just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2005年6月26日(日) 部屋にいて蚊に刺され始める
  革命

中学から高校の頃、僕はよく<革命>という言葉を口にした。
それは<共産主義革命>のことではなく、もっと抽象的な意味での<永久革命>のことだったんだと今になったら分かる。
今、再び<革命>という言葉が頭に浮かんできたので、この限りなく死語に近い言葉について語ってみたい。

サラリーマン大増税時代だという。
政府税制調査会会長がその調査内容(給与所得控除を圧縮し、配偶者控除や特定扶養控除を廃止しようというもの)を発表した時、彼は半笑いだった。
その半笑いの真意が何処にあるのかは分からないが、これが日本以外の国で行われたら、ほぼ間違いなく暴動かテロが起きているだろうなぁと思いながら僕は観ていた。
この国の国民は、もしかしたら<とても裕福な奴隷>なんじゃないかとふと思った。

よく言われるように、歳入ではなく、歳出の見直しからというのは当然であるが、例えば現在の国家予算を根底から覆し、国家公務員を激減させ、あらゆる公共事業を停止し、各省庁を廃止し、超緊縮財政を行う勇気がある政府が誕生する可能性があるかと言えば、ほぼ0に近いだろう。
なぜなら、本当の意味で国民みんながそういう劇的な変化を望んでいないからだ。

それは世界観の問題で、この頃よく思うのは、目の前の世界と向き合った時に、「これが世界なんだ」という受動、「こんな世界は認められない」という否定、「これが世界なら自分から関わりたくない」という逃避ーどれも決して間違っていないのだということ。問題は、このうちのどれか少数派に入ってしまえば、必ずより大きなストレスを社会から受けることになるということだ。

たとえば東京の街を歩いていると分かるのだが、大通りはビルという巨大な壁によってほとんど塞がれている。
それを観ながら、僕は時々「これは一体誰が望んだ世界なんだろう?」と思う。少なくとも僕は何車線もある大通りも高層ビルも望んではいない。
僕が住んでいるアパートは4畳半・風呂なし・トイレ共同だが、それでも家賃2万4千円する。確かに絶対値としては安いけれど、もし<家賃>というものが存在しなかったら、その分で牛丼何杯食べられるだろう。
「ここは地球なのに、どうして暮らすのに家賃を払わなければいけないんだろう?」と僕は時々思う。
以前にも書いたが、<ニート>と呼ばれて現実逃避している人たちやあるいは世界そのものから逃避する<自殺者>は、他の価値観を持った人たちからどうして否定されなければいけないんだろう?
戦争というものを考える時、「どうして自国民を守って他国民を殺さなくてはいけないんだろう?」と僕は思う。どうしてもそういう状況に陥ったなら、まず殺すべきは国家であり、国なんてなくなったっていくらでも交換可能であり、人の命は交換できないというのに。

<革命>は、多くの人たちから望まれなくなったから歴史の舞台の隅っこに追いやられた。
人気のなくなった役者のようなものだ。
このまま消えてしまうのか、いつか歴史の舞台に再び登場することがあるのか(あるとしてもどれ位のスパンでか)、僕は知らない。
けれど、少なくとも僕の心の中ではずっと生き続けているということは、宣言しておいてもいいと思う。
形を変えながら、細々とだけれど。


  2005年6月21日(火) さんざんな一日
  僕が動物を嫌いな理由

ということについて、実は余り考えたことがなかった。
「生理的に嫌い」というのが理由かなと、今迄は漠然と思ってた。

昨日、ある人から電話で「猫を飼わないか」と言われた。
その人は、勿論僕が動物を嫌いだということを知らなかったのだが、「そのアパートは動物を飼えるのか」と尋ねてきた。
僕自身最初から全くそういう気持ちがないから、アパートの貸借約款にそのことについてどう書いてあるのか知らないし、考えたこともなかった。
勿論お断りしたのだが、電話を切った後「僕はどうして動物が嫌いなのか」と改めて考えてみた。

臭いが嫌い、毛むくじゃらなところが嫌い、うるさいのが嫌い等々幾つか<生理的な>理由もあるし、小動物を「かわいい」と感じたこともないというのもある。しかし、よくよく考えてみると、一番大きな理由は、そういう奴らが「自分のテリトリーにズカズカとお構いなしに入ってくるから嫌い」なのだと分かった。

動物園の動物や籠の鳥は、完全にテリトリーを分けて暮らしているから、まだいい。
ところが、犬や猫などは特にそうなのだが、勝手に足に纏わりついてきたり、体を引っ掻いてきたりする。
あの傍若無人さが嫌なのだ。
じゃあ、「好きな人は?」「自分の子供は?」ということになる。
結局初めに<愛>があるかどうかなんだなぁ。

