも出来ると思う。
こういう法案を提出しない国会議員というのは、怠けているか馬鹿か裏の世界に支配されているかに違いない。


  2007年4月22日(月) フォークジャングル明けの休日
  キャンディーズ

1978年4月4日・後楽園球場。
分かる人には分かる。
そう、キャンディーズの解散コンサート(CANDIES FINAL CARNIVAL)の日。
当時僕は小学6年生になったばかり。
あれからもう29年が経っている。
残念ながら僕はそのコンサートに実際に行ってはいないが、当時その映像を何度も観た記憶があるし、今「YOU TUBE」でも断片的に観ることが出来る。
今、当時の映像を観ると、その凄まじい熱気に圧倒される。
観客動員数5万5千人(!)。
ファンのキャンディーズに対する愛とキャンディーズのファンに対する愛が化学反応を起こして巨大な火の玉になっているように見える。
今のアイドルのファン達のエネルギーも凄いが、これだけの一体感はそうそう見られないのではないかと思う。
人気絶頂期での引退宣言から解散コンサートへかけての盛り上がりは、山口百恵やピンクレディーの引退の時とは比べ物にならないエネルギーだったように思う。
今更ではあるが、僕の中のキャンディーズへの想いを書きたい。

今思えば、僕はアイドルというものに熱狂したことは一度もなかった。
けれど、キャンディーズだけは特別な存在だ。
歌手としての音楽性やハーモニーの美しさ、ルックスのかわいらしさだけでなく、「8時だよ!全員集合」や「みごろ!たべごろ!笑いごろ!!」にレギュラー出演し、バラエティー・アイドルの先駆者としてのセンスも素晴らしく、今思えばある意味で完璧なアイドルだった。

僕が最初にして唯一買ったアイドルのレコードはキャンディーズの「やさしい悪魔」だった。
小学5年生だった僕にはちょっと刺激的な衣装と独特のセクシーな振り付け(ピンクレディーの振り付けより押し付けがましくないところがいい)。
エロかわいいとは彼女たちのための言葉ではないかと僕は思う(どちらかというとかわいいエロ)
でも何よりも楽曲がよかった。
作曲が吉田拓郎というのは後に知ったのだが、そういうこととは関係なしにランちゃんのソロパートには釘付けになった。

そういう訳で今までは「やさしい悪魔」がキャンディーズの中で僕のベストソングだったのだが、最近「YOU TUBE」でキャンディーズの数々の楽曲を聴いていると、ライヴでの「春一番」の素晴らしさには驚かされた。
何度も繰り返し観ているけど、観終わった後に必ず「めっちゃええ」と発してしまう。
特に解散コンサートでの「春一番」は絶品だ。
ちなみに、キャンディーズのバックバンドをずっと務めていたのはMMPというバンドで、彼らは後に知る人ぞ知るスペクトラムというバンドとしてデビューする。
そういう意味でバックバンドもしっかりしているし、キャンディーズ自身がノッているし、お客さんの声援がそれを更にヒートアップさせているという稀に見る名ライヴだ。
あの解散コンサートでキャンディーズはなんと48曲(!)うたったというが、それがあの恐ろしいテンションで行われたというのは奇跡に近い。

蛇足だが、ライヴ映像をよく観ていると、彼女たちの紙テープさばきの技術の素晴らしさにも気付かされる。
あの頃アイドルのファンたちは大量の紙テープをステージに向けて投げていたが、キャンディーズはそれを振り付けの中でキャッチし、「ちゃんと受け止めましたよ」という間合いをおいて、振り付けの中でそれをリリースするという高等技術を披露している。
そういうファンとのコミュニケーションにもちゃんと気を配っているのだ。
ファンがあれだけ熱狂するのも分かる。

僕はあの頃を懐かしがっているのではない。
キャンディーズの再結成なんてこれっぽっちも望んでいない。
今、キャンディーズに改めて恋しているのだ。
23歳のランちゃんにファンレターを書きたい気分だ。
まず間違いなく近日中に解散コンサートのDVDを買う。
そして、まず間違いなくヘビーローテーションで繰り返し観ると思う。
I LOVE CANDIES.


  2007年4月15日(日) 朝早くからバイトの日曜日
  蛍族の行き場

<蛍族>という言葉が生まれたのは何年位前のことだろう?
嫌煙権という言葉の普及と同じ位だろうか?
家族が煙草を嫌うため、マンションや自宅のベランダに出て煙草を吸う人たちの姿が蛍に似ているということから生まれた言葉だが、言い得て妙な言葉だと思う。
先日バイト現場のあるマンションのエレベーターに乗った時、その<蛍族>の危機を告げる張り紙を見つけた。
それは、「ベランダから落とした吸殻や灰で階下の方が迷惑をしています」というもの。
それを読んで「なるほど」と思いつつも、<蛍族>の危機を感じた。

僕は煙草を吸わないし、マンションに住んだこともないのでこの張り紙を見るまでこういう苦情があることについて全く思いもつかなかった。
しかし、わざとではないにしろ、吸殻や灰が階下のベランダに落ちるという事態は想像に難くないし、それを迷惑だと感じる人がいることも不思議ではない。
部屋から閉め出され、ただでさえ居場所のない<蛍族>がベランダという最後の聖域さえ奪われてしまうと本当にもう行き場がなくなってしまう。
喫煙者たちにこれからどこへ行けと言うのだろうか?
僕は喫煙者を擁護するつもりはないが、これはもう「吸うな」と言っているのに等しいのではないか。

こんな風に徐々に息の根を止めていくのなら、いっそのこともう煙草の販売禁止にしたらどうだろうか。
喫煙席と禁煙席を分けたりする手間も省けるし、肺癌や心臓病の死亡率も確実に減るはずだ。
最初は抵抗感があっても、こういうものは2、3年もすればきっと諦めるのがこの国の人々の特徴でもある。
税収の減少との天秤なのだろうが、理想論で言えば、国民の健康を考えれば安いものだと僕は思う。
他の国のように煙草の値段を極端に値上げしたって根本的な問題の解決とは程遠い。

喫煙者の方々はどう考えているのだろうか?


  2007年4月13日(金) チューリップの葉の中にほんの小さな蕾
  ポスティングという不法投棄

僕のアパートの郵便受けはひとつしかない。
アパートに住む住人全員(といっても3人)に宛てた郵便物がそこに入れられる。
その郵便受けにほぼ毎日のように様々なチラシがポスティングされている。
宅配ピザ、宅配寿司、宅配中華、金融会社、不動産屋、各種政党等々。
郵便物よりもそういうチラシが多い日もざらだ。
それで僕は思ったのだが、これはゴミの不法投棄ではないのか?

