just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2006年12月20日(水) ハニーサックル+ベルガモットの香り
  「じゃあ、あの報道は間違いだったんですね」

六甲山で遭難していた人が20日振りに発見されたというニュースの続報で、その人がバーベキューのために持って行った焼肉のタレ飢えをしのいでいたというのが数日前に報道されていた。
ところが、今朝の報道を見てみると、その報道が完全に覆されていた。

遭難していた人は遭難二日目に気を失い、低体温状態で冬眠していたような形で生存していたらしい。
それ自体驚くべき事実なのだが、今回気になったのは、その報道を受けて、今朝ある情報番組のメインキャスターが呟いた言葉である。
それが表題に示したものだ。

これはどういうことか?
これはまるで一視聴者の感想ではないのか?
報道する側の姿勢として最低の言葉であると言わざるを得ない。

この報道番組でも、焼肉のタレで生き延びたと報道していたし、わざわざその検証までしていた。
問題なのは、この誤報に対して詫びる訳でもなく、「じゃあ、あの報道は間違いだったんですね」と他人事のように語るジャーナリストとしての責任感のなさである。

そして、もうひとつの問題点は、「焼肉のタレ」報道がなされる前に、何故その報道の真偽が検証されなかったのかということである。
最近の報道機関は、スピード優先、映像の有無を余りにも大切にし過ぎて、<真偽>という最も基本的な部分をおざなりにし過ぎているように感じる。

これは一例にしか過ぎない。
報道の無責任さが増していると感じてるのは僕だけだろうか?


  2006年12月18日(月) ハニーサックルの香りの中で
  公務員官舎の家賃

本間税調会長の愛人との同棲騒動で話題になっている公務員官舎。
赤坂にも現在新築されている官舎があり、その家賃が周りの家賃に比べて劇的に安いことが問題視されている。
でも、僕は問題はそこではないと思う。

この問題で、近隣の物件を扱っている不動産屋がしばしばテレビに登場し、近隣の同程度の物件の相場との差を語っているのを見て、僕が怒りを覚えたのは官舎の安さではない。
近隣の物件の高さの方だ。
不動産屋は当たり前のように何十万円という家賃を電卓ではじき出しているが、その値段はまともな人間が住むためのまともな金額ではないということを理解できない位マヒしているのだ。

以前から言っているが、人間が生きていく上で<居住する>というのは最低限の基本的な行為であり、日本国憲法第25条に記述されている「健康で文化的な最低限度の生活」というものの基底をなすものであると僕は考える(ちなみに僕は日本国憲法で最も重要なのはこの条文だと思っている)。
土地の利便性だけで、平均的な賃金労働者が住むことが出来ないような住居が普通に存在しているという事実が問題なのだ。
この土地問題こそが、教育基本法よりも以前に議論されるべき大問題なのである。

住居だけの問題ではない。
かつての商店と現在の商店との最大の違いは、商品に対して家賃が添加されていることである。
つまり、僕たちは毎日商品の形をした<土地の値段>を飲んだり食べたり着たりしているのだ。
これを常識として受け止めることが資本主義であるなら、資本主義はやはり死ぬべきだ。

これも何度も言うが、僕は思想的に共産主義者ではない。
ただ、この<土地の値段>の不合理に関しては、土地で儲ける奴らをこの世からなくせばそれで済む話なのだ。
土地の利便性の差は累進課税にして徴収し、国民に再配分することによって平等性が保たれると僕は考えている。

初めの問題に戻るが、公務員は近隣の物件よりも極度に優遇された低料金の家賃で暮らすべきではない。
しかし、近隣と同じような高い家賃を払うべきでもない。
<近隣と同程度の低料金の家賃>で住むことができるように土地問題を解決すべきなのだ。


  2006年12月13日(水) 深夜にふと書きたくなった
  <廃棄>から<放棄>へ

ほとんど毎年のようにニュースで見る光景に、「取れ過ぎた野菜を潰す」と光景がある。
白菜であったりキャベツであったりピーマンであったりするのだが、「もったない」と思うと同時に「ああ、またか」と感じてしまっているのは僕だけではないだろう。
それが最も危険な感覚だと感じつつ。

僕は最近初めて知ったのだが、野菜を廃棄するとその量に応じて補助金がもらえるらしい。
それだったら農家は価格調整のために当然野菜を潰すだろう。
しかし、みんなはこの政策に賛同出来るのだろうか?

日本の農業の現状は、ある程度の支援が必要な状況だと僕も思っている。
しかし、不作だと言えば極度に高騰するにもかかわらず、豊作だと言えば出来すぎた作物を廃棄するのをお金まで出して支援するシステムは、過保護としか言いようがない。
では、どうすればよいか?

豊作で価格調整をしたいのなら、<廃棄>するために補助金を出すのをやめ、その廃棄予定分を農家に無償で<放棄>してもらい、輸送費と保管費を国か地方自治体が補助金の代わりに負担し、特別養護老人ホームや公立学校の給食の食材として利用するというのはどうか?
国が政策を転換すれば簡単に出来ると思うのだが・・・。
本当は食糧難の国に援助物資という形で遅れたら一番いいのだが、生鮮食品であるということと輸送費の負担の大きさを鑑みると難しいかもしれない。
しかし、国内で利用目的を限定して買い取らずに引き受けるのは可能ではないのか?
<放棄>というのは農家にとってにわかには受け入れがたいかもしれないが、それが<廃棄
よりもこの国全体としての利益になるという姿勢こそが、我々が求めていく理想的な姿ではないのか?

