just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2006年6月15日(木) 越乃景虎に酔う
  あえてスケープゴートを擁護する

また始まった。
叩き出したら叩き続けずにはいられないマスコミ、そして世間の体質。
村上ファンドに関連した日銀総裁叩き。
うんざりするほど馬鹿ばかりだ。

村上ファンドは商法上の罪を犯したのかもしれない。
それはだいたひかる風に言えば、「どーでもいいですよ」だ。
そんなものは、事故の責任を回避し続けるエレベーター会社や流出した個人情報を元に会社を脅すやくざに比べれば他愛もないことだ。
日銀総裁は金を儲けただけだ。
しかも合法的に。
それを批判する奴らは、よっぽど自分も甘い汁を吸いたい奴らだとしか思えない。

それが悪いと言うならば、ライブドアで儲けようとした株主全員を断罪すべきである。
彼らは被害者のような顔をしているが、株を買ったということは、その会社に対して資金供与をしたということだ。
村上ファンドと日銀総裁が同罪なら、ライブドアとその株主も同罪のはずだ。
こういう点を見逃しておいて、時流に乗った批判を繰り返すマスコミこそ最も断罪されるべき存在である。

今、土方歳三を描いた小説を読みながら、いつの時代も時流に乗って勝ち誇る奴らの愚かしさは変わらないことを学んでいる。


  2006年6月8日(木) ショッキングな出来事の余韻
  二つの事故

エレベーター事故とシャッター事故が相次いだ。
どちらも間違いなく100%人災なのだが、僕は近い業界(シャッターの方は完全に同業)にいるので、その背景がよく分かる。

エレベーター業界というのは、建築時に設備を設置することではさほど儲からない。
儲かるのは、自社製品を恒久的にメンテナンスする権利を得られるからである。
民間のビルではかなりのパーセンテージで、製造会社が抱えるメンテナンス会社が永続的に管理している。
これが<うまみ>なのだ。
日本の業界大手(三菱、日立、東芝など)はほとんどそうやって儲けている。

今回事故を起こしたエレベーターの製造会社・シンドラー社(以下S社)は日本においては後発の企業なので、シェアを拡大するために入札のある公共機関でより安くエレベーターを設置していった。
ところが、公共機関というのはメンテナンスに関しても入札を導入している所が多いので、安く設置するメリット(<うまみ>)が少ないのだ。
必要以上に値段を下げている分、色んな意味で必然的に品質自体も悪くなる。

今回の事故に関して言えば、設置後数年はS社がメンテナンスをしていたという点がミソだ。
もしも機械そのものが最初からいくらか欠陥を含んだものであったとしても、自社製品なら欠陥を公表せずに点検時に細かい補修や調整を加えているはずだ。
初めから欠陥製品であることを明かしたら、今後の信用が失われるからだ(これは他の業界でもよくある話だ)。
しかし、メンテナンスが他の会社に移ったら、そういう細かい補修や調整は行われず、すぐに不具合として指摘されるか、もしくは看過されるかのどちらかだ。
それがこの事故の本質だと僕は類推する。
つまり、この事故はS社の営業姿勢と業界自体の体質が引き起こしたと言える。

さて、シャッター事故だが、僕にはこれの方がより明確に原因が分かる。
これは間違いなく点検業者の初歩的なミスだ。

学校の廊下に設置されている防火シャッターは、ほぼ間違いなく煙感知器(探知機とか検知器ではない)が作動することによって連動するように設計されている。
点検時には、受信機で<連動停止>にし(電源を落とす訳ではない)、煙感知器の作動確認をし、周りの安全を確認して<連動停止>スイッチを解除して防火シャッターの作動確認をする。
これが一連の基本的な流れだ。
それはどんな建物であっても基本的には変わらない。

今回の事故の原因は二つのうちのどちらかだ。
ひとつは、ひとつの煙感知器に対して、防火扉や防火シャッターが何面も同時に<連動>すること(防火区画の問題でそういう設計になっているケースは多い)を点検者が事前に知らずに作動させた場合。
もうひとつは、煙感知器というのは、一度作動試験をすると、その後復旧したように見えても、少し時間を置いて再発報することがしばしばある。そのため、違う場所で作動試験を行っている時、その前に作動試験を行った煙感知器が同時発報して、防火シャッターも意図せずに同時に作動してしまった場合。
僕にはこのどちらかしか考えられない。
これは、どちらも点検者としては初歩的なミスだ。
特に人の行き来がある場合(この場合は小学生)、最大限の注意を払い、必要な人員を配置して点検するのが当然だ。

ただ、小学校の点検は恐らくこれもまた入札だ。
安いから人手を掛けられないという点検業者の事情も間違いなくあったはずだ。

二つの事故はまるで違う性質のものだけれど、その背景には同じものの影が見えてくる。


  2006年5月27日(土) 安部公房、連続3冊目に入る
  <愛国心>と<愛着心>

たとえば、僕はゲームセンターでサッカーゲームをする時、必ずメキシコを選択する。
特に大きな理由はないが、昔からメキシコという国に親しみを感じている。
ボクシングの世界タイトルマッチでメキシコ人の選手をよく見かけていたからかもしれない。
ケルアックの「路上」を読んでからはその親しみは更に増した。
その程度の理由であるが、たとえば実際にワールドカップ予選や本選で、たとえばメキシコ対アメリカとかメキシコ対イタリアとかがあっても、僕は必ずメキシコを応援する。
そういうものが<愛着心>だ。

最近教育基本法の改正問題で、<愛国心>なる言葉がクローズアップされている。
以前にも中国問題に関連して<愛国心>について書いたことがあるが、今回<愛着心>との対比によってもう少し掘り下げてみようと思う。

たとえば、オリンピックやワールドカップやワールドベースボールクラッシックで、日本人が日本を応援するのは<愛国心>ではなく<愛着心>だ。
僕も日本を応援する。
この辺りが混同されがちなのだ。
日本に長く住んでいるイラン人のマッスルが、サッカーで日本対イランの試合の時にどちらを応援しようか悩むとラジオで言っていたが、僕はその気持ちがよく分かる。
それはどちらにも<愛着>があるからだ。

では、<愛国心>とは何かというと、その国の政治体制、文化習慣、気候風土等をひとつの切り離しがたい塊として認識し、それに執着する心だ。
僕はそういう姿勢に対して以前から疑問を抱いている。

日本人は<愛国心>が薄いなどとよく言われているが、僕はそれが元来あるべき人間の姿だと思う。
政治体制は嫌いだけど海や山の風景は好きとか、日本的因習的な人間関係は嫌いだけど礼節を重んじる点は好きだとか、寒暖の差や梅雨は嫌いだけど技術大国であるところは好きだとか、個々に違いはあるはずだ。
<国>というものを愛の対象とするという発想は、被支配欲か強烈な帰属欲以外に僕には考えられない。

他国の人々に是非「あなたにとって<愛国心>とは何か」とアンケートを取ってもらいたいと思いつつ、少なくとも僕は日本という国のために命を懸けることは出来ないし、僕が何人であったとしても、ひとつの国家のために犠牲になりたいとは思わない。
それは僕が国家というものに対する帰属意識が薄いからでもあると思う。
自爆テロをする人たちは、ひとつの宗教、ひとつの思想に対する帰属意識が強烈に強い人たちであり、それは間違いなく幼い頃からの教育(洗脳)によって育まれたものである。
ある種の集団(宗教団体、村、政治組織、国家など)が、その構成員に強い帰属意識を求める時、それは常にその構成員にとって生命の危機を意味する。
それを「よし」とする人たちとは、僕は袂を分かたざるを得ない。

<愛着心>というのは人間の自然な感情である。
しかし、<愛国心>というのは、ある種の教育によってしか存在し得ない後天的な意識である。
<愛着心>の延長線上に<愛国心>があるのではなく、<愛着心>が芋焼酎なら、<愛国心>は工業用アルコール。
製造過程も成分も用途も全然違う。
酔っ払ったら同じ姿になるというだけのこと。

何度も言うけれど、国なんて何度滅びてもいいのだ。
ひとりひとりの人間よりもその帰属集団の存続の方を重視する発想は、本末転倒の極みだ。
そういう人たちは誰にも迷惑を掛けず、「○○万歳!」とか叫びながら一人だけでひっそり自爆してほしい。


  2006年5月24日(水) 激しい雨
  女優・中島みゆき

先日、映画「間宮兄弟」を観た。
予告編が面白そうだったことや前評判のよさもあったのだが、女優・中島みゆきをきちんと評価してみたいという想いもあった。

結果的にそういう邪な思惑を超えて心に沁みるいい映画だったのだが、僕の中での女優・中島みゆきの評価も少し変わった。

僕は、うたうたい(特にシンガーソングライター)が役者をするのは、うたにとってよくないと思っている。
その顕著な例は武田鉄矢だ。
彼はもともとうたの中でも演じるタイプだったが、本格的に役者に転向してからのうたは、芝居臭くて実に見苦しい。
長渕剛も役者を始めてからはうたがどんどん臭くなってきた。
芝居の要素をうたに持ち込むことでよくなった例というのを僕は知らない。