うーん、問題の始発点に戻ってしまった。


  2005年6月18日(土) 看護女子寮を点検
  南海キャンディーズから人類の欲望の行方

最近お笑いの南海キャンディーズが気になっていて、インターネットで検索して色々調べていたら、「山里(立ち位置・向かって左の眼鏡の男)のツッコミ」に関するページがあった。それは、恐らくテレビで放送された南海キャンディーズのネタのすべてから山里のツッコミの部分だけをピックアップしたもので、そのツッコミの斬新さとページを作った人の着眼点と努力(根性?)に僕はちょっと感心した。
もしもこれがインターネットのない時代だったら、ビデオテープを何度も再生しながら、きっと独りでノートかなんかにしこしこ書き留めて、せいぜい周りの友人で回覧するくらいだったのではないだろうか。
ところが今ではインターネットによって、不特定多数の、その作成者のことをまるで知らない人間までそのマニアックな情報に触れることが出来るのだ。「今更何を当たり前のことを・・・」と思われるかもしれないが、僕はそれをきっかけに人類の欲望の来し方行く末について考えてみた。

生命の本質的な欲望について語ろうというのではない。
「個々の生命はDNA(RNA)の運び屋に過ぎない」というような言い方が昨今流行っているが、それはそれでいいし、そういう大きな流れはきっと人類だけの問題ではないだろう。
そうではなくて、人類という種の問題を考えてみる。
しかも、<進化>の問題でもなく、<進歩>の問題として。

・音声表現の細分化→文字の発明→紙の発明→印刷技術の発達→電話の発明→映像技術の革新

これは、大雑把ではあるが、人類のひとつの欲望の方向性を示すもので、つまり、情報伝達の量とスピードの<進歩>である。

・徒歩→馬(手漕ぎ舟)→蒸気機関(エンジン)

これもまたすごく大雑把ではあるが、人類の別の欲望の方向性であり、移動の量とスピードの<進歩>である。

つまり、人類はある時期から劇的に<進化>はしていないが、<情報伝達>と<移動>の分野において劇的と言っていいような<進歩>を遂げてきた。
ここで大切なことは、これらの<進歩>は、人類が全員集まって「こういう方向に進歩していこう」と決議した訳ではなく(当たり前だが)、結果としてこういう方向に向かったということであり、つまり、これが人類の欲望の底流に流れる方向性だったと言える。そして、今も勿論まだその<進歩>の過程にあるということだ。

人類がいつ次のパラダイムへシフトするのか知らないし、僕はそんなものに興味はない。
この<進歩>が生命というものの大きな欲望の流れに沿ったものなのかどうかということにも、興味はない。
ただ、今僕もこの大きな流れに流されながら、この流れを見渡しつつ、「人類はつまり、とても淋しがり屋なんだな」とふと感じた。
これは詩である。大袈裟に言うなら、僕と人類の詩である。
僕が興味があるのは、ただそれだけだ。

南海キャンディーズのことから、随分遠くまで歩いて来てしてしまったなぁ。


  2005年6月5日(日) アパートの廊下が何故か<田舎>の匂いがした
  「泣いて馬謖を斬る」を斬る

これは三国志から生まれた有名な諺。
蜀の丞相・諸葛孔明が、功績のある臣下であり、自分の後継者として可愛がっていた馬謖を敗戦の責任者として軍紀に従って死罪にし、そのことを嘆いたことから、「規律を守るためには私的感情を捨て、罰すべきは罰する」という意味として使われている。

先日石原都知事が古くからの腹心である浜渦副知事を解任した時に、自分の気持ちをこの言葉を使って表現していた。
事実上の実権を握り、傍若無人に都政を牛耳っていた浜渦副知事の<増長>を最後までかばいながら、石原都知事はそういう状況を諫めなかった他の副知事たちに責任転嫁さえするような発言までしていた。
更に、その浜渦副知事を任命していた責任について記者に問われた石原都知事は、逆ギレしながら「やめるつもりは毛頭ない」と言ったらしい。

実は、この「泣いて馬謖を斬る」という諺の起源にも同じ問題が含まれているのだが、上に立つものが部下に責任を負わせ、その部下を重要なポストに任命した自らは責任を取らないという姿勢は、この諺の<裏側の本質>でもある。
この諺を使う人間には、恐らくそういう体質が染み付いているのだ。

個人的に言うなら、石原慎太郎という無能で傲慢な人間が「次に総理大臣になってほしい人」に毎度毎度上位ランクインすることが僕には全く理解できない。他に誰も思い浮かばないのだろうか。


  2005年6月2日(木) 「やさしい訴え」を読み終える
  ニート〜「國破山河在」の新解釈〜

昨日の深夜テレビを観ていたら、国会議員が「ニート課税法」というのを提案し、それに対して政治に無関心ぽい(?)若者たちと議論をした後、その若者たちに多数決でその法案を判断してもらうという内容だった。
どうして世間は<ニート>をそんなに悪く言うのか?
昔風のの言い方をするなら、「親の身上を食いつぶしてる」だけじゃないか。
食いつぶせる身上があるなら、どんどん食いつぶせばいいのだ。
食いつぶされた後の荒野に咲く花もあるのだ。

番組の中で国会議員が述べていた<ニート>に課税する理由というのが、<ニート>が増えることによって税収が減り、それは国益(またもやこの馬鹿げた言葉!)に反するというものだった。
まず、<ニート>であろうがなんであろうが現行では少なくとも直接的にであれ間接的であれ消費税を払っていることは確かである。それに、もしも働かないことが罪であるというなら、年齢に関わらず、年金生活者にも課税するべきだ。どうして年齢によって人の人生のあり方を国が指図しようとするのか。30歳は働かなくてはいけなくて、70歳は働かなくていいなどという勝手なことを国家が決めることなど許されてはならない。