僕は常に理想を語っている。
けれど、僕が語る理想は決して実現不可能な理想だとは思わない。
ここに農業における理想の現実化の一例を挙げる。

いまだに減反政策が行われている中で、千葉県市原市では<もちもちごパン>なるものが最近注目を集めていると聞いた
<もちもちごパン>とは、小麦粉ではなく米の粉を使ったパンなのだ。
まさに目から鱗である。
外がおこげのようにパリパリで、中はもちもちしているという<もちもちごパン>(それを聞いただけでとても美味そう)なるものの可能性は、米の可能性であると同時に、世界まで見据えた日本の農業の可能性であるとも言える。
こういうニュースこそがもっともっと注目されていいニュースだと思うのだが・・・。

その技術が日本中に、あるいは世界中に早く広まることを強く願いつつ、現実というのは小手先の微調整によって改善されるのではなく、理想をしっかりと捉えた意志の中で改善されるべきものなのだと改めて思った。



  2006年12月9日(土) 冷たい冬の雨
  恩恵〜ガソリン税について〜

もともと道路特定財源であったガソリン税の一般財源化について国会で議論されている。
僕はそもそものガソリン税のあり方が問題であると思っているのだが、その点も含めて、ある評論家が「車に乗らない人も<恩恵>を受けている」と発言したことを踏まえてここに批判したい。

まず、ガソリン税が<受益者負担>の原則のもとに道路特定財源として存在することが間違っている。
道路の整備が必要かどうかという議論は、他のあらゆる歳出と同じように一般の財政の中での重要度でその比率を決められるべきであって、最初から特別な枠を設けていること自体が問題なのだ。
道路整備は、教育や福祉やその他あらゆる歳出項目の中で特に重要である訳ではないのは自明である。
では、ガソリン税を廃止すべきかというと、僕はそうは思わない。
ガソリンを消費するということは、燃やされて二酸化炭素を排出するだけでなく、化石燃料の枯渇を招き、排気ガスによる健康被害を広げ、間接的には自動車による交通事故を招くという点で、最悪の行為なのだ。
ガソリンを消費するものが、その税によって受益する必要などどこにもない。
ガソリンを消費するものは間違いなく加害者なのだ。
だから、ガソリンを消費することに特別に課税し、それを<受益者負担>という観点ではなく、<加害者としての倍賞>という意味で、医療費や交通遺児への支援金として使われるべき金であると僕は思う。

で、<恩恵>という言葉に戻るのだが、今述べたようにガソリンを消費するというのは最悪の行為であるが、もちろんその裏返しとして物資の大量高速輸送や移動時間の短縮というメリットもある。
そういうことを前述の評論家は<恩恵>と呼んでいた。
しかし、彼は<恩恵>という言葉の意味を理解していないし、ガソリン消費の加害性に対する意識が低いのだ。

<恩恵>というのは文字通り恵みということである。
恵みというのは、無償の受益を意味する。
しかし、ガソリンの消費による受益というのは、先程も述べたように多大なる代償を背景とした受益である。
たとえば、遠くから運ばれて来る物資を交通網の発達によって我々は簡単に手に入れることが出来るが、その受益にはちゃんと対価として運送費が上乗せされているのだ。
これをどうして<恩恵>などと呼べるのか?
これはただの取引である。
恵みなどではない。
もしも、ガソリンを消費しても一切の料金負担を消費者に課さないというなら、それは<恩恵>かもしれないが。

こういう意識の低さが道路族などという馬鹿どもを増長させるのだ。
そしてこの意識の低さは、多くの国民の意識の低さとも共通している。
交通事故で子供が死ねば大問題にするくせに、日々排出される排気ガスや二酸化炭素には無頓着なのだ。
この矛盾は、この国家の矛盾の縮図でもある。


  2006年12月4日(月) 夜中に灰谷健次郎追悼番組を観た
  見て見ぬふり

この言葉について書こうと思ってから随分経ってしまった。
先日の忘年会で友人にその話をしたら、彼女もブログにこの問題を取り上げたという。
遅きに失した感があるが、自分なりの意見を書きたいと思う。

これは前回の「罰ゲーム」にも関連する内容なのだが、教育再生会議で、いじめを<見て見ぬふり>をしたものも加害者とするという提言をしたのだ。

一体誰が<見て見ぬふり>をした者を加害者だなどと責めることが出来るのか?
たとえば、土地を不法占拠してビニールテントで暮らしている人たち全員に対してあなたは注意して回ったか?もしくは警察に通報したか?
たとえば、歩き煙草禁止の地区で煙草を吸っている人全員に注意したか?
たとえば、やくざが一人の人間を取り囲んでいる時、あなたは「やめろ」と声を上げられるのか?

大人でさえ<見て見ぬふり>をしているのに、子供がみんな完璧な正義感を持っていないからと言ってどうして責められるのか?

転用で申し訳ないが、中島みゆきの有名なうた「ファイト!」の中にこういう一節がある。

 私 本当は目撃したんです 昨日 電車の駅 階段で
 ころがり落ちた子供と つきとばした女の うす笑い
 私 驚いてしまって 助けもせず 叫びもしなかった
 ただ恐くて逃げました 私の敵は 私です

この最後の「私の敵は私です」という罪の意識、その裏にある優しさこそ学ぶべきことであって、この人をどうして加害者だと他人が責めることが出来るのか?