ただ、役者とうたうたいの部分をきちっと切り離している人もいるにはいる。
全然違う例だけど、福山雅治やなぎら健壱などは、うたと芝居を完全に分離している。
泉谷しげるは微妙なところで、うたのなかにある種の演出を持ち込んでいる気がする。

さて、本題の中島みゆきである。
僕は残念ながら彼女のコンサートを観たことがない。
ただ、彼女が続けている「夜会」という芝居仕立てのコンサートはとても観に行く気になれない。
彼女には彼女の意図があるのだろうが、うたの物語性はうたの中でのみ表現されればいいものだと僕は思う。
以前、「プロジェクトX」の最終回に中島みゆきが登場して「地上の星」と「ヘッドライト・テールライト」をうたった時、うたいながらある種の<演歌的演劇的表現>を見せたのを観て、僕はちょっと失望した。
それは<蛇足>だと思った。
うたの中で充分に成立している表現を、更に芝居仕立てに演出する必要性は全くないし、逆にそれがあざとく映る。
もっと言うなら、過剰な演出によってうたが殺されてしまう。

今まで語ったのは、あくまでも歌手・中島みゆきの芝居的要素である。
そうではなくて、主題歌をうたったドラマやCMなどに時々出て来る女優・中島みゆきについて僕が気になったのは、その役柄の類似性である。
彼女が演じる女性は、必ず母性的で超越的で、かつ常に微笑んでいるのだ。
それが、彼女自身が望んでいることなのか、それともキャスティングする側のイメージが同じなのか僕には分からない。
それにしても、ことごとく同じタイプの女性なのだ。
僕は、その微笑みをあざといとは思わない。
ただ、悟りを開いた仏教徒のような寛容な微笑みを観る度に、一体彼女は何をしたいのか(もしくは彼女に何をさせたいのか)理解に苦しむ。
正直に言うと、観ていて辛くなる。
砂糖を十杯くらい入れられたコーヒーを飲まされているような気分になる。

今回の映画でも彼女は微笑んでいた。
やはりいつものように過剰に微笑んでいた。
ただ、映画全体の中で、その過剰さが少し薄められて見えたのは救いだった。
すごく分析的な言い方をするなら、映画全体の中で、彼女の微笑みはきちんと機能していた。
もっと平たく言うと、浮いてなかった。
歌手・中島みゆきをちょい役で使っているのではなく、ちゃんと女優・中島みゆきがそこにはいた。
これはきっと監督の功績だと思う。

願わくば、僕は中島みゆきの弾き語りのコンサートが観たい。
芝居性を切り離した部分の中島みゆきの凄みを観てみたい。
砂糖十杯のコーヒーは要らない。
もしも、彼女を女優として起用するなら、彼女がうたの中で表現しているような、悲しみや嫉妬や諦めが入り混じった複雑な心理の女性として、鞭打って使ってほしい。
あくまでも、中島みゆきの一ファンとしての僕の個人的な希望だが。


  2006年5月17日(水) 風邪の終わりの鼻づまり
  百歳

先日、祖母の納骨のために徳島の由岐という小さな町(現在は美波町)に行って来た。
そこにある親戚のおばさん(祖母の弟の奥さん)の家で、僕は今年2月に百歳になったおばあさん(祖母の弟の奥さんのお母さん)と会った。

僕がそのおばあさんと会ったのは今回が初めてではない。
三十数年前、小学生の頃、夏休みに徳島に遊びに行って、そのおばあさんがかつて住んでいた木岐(由岐よりも更に小さな漁村)の家に泊まらせてもらったことがある。
関係ないが、僕が初めて<蚊帳>というものを体験したのも、初めてサザエを食べたのもその家でだった。
彼女はその時から既におばあさんだった。
その彼女が、今度は百歳のおばあさんとして再び僕の目の前に現れたのである。
しかも、彼女は木岐という田舎で78歳まで過ごし、その後息子に引き取られて98歳まで東京(!)で過ごし、息子が亡くなってから再び郷里の徳島のおばさんのもとに戻ってきたという。
ずっと田舎暮らしならいざ知らず、馴染みのない東京での20年を経て百歳まで生きているのは驚きに値する。

彼女と再び会ってみて、彼女が昔と比べてどの位老けたのか、僕には全く分からなかった。
おばあさんというのは、一旦そうなってしまえばどこまで行ってもおばあさんなのかもしれない。
けれど、彼女の変化が分からなかった何よりも大きな原因は、彼女がすこぶる元気だという点だ。
耳は遠いが、話す内容もしっかりしているし、座っている姿勢もきれいだし、話によると足腰も丈夫で、歩くのも早いらしい。
朝、納骨まで少し時間があったので一緒にテレビ(政治家の討論番組)を観ていると、おばあさんは僕に「それぞれ頭(考え方)が違うからねぇ」と僕に意見を伝えてきた。
テレビの内容を完全に理解していることと、それに対する自分の意見をしっかり発言していることに僕はちょっとした感動を覚えながら、「はあ」と笑いながら答えた。

百歳になると各方面からの長寿のお祝いがあるらしく、おばさんに賞状を見せてもらった。
まずは地元の由岐町長(市町村合併前に百歳になったため)からの賞状、そして徳島県知事からの賞状、更には国からの賞状があり、国からの賞状にはなんと「内閣総理大臣 小泉純一郎」の署名があった。
僕が賞状と記念品(壷や杯)を見て感心していても、おばあさんは「それがどうした」という淡々とした表情をしていた。

更に話を聞くと、彼女は昼と夜の2食を必ず決まった時間にしか食べないのだという。
納骨が終わって、僕たちが早めの昼食(ちらし寿司)をいただいていても、彼女は「要らない」といって食べなかった。
けれど、12時になると、ちゃんとそのちらし寿司を食べ始めたのだ。
もうひとつ、彼女は夏でも温かい飲み物しか飲まないのだという。
かつて日本の長寿記録を持っていた泉重千代氏も沖縄に暮らしているのにも関わらず、夏でも温かい飲み物しか飲まないと言っていた。
これは長寿の秘訣のひとつなのかもしれない(僕は真似しようとは思わないが)。

色々と勉強になる再会だった。


  2006年5月7日(日) ゴールデンウイーク最終日
  <エコ>と<エゴ>〜<ベジタリアン>のことも

最近やたらと<エコ>という言葉を耳にする。
言うまでもなく<エコロジー>の略だが、この言葉が、企業のイメージ戦略に使われていることを以前から僕は腹立たしく感じていた。

特にエコカー。
自動車業界は、今までさんざんガソリン車を生産して来て、今更カッコつけて<エコ>とか言う姿勢が信じられない。
現に今でもガソリン車を大量に生産しているし、それによって大気汚染だけではなく、化石燃料の枯渇の問題も招いているし、自動車によって今も数多くの人命が失われ続けている。
たとえ、それと平行して窒素や二酸化炭素の排出量の少ない車を生産していたとしても、それのどこが<エコ>?
もっと言うなら、そのエコカーですら生産段階でかなりの資源を消費し、電気などのエネルギーを使っている訳だから、純粋な意味での<エコ>ではないのだ。
そう、どんなに綺麗な言葉を使ってみても、企業の体質は基本的に変わっていない。
もしも、自動車産業がすべてのガソリン車の生産を中止し、かつて生産したガソリン車もすべて回収し、作業を手作業にするというなら、その時に初めて<エコ>を標榜する資格を持つのだ、と言えば極論だろうか。

そういうことを考えながら、逆のベクトルから<ベジタリアン>のことを考えてみた。
<ベジタリアン>にも色々な種類がある。
最近僕が知り合った女性二人(日本人一人、アメリカ人とインド人のハーフ一人)は、自分たちのことを「なんちゃってベジタリアン」と呼んでいた。それについてあまり深くは訊かなかったが、たぶん「絶対に動物の血肉の混じった物を口にしないことを信念にしている訳ではない」という意味だと僕は解釈した。
それはとても軽やかな姿勢だ。
<ベジタリアン>の中には、ただ植物を起源とした物しか食べないという人もいれば、植物でさえ殺すことをよしとせず、自然に生って自然に落ちたり朽ちたりしたもの(自分で死んでしまった物)しか食べないという究極の不殺生の<ベジタリアン>もいる。
しかし、僕が思うに、少なくともその人の血肉を作ったDNAには<肉食>の歴史が刻まれている訳だし、現実的な話をしても、死んだ植物にも微生物が付着していたりすれば、それを胃液で溶かして殺している訳だし、つまり生きている限り完全な不殺生というのは不可能である。

何が言いたいのかというと、<エコ>も<ベジタリアン>も、人間が生きている限り完全に突き詰めることは出来ないということだ。
問題は、それを標榜する者の姿勢である。
企業がイメージ戦略のために<エコ>という言葉を容易く口にすることを僕は決して認めない。
それは、企業が本質的に求めているものが<エコ>ではなく、利潤だからだ。
利潤を求めるのはそれでいい。
勝手にやればいいのだ。
それならば<エコ>などと大きな声で喧伝するな。
その者の力が大きかろうが小さかろうが、<エコ>を本質的な目的として活動している者だけが、<エコ>を口にすべきなのだ。