東京都には現在そういう制度はないが、一般のゴミ収集が有料化された地域があると聞いた。
その地域がゴミの重さで料金を決めているのか、一袋いくらという決め方をしているのか知らないが、いずれにせよ、ゴミが少なければ支払う利用金も少なくなるはずである。
僕はゴミ収集の有料化自体には反対ではないが、たとえばすべての地域がそうなった場合、ポスティングされたチラシをゴミとして出す時、自分がその料金を負担しなければいけないと考えると納得がいかない。

そのチラシの情報が有用であるなしに関わらず、無断で他人の家の郵便受けに郵便物以外のものを投げ込むこと自体がそもそも明らかに違法であると僕は思う。
たとえば、道で配っているティッシュペーパーを受け取るのも受け取らないのも自分の意思で判断できるのに、ポスティングされたものは、すぐに捨てるにせよ、自分の意思に関係なくどうしても一度は受け取らされてしまうという点が問題なのだ。
これがチラシではなく例えば生ゴミが投げ込まれたら、と考えたらもっと分かりやすいが。

広告媒体としてこれだけ廃れずに続いているということは、ポスティングはそれだけ有効だということだろうが、僕はこの違法性をはっきりと摘発すべきだと思う。
ポスティングを請け負っている会社も発注している会社も同じように罰せられるべきだ。


  2007年4月8日(日) チューリップを日向に
  <保守>が勝つ理由

正義が勝つのでも正論が勝つのでもない。
結局<保守>が勝つのだ。
善かれ悪しかれ。
今日は都知事選他の投票日なので、あえて<保守>について書く。

人間の歴史というのは、圧倒的な保守の時間帯と巨大地震のように訪れるほんの一瞬の革命によって成り立っている。

人間(生物と大きく括ってもいいが)というのは、何よりもまず生命活動を維持しなければいけないから、それに適した生活環境を獲得し継続するということが生活の基本となる。
そのこと自体がそもそも<保守>なのだ。
ただ、基本的に変わらない生命活動では対処しきれない状況が発生した時、<保守>ではどうしようもなくなることがある。
災害に遭ったり、資源を取り尽したり、戦争が起こったりして住み慣れた土地を離れなければいけなくなることもある。
新しい道具・機械の発明などにより、それまでの生活を支えてきた手段が世間から見捨てられ、貧困に陥る場合などもある。
ある社会全体がそういう危機に陥り、鬱積したエネルギーが爆発する時、<保守>という地盤が地殻変動を起こす。
それを仮に革命と呼ぶ。
と、まず大上段に構えてみた。

たとえば、アメリカ合衆国。
この国の歴史はすごく分かりやすい。
もともとは移民の国であり、本国を捨てたフロンティア精神の持ち主たちが作った国であるにも関わらず、巨大<保守>国家である。
何故か?
それは、個々のフロンティア精神をひとつの国家としてまとめるには、絶対的に安定した政治的地盤が必要だからだ。
そうでなければ、国が何度引っ繰り返ってもおかしくないくらいに多様に人種・思想が渦巻いているから。
民主党と共和党という2大保守政党による政権交代というガス抜きの方法を生み出すことによって、転覆を避けている巨大船がアメリカの姿なのだ。

たとえばソ連。
これは共産主義革命によって成立した国である。
にも関わらず、超ウルトラ巨大<保守>国家であった。
権力の一元化と権力の固定化を数々の粛清によって維持していた国である。
何故か?
革命によって誕生した国は、革命の怖さを最も知っている国でもあるからだ。
ソ連は結局革命を正当化したのではなく、革命が生み出した社会を正当化しようとしただけなのである。
それが柔軟性のない超ウルトラ巨大<保守>国家を生み出したため、歴史の中で舵を取り切れずに破綻することになる。

日本はどうか?
明治維新に対する評価は様々であろうが、あれは少なくとも革命ではない。
クーデターと呼ぶ方が近い。
完全な政治的転覆ではなく、ある政治的システムの中での権力の移動でしかない。
日本において起こった革命的な出来事は、恐らく天皇家が最初に支配を開始した時と太平洋戦争の敗戦だけである。
それ以外は圧倒的に<保守>を受け入れてきたのがこの国の人々だ。
それは、<保守>によって大多数が可もなく不可もない生活が送れてきたからであると想像できる。
各種の災害や圧政はあったが、それが国家を転覆するほどのエネルギーまでは発生させなかったというのがこの国の歴史である。
だからこそ、民主主義国家になってからもこれほどまでに<保守>政党が政権を取り続けているのだ。

ここまでが前置きだと書いたら怒られるだろうか。

今回の選挙でも、まず間違いなく<保守>が勝つ。
そして、恐らくこれからも。
それは、日本という国が現在でも大多数がなんとか生きていける社会だからだ。
正義とか不正とかが問われるのは、大多数にとってほんの些細な退屈しのぎでしかない。
ほんの一瞬怒りの炎が上がったとしても、それは日々の暮らしの中で沈静化されてしまう。
不正を許さないことを至上命題として生きている人間などまず間違いなく常に少数派だ。
民主主義というのは、絶対的な貧困層がいようが、絶対的な政治的弱者がいようが、大多数が生きていけたら<保守>が勝つというシステムなのだ。
だから、僕は少なくとも議会制民主主義というものを支持しないし、そのシステムを維持するための選挙には行かない。

民主主義というものが、今よりもベターな形で機能するためには、直接民主制(あらゆる法案の賛否を国民が直接投票する)、総理大臣を含む国務大臣の罷免権を国民が直接握ること(たとえば半年ごとくらいの期間で定期的に国務大臣の信任投票を実施する)、参議院議員の任期の短縮、被選挙権者の年齢の引き下げ、議員の定年制などがなされない限り無理だ。
そして、議員にとって不利なこういう改革を阻んでいるのがそもそも<保守>というものでもある。
ちなみに、それでもベターなのであってベストではない。
ベストの政治システムについて、僕は中学2年生の頃から考え続けているが残念ながら未だに分からない。

<保守>の反対語は<革新>ではない。
<革新>というのはストレートに対するカーブのようなものであり、カーブがストレートを補うための手段であるように、場合によっては<保守>をより強固にさえする。
政治的な意味において、<保守>の反対語は<混沌>であると僕は思っている。
<混沌>が生命維持の基本をなすものでない限り、政治的な意味でもそれが長く続くことはない。
こう書いている僕自身は<保守>政党も<革新>政党も支持しないが、人間としてはとても<保守>的であると思う。
変わらないものをよしとする部分が少なからずある。
しかし、それは常に大局的な理想のもとに吟味されなければならない。

これ以上書くと教育論へと発展しそうなのでここでやめる。
最後に、先日も掲示板の方でちらっと書いたが、今回の都知事選で石原慎太郎に勝てる候補者として僕が挙げた小宮悦子が離婚したらしい。
もう少し早く離婚して、是非この選挙に出てほしかった。
彼女の政治信条は知らないが、少なくとも石原慎太郎よりはマシだろう。
彼女なら石原の3選は阻止出来たはずだったのに。