学校だけを他の社会と違う場所だと特別視することによって、こういう過ちが生じるのだ。
学校にはもちろん学校の中でしか通用しない特別なルールもある。
しかし、それは会社やその他の集団と同じように、大前提として社会のルールが適応された上に加えられるルールなのだ。
制服を着るとか、授業中は私語を慎むとかいうルール以前に、そこで行われる暴力は社会的に裁かれるべきだし、そこにはびこる不正は社会的に正されるべきなのだ。
学校は決して聖域ではない。
この認識がまず必要なのだ。

こんなことも分からない教育再生会議なんて全く意味がない。
この会議のメンバーの一人が「いじめの責任は100%学校にある」と述べていたが、いじめというのは、家庭にも社会にも学校にも起因するものなのだ。
だからこそ根深い問題であるという意識もない者が、何を話し合っても無駄だ。


  2006年11月13日(月) スタジオ練習後、耳鼻科へ行く
  罰ゲーム

これ、前に書いたことあるかな?
かぶってたらゴメン。
これはずっと書きたいと思っていたテーマで、何故かと言うと、あまりにも浸透と過ぎていて見過ごされている言葉にこそ、問題の根深さがあると感じたから。

<罰ゲーム>という言葉は学校では教えていないはずなのに、恐らくほとんどの日本人が知っている。
つまり、それは何らかのメディアから入ってきて(恐らくテレビ)巷に広まったはずだ。

この言葉は、<罰>という硬く重い言葉に、<ゲーム>という軽くかつ娯楽性を持った言葉を組み合わせるという異種交配によって、新種の生物のような不思議な言葉を生み出し、その言葉の持つ本質を覆い隠し、何気なく使いやすく親しみやすくしている点で、恐ろしい力を持った言葉であると僕は感じている。
まるで、<爆弾が内蔵されたぬいぐるみ>みたい。
みんなはそう感じたことがないだろうか?

問題は2点だ。
ひとつ目は、本来誰一人として<罰ゲーム>など受ける必要がないのに、ひとつの集団が独自のルールを作り、その構成員の誰かを裁くというシステムを安易に作ってしまうこと。
ここではっきりさせなくてはいけないのは、<罰>を受けることと<罰ゲーム>を受けることの違い。
<罰>というのは、法律、条例、規則などを違反した者が、その<罪>に対して受けるものであり、社会としての了解があるものだ。
しかし、<罰ゲーム>というのは、その集団が特殊であればあるほど理不尽な条件を要求するものだ。
たとえば、浅間山荘事件に連なる連合赤軍事件などは、<総括>という名のもとにリンチという<罰ゲーム>が科せられた。
あれは<罪>に対する<罰>ではない。
命を奪う<罰ゲーム>である。
学校のいじめの中にも、他の仲間が共謀してある特定の人間に<罰ゲーム>を与えるという理不尽な行為がしばしば行われている。
その集団が抑制力を失えば、しっぺからエスカレートして命まで奪うのが<罰ゲーム>の正体だ。

ふたつ目は、最初にも書いたが、無自覚なメディアによる<罰ゲーム>の普及活動だ。
様々なバラエティー番組で<罰ゲーム>が行われている。
<罰ゲーム>を受けることによって彼らはお金を稼いでいるのであって、ただ<罰ゲーム>を理不尽に受けているのではない。
しかし、それが巷に広まれば、それはお金を稼ぐための手段でも何でもなく、ただの理不尽な暴力でしかない。
以前にも書いたが、教育は家庭や学校だけで行われているのではない。
すべての情報が教育なのである。
メディアはそれをもっと深く理解するべきである。
無意識であろうと、メディアは日々<罰ゲーム>を繰り返し、、<罰ゲーム>というものが内包している思想を啓蒙し続けているのだ。
クイズに答えられなかったら食事は出来ないという<罰ゲーム>は、テレビで行われたらタレントの<仕事>であるだろうが、学校で行われたら<いじめ>でしかないし、家庭で行われたら<虐待>でしかない。
その違いを視聴者は理解するべきだと主張するかもしれないが、個々の事例ではなく、思想としての<罰ゲーム>を植え付けていることには変わりはないのだ。

堅苦しいことを言っているようだが、<罰ゲーム>という言葉は、携帯電話という道具と同じように、それ自体にある方向性を持った思想を内包しているという理解がなくては、たとえば核兵器というものが持つ思想性も語れない。
こういう細かい検証の中にこそ、世界の在り方を問うべく問題が潜んでいるのだと僕は思っている。


  2006年11月3日(金) 祝日出勤
  「エロ」といテーマを与えられて

ある人に「エロ」というテーマで書いてくれと言われた。
すごく苦手なテーマだが、最近気になった事件を絡めて書いてみる。

まず、その方が出してくれた問題は、日本テレビで放送された「エロかわ選手権」という番組(コーナー?)について。
子供がエロティックなダンスをするのを観て、視聴者から「親が子供の性を商品化している」などと苦情が来たらしい。

まず気になったのは「性の商品化」という言葉。
性を商品化するということは、僕は具体的に売春行為以外にはないと思う。
異性の性的嗜好を煽るという行為は、決して<エロ>でも<性の商品化>でもない。

また、子供が腰を振ろうが振るまいが、子供を性欲の対象として見る者はただ子供であるというだけで性欲を感じるだろうし、いくら腰を振ってもかわいらしいとしか思わない者も何とも思わない者もいるはずだ。
それは根本的な嗜好の問題なのだ。
例えば、倖田來未は僕にとっては全く<エロ>ではない。
ただ肌の露出が多く、不必要に腰をくねらせているだけだ。
勿論かわいくもないが。
たとえば、<エロ>というのは、昼間にラジオのパーソナリティーをしている吉田照美と小俣雅子が白昼キスをしているのを写真誌に撮られたこと。
いいおっさんとおばさんが普段は何食わぬ顔でラジオをやりながら、裏では関係を持っていたということ。
これは僕にとっては<エロ>である。
たとえば、裸の女の乳首は<エロ>ではないが、乳首を触られてゾクっとした表情をした顔は<エロ>だ。
これはどちらも「僕にとっては」という注釈が付く。
<エロ>とはそういう個人的なものだ。