  2006年5月1日(火) 明日はフォークジャングル
  「これは<下(げ)>ですけど、いいですか?」

先日本屋のカウンターで店員に唐突にそんなことを言われた。
僕は0.5秒くらい意味が分からずに放心してしまった。

「これは質的にかなり劣るものですけれど、それでもあなたは買うんですか?」という意味のことを冷静な顔で言っているのかと思い、一瞬驚いたのだ。

もうお分かりの方も多いかと思うが、その店員が言いたかったのは、
「これは下巻ですけれど、上巻と間違って持って来たのではないですか?」という<クソ>が付く程親切なアドバイスだったのだ。

そう、確かに僕は「ダンス・ダンス・ダンス」の下巻を持ってレジにいた。
それは勿論、上巻をもうすぐ読み終えるので下巻を買おうとしてたからだ。
僕はほんの一瞬の放心の後、「大丈夫です」と答えた。

世間というのは不思議な場所だと改めて思った。


  2006年4月24日(月) 祖母の四十九日を終えて
  <メイド喫茶>擁護論

僕は<2ちゃんねる>も見ないし、オタク系のHPも見ないので、その辺りで<メイド喫茶>についてどういう意見が交わされているのか知らないが、非オタク系の人たちに対して<メイド喫茶>をどう伝えていくべきかということについては以前から考えていた。

最近同級生に<メイド喫茶>の話をしたら、「あれはキモイ」と言っていた。
それは「メイド喫茶=オタク=キモイ」という図式で喧伝されているものを何の疑いもなく受け入れているだけのことだと僕は思っている。
実際に体験する行動力も、本質を見抜く洞察力もないのだ。
例えば、「ニート=ダメ人間」とか、昔で言えば「フォーク=暗い」とか、恐らくマスコミが作り出した図式だけを信じる<チャート式学習法>しか出来ない人間は、実は一番危険な人間であり、「ナチス=カッコいい」とか「二大政党制=民主主義の見本」みたいな形で時流に流されていく、想像力と創造力の欠如した人間だと僕は思っている。

僕も行ってみるまでは<メイド喫茶>のよさが分からなかった。
そもそも、「PINK HOUSE」の服とか好きではなかったし、昔、森尾由美が頻繁に着ているのを見て「どういうセンスをしているのだろう?」と思っていたくらいだからだ。
だから、実は今でもメイドの衣装(メイド服というらしい)は特に好きではないし、ましてや新撰組のコスプレや執事喫茶には興味がない。
ただ、そういうのが好きな人のことを否定もしない。

以前にもブログの方に書いたのだが、<メイド喫茶>は2種類に大別出来る。
ひとつは世間的に知られているタイプで、「おかえりなさいませ、ご主人様(お嬢様)」という決めゼリフから入るコミュニケーション系。
もうひとつは、普通に「いらっしゃいませ」と言ってくる、単にウエイトレスがメイド服を来ているだけの純ヴィジュアル系。(この区分は公式なものではなく、僕が考案した)
この二つは、根本的に客のニーズ(というより店側から客に対して提供するサービス)が違うのだ。

「おかえりなさいませ、ご主人様(お嬢様)」と初めに挨拶することの意味は、「<あなたがご主人様で、私たちがメイド>というゲーム(プレイ)に今あなたも参加したんですよ」という宣言なのである。
野球で言えば「プレイボール」、格闘技で言えば「ファイト」、SMプレイで言えば「女王様とお呼び」であり、つまり、とても低姿勢のように見えて、店側からこのゲーム(プレイ)への参加を要求しているのだ。
そうでない方の店は、単に<メイド姿>と<丁寧な(もしくはクソ丁寧な)接客>というサービスを提供しているだけなのだ。
だから、両者の客層はかなり違う。

<メイド喫茶>が生まれた背景としてあるオタク文化というものに僕は特に興味がない(フィギュアも集めないし、ギャルゲーもしないし、美少女アニメも見ない)が、結果として僕が享受出来ているサービスがある。
それは、どうせ喫茶店に行くなら、ウエイターよりウエイトレスの方がいいし、ブサイクなウエイトレスよりキレイなウエイトレスの方がいいし、雑な接客より丁寧な接客の方がいいし、うるさいオバハン連中や必死で商談をするサラリーマンが客としていない方がいい等の意味で、<メイド喫茶>は喫茶店として優れているのだ(僕にとって)。
だから、僕は純ヴィジュアル系の<メイド喫茶>(秋葉原「CURE MAID CAFE」、東池袋「WONDER PARLOUR CAFE」)は好きだ。
逆にコミュニケーション系は苦手である。

そういうサービスを求めない人は行かなければいいのだ。
全席禁煙の喫茶店へのニーズもあるだろうし、僕とは逆にイケメンのウエイターのいる喫茶店へのニーズもあるだろう。
それぞれのニーズが生み出すもの、しかもそれが平和的なものならば、その文化はちゃんと認められるべきなのだ。
僕が危惧しているのは、いつかこのブームが去る時、僕のように今提供されているサービスを普遍化してほしいと希望している者のニーズまで捨て去られてしまうことだ。
たとえば「ルノアール」がキレイなウエイトレスばかりになって、オッサンやオバハンの溜まり場でなくなれば、それはそれで文句は言わないが・・・。


  2006年4月14日(金) 珍しい金曜休み
  ケイタイの役割〜道具論〜

以前から言っているように、僕は<ケイタイ>というものが嫌いだ。
「好きではない」というやわらかな否定ではなく、はっきりと「嫌い」なのである。
その理由についてはかつても述べたと思うが、今回<道具論>(というものがあるのかどうか知らないが)という観点から述べたい。

いきなり結論だけど、「<道具>というものは、人間の潜在的な欲望を顕在化させるのと同時に、その欲望を拡大する」。

例えば、これは以前書いたと思うけれど、アメリカライフル協会が個人の銃の所持が招く様々な問題について出したコメントで「銃が悪いのではなく、それを使う人間が悪いのだ」というのがある。
確かに当たり前の話だが、実はここで見落とされている事実がある。
それが「<道具>というものは、人間の欲望を顕在化させる」という側面である。
つまり、たとえば実際に手元に<銃>というものがあることによって、「遠くのものを撃ちたい」「血を見たい」「人を撃ち殺したい」「自分が武器を持っているという安心感を得たい」など様々な潜在的な欲望を<顕在化>させられるのである。
別な言い方をすれば、<道具>が人間の内的な欲望を目覚めさせ、それに効力を与えるのだ。
<道具>というのは、もともと<ある志向(目的)>の為に作られたものであり、性善説とか性悪説に関わりなく(というか、両説とも意味はないのだが)、<道具>は人間をある方向に導く<道しるべ>を内蔵しているという見方をしてもいい。
だから、人がある種の<道具>を一旦持ってしまえば、その効力が実行されることは避けられない−つまり、<銃>に関して言えば、<銃>がある限り、人が撃たれることは決して避けられないということだ。
いいとか悪いとかではなく、<道具>と人間はそういう関係性にあるのだ。

次に、「<道具>が欲望を拡大化させる」というのは、たとえば<銃>というものを人間が手に入れた時、「更に正確に」「更に遠くを」「更に大量に」「更に簡単な操作で」「更に持ち運びに便利なように」などと次々と欲望を連鎖・拡大させようとする。その果てにはマシンガンがあり、バズーカ砲があり・・・。
これは一つの<道具>と人間の関係が呼び覚ますものだ。

人間の潜在的な欲望が<道具>を生み出し、その作り出された<道具>が更に人間の欲望を掘り起こすという連鎖は、古来変わらないものであり、哲学やある種の思想や宗教が形作ってきたものよりも、人間の精神構造のより多くの部分が<道具>との関係によって形作られてきた(教育されてきた・支配されてきた)と言える。
飛行機も自動車も電話も爆弾もロケットも、人間の欲望の顕在化として生み出されたのだが、その存在によって人間の生き方、欲望の流れが大きく決定付けられるのだ。

ここまでが前置きって言ったら、怒る?