  2007年4月3日(火) 明らかに風邪引き
  自浄能力とぬるい国〜西武ライオンズ裏金問題〜

この話題について書くと予告してから随分経った。
その間にドラフトの希望枠撤廃に関して一歩前進したかのように見える。
しかし、本質的な解決とは程遠いと言わざるを得ない。

では、この問題の本質とは何か?
それは、最近話題になっている地方自治体の議員や国会議員の経費の不透明さとも繋がってくるのだが、<自浄能力>というものはそもそもあり得ないということなのだ。
今回の裏金問題を受けたドラフト制度の改革にしても、アマチュア野球連盟や選手会やファンの声に押される形でやむを得ず動き出したものだ。
利権を持っているものが易々と自らそれを手放す訳がない。
水だって、石や砂がありプランクトンや藻や魚がいるからこそ清らかでいられるのだ。
淀んだ組織に<自浄能力>なんてある訳がない。
では、どうするべきか?

<自浄能力>がないのだから、他の機関に浄化を委ねるべきなのだ。
12球団の社長やオーナーが寄り集まったって、自分達に不利益なことを決定する訳がない。
それは、日本プロ野球機構だけではなく、あらゆる組織の問題だ。
国会議員が国会議員自身の決めたり、地方議会議員が地方議会議員自身のことを決めたりするのは完全に馬鹿げている。
利害関係のない外部のチェック機関が常に存在すべきなのだ。
特に、広い意味で立法を司る者達(各種の議員やあらゆる組織の幹部)は、その身分について別の機関が規定すべきである。
ドラフトの希望枠撤廃や完全ウエーバー制への移行やFA行使年限の短縮などというのは実は瑣末な問題であり、そんな細部の問題だけを変えても日本のプロ野球はよくならない。

もうひとつ。
上記の問題とも関連するのだが、現時点で西武ライオンズに対する制裁が決まっていないのも全く不思議な話である。
これも<自浄能力>のなさに由来する<ぬるさ>である。
似たような状況で全く逆の例で言うなら、番組での情報捏造問題が発覚した関西テレビは、民放連除名というかなり厳しい処分を受けた。
これは今後の民放のあり方を左右しかねない厳しい裁定である。
同じように制裁を受けるとしたら、西武も日本プロ野球機構から除名されるべきだ。
僕がこの問題を知った当初に考えた制裁案を重い順から挙げると、西武はプロ野球機構から永久追放されるか、今シーズンのペナントレースから除外される(他球団に西武との対戦予定分勝利数を上積みする)か、マイナス10勝位からペナントレースを始めるか。
ところが、西武は現在ものうのうとペナントレースを戦っているし、せいぜい来期のドラフトへ参加させないという制裁が噂されている程度だ。
どんだけ〜!
ぬる過ぎるのにも程がある。

僕はアメリカという国が嫌いだから、もし自分が超一流のプロ野球選手だったとしても大リーグに行く気はさらさらないが、それでも、日本のプロ野球機構がこんなに腐っているのなら、他の国で野球をした方がマシかもしれないと思う。
番場蛮のやり方を踏襲するなら、くじらの腹にあえて飛び込んで内側から突き破る精神で、あえて日本のプロ野球の中で闘うという考え方もあるかもしれないが・・・。

最後に、裏金を受け取った側を擁護する声も時々聞くが、僕は彼らもかばう必要はないと思う。
家が貧しいなどという言い訳を言うなら、大学や社会人に行かずにテスト生からでもプロに行くべきだ。
裏金を受け取ったら二度プロ野球選手になれないという規定を今後設けるべきだと思う。

以前に書いた刑法に関してもそうだが、いずれにしてもこの国はぬるい国なのだ。
人民のの怒りがまっすぐに届くような国ではないし、それ以前にみんな本気で怒ってもいないのだ。


  2007年4月1日(日) 江戸川橋から桜散歩
  報道における形容詞に含まれた差別意識

先日来繰り返し続けられている英国人女性殺害事件の報道の中で気になった言葉があった。
それは、容疑者の家族に関するもの。
あるテレビのニュース番組でこういう風に伝えられていた。
「容疑者の両親は、父が病院の外科部長、母が元歯科医という非の打ち所のない家庭で・・・」

これを聞いておかしいと思ったのは僕だけだろうか?
どうして親が医者と歯科医というだけで<非の打ち所のない>家庭だと断言できるのだろうか?
確かに金持ちなのかもしれない。
しかし、「金持ち=非の打ち所がない」という図式はいつ完成されたのだろうか?
もしくは「医者=非の打ち所のない」という図式が存在するのか?
これはおそらく報道部の記者が書いた原稿だろうが、「恵まれた家庭環境で育ったくせに何故殺人事件を起こしたのか」ということを強調したいがために<非の打ち所のない>という形容詞を使ったのだと僕は想像する。
しかし、それは全く的外れであるし、その原稿を書いた人間の差別意識の現われであるとも思える。
その報道記者は、容疑者がもし大会社の社長の子供だったら同じように<非の打ち所のない>と表現したのかもしれないし、逆にやくざの子供だったら<恵まれない>と表現したのかもしれない。
ブルーハーツのうたではないが、親の職業だけでその人間の何が分かると言うのだろうか?
もう忘れ去られかけた事件になるが、今年の初め、妹を殺害した予備校生もまた歯科医の子供だった。
僕は以前から報道における形容詞の使用について疑問を感じていて、ほとんどの場合が記者の偏った主観によるもので、客観的報道とはかけ離れたものだ。

もうひとつ例をあげる。
二つのニュースが続けて報じられた時の話。
初めに交通事故を起こした被告に判決が言い渡されたというニュースで、「尊い命が失われました」とアナウンサーは報じた。
次のニュースは外国の列車事故で、「○○人が死亡しました」と同じアナウンサーが伝えていた。
おかしいと思わないだろうか?
どちらかが<尊い>命であって、どちらかは尊くもなんともない命なのだろうか?
僕個人的に言えば、命というものが<尊い>という形容詞で飾られること自体が間違っていると考えているが、いずれにしろ、日本人であろうが外国人であろうが、職業が何であろうがどういう生き方や死に方をしようが、まるで特別に<尊い>命というものがあるかのような表現を報道機関がするということ自体完全に間違っている。

形容詞というものは常にそこに価値付け(差別化)が働いている訳であり、報道においては最も注意するべき言葉だと僕は思う。
もし、字数合わせや語呂で形容詞を使っているのだとしたら、それはそれで報道記者として失格だ。
書いた記者だけではなく、それをチェックする者(いるのかいないのか知らないが)の怠慢でもある。
少し話は逸れるが、そういう報道機関だからこそ、今回の都知事選でも勝手に彼らが選定した<有力な>候補者のみがテレビで討論をして発言の機会を得ている。
これは明らかに差別だ。
すべての候補者に平等に発言の場を与えてこそ、公正な報道機関と言えるのではないのか?