そういう個人的な<エロ>を一般化して捉えようとすること自体に無理があるし、それに過剰に反応している人たちは<エロ>というものを理解していないだけだ。

ちなみに、僕が最近気になったのは、少女の上履きを5000足集めて、倉庫まで借りて保管し、匂いを嗅いでいた男。
僕は彼と同じ嗜好はないが、彼の気持ちはよく分かる。
この事件に関して山田吾郎が発したコメントが本質を鋭く突いたものだった。
それは、「盗むのではなくて、新しい上履きと交換してあげるという形で手に入れたらよかったのに」というものだった。
確かにその通りだ。
そうすれば、彼の嗜好は満たされ、かつ子供たちは新しい上履きを無償で手に入れられる。
どれだけ多くの子供たちや親たちに「キモい」と思われても、だ。
<盗む>という行為が問題なのであって、彼の嗜好が問題なのではないという点が大事であり、それを見逃すと本質を見失う。

たとえば、少女しか愛せない者を変質者呼ばわりするが、その人の嗜好はどうしようもないものであり、問題は嫌がる少女を無理矢理襲うことなのだ。
これだけホモセクシャルをカミングアウトしている芸能人がいる国で、他の性的嗜好も同様に世間に認知されないのはやはりおかしい。
子供を保護しなければならないということと、子供にしか性欲を感じない人間がいるということは、完全に裏表なのではなく、交わる部分もあるはずなのだ。
では逆に、おじさんに対して異常な性欲を感じる子供がいてはいけないのか?
15歳以下が性行為をしてはいけないという条例など馬鹿げていると声を大にして言いたい(ちなみに僕はそういう嗜好はないが)。


  2006年10月19日(木) またもやカレーうどんに失望する
  「事実は真実の敵である」

何気なくニュースを見ていて、ふと耳についた言葉。
教育再生会議の座長が、会議を公開しない理由を記者に質問された時に言った言葉だ。

「『事実は真実の敵である』という言葉を知りませんか」と彼は言った。
僕はその意図する所も出典もさっぱり分からなかったが、すごく引っ掛かったのだ。
どうやら彼は、議論の過程のひとつひとつではなく、最終的な結論を見てほしいという意味で言ったらしいのだが。

調べてみると、この言葉の出典は「ラ・マンチャの男」の劇中劇「ドン・キホーテ」の中の台詞らしい。
「騎士なんて300年も前からいない。それは事実なのだ」と言われて、ドン・キホーテはこう答えたらしい。

何が僕の中で引っ掛かったのかというと、<事実>と<真実>が本当に対立項として存在しているのかという点と、<事実>より<真実>の方に価値を付与したこの表現は正しいのかという点、そして、教育再生会議の座長という立場の人物がこの<引用>という手法を使った点だ。

まず、<事実>と<真実>は対立項ではない。
<真実>とは、目の前にある(見える範囲の、手に取れる範囲の)<事実>の中から抽出されたエキスであるからだ。
例えるなら、鉄鉱石から地湧出された鉄や、レモンから抽出されたビタミンCのことなのだ。
そして、それは抽出されなかった<非・真実>に対してより価値があるものではない。
価値は、その<真実>を利用するものによって付与される随意的なものなのだ。
<真実>を抽出するためには、それ以外の<非・真実>は邪魔になるから対立項として表現されているのかもしれない。
しかし、例えば鉄鉱石も、鉄を利用しようとすする者にとっては鉄になる部分以外は不要物でしかないが、他の部分も石として利用する者にとっては価値はあるのだ。
つまり、<真実>は<事実>よりも素晴らしい訳でも価値がある訳でもないのだ。
<真実>などと言うと、さも素晴らしいものであるように聞こえること自体がまやかしなのである。
こういうまやかしに踊らされ、支配されている者たちが、世界を閉塞させているのだ。

ある言葉を引用する場合、その言葉が普遍的真理を表現しているという保証など何処にもない(そもそも普遍的真理などというものも幻想である)。
批判的精神を持たないままの<引用>はただの権威主義でしかない。
教育再生会議の座長という立場の人間が、この<引用>という手法で会議の非公開の理由を説明した時点で、僕はこの組織にもう何の期待も出来ないことが分かった。
会議の公開・非公開などどうでもいい問題なのだ。
最終的に提出されるレポートの質のみが問題なのだが、この程度の人物が座長を務める会議はもう底が見えている。

教育に関しては、<罰ゲーム>という言葉についても書こうと思っているが、それは次の機会に。


  2006年10月16日(月) 辛いニュースばかりの一日
  13.9%

北朝鮮が核実験を行ったと表明し、それに対する国連安保理の制裁決議が出された。
国内では自民党の中川政調会長が日本の核兵器保有について議論の余地があると発言して問題になっている。
そんな中、僕は驚くべき数字を見た。

あるテレビ局がアンケート調査を行ったところ、北朝鮮が核兵器を保有した場合、日本も核兵器を保有すべきであると答えた人が13.9%いたという。
僕は、ただただ愕然とした。
繰り返す。
僕は、ただただ愕然とした。
この国の人口の少なくとも13.9%はキチガイなのだ。

核武装に対して核武装するということが無意味だということがどうして分からないのか。
他国民を一瞬にして何十万人も殺して、自国民が一瞬にして何十万人も殺されて、それに何の意味があるのか。

僕は<日本が唯一の被爆国であるから>ということを理由に核武装に反対している人は馬鹿だと思う。
被爆国であろうがなかろうが、核兵器だけではなくあらゆる兵器に反対すべきなのだ。

核兵器を使用するのではなく外交手段として使用するのだという気取った意見も、結局危機を増加させているだけでしかない。
どうして分からないのか。
<バカの壁>なんて言葉は好きではないが、僕はどうしようもない壁を感じる。
多分、この国はもう駄目だ。
南無阿弥陀仏。


  2006年9月28日(木) 久し振りに歩いて帰る
  植物状態

昨日のニュースで、飲酒運転による交通事故の被害に遭った方が、民事訴訟で3億円超の賠償金をもらえるという判決が出た。
そのニュースは、昨今続発している飲酒運転事故の流れの中で特に大きく報道されていた。
しかし、僕はその報道の内容より、その中で使われていた<植物状態>という言葉に引っ掛かった。