話はケイタイに戻る。
<ケイタイ>に関して、マナーの問題や電磁波の問題など様々に語られるが、<ケイタイ>が顕在化させた「いつでも遠くにいる人と連絡が取りたい」「暇な時間を潰す簡単な道具を持っていたい」「何処にいる時もいち早く情報を得たい」という欲望は、<ケイタイ>そのものを廃絶しない限り最早止めることは出来ない。
<ケイタイ>の画面を見ながら、他人の迷惑も考えず人込みの中を歩いている<欲望に支配された人>を頻繁に見かけるが、<ケイタイ>という<道具>は、こういう人間を生み出すべくして生み出しているのだ(僕は彼らを即座に極刑にすればいいと思っているが)。
それが欲望のあり方だからだ。
だから、<ケイタイ>の存在を認めながらマナーの問題を語る人は、<銃>を持ちながら銃による犯罪の撲滅を主張する人と同じだ。
そこから派生する問題を防ぐには、最初の欲望から絶たなければならない。

そう、これはもちろんあくまでも理想論だ。

僕は、<銃>も<ケイタイ>も持たないし、どちらも廃絶を願うマイノリティー中のマイノリティーだ。
ただ、僕がどんな理想をのべようと、人間の総体的な欲望は必ず欲望の拡大化の方向に流れいくだろう。
それに対して、ほんの少しだけその流れに棹をさす僕のような人間がいてもいいだろう。

最後に、 真逆な意見になるけれど、最近再放送されているドラマ「愛していると言ってくれ」を観ていて、耳が聞こえない人にとっては、今の<ケイタイ>というものは有用な道具なのだろうと感じた。
勿論電話としては用をなさないけれど、バイブ機能とメールはかなり便利で、今までコミュニケーションが難しかった人たちにとってはかなり不自由さを解消されているのではないだろうか。


  2006年4月3日(月) 桜散り初めし
  公開遺書(2006年春)

先日祖母が他界し、続いて母が入院した(母はその後回復した)。
そういうこともあって、自分の行く末についても具体的に考えなければいけないと思うようになった。
というか、実は以前から決めていることがあるのだが、こういう機会にちゃんと書き残しておこうと思った。
僕の<公開遺書>第1弾として受け止めてもらえたら幸いだ。

うちの墓所は徳島にある。
徳島と言っても、由岐町という小さな海辺の町。
海岸からすぐに坂道を登って、山肌の斜面にお寺と墓地がある。
祖父は昔船乗りで、父も実は船員になりたかった(乱視だったから断念したらしい)というから、海を臨む山の斜面にある今の墓は、たとえ墓参りに不便だとしても、故人にとっては素晴らしいロケーションだと思っている。
祖母も近いうちにそこに納骨することになっている。

先日入院している母と病室で話をした時、僕はあえて今後のことについて話題を切り出した。
もういつ何があってもおかしくない歳になっているので、その時にはどうしたらいいか、希望を聞いてみた。
すると、意外にも母はその徳島の墓に入りたいと言った。
彼女は、戸籍上での離婚こそしなかったが、僕と妹が社会人になった時、大阪の家を出て母方の祖母が住む横浜に帰ったのだ。
その後一度話をした時に、永代供養をしてくれる個人墓地に入ろうかなと言っていたので、もう既にそういう手続きが済んでいるのではないかと僕は思っていた。
だから、今回徳島の墓に入りたいと聞いた時には驚いたのだ。
勿論、それはそれで構わないのだが。

僕は彼岸やお盆の度に墓参りする訳でもなく、ましてや月命日に線香を上げる訳でもない。
しかし、そのことが親不孝だとは思っていない。
亡くなった祖父も祖母も父も、僕の中にいつもいる。
時々夢に出て来てくれたり、ふとしたひと言や表情を思い出したりするということは、ともに生きているということである。
そういう風に意識することが供養であり、墓という象徴に出掛ける必要はないと思う。
墓は、生きている者が必要な気持ちになった時、足を運びたいと思った時に訪れればいいものだというのが僕の考えだ。
だから、もし僕が死んでも、生きている人を出来るだけ煩わせたくはないし、その人の心の何処かで僕をふっと思い出してくれるなら、それ以上の供養はない。
僕のこの気持ちは10代の頃から変わっていない。

・墓には一切骨を入れず、散骨してほしい(持ち帰りたい人がいれば、持ち帰ってもらっても構わない)。
・葬式は一切行わないでほしい。
・上野公園野外ステージで追悼コンサートを1度やってもらえれば幸いである。

以上を<公開遺書>第1弾とする。


  2006年3月26日(日) 日曜出勤の後、メイド喫茶へ
  月面の星条旗、マウンドの太極旗

今回のWBCは様々な問題を提起しつつ、日本の優勝で幕を閉じたが、僕は誤審問題や審判の選定問題や組み合わせの決め方などの問題よりも、2度目の日韓戦終了後、マウンドに突き刺された太極旗のことが一番気になった。

実は、僕はリアルタイムではその光景を見ていない。
ラジオで聞いていて、「まさか」と耳を疑った。
と同時に、かつて月面に始めて着陸した宇宙飛行士が、月面に星条旗を突き刺した場面を思い浮かべた。

ちょっと余談。
よく<ナショナリズム>という言葉を簡単に使う人がいるが、本当の意味での<ナショナリズム>を理解している人は少ない。
理解不足を解くために簡潔に言うなら、<ナショナリズム>というのは<国家主義>であって、<自国主義>ではないということだ。
この違いが理解できないなら、<ナショナリズム>という言葉を使う資格はない。
たとえば、<インターナショナリズム>と<自国主義>は相容れないが、<インターナショナリズム>と<国家主義>は同じ底辺を共有している。

さて、本題。
まず、今回マウンドに太極旗を突き刺した韓国の選手が馬鹿であることには間違いないが、まず、マウンドが野球選手にとって神聖な場所(そういう発想自体はイカれた精神主義だが)かどうかは別にして、自分のプレーフィールドに旗を刺すという行為自体がスポーツ選手として最低である。
スポーツ界を永久追放されても仕方ないような行為だ。
ちなみに、僕はこのことを聞いた時、「これだけ驕っていたら、次の対戦相手には負けるだろうな」と思った(それがたまたま日本戦だったのだが)。

もうひとつ、こちらの方が重要なのだが、先程も書いたように、月面に星条旗を突き刺した宇宙飛行士とマウンドに太極旗を突き刺した野球選手は、恐らく同じ狂気を共有している。
それは<征服欲>というものだ。
月がアメリカのものでないのと同じように、マウンドは韓国のものではない。
ただ一番最初に辿り着いただけ、ただ試合に勝っただけなのにも関わらず、<征服>したと思い込んでいるのだ。
そこには古来歴史を血に染めてきた<征服欲>が顕著に示されている。
<ナショナリズム>という観点からではなく、<征服欲>の発露という観点から、僕は今回のこの出来事を最悪の行為だと思っている。
彼らと同じ精神構造が戦争や侵略を繰り返してきたのだ。

僕は月を愛するものとして、あの星条旗がまだ月面に刺さったままなのだとしたら、いつか月までそれを抜きに行きたいと願っている。


  2006年3月20日(月) フォークジャングル前日
  イタリア文化会館の<赤>を巡る石原発言の愚かさ

最近GyaOで観ている「MEGUMIのスーパーチューズデイ」で、秘密のゲストを当てるためにMEGUMIが毎回「好きな政治家は誰ですか?」という見当外れの質問をする場面に触れる度に、僕は好きな政治家はいないけれど、嫌いな政治家なら真っ先に石原慎太郎を挙げるだろうと思っている。

今回の問題とは別に、東京でオリンピックを開催する必要なんかさらさらないと思っているし、これまでの様々な<頭の悪い発言の数々>を聞いても、東京都民(僕もそうなのだが)はどうしてこんな馬鹿を知事に選んでいるのか僕には量りかねる。

今回の問題は、最近建て替えられたイタリア文化会館(靖国神社・皇居付近にある)の壁の<赤>が周辺の美観に沿わないからと住民が訴えたことに対して、石原都知事が「区が動かないなら、都が動く」と発言したもの。
僕はこの種の住民のエゴに無性に腹が立つ。
おまえは何様だと言いたい。

ここだけではなく、他の住宅地でも壁面をピンクに塗った住宅が周りの環境にそぐわないからと、古くからの住民が塗り替えを要求するようなケースがある。
しかし、京都や国立のように建物の高さ制限や建築許可が厳しく規定されている場合を除いて、かつ、日照権や騒音や電波障害などの問題を除いて、すべての建物は自由であるべきだ。
ピラミッドを建てようが、全面金箔のビルを建てようが。

石原都知事は、明らかに靖国神社と皇居という天皇中心の日本文化を意識して、あの<赤>が美観を損ねると発言しているのだろうが、それなら、時々あの周辺に無数に翻る日の丸の<赤>も塗り替えるべきだ。

住民が自分の色彩感覚や美意識に基づいて、他の建築物についてとやかく言うのは、先ほども述べたようにエゴであることは間違いないが、都知事が独断でそれに介入するのは、権力の横暴以外の何ものでもない。

どうしても日本的な美観を、と言うなら、周辺のすべてのビルディングを潰して、高床式住居にするか、書院造の建物でも建てればいいんじゃないか。

排他主義の腐ったナショナリズムよ、美的感覚も完全に麻痺した美意識よ、即死しろ。


  2006年3月16日(木) バイト現場で友人と会う
  「今泉さん」

今日のバイト現場は巨大な倉庫。
いつものように点検をしている時、女子ロッカー室を点検するのに事務員のオバサンに立ち会ってもらった。

点検が終わり、僕が「ありがとうございました」と言って立ち去ろうとすると、その方が「あなた、3、4年前から来てるでしょう?」と言ってきた。
僕が「はい」と答えると(しかし、実はもう7、8年は点検に来ている)、「あなた、みんなになんて呼ばれてるか知ってる?」とあまりにも唐突に訊かれた。
「分かりません」と答えると(もちろん分かる訳がない)、「<今泉さん>って呼ばれてるのよ」と笑いながら言われた。
「<今泉さん>って分かる?」と更にオバサンは笑いながらかぶせて来た。

そこで、僕は分かった。
<今泉さん>とは、「古畑任三郎」の西村雅彦の役名のことだ。
確かにたまに似てると言われることがある。
言われていい気持ちも嫌な気持ちもしないが、半年に1度しか点検に来ないただの点検員(しかも、ほとんど接点はない)である僕のことを、<今泉さん>と呼んでいると楽しそうに話すオバサンはどうなのか!?