馬鹿な国会議員に憤りながら、彼と僕とは根本的な考え方において何が違うのか考えてみた。
で、結論を言うと、結局国家観の違いなのだ。
彼はまず「国ありき」という発想をしている。
僕はそれこそが重大な誤りであり、僕たちが歴史から学ぶべきことはまさにそれなのだと思っている。

ローマ帝国は滅亡した。
けれど古代ローマ人が滅亡したかと言えばそうではない。
清王朝も滅亡した。
けれど中国の人民は辮髪をやめただけで、あれからもずっと生き続けている。
ソビエト社会主義共和国連邦が崩壊しても、ロシア人もクロアチア人もウクライナ人もセルビア人も存在している。
すごく身近なことで言っても、大日本帝国は滅びたけれども、こうして日本人はこの土地で脈々と暮らし続けている。
それこそが歴史が教えてくれていることなのだ。

「國破山河在」とは唐代の詩人・杜甫の有名な詩の一節だが、この一節の本来の意味は、長安の都が破壊され、後には山河だけが残されているというものだ。
しかし、今我々がこの詩句から学ぶべきことは、国(ある王朝やある制度)が滅びたとしても、そこには自然(「山河」)も含めてその土地の営み(人々の暮らし)があり続けるのだということである。
つまり、国家などはいくら滅びても構わないのだ。
大切なのは人々の営みであり、それ以外の何ものでもない。
<ニート>が増えて、この国の税収が減少して借金だらけになってどうしようもなくなったら、国家的な事業、国家公務員を劇的に削減すればいいのだ。
その結果として他国に滅ぼされるか、自滅するか、革命が起こるかそれは分からない。
たとえそういうことが起きたとしても、人民というものは、そんなことで絶滅するほど脆いものではないと、これも歴史が教えてくれているのだ。


  2005年5月30日(月) 歯の治療が終わる
  続・戦争を続ける日本人

フィリピンのミンダナオ島で元日本兵が生存しているという話はどうやら金目当ての作り話のようで、でも、おかげで沢山の方々の戦争体験談を聞くことが出来て、そういう意味で戦後60年にぴったりの話題だったと思う。報道の馬鹿げたから騒ぎぶりがちょっと面白かったし、もしかしたら本当に生き残っている可能性もまだあるし、フィリピンの国内事情も分かったし、様々な面で勉強になるニュースだった。

前回の文章を書いて以来、<平和>ということについて考えていた。
どこの宗教団体がやっているのか知らないけれど、時々家の壁に「世界が平和でありますように」と書かれたプレートが貼られているのを目にすることがある。すごく抽象的な表現であり、ある種の洗脳なのかもしれないが、余りにも掴みどころがなさ過ぎると以前から感じていた。
では、具体的に<平和>のために何をするべきか。
喜納昌吉が言うように「すべての武器を楽器に!」というのもひとつである。つまり、人を殺すためのあらゆる武器を廃棄すること。
そして、もうひとつ、これは今回の出来事からの発想だが、職業軍人をこの世から失くすこと。
ここで言う職業軍人には勿論自衛隊員も含まれる。
もし、日本国憲法を改正するのなら、以上の2点を是非加えてほしい。そういう意味で僕は改憲論者である。

そう、これは<平和>のための理想である。
けれど、「世界が平和でありますように」という実のないスローガンよりもずっと具体的な理想である。
戦争はそれだけで始まるものではないことも分かっているし、<平和>というのは単に<戦争がない状態>を表すだけの言葉ではないことも分かっている。しかし、具体的に戦争の手段をひとつずつ減らしていくことが、具体的な意味での<平和>に近づくことではないのか。