この言葉は僕が物心ついた頃にはもう使われ続けていた。
この<植物状態>または<植物人間>という言葉は、しかし、今改めてその被害者の方の姿とオーバーラップして聞いてみるとかなり違和感を覚えた。

自分で自分の生命を維持する活動が出来なくなった人間の状態をどうして<植物>と喩えるのか?
植物は、生命を維持するために非常に能動的な存在である。
植物は、根を地中に伸ばし、葉を広げ、花や実を付け、成長しては次世代へとその生命を伝えていく存在である。
ところが、いわゆる<植物状態>と呼ばれている人たちは、自立的な生命活動が出来ないのだ。
ということは、この<植物状態>という言葉は、そういう状態に置かれている人に対しても、植物に対しても失礼な、まるで的を射ていない言葉であると言える。
もっと言うなら、ある種の差没用語ではないかとさえ思える。
ということは、その状態を的確に表す新しい言葉が必要であるのだが、そこまでは考えつかなかった。
<自立不全>などという堅苦しい言葉しか思いつかない。

しかし、それにしても彼らの命があり続ける意味は何なんだろう?


  2006年9月25日(月) 高校生ドラフトを観る
  美しい国

新しい自民党の総裁が、最近頻繁にこの言葉を使っている。
彼が書いた同タイトルの本もベストセラーになっているらしい。
僕はその本を読んでいないし、内容も一切知らないが、何処から<美しい国>などという言葉が出て来るのか、何を見据えて<美しい国>などと言うのか、僕には分からない。

この国は元々美しい。
もっと言うと、すべての国は元々美しい。
それ以外に<美しい国>という言葉の出所も行き先もないと僕は思う。
砂漠も森林も海も川も荒野も美しい。
それを美しくなくしているとしたら、それは人間の仕業であり、<美しい国>という言葉の中にどんな国家主義的精神論も持ち込めるはずはないし、持ち込むべきではない。

<国>という言葉が、<ここにある土地>という意味ではなく<国家>という意味だとしたら、それはそもそもナンセンスだ。
<美しい国家>などというものは、<国家>のそもそもの存在理由から発想されるものではない。
<国家>の前に形容詞が置かれる時、それは<修飾された思想>以外の何ものでもないし、僕はそれに対して<あざとさ>以外に何も感じない。

地震が頻発し(世界中の震度3以上の地震の1/4は日本で起きているらしい!)、毎年何個も台風が襲い、北の冬は雪に埋もれ、南の夏は蒸し暑いことこの上ないこの島々を棲みかとする人々の一人として、この国の<美しさ>とはここにあるすべてであるとしか言いようがない。
この島々で人間が作った(培った)<美しさ>なんていうものがあるのだとしても、それに及ぶ訳がない。
もしもどうしても<美しい国>を目指すなら、ここからすべての人間が離れ、すべてを自然に返せばいいのだ。


  2006年9月5日(火) 母からの手紙が届く
  指名手配

徳山工業高等専門学校の女子生徒が殺害された事件で、容疑者の少年(19才)が指名手配されている。

脱線するが、写真を見る限り被害者の女性ははかなりかわいい。
僕も同級生ならきっと彼女に恋していたと思う。
どういう動機で殺害したのかは現時点では定かではないが、彼女への深すぎる想い(執着)が引き起こした犯罪ではないかというのは、想像するのに難くない。
かわいい、美しいということは、アドバンテージとリスクの両面を持っているということを、改めて知らされた事件だ。

本題に戻る。
<指名手配>という言葉は、<ある者を名指して、その者を捕らえようとすること>という意味である。
今回の事件で、容疑者が未成年だということで、報道では名前が伏せられたままになっている。
これが<指名手配>と呼べるのか?

僕は基本的にプライバシーを重視する立場だけれど、重大犯罪で指名手配されるのならば、成年、未成年に関わらず、名前も顔も明かすべきであると思う。
それが<指名手配>というものの意味だ。
<指名手配>するからには、警察の側もかなりの確信を持っているはずなのだから。
水玉のシャツ、茶色のズボン、オレンジ色のリュック、19才、男、というこれだけのヒントでどう探せばいいのか?
着替えている可能性の方が高いに決まっているのに。

名前も顔写真も公開しないなら、軽々しく<指名手配>などと言うべきではないし、一般人が協力のしようもない<指名手配>なんて無意味に等しい。


  2006年9月3日(日) 昨日、中央線に乗って改めて思う
  ケータイに死を!

昨日書き始めた時、あまりにも感情的になっていたので一日置いた。
それ位僕はケータイに対して怒りを覚えている。
以前から僕はケータイが<積極的に嫌いだ>と言い続けて来たが、ここに至ってはもうケータイの合法的な処刑を望むしかない。

先日、電車に乗っていたら優先席でケータイで通話(!)をしていた奴がいた。
もう何年も前から角鉄道会社は車内放送で、「優先席付近では携帯電話の電源をお切りになり、、他の場所では通話はお控え下さい」と繰り返している(これは各社共通の方針だが、僕はぬる過ぎると以前から思っている)のにも関わらずだ。
ところが、次の日に電車に乗ったら、また別の人がケータイを使っていた。
それから何回か優先席付近で立っている機会があったが、なんと優先席に座ってケータイを使っている奴を見かける確率100%(!)なのだ。
ケータイはここまで<人心を掌握>していたのかという驚きとともに、本気でケータイ廃絶の声を上げないといけないと思った。

100%と言えば、30分ほど街を歩いていたら、ケータイを見ながら歩いている奴や自転車に乗っている奴を見かける確率も100%だ。
あれが危険行為だということを本人は認識していないのだろうか、と僕は問い掛けない。
みんな薄々気付いているのだ。
でも、やめられないのだ。
それが周りにどれだけ迷惑を掛ける行為であっても。
そう、ケータイの最も本質的な問題は、<気付いていてもやめられない中毒性>にある。