そんな風に意識されていて、嬉しいようなこそばいような気分になった。


  2006年3月12日(日) フォークジャングルのDM作業を終える
  現役

菊池エリというAV女優がいる。
僕が彼女を知ったのは80年代半ば、ビデオではなくポルノ映画でだった。
80年代半ばと言えば、丁度ポルノ映画からアダルトビデオへの移行期に当たり、彼女もその後ビデオを中心に活躍することになる。
彼女は背が高いわりに童顔で、当時の女子大生風の髪型をし、かつ巨乳だった。
今やアダルトビデオ界では普通に存在する<巨乳で美少女>も、当時は特異な存在であり、彼女はある種のアイドル的存在だった。
僕が初めて買った写真集(文庫版)は、彼女の写真集だった。

あれから20年。
AV業界も様変わりする中、彼女が今現役AV嬢として活躍している作品を最近観て、僕は感動した。
あれからAV女優、ストリッパー、結婚、離婚を経て、今再び<熟女AV女優>として活躍している彼女は、その経歴云々ではなく、今、まさに今現役AV女優として素晴らしかったのだ。
かつてはかわいいだけで、ワンパターンの演技しか出来なかった彼女だが、今や年輪を重ね、まるで深い谷底へ引き込むようなオルガスムの表現を身に付けていた。

新しい女優が出て来る度に、それまでアイドルだったAV女優達は簡単に使い捨てられていくのが、この業界の定めである。
そうでなければ、<懐かしのAV(ポルノ)女優>と一括りにされ、男達の青春の回顧の対象にされるだけだ。
そんな中、40歳を超えて、<菊池エリ>という大看板を張ってこうして現役を続けているということは、ニーズがあるというだけではなく、その才能、魅力、努力が重なり合ってこそのことだと思う。
肉体を使うという意味では、長く現役を続けているスポーツ選手と同様に尊敬に値する。

色々な意味で感謝。


  2006年3月10日(金) 祖母の葬儀から帰り、久々にバイト
  政治家からの弔電

先日祖母が亡くなり、大阪に帰っていた。
祖父も父も先に亡くなっているので、僕が喪主を務めた。

親族とご近所だのささやかな葬儀を行ったのだが、なぜか政治家からの弔電が何通も来た。
あれは一体何なのか?
亡くなった祖母は勿論、うちの一家は誰一人どの政党も支持していないのにもかかわらず、だ。
市議会議員をはじめ、現職のとある国務大臣まで、計5、6通の弔電が届いたのである。
祖母が亡くなったことを町内会に知らせたから、そこから連絡が行ったのだろうと僕の妹は言っていた。

しかし、しかしである。
弔電が読み上げられること自体が一種の政治活動(選挙運動)だと考えているのだとしたら、馬鹿げた話である。
政治には金が掛かるとよく言うが、弔電1通送るのも馬鹿にならない金額が掛かる。
うちの祖母でさえ来るのだから、ほぼすべての人の所に来るのだとすると、それだけでも莫大な金額になるだろう。
この仕組みは何なのだろう?
<裸の王様>だらけじゃないか!

今回も町内会の方々にはお世話になったから、こういう言い方はいけないかもしれないが、ああいう<村組織>がこの国をがんじがらめにしているんだなぁと改めて思った。
<保守>とは、具体的にこういうことを意味するんだなぁ。


  2006年2月27日(月) 「フォークジャングル通信」印刷
  「空気を読んでなんぼですよ」

メイドリフレクソロジー「M@IFOOT」のさくらさんの言葉。

ついに禁断の領域に足を踏み入れてしまった。
今日、「フォークジャングル通信」の印刷のために末広町へ行った時、メイドリフレクソロジーというのを初体験した。
実は、メイドさんがやるから興味があるというよりも、ハンドリフレクソロジーをしてもらいたくて行ったのだが、後からネットで調べてみると、メイドリフレクソロジーでなくても普通にハンドリフレクソロジーがあることを知った。
でも、結果的には行ってよかった。

エレベーターを降りたらすぐに店の入口になっていて、初めはかなり緊張した。
中からは、メイドさんとお客さんの絶え間ないトークが聞こえ、「あんな風にはしゃべられへんなぁ」と思いつつ、順番を待った。

僕の担当になったさくらさんというメイドさんは、年齢は分からないが(少なくとも20代後半)とても落ち着いた感じで、ちょっと安心した。
僕はフットリフレとハンドリフレがセットになったお試しコースを選んだのだが、初めに足にオイルを塗られてマッサージされた時、彼女が「痛かったですか?」と尋ねてきた。
「いいえ」と僕が言うと、「痛さを我慢してるような顔をされていたから」と彼女は言った。
本当のことを言うと、その時あまりにも気持ちよすぎて、笑いそうになるのを我慢してたのだ。

リフレを受けながら、色々と話している中で僕が「色々なタイプのお客さんがいるし、トークもしないといけないし、全然喋らないお客さんもいるだろうから、大変ですね」と言うと、彼女は上記の言葉を語った。

「メイドって、空気を読んでなんぼですよ」

僕は「なるほど」と感心した。
それは、メイドカフェやメイドリフレクソロジーのメイドだけでなく、お金持ちの家で家事をする所謂本物のメイドにも当てはまることなんだろうなぁと思った。
そういう意味で、彼女の言葉は完全にプロ意識に満ちた言葉だし、メイドというものの本質をズバリ言い当てている。

今、秋葉原にはメイドカフェが過剰に存在している。
去年辺りから明らかに<バブル>なのだ。
<バブル>は必ず弾ける時が来る。
あと2、3年したらメイドカフェはどんどん潰れて行くだろう。
何軒潰れてもいいけれど、絶滅だけはしてほしくないと僕はこの頃切に願う。
なぜなら、今日自分自身も感じたし、彼女も言っていたのだが、メイドカフェ(特にメイドリフレクソロジー)は本当に<平和>な場所だからだ。
「LOVE&PEACEですよ。オノ・ヨーコには負けませんよ」と彼女は言っていたが、あそこは、人を癒し、かつ邪悪なものの何ひとつない場所なのだ。
性風俗を求めていない人(僕を含む)でも、かわいい女性に触れてもらうというのは、それだけで気持ちのいいものだ(オッサンの発言か)。
それは<争い>とは最も遠い感覚である。
ここは、そういう意味で、意識的にしろ無意識的にしろ、<平和>を伝道している場所なのだなぁ、と深く感銘した。


  2006年2月23日(木) スタジオで1時間練習
  朝日新聞のCM

「言葉は、感情的で、残酷で、時に無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを」

このコピーとニュース映像(もしくは写真)が使われた広告をこの頃よく目にする。
初めに見た時から気になっていて、いつかここに書こうと思っていた。

自分の意見を書く前に、「朝日新聞のCM」というキーワードでネットで検索したら、幾つかのブログでこのCMに対する批判が述べられていた。
内容は大きく分けて二つ。
一つは、朝日新聞そのものを批判しているもの。
これはCMの批判ではないし、内容的にも単に「反・朝日」というだけのものだ。
もう一つは、<言葉のチカラ>と謳いながら、映像や写真を使っていることへの批判。
これも子供の揚げ足取りであり、どうでもいい内容だ。

全部を読んだ訳ではないが、ほとんどのブログはこのどちらかのパターンでこのCMを批判(というか非難)していた。
僕が感じたのはちょっと違う。
僕がこのCMに感じたのは、あまりの<脳天気>さだ。
さもなければ、あまりの<自信過剰>さだ。

前半の部分は、「なにを今更!」という内容であり、言わずもがなである。
問題は後半。
「それでも私たちは信じている、言葉のチカラを」という言葉の恐ろしさを彼らは理解しているのだろうか?
彼らは自分たちのことを、<言葉を自由自在に操り、それによって相手を思うように動かせる力を持つ魔法使い>とでも思っているんじゃないだろうか?