こんな時僕は何故か頭の中ではっぴいえんどの「さよならアメリカさよならニッポン」をうたっているのだが。


  2005年5月28日(土) アラーキーの写真集を買う
  戦争を続ける日本人

今日の時点では、フィリピンのミンダナオ島で生存しているという元日本兵と日本政府の役人とは直接コンタクトが取れていないが、ここ2、3日<元日本兵生存か!?>というニュースで持ちきりである。
このニュースに関連して1970年代にグアム島とルバング島で発見された元日本兵の横井さんと小野田さんの映像も報道番組の中で何度も使われていた。どちらのニュースも僕自身の幼少期の記憶として鮮明であり、日本がかつて戦争をしていたことを僕自身そのニュースによって初めて知ったのかもしれないと今になって思った。
それはさておき、今回のニュースを横井さんや小野田さんのことと関連付ける報道は多いが、それよりもイラクで人質になった(今日のニュースでは殺害された映像がインターネットで流されたという)元傭兵の斉藤さんの事件の方が強く結び付いているように僕には感じられる。
というのは、彼らが共に<今も戦争を続ける日本人>だからである。
実は斉藤さんの事件を聞いた時に、何がショックだったと言って、そのことが何よりもショックだった。
元日本兵の方々に関してはまだ伝聞情報の段階だが、戦後ずっと現地のゲリラを指導してきたという。これがもし現地で漁師をしながら生き延びてきたということなら僕は少しも驚かなかった。しかし、好んでか仕方なしにか分からないが、彼らはずっと<戦争(少なくとも戦闘)>の中に身を置いてきたのである。これは自ら進んで傭兵になって戦っていた斉藤さんと同じである。
確かに日本にも自衛隊という軍隊はある。しかし、あれは少なくとも現在の日本では<バーチャルな軍隊>だと僕は思っている。何故なら、本気で戦争をしたいと思っているなら自衛隊などに入隊しても無駄だからである。
横井さんも小野田さんも戦後30年に亘って<孤独な戦争>を続けてきたと言えるのかもしれない。けれどあの二人の場合、<戦争>を続けていたというよりも<サバイバル>を続けていたと考える方が正しい認識だと僕は思うし、少なくとも彼らは日本兵として大東亜戦争を戦い続けていたのだ。
しかし、斉藤さんも今回のニュースで注目されている方々も、<今の戦争>を自分の意思で戦っているのである。
<日本>が戦争をするということはすごく現実味が欠ける想像だが(ぬるいですか?)、<日本人>が戦争をしているという現実に対して、僕は危機感を覚えてしまう。これこそ個人の問題なのだろうが、国家が行う戦争というものの責任は、一部の指導者だけでなく、国民一人一人に還元されるのだと僕は思うのだ。逆にいうなら、国民一人一人の戦争に対する認識が、国家へと演繹されるのだと思えてならない。
確かに斉藤さんと元日本兵の方々とは立場が違うし環境も違う。しかし、どちらにしても人を殺すことを正当化して生きているのだ。
僕はただその一点だけで、彼らと、そして同じように考えている人たちと、完全に立場を異にしているのだ。


  2005年5月25日(水) サーゲイロードのクロスに注目中
  「それが何なのか分からない」

今週号の「週刊将棋」によると、19歳の吉田正和さんという方が今期の朝日アマ名人になったという。
朝日アマ名人史上初の10代だそうだ。
ここまで聞いて、それがいかに画期的な出来事なのかを分かる方はかなりの将棋通か想像力の豊かな人だ。

では、答え。
将棋界には奨励会制度というのがあって、才能のある子供は小学生の頃からそこに入り、プロ棋士を目指す。
だから、10代でアマ名人を取れるほどの実力があれば大抵その道を歩んでいるのだ。
今のアマチュアはレベルが高く、元奨励会員で現在はアマチュアのトップとして活躍している方も沢山いて、その中でアマ名人になるのは至難の業である。
だから、奨励会にも入らず、そんな実力のある10代のアマチュアがいることは、本当に例外的なことなのだ。
ところが、その吉田さんも今から奨励会に入りプロを目指すという。プロを目指すのには遅いスタートだが、アマ名人を取った後のコメントが「朝日アマ名人のタイトルは興味がありません」というふてぶてしいものだったことからも、かなり無頼派的な臭いがする。色々な人生があるということだ。

彼が「将棋とは何ですか」という問いに答えて、「将棋は常に目の前にあるもの。しかしそれが何なのか分からない」と語っていた。
目の前にあり、それが何なのか分からないもの。
とても哲学的な答えである。
しかし、将棋に限らず、何か対象物(あるいは人でも)と真剣に向き合い、ぶつかり合い、絡み合う時、結局「それが何なのか分からない」というのは素直な答えではないかと思う。
「何なのか分からない」ままに、そういうものが人生を彩っていくような気がする。
「何なのか分からないもの」はもしかしたらその対象物ではなく、そこに投影されている自分自身なのかもしれない。

ともあれ、吉田正和という名前を頭の隅に刻み込んでおこうと思った。


  2005年5月25日(水) 若干膝が痛い
  あのポーズの意味

中国の呉儀副首相が小泉総理との会談をドタキャンして中国に帰った。
急な公務であるという当初の発表を覆して、「靖国問題」に対する発言などにより会談する雰囲気ではなくなったというのがその後の中国側の発表である。

日本の政治家、マスコミはこの問題について<非礼>であるという。それは正にその通りである。人間一個人のレベルにあっても、ドタキャンという事態を許し得るのは余程の緊急時であろう(親族の急逝など)。仮にそういう事情があったにせよ、ドタキャンした側は、今後も友好関係を保ちたいなら誠意をもって謝罪すべきである。さもなくば、ドタキャンした側とされた側の人間関係が破綻しても仕方ないような行為であると僕は考えている。国家間でそれが行われた訳だから、たとえば極端に言えば国交断絶などということが起こり得てもおかしくない。日本はそれほど強気の姿勢を取らないと分かっているからこそ出来た行為だと思うが。もしも逆に小泉総理の側からドタキャンをしたら中国はどんな反応をしていただろうか?全力を挙げて日本を非難したのではないだろうか?誰かも同じようなことを言っていたが、中国は常に自分が最も正しいと考えている<ガキの国家>なのだと思う。それを中華思想と呼ぶのか?