ケータイは、<常に他人と繋がっていたい>、<暇な時間を持て余したくない>、<淋しさを紛らわせたい>などという人間の心理的な欲求に根ざしているという点が問題なのである。
その欲求は、<他人に迷惑を掛けてはいけない>という基準の曖昧な公衆道徳より遥かに強烈なものなのである。
自分を律することが出来ない人間は、かならず公衆道徳よりもケータイを優先する。
それがまた人間という生き物の本質でもある。

ある意味でバランス感覚が優れているとも言える。
たとえば、<歩きながらケータイを使ったら死刑>ということになったら、歩きながらケータイを使う人間は激減するはずだ。
それは、ケータイが根ざしている欲求よりも、自己保存の欲求の方が勝っているからだ。
つまり、より大きな欲求に従うという原則(イレギュラーなものもあるが、それはそれでイレギュラーを生み出す様々な要因の欲求が絡んでいる)が人間を支配しているのだ。

何度も繰り返すが、ケータイは人間のの基本的な欲求に根ざしているからタチが悪い。
同じく欲求に根ざしているものでも、ソープランドは他人に迷惑を掛けない。
しかし、はっきりと言うが、ケータイは<日常に存在しているタチの悪い暴力>を生み出している。
たとえば、拳銃の所持と使用が合法化され、軽い罪で住むような社会になれば、必ず人は人をどんどん射殺するだろう(ある程度で歯止めがかかるような社会的な力も働くとは思うが)。
人間は、<命が大切だから人を殺さない>のではない。
人を殺すと自分の存在も危うくなるから殺さないのだ。
ケータイを使っても自分の存在が危うくならない限り、この日常的な暴力はなくならない。

結論。
まず、ケータイは<日常に存在しているタチの悪い暴力>を生み出す存在であると世間的に認識させること。
ケータイ使用に対する罰則の強化(厳罰化)。
ケータイのCM中に、ケータイの使用制限についての告知の義務化。
以上を原則とした改革をここに希望する。

改めて言うが、僕は一生ケータイを持つ気はない。
それは一生軍隊という存在に反対していくのと同じ姿勢だと思っている。
ともに、常に顕在化する可能性を秘めている暴力だからだ。
ケータイを持っているみなさんはどう考えているのか?


  2006年8月26日(土) 映画「UDON」の宣伝を観て、うどんを食べる
  「お持ち帰り」

日本語で一番難しいと思うのは敬語だ。
僕は英語、ドイツ語、中国語、韓国語も勉強したことがあるが、上下関係の厳しい韓国の言葉でさえ(と言うか、だからこそ)、敬語の作り方はシンプルだ(勿論例外もあるが)。
英語の婉曲的な丁寧語も、一度形を覚えればさほど難しくない。
しかし、日本語に関しては、もう40年近くも接しているのに未だに難しさや違和感を覚える時がある。

先日食事をしていた時、客の女性(恐らく50歳過ぎで分別のありそうな方)が、「○○をお持ち帰りでお願いします」と店員に注文していた。
みなさんはこの言葉に違和感を覚えないだろうか?

この注文した物を持ち帰るのは勿論自分だ。
自分が持ち帰る物に対して「お(御)」を付けるのは明らかにおかしいと僕は感じる。
正しくは「○○を持ち帰りでお願いします」だと思う。
「お持ち帰り」というのは店の側が使う言葉だ。
ところが、ここが微妙なところで、「お持ち帰り」というのは一つのセットになった丁寧語(「お寿司」や「お箸」など)と考えることも出来る。
そうなるとまんざら間違いとも言えないし、「持ち帰り」よりも「お持ち帰り」の方が単体の言葉として浸透しているということもある。

それと、この例からはちょっと外れるかもしれないが、近年の丁寧な表現の不気味な(と僕は感じている)蔓延も背景としてあると思う。
以前にもどこかに書いたかもしれないが、「お名前様を伺ってよろしいでしょうか」という表現がその顕著な例だ。
「お名前様」とは何事か。
こういうのを「クソ丁寧」もしくは「過剰な敬語化」と呼ぶべきだと僕は思うのだが、それが普通に流通しているのが今の社会だ。
なんだかビニール手袋をはめたまま触られているみたいな気持ちになるのは僕だけだろうか?

しかし、こう書きながらも僕も時々敬語の使い方で迷う。
例えば、目上の方に対して「御返事下さい」というのはいいが、「御返事差し上げます」というのはどうか。
目上の相手に対する「返事」だから「御返事」にするべきなのか、それとも自分が出す「返事」だから単に「返事」でいいのか。
「返事差し上げます」よりも「御返事差し上げます」の方が語呂がいいというのもある(「お持ち帰り」も似ている)。

結論を言えば、<文法的な正しさ+違和感のなさ>というのが、敬語のあるべき姿だと僕は思う。
その違和感というものは時代や環境によっても左右されるもので、<過剰な敬語化>の時代にあって、僕はまたもやマイノリティなのかもしれない。


  2006年8月15日(火) なんとなくお盆休み
  21世紀の戦争

「今日は何の日ですか?」というマスコミの質問に対して答えられない若者がいる、ということをわざわざ放送して太平洋戦争の風化を見せたいという演出を僕は馬鹿らしく思う。
知らなくたっていい。
「お盆」と答えたって、「精霊流しの日」と答えたって、「お菓子の日」と答えたって、どうせ編集でカットされるのだ。

20世紀というのは、戦争の在り方が劇的に変化した世紀だった。
ダイナマイトを初めとする爆薬の進化、飛行機の発明から大陸間弾道弾に至る遠隔攻撃の進化、原子爆弾の誕生、生物化学兵器の誕生、武器のハイテク化、情報伝達の複雑化(暗号から情報衛星に至る)など。
それまでの何世紀もの進歩を遥かに凌駕する進歩がこの100年の間に起こった。
では、21世紀に戦争はどうなるのか?