あえて言う。
滅びろ、マスコミ!


  2007年3月4日(日) 「フォークジャングル通信」作業中
  南夕子

この名前を聞いてすぐに「あっ!」と思う方はきっと僕と同世代かウルトラマンのファンだと思う。
そう、<南夕子>とは北斗星司とウルトラリングを合わせることによって「ウルトラマンA」に変身していた女性の役名である。

当時は画期的であった二人による変身(ちなみに全く同時期に、小学生二人が「バロムクロス!」と叫びつつ腕を絡めあって変身する「超人バロムワン」というヒーロー物もあったことも書き留めておきたい)は、僕たち小学生にとって衝撃的であった。
男同士で校庭の端と端から走り寄って「バロムクロス」をしたり、「夕子!」「星司さん!」と呼び掛け合い、女子と拳を合わせて「ウルトラタッチ!」と「ウルトラマンA」に変身する遊びをよくしたのをこの項を書くに当たって思い出した。

何故今更その<南夕子>について書く気になったのかと言うと、先日偶然観た「ウルトラマンメビウス」に<南夕子>が登場していたからである。
僕はドキッとした。
<転校して行った初恋の人>と再会したような気分だった。
恋と呼べるかどうかは別として、少なくとも僕が当時彼女に淡い想いを抱いていたということをふいに思い出したのだ。
当時小学生であった僕にとって彼女は勿論大人の女性であり、かつテレビで観るアイドル歌手たちよりもずっと美しくかわいらしく魅力的だった。
もしかしたら、僕にとって彼女が最初のアイドルだったのかもしれない。
では、何故彼女が<転校して行った初恋の人>なのか?

「ウルトラマンA」をよく知る人には説明するまでもないが、<南夕子>は実は月星人であり、ある超獣との戦いを終えて月世界に帰ることになるのである。
その時に彼女は自分が嵌めていたウルトラリングを北斗星司に託し、それ以降は北斗が独りでウルトラマンAに変身することになるのである。
それが僕たちと<南夕子>との別れでもあった。
それは余りにも唐突だった。
僕はショックだった。
きっと僕だけではない。
当時「ウルトラマンA」を観ていた者の多くが、<南夕子>がいなくなることにショックを受けたはずだ。
それほど彼女の存在は「ウルトラマンA」の中でも、僕たちの中でも大きかったのだ。
それ以後、彼女は他の番組でも少しだけ活躍していたようだが、すぐにテレビ画面から姿を消してしまうのだ。

「ウルトラマンメビウス」はウルトラマン生誕40周年記念作品ということで、かつてのウルトラマンたちが数多く登場している。
それで、長らくウルトラマンシリーズから遠ざかっていた僕もたまに観ているのだが、本当に偶然に観た回に<南夕子>(星光子という女優さん)が登場したのだ。
三十数年の年を経て、彼女も勿論オバサンになっていた。
けれど、僕の中の甘酸っぱい想いを呼び覚ますには充分だった。

ネットで調べてみると、<南夕子>の「ウルトラマンA」降板は最初から予定されていたものではなく、それが決定される過程で彼女はかなり傷ついていたらしい。
彼女自身、それ以後の人生で「ウルトラマンA」を封印していたという。
本人が受けた傷とは比べ物にもならないが、それはあの頃僕たち子供が受けたショックと同質の物だと僕は思う。
当時視聴率のプレッシャーや「ウルトラマン」という名前の重さに苦しみながら「ウルトラマンA」を製作していた大人たちは、彼女や僕たちの痛みは理解できなかったのだと思う。
でも、だからこそ<南夕子>は僕(僕たち)の中にこんなにも深く刻み込まれたのだという見方も出来る。

熱く語り過ぎただろうか。
「ウルトラマンA」のDVD購入まで考えてしまっているのだが・・・。


  2007年2月26日(月) またもや、またもや抽選に負ける
  GIVE&GIVE

昨日テレビを観ていたら、元格闘家の須藤元気が話をしていた。
彼は格闘家であるが大変な読書家でもあり、現役時代は派手な入場パフォーマンスを繰り広げ、試合中はトリッキーな動きで相手を翻弄する心理戦も得意としてた。
その彼が恋愛についての話の中で口にしていたのが<GIVE&GIVE>という言葉。

世に<GIVE&TAKE>という言葉がある。
「与えるからには見返りを」という意味。
彼が言うには、結婚というような関係においても、給料を稼ぐ代わりに家事を任せるというのは典型的な<GIVE&TAKE>であり、それは愛ではない。
愛というのは<GIVE&GIVE>なのだと彼は言うのだ。
つまり、「愛とはただ与えるものである」と。

僕なりに読み替えると、「愛とは○○である」という規定の仕方自体が、抽象概念にそもそも本質があるように思い込ませてしまう言語の罠であって、「愛とは何か?」という問い自体が無効であるということを踏まえて、「<GIVE&GIVE>を仮に<愛>と呼ぶことにする」ということについて考えてみる。

それはそれで構わない。
それが美しいとか素晴らしいとかいう価値基準は置いておいて、<愛>と呼ぶならばそれは無償の行為でなくてはならないという意見には僕も賛同する。
たとえば、僕も手紙の末尾に「愛を込めて」などと書くが、手紙は事務的な内容を除いて、私信である限り基本的に返信を求めない。
相手にとって心温まるものであるか、迷惑なものであるか分からないが、僕は自分の気持ちを一方的に差し出すだけだ。
もう一つ例をあげる。
親の子供に対する想いも、本来は無償のものである。
それを<愛>と呼んでもいいと思う。
自分の命を投げ出してでも子供の命を助けたいという想いは、決して偽善ではない。
キリスト教を持ち出すまでもなく、そういう想いというのは広く存在しているのだ。

さて、そこで僕が考えたのは、それは本当に<GIVE&GIVE>なのかということ。
自分の持つすべてを相手のために擲(なげう)つことは、完全な無償であるだろうか?
少なくとも、それが意識を持った主体の行いだとしたら、たとえば命を擲つことの中にも自分の満足感が含まれていないだろうか?
「死んでも本望」という言葉があるが、与えることによってその与えた主体も形にはならない何かを得ているのではないか?
もちろん、それを<GIVE&TAKE>とは呼べない。
与え返されることへの期待などないのだから。
しかし、やはり与えているだけではないはずだ。
ちょっと難しい言い方になるが、与えるという行為は、少なくとも相手(人間でも自然でも神でもなんでもいい)との関係性において、自分という存在を規定し直すということにもなっているはずだ。
つまり、与えるという行為によって、自分自身も自然と何かを得ているのだ。