その渦中の人物・呉儀副首相が中国へ帰国する時の映像をニュース番組で見た。飛行機のタラップの上で、両手を高々と掲げて頭上で組んで見せたのである。このポーズは、二つの国(勿論日本と中国)の友好を意味するのではないだろうか?僕にはそれ以外にあのポーズの意味するところが思いつかないのだが。もしそうだとしたら、なんと空しいパフォーマンスなのか。たとえ帰国命令が中国政府の上層部から出ていたとしても、それならそれとして静かに帰ればいいんじゃないだろうか。「私は今は帰るけれども、両国の友好関係は変わらない」ということを表現したかったのかもしれないが、それがたとえ本心であれ、やはりあのポーズに真実は感じられない。というか、本質的な意味で国家間に友好関係などというものは存在しないんじゃないだろうかとさえ思った。国家の外交というものが、小生意気なマスコミが言うように常に戦略的意識の上に立つものならば、<友好>なんて言葉は金輪際使わなくていいのではないか。<友好>というのはどんな民族とであれ、個人レベル交わされる言葉のような気がする。

余談になるが、「靖国問題」に対する韓国や中国からの批判を<内政干渉>と呼ぶ日本人がいるが、これは国語的に言えば0点である。辞書的な意味で言うと、内政干渉というのは【他国が、ある国の内政問題に強制的に介入し、主権を侵害すること】である。たとえば、日本人全員が靖国神社に参拝しなければならないという法律があり、それに対して近隣諸国が批判するならそれは<内政干渉>だろう。ところが、日本の首相や国務大臣が靖国神社を参拝するのは、決して<内政問題>ではない。立場がどうあれ、個人の問題である。つまり<内政干渉>ではなく<個人への干渉>なのだ。逆に、日本政府が、毛沢東を崇拝する中国の首脳に対して、あれは大虐殺者だから毛沢東の写真を家に掲げるのはやめるべきだと言ったとすれば、それはやはり<個人への干渉>になる訳だ。
ちなみに僕は靖国神社の前を何度も通ったことはあるが、一度も参拝したことはないし、今後も参拝するつもりはない。これはこれで、やはり個人の問題である。


  2005年5月19日(木) 喫茶店のカレーが美味い
  横ばい

これは軽いネタ。

先日新聞を読んでいたら、ここ10年の飲料水の売り上げのグラフが載っていた。
炭酸系や野菜ジュースなどが伸び悩む中、お茶系の飲料が断トツで伸びていた。
次にそのお茶系が細かく分類され、烏龍茶系、紅茶系、混合茶系などが少し売り上げを減らしている中、緑茶系飲料だけが異常な伸び率で売り上げを増やしているグラフが載せられていて、そのことを記事にしていた。
けれど、僕が最も気になったのは、そのグラフの中、ここ10年間増えもせず減りもせず、他のどの種類からも圧倒的に引き離されて横ばいの低空飛行を続けている飲み物のことだ。
そう、僕らの<麦茶>だ。
きっと<麦茶>にはブームもないかわりに、廃れるということもないんだなと思った。
この横ばいのグラフを僕も支えている一人なんだと思うとなんだか感慨深く、「頑張れ、そして、頑張るな、麦茶!」と心の中で叫んだのだった。


  2005年5月19日(木) 昨日の夕立の後、虹を見た
  常任理事国

この国は何処へ行こうとしているのか?

国連安保理常任理事国入りのために、この国は最近活発に外交活動を続けている。
現在の5ヶ国(アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランス)に加えて、日本、ドイツ、ブラジルが新たに常任理事国入りを狙っているという。
そして、それはこの国の国益のためであり、この国のこれまでの国際社会での働きは常任理事国入りに値するのだという。

本当にそうなのだろうか?
まず根本的な問題は、<常任理事国>というものが必要なのかどうかということ。彼らは第2次世界大戦の戦勝国という枠組みの中で存在し続けている。彼らが<常任理事国>という特権を持ち続ける根本的な必要性というものは、戦後60年経った今、本当にあるのだろうか?もしもないのだとしたら(僕はないと思うが)、あくまでも理想的な形を言うなら、<常任理事国>という枠組み自体を廃止するべきではないのか。確かに国連安保理からアメリカが抜けた場合の問題は現実的には大きいだろう。しかし、本当に健全な国際社会を作るというのが国連の目的だとしたら、安保理の理事国は常に改選されるべきである。日本がそのための運動を起こすのなら、僕は賛成する。(これは以前に書いたかどうか忘れたが、21世紀の世界の課題は、アメリカという国をいかに解体し、セーフランディングするかということだと僕は思っている)
もうひとつ。この問題を語る時、<国益>という言葉がよく使われるが、本当の意味の<国益>とは何か?それが単に日本という国にとって利益になることを意味するなら、こんな国滅びればいい。たとえば、世界中から武器を失くすための運動を展開し、その結果としてこの国も武器を一切持つ必要がなくなったというなら、それは意味のある<国益>なのだろう。国連という舞台において日本の地位が向上すること、日本の発言権が増大することによって、真に国際社会が改善されるだけの理想をこの国が持っていない限り、<国益>などという言葉を使うこと自体おこがましい。それは、例えば<個人と社会>という関係で考えても同じことだ。<理想>を持たない個人が社会のために役立つ訳はないし、個人の利益を考えることがそのまま社会に還元されるとはとても思えない。そして、実際に今、この国が理想とする世界像というものが見えないのは、憲法論議を聞いていても分かるし、前述した通り、常任理事国の解体を考えないところからも分かる。