言葉にはチカラがある、というのは当たり前のことだ。
しかし、その<チカラ>はそんな生易しいものではない。
ひとつの言葉、ひとつの言論などというものは、言うなれば<大海の中の水のひとつの粒子>に過ぎない。

言葉というものは、常に他の言葉との力関係、全体の潮流や部分的な潮流、ひとつの文化の中で根付いた土着的な意味合い、異なる文化の摩擦による軋轢、その他無数の力の働きによって、歪んだり、間延びしたり、引き千切られたり、圧殺されたり、上滑りしたり、めり込んだり、膨張したり、裏返されたりするものなのだ。

だから、このコピーで謳われている<言葉のチカラ>というものが、言葉というものに宿る全体的かつ呪術的なチカラのことを指しているのだとしたら、僕が<うた>を信じているというのと同じだ。
僕も<うた>を信じている、と宣言している。
その時、僕が言っているのは、<うた>が世界を僕が描く理想的な方向に変えることが出来ると信じているからではない。
<うた>が誰かの心に何かを発芽させ、熱狂させ、人生を棒に振ってしまうほど賭けさせるような<推進力>を持っていると信じているだけだ。
それぞれの人の心がが何処へ向かうかは分からない。
だから、面白くもあり、怖くもあるのだ。
僕は、ただ僕が思う方向を向いて叫び声を上げるだけだ。

信じているものが、大きな意味での<言葉のチカラ>というのではなく、「私の<言葉のチカラ>」というのならば、それは自信過剰も甚だしいというか、不老不死を信じている臨終間際の病人のようなものだと言える。
前半に<無力>という表現があるが、言葉は決して<無力>だったためしはない。言葉を<無力>だと思うのは、より大きな結果を得られるはずだという表現者の<過信>の裏返しに過ぎない。
<言葉>はそんなに甘くないのだ。

けれど、文脈から見て、どうやらこのコピーは後者の意味合いで使われているようだ。
甘いよ。
井上陽水風に言えば、<角砂糖の側で死んでいる蟻>くらいに甘いよ。


  2006年2月17日(金) 呼水槽の交換工事
  永田という馬鹿議員

今、堀江容疑者と自民党の武部幹事長の息子との間で交わされたと言われているメールについて、ガセかガセでないかと衆議院予算委員会で議論が沸騰している。
正直どうでもいい話だが、このメールを持ち出した永田という民主党の議員に関して、以前から言いたいことがあった。

彼があるテレビ番組で、国防について話した言葉。
「軍隊はあった方がいい。あるけれど、使わないというのが一番」というものだった。
馬鹿だ。
馬鹿以外にこんな発言が出来る筈がない。
彼は東大を出、大蔵省に入るというお決まりのコースを通って国会議員になった人間だが、そういうルートを通ろうという発想自体、やはり馬鹿の発想なのだろう。

どう考えたって、使わないなら軍隊なんかない方がいいに決まってる。その分税金を使わずに済むし、完全非武装を軸に世界平和を主張できる。
小学生だってそのくらい分かるはずだ。
彼の発言は、おそらくそれが分かっていないのではなく、そういう持論のカッコよさ(ヘドが出るくらいカッコ悪いが)に酔っているだけなのだ。

今回の件がガセであろうとガセでなかろうと、ああいう馬鹿を国会議員にしておくことが許されてはいけない。
(僕は自民党支持者ではないと改めて書いておく)


  2006年2月12日(日) 健康的な朝食(ヨーグルト、野菜ジュース、はっさく)
  聖火とIHクッキングヒーター

バイトに行こうと朝早く起きたら、テレビでまだトリノ五輪の開会式をやっていた。
開会式とか閉会式とか、五輪でも高校野球でもいつもつまらないなぁと思っているのだが、今回のトリノ五輪でも同様に感じた。
ただひとつ、聖火というものはいつ見ても心を奪う力があるなぁとも感じたのも事実。それは、五輪だからとか、何千人もの人がリレーして来たからとか、そういう理由ではなく、それが<大きな火>だからだ。

<祭典>というものは、恐らく何千年も基本的に変わっていない。
音楽があり、踊りがあり、詩篇(もしくは祝詞、もしくは宣誓、もしくは神託など)があり、そして<火>がある。
ゾロアスター教の例を出すまでもなく、古来<火>は崇拝と畏怖の対象だった。
多かれ少なかれ、人間である限り今も<火>に対する感じ方は変わらないと思う。

<火>の温かさは安らぎを与え、同時に<火>の熱さは恐怖を与える。
人類に食物を調理するという他の動物にはない画期的な生命維持法を与えると同時に、家屋を焼き払い、一瞬にして何十万人もの命を奪う兵器も与えたのが<火>だ。

最近IHクッキングヒーターなるものが急速に普及している。
<火>を使わない電磁調理器であり、油への引火、吹きこぼれによるガス漏れなどの心配がない点で、採用している新築マンションはかなり多いようだ。
確かに、安全性の面では悪くない。
けれど、暮らしの中に<火>がなくなるというのはどうなのだろうか?

こういうことは何十年も検証しないときっと分からないことだと思うが、<火>が暮らしにある生活とない生活を過している人にはたぶんなんらかの根本的な違いが表れると僕は想像する。
崇拝と畏怖というのは共に宗教的な精神の根源にあるものだが、<火>はそれを自然のうちに認識させてくれるものだと思う。
それは、何か宗教を信仰するということではなく、宗教というものを理解するためにも必要な感覚ではないか。
更に、映像や写真の中にある戦火というものを現実的に感じるためにも<火>に触れることは必要なのではないか。
<火>以外のものによってもそれは習得できる感覚なのかもしれないが、これ程身近で有効なものは他にはないと僕は思っている。
だから、僕は<火>のない生活の中で成長した子供がどういう大人になるのか、少し危惧している。

本題とは関係ないが、五輪で「イマジン」とはあまりにも不釣合いだと思った。
五輪は確かに名目上はスポーツによる平和の祭典ではあるが、明らかに国別対抗戦である。
「イマジン」といううたは、国家や宗教を否定したうたである。
この矛盾をオノ・ヨーコもピーター・ガブリエルも感じていないのだろうか。
<日の丸を背負わない>で、トップアスリートが競技を行う祭典になれば、五輪ももう少しましなものになるかもしれない。


  2006年2月8日(水) 2回目の「てもみん」
  「YOU−YOU」

知らない人にとっては(ほとんどが知らないと思うが)、「なんのこっちゃ!?」というタイトルだが、これは僕の中学の同期会のHPで続けているリレーエッセイの名前。

一昨年の夏、卒業以来20数年振りに大々的に同期会を開催し、それを機に同期会のHPを作った(僕が製作したのではないが、幹事として携わった)。
HPを作ったはいいが、同期会前後は久々の再会による興奮もあり、書き込みも多いだろうが、日が経つにつれてそれもどんどん減るだろうし、書き込む人、書き込まない人に二分化されていくだろうと思い、「中学時代の思い出」というテーマでリレーエッセイをするコーナーを作ろうと思いついた。
当初は「同期会通信」というような名前を考えてみたのだがしっくり来ず、公募してみたところ、この名前「YOU−YOU」に決まったのだ。
これには深い意味がある。
まず、僕たちが卒業したのが大阪市立夕陽丘中学校という名前であり、その<夕陽丘>の「YOU」。
もうひとつは<友人>の「YOU」。
そして勿論<あなた>の「YOU」。
そして、「YOU」と「YOU」の間の「−」が、リレーエッセイの<バトン>を表している(このリレーエッセイは、書いた人が次の人を指名してバトンを繋いでいくという形で続いている)。
この名前の提案を受けた時、「これは続けられる」と僕は確信した。
「名は体を表す」という言葉があるが、これはまさにそんな素晴らしいネーミングだと思った。

それ以来不定期的にではあるが<バトン>は繋がり続けている。
ところが、昨夜大阪でその同期生たちが集まって飲んでいる席から僕に電話が掛かってきた。
次にエッセイを書くように指名されたある友人が、酔っ払ってろれつも回らない口調で僕に真剣に苦情を訴えてきたのだ。
彼曰く、僕(「YOU−YOU」の編集長)からエッセイの依頼を受けて以来、仕事も手につかずに困っていると言う。
僕(松本)のように中学時代にいい思い出のある奴はいいが、自分みたいな人間は書くことがないという。
僕は彼の熱弁を聞きつつ、「君を指名してくれた人のためにも書くべきや」と説得したのだが、色々考えさせられた。

僕は中学生時代確かに優等生だったが、決していい思い出だけだった訳ではない。
それと同様に、つまらない中学時代だと思って過した人の中にも、何かしら記憶に残る瞬間は残されていたはずだと思う。
彼が「思い出を書く」ということに苦悩しているという現状を聞かされた時、彼には申し訳ないが、僕は彼がそれだけ真剣に考えてくれているということが嬉しかったし、この「YOU−YOU」という企画の成功を強く感じた。
それは、この企画によって、彼自身が自分と向き合う素晴らしい機会を得たということであり、同時に、僕たち同期生全体が美しいことばかりではなかった時間と向き合うことにもなると思ったからだ。
しかし、またそれと同時に、一昨年の同期会の時に御出席いただいた先生の「ここに出席出来ているみんなは幸せだが、色々事情があって来たくても来られない人のことも考えてあげなくてはいけない」というお言葉も思い出した。