もっと突き詰めて言うなら、<GIVE&TAKE>という言葉こそ嘘なのだ。
何かを得るための前提としての<GIVE>は本当の意味での<GIVE>ではない。
与えるということは、<ただひたすらな行為>であり、それは表面的にそう見える<失う>ということとも全く別な行為であるのだ。
「与えるものは失ってはいない」などと聖書に書かれているのかどうか知らないが。


  2007年2月21日(水) 怒涛の5連勝
  サイレントトーク

こんな言葉があるのかどうか知らないが、そう呼ぶべき状況が二日続いたから書くことにした。

まず、昨日。
電車に20代前半と思われる男一人と女二人が乗って来た。
やや混んでいる電車の中で、男がおもむろに手を動かし始めた。
手話だ。
よく見ると彼の耳には補聴器が付いていた。
手話をしている人はたまに見かけるが、三人で手話をしている場面は初めて見た。
彼らが降りる駅まで、三人でなにやら楽しそうに手話で話し合っていた。
横で僕はとても疎外感を覚えた。
電車の中で誰かが会話をしていても特に耳をそばだてて聞く訳ではないし、外国人同士が話している時は勿論意味が分からないのだが、それ以上の疎外感なのだ。
自分自身が音を奪われたような感覚と言えばよいのか。
何かひとつ感覚器を失ったような感じさえするのだ。

そして、今日。
朝の満員電車に乗り込むと、横で女子高生が二人並んでケイタイを触っていた。
僕は「鬱陶しいなぁ」と思いつつ、ちらっと彼女らを見たら、それに対して彼女らも反応して目配せをした。
と同時に一人がメールを打ち、どうやらもう一人がすぐに受信したようだ。
そう、彼女らはひそひそ話をする代わりに、メールでやりとりをしていたのだ。
「すごくカッコいいじゃん」などと打たれている訳もなく、きっと「あの帽子、超ウザイ」とかなんとか打たれているに違いない。
ここでまた疎外感である。
こんなに近くにいるにも関わらず、彼女らが伝え合っていることが全く分からないのだ。

この二つの出来事は全く無関係だし、無意識的と意識的との差もある。
しかし、僕の中でそれは同質の体験として刻まれたのだ。


  2007年2月15日(木) 夜間作業明けの休日
  文字文化の豊かな国としての日本

以前(2006年1月23日)、この<気になるんや>で<顔文字>について書いたことがある。
<顔文字>というのは、日本らしい文字文化の進化形だと。
今回はもっと基本に立ち返って、日本で普段使われている文字について考えてみる。

これを書こうというきっかけになったのは、何気なく見ていた電車の中吊り広告。
特に変わった内容ではなかったのだが、その1枚の中吊り広告には漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット、アラビア数字が使われていた。
「何を今更」と思われるかもしれないが、よくよく考えてみると、これだけ多彩な文字を平然と使い分ける民族は地球上には恐らく他にいないだろう。

これには日本の地理的な要素が大きく関係している。
中国の漢字という巨大な文字文化に影響されつつ、全く異質な文法体系であるため、日本はあくまで文字を借用する形で漢字を取り入れてきた。
その後独自の文字文化である仮名を発明する過程は、朝鮮半島におけるハングルの発明と非常に似ている。
しかし、似て非なる点は、日本がひらがなとカタカナという二つの仮名を発明した点と、朝鮮半島では現在ほとんどの言葉が固有の文字文化であるハングルで表記されているのに対し、日本はあくまでも漢字、ひらがな、カタカナを三本柱として同列で使っているという点である。

この項を書くに当たって、インターネットで表意文字と表音文字について調べていく過程で、「日本の文字文化は悲劇的である」と書かれていた項を見つけた。
つまり、日本語は書籍の索引作りやコンピューター言語などのシステマティックな体系に全くそぐわないというのである。
確かにそうだ。
しかし、それを「悲劇的」というのはあまりにも一面的過ぎると僕は思う。
例えば、「I LOVE YOU」という言葉を日本の文字に置き換える時、「愛している」とも「あいしている」とも「アイシテイル」とも「愛シテイル」とも「アイしている」とも(もっと多様だが)置き換え可能だ。
これは煩雑な作業に違いないが、その中で養われる言語感覚(表現力)というのはかなり深いと僕は思っている。
逆にその煩雑さを楽しんでいるという一面もある。
話は戻るが、だからこそ顔文字も他の国に比べて日本でより発達しているのだと思うし、それを言語的な幼稚性だと捉えるとしたら間違いだ。

「だから日本人は優れている」とか「日本の文化は水準が高い」とかいう問題ではない。
日本語という特殊な言語を母国語として生きているということのメリットをもっと活かしていいのではないかと思う。
逆に、文字文化に比して、会話のコミュニケーション能力が欧米諸国より劣っているとよく言われる。
僕は、それもそれでいいと思う。
日本文化という個性は、神社仏閣や四季の佇まいの中にだけあるのではなく、僕たちの中に普通に根ざしているという自覚こそが大切であり、それこそが日本人としての想像力と創造力の源であると思う。


  2007年2月11日(日) 世間は3連休だが、僕は休み1日だけ
  960万円

少し前の話になるが、日本航空の社長が会社の再建策の中で自らの年収を960万円にすると発表した。
大幅な給与カットだそうだ。
僕はこのニュースを聞いた時に全くピンと来なかった。
僕の感覚が世間とズレているのだろうかともう一度その数字を見直した。

日本航空が大会社だということは勿論知っている。
しかし、ひと山当てて急成長した怪しい企業と違い、企業が大きくなれば大きくなるほど、社長の年俸もサラリーマン化していくのではないかと僕は漠然と思っていた。
だからという理由もあるが、960万円という年収を僕は極端に低いと感じなかった。
今までの社長がいくら貰っていたのか知らないが、960万円もあればどう考えたって充分な暮らしが出来る。
本当に僕の感覚の方がズレているのか?