<理想と現実>という。
政治が<現実>を調整する必要があるのは、あくまでも<理想>へ向かうためだけであるべきなのだ。
<理想>のない<現実>調整としてしか機能していない政治というのは、愚者の蛮行にしか過ぎない。
この国が戦後60年かけて覚えたことは、たぶんそれだけだ。


  2005年5月5日(木) 僕自身5連休の最終日
  あえて、<スケープゴート>をかばう

かつて、つかこうへいの芝居に「あえてブス殺しの汚名をきて」というのがあった(僕は観たことがない)。
素晴らしいタイトルだなぁと思いつつ、「あえて何かをする」ということの意味について考えたものだった。
また<吊るし上げ>が始まった今、あえて僕の想いを綴る。

今回の福知山線の事故のことである。
「たとえば」ということを通して一つ一つ検証したいと思う。

たとえば、あなたが医者だとする。目の前で沢山の人が事故に遭って傷ついているとする。しかし、あなたには今日手術の予定が入っていて、あなたがその手術を行わなければ助からない患者がいるとする。あなたは目の前の怪我人を助けますか?それとも目の前の怪我人を見捨てて自分の仕事に向かいますか?
たとえばこういう設問があった時、何が正解なのだろうか?
今回の事故で現場を離れた運転士を報道は責め立てている。けれど、たとえば警察も救急隊もレスキュー隊も来ていて、あなたがいなければ電車が動かないという現実があった時、あなたが本当に取るべき行動とは何か?
彼らを責める権利がある日本人がどれだけいるのか?

たとえば、あなたが普段から福知山線を利用しているとする。この日たまたま時間をずらしたことによって命が助かったとする。で、今日はあなたのかわいい子供の誕生日だったとする。あなたは被害者のことを考えて子供の誕生日のお祝いを自粛しますか?
たとえば、日航機墜落事故というのが過去にあった。たとえば、あなたはあの事故の直後に結婚式を控えていた日航の職員だったとする。もう既に結婚式場も決めているし、親族や友だちに結婚式の招待状も送っているとする。あなたは事故の遺族に配慮して結婚式を延期しますか?
今回の事故の直後にボーリング大会が行われていたという。それを非常識だと報道は責めている。
誰が加害者かと考えた時、JR西日本の職員全員を加害者のように報道は扱っている。会社の体制の問題は全職員の問題だと。もし、本当に想像力というものを問うなら、これは日本国民全員の責任じゃないのか?会社人間を産み出す体質、時間に正確なことを重んじる体質、過度な都市集中、フレキシブルタイムの導入率の低さ、それらすべてが少しずつ要因であるとしたら、日本国民全員が喪に服さなければいけないんじゃないのか?

たとえば、遺族会を作りたいから遺族の名簿を見せてほしいとおっしゃっていた遺族の方がいた。これを「プライバシーの問題」があるからとJR側が断わったことに対しても報道は責めていた。しかし、これは当然の措置である。プライバシーは何より優先されるべきである。今回の被害者の方の中にも「匿名希望」とされていた方が何人かいらっしゃった。これは当然の権利である。遺族会を作ること自体は決して悪いことではないし、保証を受ける権利をちゃんと主張するべきだし、謝罪を要求するのも当然である。しかし、何もかもが許されるわけではない。プライバシー保護の問題と混同してはならないのだ。

たとえば、JR西日本の会見に対して、居丈高に怒鳴っていた報道記者がいた。あなたは何様ですか?あなたがもしも報道を職とするなら、被害者の側にも加害者の側にも立たず、正確な事実を伝えることだけが使命なのではないか?JR西日本に対して「社長を出せ」とか「なめるな」とかいう権利がどこにあるのか?あなたはやくざですか?あなたがどちらかの側に立って何かを書きたいのならば、報道としてではなく、エッセイストとして書けばいいのだ。僕はあなたを報道記者として決して認めない。

以上のようなことを今回の報道の中で僕は感じた。
日本という国は、戦前・戦中となんら変わりのない<村社会>であり、かつ学校や会社におけるイジメの体質はここにも如実に現れているのだ。誰かがひとつのもの(ひとりの人)を叩き出したら、みんなで寄ってたかって叩くのだ。そこにはそもそも<正義>なんてかけらもなく、ただ、<叩くもの>と<叩かれるもの>という二項対立があるだけなのだ。

僕は以前(2004年11月2日の<気になるんや>)に「被害者は正義ではない」という文章を書いた。
その時と全く同じ気持ちである。
大きく報道されていないが、死体が安置されていた体育館で、遺族の方がJR西日本の職員を殴ったという出来事があったらしい。僕はこのことの方が許せない。これを放置するならば、すべての日本人は中国人や韓国人に殴られ続けても仕方ないことになる。
改めて言う。
被害者は正義ではない。
これは勿論遺族の方々の悲しみや無念も想いつつ、それでも<あえて>言っているのだ。
ある遺族のお母さんが、「私は息子の死をこれから背負って生きていきますけれど、運転手さんの遺族の方はこれから107人の死を背負って生きなければいけない。もし伝えられるなら、私の息子は恨んでいませんよと伝えたい」とおっしゃっていた。
この慈しみ深い言葉こそ今回学ぶべきことであり、本当にこういう事故を今後なくすためには、日本という国そのものを改革する覚悟を全国民が持つべきだと思う。
それはただJR西日本を<スケープゴート>にすることによって解決されるような生易しい問題ではない。
あなたにその覚悟がありますか?