これは先日NHKでも特集されていたし、浦沢直樹が「PLUTO」という漫画の中でも予言しているが、ロボット戦争の時代に突入したと言える。
既に遠隔操作による無人爆撃機もキャタピラーを搭載した無人探索ロボットも実在している。
これはつまり、人間が傷つくことなく相手を傷つける方向へと戦争が向かっているということを意味している。
たとえば、今、自爆テロというものが存在しているが、これもロボットによって取って代わることが可能な世紀に入っているのだ。

戦争に善悪はない。
逆に言うなら、善悪のない殺し合いが戦争だ。
ここにロボットが介在すると、命を奪うという行為が、単にテクノロジーの問題になるのだ。
ロボットは何回でも作り直せる。
けれどひとつの命は一度きりのものだ。
そんな当たり前のことが置き去りにされる時代に、現実的に生きているという認識が必要なのだ。

以前から言っているように、車にしても、携帯電話にしても、その存在が人間のあり方を規定するのだ。
つまり、どんなにモラル論を唱えても、ロボット兵器というものが存在する限り、必ずそれを使う勢力が登場する。
パソコンの画面で殺す相手のリストをクリックすれば、ロボットガ殺しに行くという時代は、もはや絵空事ではないのだ。

こんな時代に<戦争反対>という言葉の意味するものは、武器の全廃以外にありえないのだ。


  2006年7月23日(日) 上野に会場費を支払いに行きつつライヴへ
  「忖度」〜昭和天皇の言葉のメモの周辺〜

僕が最も興味があるのは「言葉」だ。
「言葉」そのものなのだ。
その政治性や宗教性や経済性など、波及する先のことを意図した言葉というものには、必ずほつれが現われて来る。

と前置きをしておいて本題。
今回靖国神社のA級戦犯合祀に関する昭和天皇の言葉とされるもののメモが報道されたことで、様々な論争が起こっている。
その幾つかを読んだり見たりして、論争自体が根本的に馬鹿げているとしか思えなくなった。

昭和天皇が平和を愛する人だったということは有名な話だ。
それとこのメモの信憑性とは別問題であるというのも事実だ。
このメモが政治的意図があって公表されたことも恐らく事実だろう。
ただ、ひとつ言えることは、昭和天皇がどう考えようが、そんなことは今生きている人間にとってどうでもいい話だということだ。
そんなものは歴史学者だけが考証すればいいのだ。

そんな中で僕が気になったのは、自民党の武部幹事長と櫻井よし子氏が別の番組で全く同じ言葉を使っていた点だ。
<忖度(そんたく)>という言葉。
これは「他人の気持ちをおしはかる」という意味である。
両者とも昭和天皇の気持ちを慮るという意味でこの言葉を使っていた。
馬鹿か。
今、死んだ人の気持ちをおしはかり、それによって現在の状況をどう整理しようというのか。
昭和天皇は、昭和史に関わったひとりの人物でしかない。
彼には彼の考えがあり、今生きている人間が個人的にどう考えるかは全く別の問題だ。

東条英機の孫なる女性が「分祀とは宗教上不可能だ」と訳の分からないことを述べていたが、合祀とか分祀とかそもそもどうでもいい話なのだ。
根本的に言えば、死んだ人間を神として祀るという宗教自体が馬鹿げている。
そういうものを信仰したい輩は勝手に信仰すればいいし、それが対アジア外交に問題を起こしてもどうでもいいが、自分の立場を正当化するためにメモの信憑性云々を語ったり、<忖度>などともっともらしい言葉を使っては今更昭和天皇を腫れ物のように扱ったり、言葉を使って表現していく人間として最低だ。

メモは公表されるべきではなかったという意見を述べていた人もいたが、それが個人情報として保護されるべきもの以外は、もしも価値があるというなら、すべて歴史を検証する上で公表されるべきである。
そう、ただ歴史を検証するためだけに。
昭和天皇の言葉を神格化するのも無意味なら、それで政治的に揺さぶりをかけようとする姿勢も馬鹿げている。
そんな当たり前のことが語られない現状は、明らかに大切な視点が欠落しているようにしか思えない。

小泉純一郎の発言を云々する人もいるが、たとえ彼が一国の首相として外交的バランス感覚を欠いた人間であったとしても、「心の問題」だという言葉以上の言葉はないと僕は思う。
僕は小泉純一郎とは全く逆に靖国神社を参拝しないが、それはつまり彼と同じく「心の問題」なのだ。


  2006年7月21日(金) 「悪霊」上巻を読み終える
  責任の取り方〜萩本欽一の場合〜

極楽とんぼ・山本圭一が未成年に飲酒させ、暴行を加えたという事件が波紋を呼んでいる。
彼の所属会社である吉本興業が彼を解雇したという点については、会社の方針であるし、個々の契約の問題であるからとやかく言うつもりはない。
ただ、彼が所属していた社会人野球チーム・茨城ゴールデンゴールズ(以下茨城GG)の監督である萩本欽一氏の記者会見を見て、僕は疑問に思った。

球団に所属する一選手が不祥事を起こしたことによって、その球団自体を解散するという責任の取り方というのはどういう思想に基づくものなのか、僕には理解出来ない。
茨城GGは確かに萩本氏が設立したものであるのだろうが、現在もなお彼の<私物>として存在しているのだろうか?
たとえば、巨人軍の一選手が不祥事を起こしたからと言って、監督が巨人軍を解散する権利があるだろうか?
或いはオーナーが個人の見解として球団を解散するという責任の取り方をするだろうか?
僕には萩本氏が根本的に勘違いをしているとしか思えない。