逆に、960万円というのが他の企業の社長と比べて圧倒的に低いというなら、それは他の社長が貰い過ぎだと思う。
もっと一般の社員に還元すべきだ。
「金持ちはいらない」というのが僕の持論であるのと同時に、責任者は責任に見合った給料を貰うべきであるというよりも、責任ある仕事をやらせてもらっているということで、その人の人生に対して対価は払われているのだと思う。
そう思えないような人は人の上に立つべきではない。
ちょっと厳しいかもしれないけれど、社長が1日50時間働いている訳でもないのだし、会社が潰れても死刑にされる訳でもないのだから。

関係ないが、僕は以前JASのマイレージカードを持っていた。
それは統合と同時に勝手にJALのマイレージカードに切り替えられた。
しかし、それ以来JALに乗ることはほとんどなくなった。
わざわざANAを選んでいる訳ではないのに。
縁とはそういうものだ。


  2007年2月3日(土) 丸かぶり寿司を食べる
  <時効>という無法者

先日、久し振りに「えっ!?」と驚いたニュースに出くわした。
殺人事件を起こして19年間逃亡していた男が、年金を支給してもらいたいために戸籍回復を求めて裁判所に出頭してきたという事件。
15年で殺人事件の時効が成立しているために、彼は殺人罪で起訴されることがない。
もともと同僚を金銭を奪う目的で殺害した彼が、今度は年金のために現われたという浅ましさに驚くと同時に、<時効>という制度の無法ぶりにも驚かされた。

先日(1/22)、<刑法改正私案>をこの場に記したが、ここに二つ追加したい。
一つはもちろん刑事事件における<時効>の撤廃。
次々に事件が起こる中で、捜査に割ける人員も限られているだろうから、重大事件であろうと長期間経てば捜査本部を解散するのは仕方ない。
しかし、<時効>が存在する必要はない。
民法の時効と刑法の時効では質が違うため、少なくとも刑事事件においてはどれだけ逃げても<時効>は成立せず、逆にひき逃げのように事故を起こして逃亡した場合、たとえば通常受ける刑罰(業務上過失致死)の5倍の刑を受けるような制度にすればよい。
二つめは、前回書き落としたのだが、心神耗弱や心神喪失における責任能力の有無に関わらず、その犯罪を起こした主体は存在として処罰を受けるべきだということ。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。
しかし、刑事事件における処罰は憎む憎まないの問題ではなく、その主体に犯行を起こす能力があり、それが犯罪と意識されていたかどうかに関わりなく、他の人間の社会生活を脅かす状況を作り得る存在であるなら、存在として罰せられるべきである。
ただ、処罰として更正を目的とした懲役が無理なら禁固とか、強制入院とか、死刑も含めて方策は様々にに考えられるはずだ。

以上の二つを<刑法改正私案>に付け加える。


  2007年1月30日(火) 6000円勝つ難しさ
  <産む機械>という言葉の背景

厚労相の発言が大きな波紋を呼んでいる。
様々な場所で様々な方々がこの発言に対する意見を述べているので、それと重なる意見を僕が述べる必要もないと思うけれど、この発言は女性蔑視という以上に奥深い問題が含まれているような気がする。

キーポイントは<機械>という言葉。
これが50年前だったら、きっと<産む道具>という発言になっていたと思う。
同じ女性蔑視の発言だとしても、<道具>という言葉にはまだしも人間の手触りが残っている。
<機械>というのは、システマティックに生産を繰り返すという意味であり、更に彼はご丁寧に<装置>とまで言っている。
つまり彼は命を産み出す人間も生まれて来る命も生産システムの中の数値としてしか考えていないのだ。
これは、たとえば「消費税を1%上げれば何百億円の税収が増える」というのと同じように、ひとりひとりの個人的な問題であるはずの命の問題を、国営農場で豚を増やすようにシステマティックに考えているのだ。
これはある意味で極めて有能な(!?)官僚的発想であり、それ故に絶対的に想像力が欠如している。
政治家としては絶望的だ。
僕が思うに、彼は女性を蔑視するほどの想像力もないのではないだろうか。
それ故に<機械>とか<装置>という言葉が平気で出て来たような気がしてならない。

更に<機械>という言葉について、これは僕の深読みにしか過ぎないのかもしれないが、人工授精という技術のある時代に生きているということが潜在的に影響しているような気がする。
人工授精において、仮に代理母であろうとも母胎は<産む機械>であるかもしれないが、男はもはや<産ませる機械>ですらない。
男はただの<材料>にしか過ぎないのだ。
そして、この人工授精という技術の更に先には、クローン精子とクローン卵子を使い、人工羊水の中で人間を本当の意味で<機械>的に生産する世界というのももはや見えてきているのではないか。
その時には女は彼が言うところの<産む機械>でもなくなり、現代の男と同じように<材料>になり果てるのではないか。
<産む機械>という言葉には、彼がそう意識しているかどうかは別にして、その過渡期であることを想起させるニュアンスが含まれている気がする。
そういう意味でも、僕は<産む機械>という言葉は、命の問題で崖っぷちに立っている人類を透かし見る言葉のように思う。

欲望に一度羽根が生えたら、初めはそこら辺をパタパタとかわいらしく飛んでいたとしても、やがては手の届かない遥か彼方まで飛んでいってしまう。
人工授精を認める人たちは、<産む機械>という発言をした人と根源的には同類だと僕は思う。
命を操作可能なものとして、技術的な問題として扱っているという意味において。
これは、ただ人工授精の問題にとどまらず、軍隊を保有するかどうかという問題なども含めて、命というものに対する根本的な姿勢の問題なのだ。
手に入れられるものも手に入れられないものもあり、数字で計っていいこともいけないこともある。
いつも結論は同じなのだが、結局想像力の問題なのだ。


  2007年1月29日(月) 久し振りの休日
  玄翁

自分のことを<生き字引>だとか<物知り>だか思うほど傲慢ではないが、幼い頃から一日に何時間もテレビを観ては情報を得、学校でも勉強をし、本もそこそこ読んで来たので、それなりには物事を知っているつもりでいた。
ところが、40年間生きてきて、自分がごく普通の物の名前を全く知らなかったことに気付かされて驚いた。
それは<玄翁(げんのう)>という物。

昨日の朝、日曜日にもかかわらずバイト現場に朝6時半集合ということで普段よりもずっと早起きしたら、テレビで鍛冶屋さんの仕事ぶりについてのドキュメンタリーが放送されていた。
すごく興味深い番組だった。
出掛けなければならなかったので途中までしか観られなかったのが残念だったが、その鍛冶屋さん(燕三条の馬場さんとおっしゃる方)が作っているのが<玄翁>だった。
その方が作る<玄翁>は素人目にも見事で、実際に使い勝手もいいらしく、彼の手による物で銀座で売られている高価な物は100万円(!)を超えるものもあるらしい。

みなさんは<玄翁>という呼び名を当たり前のように知っていたのだろうか?
僕は本当に初めて聞いた言葉だった。
僕は今までそれのことを<金槌>と呼んでいた。
ところが、調べてみると<金槌>と<玄翁>は微妙に違うらしい。
その詳細については書かないが、<玄翁>は釘抜きが付いていなくて両面が叩く面になっていて、片面は平でもう片面はやや凸型になっているのだ。
片面ずつ用途も違うし、ヘッドの重さによって打つ釘の種類も変わるし、鍛冶屋さんによってもちろん出来が違う。
シンプルな形をしているが、すごく奥の深い道具なのだ。