僕の声はとても小さいけれど、誰かに届いたらいいなぁと思ってこうして書き続けている。
あなたはどう思いますか?


  2005年4月27日(水) 日給が今月から300円上がった
  オンライン・ハンティング

この言葉を今朝初めてニュースで聞いたのだが、一瞬なんのことやら分からなかった。
で、よくよく聞いてみると、あまりにも愚かしいその実態が分かり、今日は一日中このことについて考えていた。

アメリカでは、かの悪名高き「全米ライフル協会」を例に出すまでもなく、ハンティング(狩猟)が今でも盛んらしい。
で、オンライン・ハンティングというのは、森の中の小屋にライフル銃が備え付けられていて、パソコンから信号が入信すると自動的に引き金が引かれる仕組みになっているのだ。
つまり、遠く離れた場所で、森にも入らず、銃も持たず、獣から襲われる危険にもさらされず、パソコンのマウスをクリックするだけで、現実の獲物を撃ち殺すことが出来るのだ。
報道によると、アメリカの各州はこの「オンライン・ハンティング」を禁止する方向に向かっているということなのだが、このニュースを聞いた時、僕は正直ぞっとした。
たとえば、ちょっと想像したら分かることだが、ライフルを森ではなく、大都市のビルの窓から通りに向けて備え付けたらどうなるだろうか?世界中の誰とも分からない人がマウスをクリックするだけで簡単に人を殺すことが出来るのだ。
オンライン・ハンティング−これが「便利」というものの覆面を剥がされた正体なのだ。

こういうものを目の前にした時、僕たちに最も必要なのは想像力である。
たとえば、グラハム・ベルが発明した当時の電話と今のブロードバンド化されたインターネットが結局同じ地平線の上にあるのと同じように、オンライン・ハンティングと原爆も同じ「便利さ」という地平線の上にあるのだということ。
危険なのは、個々のものや出来事ではない。
ひとつの地平線で繋がれているのにも関わらず、まるで別もののような顔をして次々と登場する<狂気>を受け入れてしまうこと−想像力の欠如こそ、最も危険を孕んでいるのだ。


  2005年4月26日(火) 平日の連休
  ささやかな、けれど確かな救い

JR福知山線で大きな事故が起きた。
これを書いている今現在もまだ1両目に閉じ込められた方がいるらしい。
事故に対する感想や意見など、僕が書くべき言葉もないのだが、事故原因について、被害にあった方々の様子、今後の安全問題など、様々なことが報道されている中、心に残った報道がある。

それは、事故直後、列車に閉じ込められた方たちのうち、軽傷の方たちが助け合って重傷の方たちを助け出したということや、事故現場の近所の方たちが病院への搬送のために自家用のライトバンを出したり、ペットボトルの水を持ってきて被害者の方々にあげていたりしたこと。
それは当たり前のことかもしれない。
けれど、その当たり前のことがちゃんと当たり前のこととして行われているという現実に僕は感動した。
阪神大震災の被害があった地域だったからかもしれないが、僕はきっと日本中何処でもこうであるということを信じたい。
ボランティアなどという遠回しな言葉を使うまでもなく、日常に秘められた優しさがそこには確かにあった。


  2005年4月24日(日) 日曜日でバイト
  自殺

今朝たまたまラジオの「子供電話相談室」を聞いていたら、友だちが交換日記に「死にたい」と書いてきたのだが、どう返事をしたらいいか分からないという女の子からの相談があった。
解答者の大人たちは様々な意見を述べていたが、僕はそれを聞きながら<無力感>に包まれていた。
それで「自殺」ということについて考えてみた。

僕が高校1年生の時の現代社会の夏休みの宿題は、「夏休みの間に起こった気になった事件の新聞記事をスクラップ」するというものだった。
僕はその当時何を思っていたのかよく思い出せないが、夏休みの間に自殺した人たちの記事をスクラップしたことを覚えている。
いずれにせよ、「自殺」ということに僕はなんらかの関心を持っていたのだろう。
それから20年以上の時が経ったが、僕が「自殺」という行為に対していつも感じるのは、<無力感>なのだ。

それは、本当に自殺したい人に対して、僕自身がその人を自殺から救うための言葉(力)を持っていないという確信に近い自覚から来る<無力感>と、もうひとつ、自殺をさせないことが正しいことだという確信を持てないことに対する<無力感>なのだ。
「命は尊い」とか「命はひとつしかない」とか「悲しむ人がいる」とか「いずれ死ぬのだから死に急ぐことはない」とか「今は苦しくてもいつか楽になる時がある」とか、そういう類の言葉をよく耳にするけれど、どれもこれもこれから死のうとする意思を持っている人にとって説得力のある言葉だとは僕にはとても思えない。
自殺というのは勿論エゴである。しかし、自殺を引き止めるのも引き止める側のエゴでしかないと僕は思う。
恋愛で、どうしても別れたいと言う最愛の人を引き止めようとする行為と、自殺しようとする最愛の人を引き止めようとする行為はどう違うのだろうか?