ここではっきりさせておくが、僕は同情による解散反対などには全く組しない。
むしろそういう連中がいるからこそ、逆に感情的に非難する連中も出て来るのだ。

そうではなくて、萩本氏が監督という立場で一選手の行為に対して責任を取るというなら、それは<監督辞任>という形でなされるべきだ。
茨城GGは彼が設立したものであるにせよ、現在は独立した球団として存在しているのだし、責任の所在をはっきりさせ、どういう処分が適当か検討した上で判断されるべきことを萩本氏の独断で処分が発表されるというのは論外である。

監督辞任、1年間の対外試合禁止、選手全員によるボランティア活動等々、責任の取り方、処分の仕方は様々に考えられる。
萩本氏は会見で、自分の野球に対する愛情について語っていたが、そんなことは今主張すべきことではないし、彼はもしかして本当は責任を感じていないのではないかとさえ感じられた。
会見では更に、山本圭一から<言い訳>もしくは<弁明>を聞きたくないから「それ以上言うな」と言ったと語っていたが、責任者である監督ならば、本人からの意見も聞き、事情を正確に把握し、今後について冷静に検討すべき立場であるはずだ。
彼はそういうことも怠りながら、感情のみを先走らせている。
これは<大人>のすることとはとても思えない。

僕にはどう見ても萩本氏が<監督失格>であるとしか思えない。そういう意味も含めて、彼は監督を辞任すべきだと思う。


  2006年7月20日(木) 未だにボーナス出ず
  経済産業省様

パロマの瞬間ガス湯沸かし器の一酸化炭素中毒による死亡事故が問題になっている。
繰り返し報道されている通り、初めは責任を認めていなかった会社側が、掌を返したように謝罪に転じた。
その「危機管理体制」に対して、会社の責任の取り方に対して、各方面から批判の声が上がっているので、僕はここではそのことに対しては云々しない。
ただ、2度目の記者会見で、パロマの社長が発した<経済産業省様>という言葉が僕には引っ掛かった。

どういう理由で経済産業省に「様」をつけなければいけないのか?
レストランで並ぶ時に「お名前様を伺ってもよろしいですか?」と言われる時の違和感(お名前に「様」を付けるのを丁寧だと信じている感覚を疑う)以上の違和感を感じた。

経済産業省は経済産業省であり、それ以上でもそれ以下でもない一行政機関である。
言うならば、ただの公僕の組織にしか過ぎない。
それに対して「様」を付けるということは、<へりくだっている>もしくは<媚びている>としか考えられないし、あの会社は<お客様>の方を向いているのではなく、<経済産業省様>の方を向いて対応しているということなのだ。
今後どういう行政処分が下されるのか知らないが、あの会社はそれだけを恐れているのであって、人命が失われたことに対しては明らかに不感症なのだ。

この<経済産業省様>という言葉に違和感を覚えた人が一体どれだけいるのだろうか?
もしも僕が少数派だとしたら、これは言葉だけではなく、根深い意識の問題だと思う。

普通に不買運動とか起こらないのが不思議だ。


  2006年7月5日(水) 顎関節症、続く
  引退

結局最後の最後まで僕は彼を好きになれなかった。
中田英寿の引退の報を受けて、僕はそう感じた。

まずアスリートとして言うなら、今回のW杯を見ても分かるように、本当の世界のトップと彼の実力は明らかに開きがある。
ある時期、彼が世界のトップに近かった頃もあったかもしれないが、それもほんの1、2年だ。
勿論日本人のサッカー選手としてはトップクラスの実力があると思うが、彼の言葉とは逆に、彼は日本代表の中で自分の力を出し切る術を見つけられなかったのではないかと思う。

次に、プロのスポーツ選手として、負けた試合の後のインタビューで、冷静さを表現したいのだとしても、半笑いで答える姿を美しいとは僕は思わない。
悔しさを全面に押し出すのが彼にとって<カッコ悪い>のだとしても、半笑いの彼の方が僕にとってはずっと<カッコ悪い>と感じた。

で、今回の引退表明。
僕にとっては正直どうでもいいことだが、マスコミの騒ぎようと持ち上げようにはうんざりした。
引退する選手を悪く書かないのは礼儀なのだろうけど、今後彼がどんな人生を歩むかなどということは、本当にどうでもいいことで、それはアスリートとしての彼ではなく、彼のプライベートな問題だ。
ただ、僕が気になったのは、<引退>の時期の選び方だ。

引退の仕方には幾つかのパターンがある。

@一流選手になったがために、<自分らしく>プレイ出来ないことを理由に引退するパターン(王貞治、千代の富士など)
A傍目からはまだやれそうなのに、第2の人生を優先するパターン(今回の中田英寿、伊達公子など)
B自分は現役続行したいが引退勧告をされてやむなく引退するパターン(多くのスポーツ選手)
C死ぬまで現役(ジャイアント馬場、将棋界で大山康晴など)
D怪我や病気などにより現役続行出来なくなるパターン(これも多くの選手)

僕は今回の引退の報を受け、ふとプロレスラーのテリー・ファンクを思い出した。
僕は昔は彼のことが大嫌いだった。
1970年代から80年代、ドリー・ファンク・ジュニアとの「ザ・ファンクス」というタッグの嘘くさい試合を観る度に、英雄気取りのいけ好かないレスラーだと思っていた。
しかし、後年、大仁田厚とのデスマッチなどを観るにつけ、過去の栄光にすがることなく、ボロボロになった膝をだましだましリングで闘う姿を観るようになってからは、彼のファイティング・スピリッツに感銘するようになった。

僕はやはり、泥臭く、ボロボロになっても闘い続ける者の姿が好きだ。
そう、これはきっと好みの問題なのだと思う。

ただ、中田英寿が引退してひとつよかったのは、次の日本代表として彼を念頭に入れずに済むということだ。
新しい日本代表に期待する。