<玄翁>というのは僧侶の名前に由来する言葉らしい。
ちなみに僕のパソコンで「げんのう」を変換すると<玄翁>だけしか表示されなかった。
美しい日本語というだけでなく、その言葉の歴史、鍛冶屋さんや大工さんなどのこの道具に関連する職人文化なども含めて、味わいのある言葉だと感じた。


  2007年1月22日(月) 雨上がりの空気が秋のような日
  刑法改正私案

憲法の改正、教育基本法の改正が政治課題として大きく取り上げられる中、どうして刑法が取り上げられないのか、僕には不思議でならない。
これだけ生活に密着している法律は他になく、かつみんながどこか少しずつ不満に思っているはずである。
で、何度も言うが、僕は法律に関しては全くの素人であるけれども、僕なりにあるべき刑法の姿を模索してみた。
以下、改正が必要と思われる点の骨子を述べる。

@<前科>(これは法律用語ではないらしい)というのをやめ、犯罪をポイント制にし、再犯した者に関してはそのポイントを加算して刑を加重していく。
A銃器、爆発物など、殺傷能力のある凶器は、許可なく所持、売買、製造しただけで殺人と同等の刑を処す。
B少年の犯行も成年と同様に処罰する。
C個人情報及びプライバシーは完全に保護され、報道の自由、言論の自由以上に優先される。
D現行の無期懲役を廃し、懲役刑の最高限度を設けない。
E恩赦を廃止する。
F警察、検察による取調べはすべて録画し、別の機関がそれを管理し、裁判において要求があればその映像は公開される。
G死刑を存続させる場合、死刑の判決を受けた者は自動的に上級裁判所へ審議を送られるシステムにする。ただし、死刑執行は刑の確定後1週間以内。

現時点で僕が考えているのは以上のようなことである。
少し補足説明をする。
@は、再犯の予防だけでなく、常習犯罪者を徹底して許さないという考え方である。
僕が考えているのは、過失による犯罪と故意の犯罪に明確なポイント差を設けること。たとえば、飲酒運転は過失ではなく故意なのでポイントは大きいなど。
A現行の銃刀法は軽すぎる。ピストルはこの世界に全く必要ない。
Bこれは極端かもしれないが、最低でも@のポイントの加算だけは少年に対しても課してほしい。
C写真週刊誌によるプライベート写真の掲載等は一切禁止し、それだけでなく、許可のない写メールの撮影等も禁止する。
D現行の無期懲役を疑問視している人は多いと思う。というより、実際に無期懲役というものは全く有効性を欠いている。懲役70年とか200年とかあってもいいはず。
Eこんな馬鹿げた制度はない。服役中の刑の軽減を認めるとするならば、もつと合理的な理由が必要であると思う。
Fこれには警察、検察は絶対に反対であるだろうが、現在の密室状態での取調べ、自白の強要はそれ自体が犯罪である。DVDの出現により、録画は低コストでより簡単に長時間出来るようになったことも含め、プライバシーの問題を考慮しつつ、裁判官と弁護士はそれを見る権利を持っていいと思う。
G死刑が極刑であるかどうかも実は疑問である。死刑+全財産没収とか、無期爆発物処理の刑とか、色々考えられる。ただし、死刑執行後は反証の発見による冤罪が証明されても保証できないので、必ず最高裁まで審議されるべき。と同時に、刑は常に即座に執行されなければ、死刑+禁固刑になってしまうので、現行の執行の遅さは逆に国家による刑の加重行為に当たる。

どうだろうか?
みなさんの考えを聞きたいのだが。
そして、本来なら僕が国会議員にでもなって実行すればいい話であるが、僕は年金も払っていないし、人生をうたに捧げているので、誰か代わりにやってくれないだろうか。


  2007年1月21日(日) 一日中ゲーム
  僕がなぜ風見しんごのインタビューを見るのか

ということをが自分でも分からずに考えてみた。
どうして悲しい人を見たいと思うのか?

その<悲しみ>という感情を共有したいからか?
それを見て泣くことによって、自分の心にある<しこり>のようなものをほぐしたいからなのか?
悲しい人を見ることによって、自分の方がマシだと安心したいからなのか?
いつか自分が似たような悲しみを受ける時のために、疑似体験をしようとする防衛本能なのか?
悲しみに耐えてインタビューに答える姿を<見世物>として見たい好奇心からなのか?
自分の中にある<車社会>に対する憤りを再確認したいからなのか?

実は今でもよく分からないまま、これを書いている。
もしかしたら、この全てが含まれているのかもしれない。

僕が感じたことを書く。
今まで書いたことに矛盾すると取られるかもしれないが、子供を亡くした直後の親にインタビューする人間の神経が完全に狂っているということ。
<車社会>というのは、こういう事故、化石燃料の大量消費(それによる環境破壊と温暖化)、生活の場と商業地や職場を分断化することによる地域密着型の生活の崩壊を招いていることなど、その利便性のメリットに対してのデメリットが余りにも大き過ぎるということ。
以前にも書いたけれど、信号が青であろうが赤であろうが、自分は常に<車という凶器>の傍にいるという認識を強く持ち、何よりも左右の確認を最優先させるということ。
世間はそれでも<車社会>を捨てられずにいるという認識の甘さ(僕自身は運転免許も車も持っていないが、バイトで毎日車に乗っているという矛盾)。
話はすこし逸れるけれど、「人間は顔じゃない」という人が時々いるが、その人の状態や来し方はちゃんと顔に表れているという意味で、人間は顔によってかなりの部分で判断できるということ(彼の顔は、普段の生気が全くなく、眼光も弱く、完全に魂を抜かれた虚ろに顔をしていた)。

この事故の前に、モーニング娘。の吉澤ひとみの弟が事故死したというニュースもあった。
子供を亡くす親も苦しいが、兄弟を亡くすのも同じように辛いことは想像に難くない。
何度も言うけど、僕はやっぱり自動車という存在そのものが間違っていると思う。
どんなに反対意見が多くても、そして、僕の生活の中にどれだけこの意見との矛盾があるとしても(バイトでも乗るし、タクシーも乗るし、ヒッチハイクもする)、少なくとも僕だけはこの意見を貫きたいと思う。

緊急車両以外の車は廃止するべきだ。


  2007年1月15日(月) 「六番目の小夜子」を一晩で読み終える
  指定宿舎

これを書くために一日、間を置いた。
何故なら、書き始めようとした時にあまりにも感情的な罵声ばかりが出て来たから。
それ位怒っている。
「こんなことでそんなに怒る?」と思われるくらい怒っている。
その怒りをまず書く。
滅びろ、高野連!