同期会を開催する前は、こういう集まりはみんなで昔を振り返って懐かしがるためにあるのだと僕は思っていた。
ところが、実際に再会してみると、その再会が何十年振りだろうと、「今」を気兼ねなく語り合える、肩の力を抜いて楽しい時間を共有できる仲間を持っているということなのだということが分かった。
僕は普段東京にいるからなかなか参加できないが、一昨年以来同期生の小さな飲み会が続いているのも、そういう理由だと僕は思っている。


  2006年2月1日(水) 初めて「ファブリーズ」を買う
  ほんものの<ホームレス>、にせものの<ホームレス>〜<ホームレス>
  問題の本質〜

ほんものの<ホームレス>を僕は一人だけ知っている。
彼女はうちの近所の都税事務所の前のベンチで毎晩眠っている。
炎天の真夏も、雪が降りしきる氷点下の朝も、雨風の強い夜も。
何枚重ね着しているのか分からないほど着膨れしている彼女は、雨の日や風の強い日は傘を差しながら、決してベンチに寝転がることなく、いつも座ったまま眠っている。
記憶は定かではないが、僕が知る限り少なくとも彼女は5年以上(もしかしたら10年以上)同じ場所で夜を過している。
一体何歳なのか全く分からないが(どう若く見積もっても50歳は超えている)、何故か彼女の肌はつやつやしている。
昼間ダンボールを集めたりしているふうでもなく、一体どうやって口を糊しているのかも全く分からないが(もしかしたらすごい資産を持っているのかもしれない)、とにかく彼女は間違いなく本来の意味で<ホームレス>だ。
僕は時々「彼女は神様じゃないか」と思うことさえある。
そうでないにしても、ある種の修行を行っているのかもしれないと思うこともある。

先日、大阪の公園に住む<ホームレス>と呼ばれる人たちのテントが強制代執行によって撤去された。
この問題に関して、幾つかの論点を整理して語らなければ誤解を生むだろうし、僕は極端な意見を持っているので伝わりにくいだろうと思うので、きっと話は長くなるから気長にお付き合いを。

まず、ひとつ目は「彼らは<ホームレス>ではない」ということ。
ほんものの<ホームレス>とは、僕が冒頭に書いた彼女のような人のことを指す。
それに対して、今回テントを撤去された彼らは、テントという<家>を他人の土地に不法に建築した<土地泥棒>である。
そして、家賃を払わず、固定資産税を払わず、勝手に家を建てて暮らしている人間を支援している人たちは、彼らの共犯者である。
たとえば、あなたの家の庭に誰かが勝手にテントを張って暮らし始めたらどうか。
もっというなら、テント暮らしをしている彼らのテントの中に勝手に部屋を作って誰かが暮らし始めたらどうか。
ちょっと考えたら同情の余地のない違法行為であることは明らかだ。

ふたつ目。
大阪市は馬鹿だ。
かつて大阪市は「天王寺博」というものを開催した。
それまで無料であった天王寺公園への入場を有料化し、いわゆる<ホームレス>の追い出しを計った(僕の「天王寺界隈のブルース」はその時期に書いた)。
昨年の「愛・地球博」でも同様のことが行われた。
今回も「全国都市緑化おおさかフェア」と「世界バラ会議」などといういかにも頭の悪い、誰も望んでいない催しが関連している。
まず、公共工事を伴うあらゆる博覧会に僕は反対である。
そんなもののために税金を使う必要は全くない。
更に、前述したことと矛盾しているように聞こえるかもしれないが、<環境の美化>とか<観光客への配慮>などというまやかしのスローガンによって、ある種の人々を排除しようという動きに関しては、僕は断固として反対する。
それはただの差別でしかない。

みっつ目。
世界中の土地政策そのものが根本的に間違っている。
これは以前にも書いた僕の持論であるが、「地球に住むのになんで金を払わなあかんのか!」。
人間が国家という枠組みの中に生まれてきた以上、居住するための最低限の空間は保障されるべきである。
日本国憲法第25条の1項は特に重要な条文であるのでここに記すが、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とある。
さて、「最低限度」とは何か?
憲法学者の解釈などどうでもいい。
判例などどうでもいい。
僕が考えるに、それは少なくとも、雨風をしのげる生活空間があることである。
食べ物が貧しくても生きていけるし、服がボロボロでも生きていける。
自分で農業や漁業をしないのなら他の労働によって得た金で食物を得るのは当然だし、自分で綿や絹を生産して服を作らないなら食物と同様に服を得なければならない。
しかし、人が生きていくためには、最低限の(少なくとも横になって眠れるだけの)場所は絶対的に必要である。
金を儲けるために存在する工場や店舗のための土地を所有するのに金が掛かるのは仕方ない。
しかし、居住空間はすべての人類に無償で提供されるべきだ。
何のために国家が存在しているのか!
(この意見に関してはもっと詳しく説明するべきかもしれないが、またいつか書くこともあるだろうから今回は骨子だけに留める。)
つまり、これによって、この世の中から<ホームレス>という存在を絶滅させることができる。
誰も他人の土地に勝手にテントを張って暮らす権利がない代わりに、住居を無償で与えられるのだ。
逆に言えば、そういう発想もなく、仮設住居(6ヶ月の期限付き)で誤魔化そうという国家及び地方自治体は憲法違反を犯しているのだ。

ダンボール400s集めてで2000円だとテントに暮らすおっさんは言っていた。
完全な搾取だ。
この搾取がなくなり、かつ2000円で家賃を払うこともなく充分に暮らしていける社会(実は今でも金持ちからもっと税金を取れば可能)をあなたが望まないなら、あなたは僕の敵だ。


  2006年1月30日(月) 月曜日やのにバイト
  「不快な音のしない静かなストローです。」

つい最近「Dole」の紙パックのジュースを買ったら、ストローが入っているセロファンの袋に上記の文字が印刷されていた。
未だにこの<不快な音>というのがどんな音のことを意味するのか分からないし(吸う音?突き刺す音?空気が逆流する音?)、そもそも僕はストローによって生じる音を不快と思ったこともないし、僕にとってはどうでもいいことなのだが、わざわざこういうことを書くということは、不快に思ってた人がいるんだなぁと不思議な気分になった。

で、自分にとって<不快な音>って何かと考えてみた。

目覚まし時計の電子音。
時計の秒針が動く音。
オイルを差していない自転車のブレーキ音。
自転車のベルの音。
ヘッドフォンから漏れ聴こえる音楽。
携帯のメールを打つ時のリスがひまわりの種をかじるような音。
おっさんが痰を吐く前の「カーッ」という音。
芯が入っていないと知らずにホッチキスを押した時の「ファフォン」という音。

こんな所かなぁ。
本当にストローの<不快な音>って何?


  2006年1月23日(月) 銭湯は何故か超満員
  「m(_ _)m」〜日本語の奥行き〜

あらかじめ言っておくけど、今回はあえてタイトルの字体を変えてみた。
パソコンによっては文字の見え方が違うかもしれないけど。

顔文字に出会ってからもう随分経つので、「今更」という話ではあるが、最近思うことがあってその歴史について調べたりしているうちにひと言書いてみたいと思った。

まず冒頭の顔文字。
実は僕はこの顔文字がずっと気になっていたのだ。
というのは、歓びや怒りや涙などを表現する顔文字は、もしかしたら万国共通かもしれないが、この顔文字は明らかに<土下座>を意味する表現であり、これが万国共通であるはずがないと思ったからだ。
つまり、この顔文字は日本生まれであり、もしかしたら他の顔文字もすべて日本生まれなのかもしれないと思い、調べてみるとやはりそうだった。
欧米にも顔文字はあるにはあるのだが、スマイリーと呼ばれるものが原形で、横顔であり、かつ日本の顔文字に比べればかなり表情が乏しい(これがスマイリー :-) )。
ところが、日本の顔文字は半角、全角が使える上、ひらがな、カタカナ、漢字等も組み合わせられるので、バリエーションもかなり豊富になるのである。
こんな風に調べてみてちょっと感心した。

この顔文字は、その言葉通り<文字>であるのか、それとも♪や☆などのような<文字未満の記号>であるのか、現状では決めかねる難しい問題のように思える。
ただひとつ言えることは、言語表現の進化の過程にあることは確かだ。
漢字を輸入し、そこからひらがな、カタカナを派生させ、更に数々の記号から顔文字を生み出すという日本人の言語感覚(文字感覚)の豊かさを眺めながら、この国もまだまだ捨てたものじゃないなぁとちょっと思った。
(それでも僕は顔文字は使わないけどね)