あるバラエティー番組でナインティナインと中居正広が、昨年夏に高校野球で優勝した早稲田実業が宿泊していた宿に行き、そこでふざけた挙句にナインティナイン・岡村が自分のことを<オナラ王子>と呼び、色紙に<オナラ王子>とサインしてその宿に残した。
これに対して高野連が「教育の一環として行われている高校野球の目的から著しく逸脱する番組構成で誠に遺憾(報道より)」とテレビ局に抗議し、その撮影場所になった宿を高校野球の<指定宿舎>から外すと決めたというもの。

高野連の体質自体がこの国の旧態依然の最たるものであると、僕は以前から思っていた。
今回この項を書くに当たって高野連についてインターネットで調べたら、そのHPの中に「日本学生野球憲章」なる文章を見つけた。
この憲章の前文を読むと、若い兵隊を洗脳し訓練するために書かれた20世紀の古文書としか思えなかった。
あえて引用はしないが、まるでまだこの国は大日本帝国であるかのような文章だ。
この文章のもとに高野連を運営している奴らは、多分今でも防空壕で竹槍を握りしめながら暮らしているんだと思う。
だから、彼らの言う<教育>というものは、現在の日本国においては全く通用しない過去の遺物である。
大会終了後の表彰式で、くだらない肩書きの付いたじいさんたちが入れ替わり立ち代わり、長々と話をするのを<教育>だと奴らは勘違いしているのだ。

核心に触れる前に断わっておくが、<ハンカチ王子>というネーミングも最低なら、そのパロディーの<オナラ王子>なんて面白くもなんともない。
そんなことはどうでもいいのだ。
ただ、この世に存在するすべてのもの(すべての権威あるもの)はパロディーの対象であり、<オナラ王子>を否定するなら、チャップリンの映画もすべて否定する所から始めてもらいたい。
それは質の問題ではない。
パロディーという技法を認めるかどうかという芸術の根本に関わる問題なのだ。
高野連の馬鹿どもが、芸術の深奥の問題について口を挟む資格があるのか。

少し核心に近づく。
高校野球が素晴らしいのであって、高校野球大会が素晴らしいのでも、それを運営している高野連が素晴らしいのでもないということ。
余談になるが、昨年夏の高校野球が盛り上がったのは、<ハンカチ王子>だけの力ではない。
それには様々な伏線があるのだ。
それまで白河の関さえ越えなかった深紅の大優勝旗が、3年前に一気に北海道に渡って以来の駒大苫小牧の2連覇。
その後の不祥事による駒大苫小牧の春の大会辞退。
そこから復活して夏の大会3連覇をかけての出場してきた好投手・田中を擁する駒大苫小牧。
その流れを軸として、離島から勝ち上がって来た八重山商工の健闘、スポーツ強化高である青森山田と駒大苫小牧のシーソーゲームによって高校野球の西高東低の神話が完全に揺らいだこと、連投を続ける<ハンカチ王子>などが、この大会のドラマ性の密度を増してきたのだ。
そして、あの決勝再試合というクライマックスへと昇華していくという、まるで作り話のような展開と、選手達のひたむきさと技術の高さに我々は熱中したのだ。
このドラマの中で、高野連が唯一果たした役割は、駒大苫小牧が不祥事によって春の大会を辞退しなければならないような旧態依然とした体制だったことだ。
それが、このドラマの<タメ>を作ったことは確かだ。
悪しき権威の象徴として。

核心へ。
今回僕が最も気になったのは、<指定宿舎>なるものが存在するという事実だ。
それはなんだ!?
おそらく、戦前の中等野球時代にはそんなものは存在しなかったはずで、甲子園から近い宿をそれぞれの学校が見つけて宿舎にしていたのだと思う。
それがある時期から高野連が<指定宿舎>というものを定めて、初出場高などに推薦するようになったのだろうか?
どうしてそんなものに<指定>の必要があるのか?
たとえば、初出場高が宿を探すのに当たって、高野連がそこに介入すること自体が間違っている。
たとえ<教育>の一環であれ、修学旅行の宿泊施設と同程度の基準で学校が選べばいいだけの話ではないのか?
逆に、地方大会の決勝戦から甲子園大会までの期間が短く、受け入れてくれる宿が少なくて、受け入れ態勢の整った宿を<指定宿舎>としているのなら、感謝こそすれ、<指定宿舎>から外すなどと高野連が高飛車な態度を取れる筋合いではない。

長年に亘り、高野連が全国高校野球大会を運営してきたという実績は認める。
しかし、それは現行の高野連である必要はない。
こんな馬鹿げた組織は20世紀に置き去りにするべきだったのだ。
日本中のすべての高校が高野連から脱退し、新しい組織を立ち上げることを切に望む。


  2007年1月13日(土) 夜明け前に
  <バラバラ>の潜む場所

正月早々取り上げる話題でもないが、あえて書く。

僕は、殺人というものは非日常的なものだとは思わない。
日常生活の延長線上に普通に存在するものだと考えるし、そう考えることによって、戦争を含むすべての暴力への批判というものが存在し得るのだとも考えている。

たとえば、リモコンのスイッチを押す。
これは一動作だ。
たとえば、拳銃の引き鉄を引く。
これも一動作だ。
たとえば、蛇口をひねる。
これは一動作だ・
たとえば、鈍器で頭を殴る。
これも一動作だ。
たとえば、帽子をかぶる。
これは一動作だ。
たとえば、ナイフで誰かを刺す。
これも一動作だ。
それぞれの動作に特別性も複雑さもない。
すごく単純な一つの動きで人を殺すことが出来る。
そこにある種の質とある濃度の感情が含まれているかどうかの違いだけだ。
つまり、僕たち簡単に人を殺してしまう存在であるし、殺されてしまう存在でもある。

しかし、<バラバラ>となると話は違う。
遺体をバラバラにするということは、一つの単純な動作では出来ないし、時間も掛かるし、忍耐力もいる。
死体とずっと向き合い、返り血を浴び、腐臭を嗅ぎ、肉や骨を断つための力を必要とする大変な作業であるということは、想像に難くない。
これは一瞬の衝動で出来るものではない。
ある種の執念の持続か、ある種の狂気の持続という<大きな負のエネルギー>が必要になる。

で、ここで問題なのは、そういう<大きな負のエネルギー>が、何気なく道ですれ違うような人の中に蓄積されているという事実である。
昨年末から今年にかけて<バラバラ>殺人事件が相次いでいるが、それらは組織的な犯行ではなく、そこいらを歩いているような普通の人の個人的な犯行だった。
つまり、それは何百年に一度の特殊な事件ではなく、日常の中に潜んでいるものが発露しただけなのだ。
それを認識することが最も大切だと僕は思う。

アウシュビッツは特殊な時代の特殊な人によってなされたものではない。
僕たちは、現在の日常の中にまるで同じものを抱えながら生きているのだ。
たとえ個々の事件が風化していったとしても、何から目を背けてはいけないのかを学ぶべきだ。