  2006年1月22日(日) 屋根の上に融け残る雪
  下品な人たち

まずは先日の中央線の車内の出来事。
朝、新宿から八王子方面の電車に乗ると、僕は運良く座れたが座席は全部埋まり、立っている人も結構いた。
僕の斜め前には若いサラリーマンの二人連れが、くたびれた様子で立っていた。
ひとつ目の停車駅である中野で、僕の隣りの人が席を立ったので、その若いサラリーマンがそこに座ろうとしたその時、全然離れた場所から50代後半位のおっさんがやって来て、その若い奴を押しのけて座ったのだった。
若いサラリーマンはあっけに取られていたが、すごくいらついた顔でおっさんの顔を睨んでいた。
おっさんは平気な顔をしてすぐに眠ったのだった。

よく「若者は態度が悪い」と言う大人がいる。
勿論それも当たっている。
しかし、おっさんたち(おばはんたち)の厚顔無恥(睾丸鞭)な下品さと比べてどちらがひどいとも言えない。
強いて言うなら、おっさんたちは「自分たちは言葉遣いもちゃんとしてるし、仕事もそつなくこなしているし、社会にも貢献している」のだから、ちょっと位厚かましくても偉そうでも許されるだろうというような<下品な甘え>がプンプンに臭って来るからタチが悪い。
新幹線の座席で携帯で話しているのも、大抵おっさんだ。
路上喫煙禁止の場所で煙草を吸っているのも、ほぼおっさんだ。

今回のライヴドアの問題で、「堀江逮捕のXデー」などと夕刊紙の一面や週刊誌の見出しで目にする。
仮に彼が犯罪者であったとしても、「テレビに出ていた人間がいつ逮捕されるのかを楽しみにする」という心理は、そしてそれを煽り立てるマスコミは、<下品>以外の何ものでもない。
いつ逮捕されたって構わないじゃないか。
あんたと何の関係があるのか。
ここぞとばかりにまた始まった<スケープゴート叩き>に、うんざりしながらもやはり怒りを覚えずにはいられない。


  2006年1月18日(水) 最近毎日コーヒー2杯以上
  今更ながら、「IT革命」について

この題目で文章を書こうと思った時には、まだ「ライヴドア」に強制捜査が入るなんて知る由もなかった。
関係ないのに言葉自体がタイムリーな話題に関連してしまったのはちょっと面映い感じがする。

もともとこの文章を書くきっかけになった出来事は、「Nikon」がフィルムカメラ部門から事実上の撤退をし、デジタルカメラに生産を集中するというニュース。
このニュースを聞いた時、僕が考えたのは「これは<革命>を意味するかどうか」ということ。
で、その考えを更に延長させて、「IT革命」について考えてみた。

まず最初に定義しなくてはいけないのは、<革命>とは何かということ。
これは勿論元来政治用語であり、「古い王朝を倒し、新しい王朝を誕生させるということ」。
広義で考えれば、「旧式なものから新式なものへと劇的に変化すること」である。
ここで大切なのは<劇的に変化する>ということである。
たとえば、体制は変わらずに王様の首だけがすげ替えられることを<革命>とは呼ばないということだ。

ずいぶん回り道をした。
本題に入る。
「IT革命」と言う限りは、情報技術の分野において「古い王朝が倒され、新しい王朝が誕生すること」を意味しなければいけない。
しかし、結論から言うと、昨今の情報技術分野における進歩は<革命>と呼ぶほどには変化していないと僕は思っている。

これは以前にもどこかで書いたかもしれないが、現在のインターネットによる情報の流通システムは、大きな意味において<電話と電信>の領域を逸脱したものではない。
その伝達量は格段に向上したが、<電信と電話>の応用に過ぎず、インターネットは<革命>という呼び名には値しないと思う。
つまり、パラダイムという言葉で言うならば、情報伝達のパラダイムは、19世紀後半の<電話と電信>の発明以前と以後に分けられるのだ。
それ以前の伝達方法では、情報そのものが伝達するスピードは、その情報を運ぶもの(人や馬や船や汽車など)によって規定され、その量もそれらが運ぶことの出来る許容量によって規定されていたが、<電話と電信>の登場によって、遠距離間の情報の同時性が初めて成立したのである。
これこそが<革命>なのだ。
そして、僕たちは現在もその時と同じ地平線上にいる。
確かに現在は19世紀末に比べてその地平線上の視野は広がったが、別次元の場所にいる訳ではない。
実は、現代という社会を理解する上で、この認識を持つことはかなり重要なことだと僕は思っている。

ところで、元々の話に戻る。
「Nikon」がフィルムカメラ部門から撤退し、恐らくこれからフィルムカメラというものは衰退の一途を辿るだろう(マニアはいつの時代にも生き残るものだが)。
さて、これは<革命>か?
これもNOだ。
つまり、カメラというものの本質が変わっていないからだ。
銀板からフィルムに変わり、フィルムからデジタル情報に変わったというだけのこと。
これは言うならば、同じ王朝の中で代替わりがしただけのことである。

こうして見ても、<革命>というのはよっぽどのことだ、ということだ。


  2006年1月4日(木) おみくじは「吉」
  「全国の自衛隊基地を田んぼにします」

昨日、「太田光の私が総理大臣になったら・・・秘書田中」という番組の正月特番を観た。
爆笑問題の太田が総理大臣になったと仮定して、様々なマニフェストを提案し、国会議員やタレントや小学生などでその提案について討論し、最終的に投票で議決するという内容。ちなみにその場で可決されたら、本当の国会にも提案するらしい。
その番組の中で、昨日提案されていたのが今回のテーマ。
今回は本題と別件があるので、二つに分けて書くことにする。

まず、本題。
この提案を見た時に驚き、かつ太田光の主張を聞いて更に驚いたのだが、彼が主張していることは僕が普段考えていること(この場でかねがね主張していること)とほぼ同じ内容なのだ。
つまり、武力によって平和を維持しようという考えに対して、武力を持たずに政治の力で平和を築こうという理想を「憲法」は謳うべきだということ。

憲法第9条の2項を改正しようという人たちの中には、その条項が現実の自衛隊の存在に即していないと主張する人が多い。
しかし、それは全く本末転倒の発想なのだ。
そもそも憲法というのは、国のあるべき姿、目指すべき理想を示すものであって、憲法を現実に合わせるのではなく、現実を政治の力でいかに理想に近づけられるかということが本筋なのだ。
すべての議論がそこから始まらない限り、すべての憲法論議に真実は与えられない。

更に、憲法改正を主張する人たちの中に、現行憲法はアメリカ(GHQ)が押し付けたものであるから改正すべきだと主張する人たちもいる。
しかし、これもまた浅薄な主張に過ぎない。
例えば、ソクラテスが語った言葉は、ソクラテスが語ったから真理なのではない。様々な反証を受け、歴史の風雪に晒され、吟味が繰り返されながら、尚も灯りを点し続けるから真理なのである。逆に言えば、ソクラテスが語った言葉の中にも真理ではないものも含まれているし、歴史的に名もなき者が語った言葉の中にも、生き続ける真理は存在するのだ。
つまり、作者などはどうでもいいのだ。
アメリカが作ろうが、日本が独自で作ろうが、内容が真に理想を表現し、人民がそれを具現化するに値するかどうかが「憲法」にとって問題なのだ。

改めて言うが、僕は改憲論者だ。
しかし、僕の改憲論と自民党がまとめた草案とは真逆と言ってもいい。
もし、僕の意見に興味がある方は、この<気になるんや>の2004年4月6日に「第9条の改正私案」、2005年9月12日に「議会制民主主義について」、2005年11月25日に「天皇」について憲法に関連した意見を述べているので、参照してほしい。

続いて、別件。
上記の番組内で、ある小学生が「火薬の爆発音が鳴って初めてみんな平和に気付く」(ちょっとうろ覚え)というような発言をした。これに対して、ある馬鹿な民主党議員が「それは違うよ。もう少し勉強しようね」と言った。
この番組において、国会議員であろうが、タレントであろうが、小学生であろうが、一人の論者である。
それをこの馬鹿な議員は、相手が小学生だからといって完全に<上から目線>でものを言い、相手の意見を尊重しなかったのだ。
こんなヤツはクズだ。

小学生には小学生なりの経験と感覚から生まれた発想があるし、ましてや対等に意見を述べる場所で、反論されるならまだしも、こんななめた言い方をされたら、きっと殺したいくらい悔しいと思う(少なくとも僕ならそう思う)。
討論の場で、存在を抹殺されているようなものなのだ。
この国会議員はきっと自分が国会議員だから偉いと思っているのだろうが、この程度なのだ。

もう一人の自民党の国会議員(元プロレスラー)は、「自衛隊をなくして、武力ではなく政治の力で平和を築く」という意見に対して、「そんなの不可能だ」と叫んだ。
政治家が、ひとつの意見に対して賛成か反対かではなく、可能か不可能かの判断をなんの根拠もなく述べるとはどういうことか。
政治家というのは、社会の理想を現実化するために存在しているのであって、初めから「不可能」というのであれば、政治家なんて辞めればいいのだ。
彼はなんの為に体中を傷だらけにして四角いリングで闘って来たのだろうか?
彼もまたクズだ。

新年早々、また長々と書いてしまった。
今年もこんな調子でやっていく。