生きるということは素晴らしい。
僕はいつもそううたっている。
でも、僕は「死んではいけない」とはうたえない。


  2005年4月21日(木) 夕暮れの散歩
  マナーとルールと犯罪

大阪の地下鉄・日本橋駅で、ホームから線路に人が突き落とされるという事件が起きた。
点字ブロックに荷物を置いていた人に注意したところ、注意を聞かなかったので突き落としたと容疑者は供述しているという。
被害者の方は電車には轢かれなかったものの、落とされた時に頭蓋骨骨折したという。
この事件のことを聞いて、普段僕が考えている問題にぴったり当てはまることに驚いた。

ここでは仮にこの容疑者の供述が事実だと仮定する。
だとしたら、この被害者は点字ブロックに荷物を置くという重大な過ちを犯している。
これはどうなのか?
僕は容疑者が被害者を突き落として当然などとこれっぽっちも思っていないが、点字ブロックに荷物を置くという行為を「マナー違反」と軽く見るのか、「ルール無視」と警告すべきなのか、「犯罪」として処罰されるべきなのか、それが曖昧にされているのが問題なのだと思っている。
これは僕がいつも言っている公共の場での携帯電話の問題や喫煙の問題なども含めて、どういう風にすべきかはっきりさせなければいけないと思う。
こういうことを曖昧にしておくのが日本人の美徳などという時代はとっくに終わっているし、そうでなければ、この類の事件はこれからも続くだろう。

僕個人の意見を言うならば、公共の場で他人に迷惑を掛ける行為は、明らかに「マナー」という領域を超えていると思う。
最低でも、軽犯罪法で処罰の対象とするべきである。
たとえば、携帯電話に「マナーモード」というのがあるらしいが(僕は持っていないので噂しか知らない)、この言葉自体おかしい。こういう曖昧な言葉が、「別に構わないんじゃないか」という甘い意識を生み出すのだ。

犯罪についてはまだまだ語りたいことがあるが、また別の機会に。


  2005年4月18日(月) 朝からフォークジャングルの作業
  「愛国無罪」

ライヴドアVSフジテレビ問題の後を引き継ぐように、韓国や中国各地で反日デモが繰り広げられているというニュースが、連日のようにトップニュースとして取り上げられている。
アジア現代史の問題、現在の世界経済の問題を含んだ複雑さの中で繰り広げられている過激なデモの映像を観ながら、それでも僕はこれはとても単純な問題なのだとしか思えない。

まず結論を言う。
暴力は絶対に許されてはいけない。
それだけだ。
これはたまたま小泉首相と意見が重なっているのだが、デモはいくらでもやればいいし、主張するべきことはいくらでも主張すればいい。更に言うなら、日本製品を買いたくなければ買わなければいいし、日本人と付き合いたくなければ付き合わなければいい。
ただ、大使館や領事館に投石することや日本料理店を襲撃することはただの暴力であり、それは犯罪以外の何ものでもない。
もしも韓国なり中国なりが国家としてそれを取り締まれない(取り締まらない)のだとしたら、それはもはや国家ではない。
それがたとえ自国に対する憤懣をガス抜きするための国家戦略であったとしても。
かつて日本にもそういう時代があった。
学生運動、労働争議の時代。
かつて僕が大阪で住んでいた家の近くに大阪外国語大学があり、その壁には「造反有理」という文字が後々まで残されていたのを覚えている。
これは中国の革命運動から拝借した言葉であり、今回の中国のデモのなかでも、「抗日有理」という文字のプラカードが目に付く。
「有理」というのは文字通り「道理がある」ということであり、そういうスローガンはいくら掲げられても構わない。
問題は「愛国無罪」というスローガンである。
これは、<愛国心からの行動であれば(それがたとえ暴力的な行動であっても)罪はないのだ>という意味である。
なんと馬鹿げた、そして危険な言葉なんだろうか。
それならば、日本人がかつて日本に対する愛国心のために中国を侵略したことも「愛国無罪」として認めてくれるのだろうか。
かつて僕の高校の社会の先生が、「本物のナショナリズムというものは、インターナショナリズムと同じ意味でなければならない」と語っていたことがある。これは僕にとって一つの問題提議として今も心に刻まれている言葉なのだが、たとえば「愛国心」ということを語るのであれば、それは自国民が自国を愛することを認めるだけでなく、他国民がその国を愛することを認めることでもあるという本質的な理解がない限り、決して発せられてはいけない言葉だと僕は思っている。
そういう理解がないにもかかわらず語られる「愛国心」とは、ただのエゴであり、利己主義でしかない。
また自分が自分に対して「無罪」と断ずる時、世界は常に最悪の状況を呈してきたという過去の歴史に対する理解も欠如している。

僕は政治的状況がどう変化しても構わないと思っている。
ただ、「暴力」はどんな状況であれ断罪されるべきであり、デモと「暴力」はしっかり区別して語られるべきである。


  2005年4月16日(土) 高田渡、逝去
  帽子者(ぼうしもの)

こんな言葉は恐らく存在しない。
僕の造語である(既に有ったらごめんなさい)。
世の中には、僕自身も含めて「帽子者」という種類の人間がいるのである。

昨日地下鉄に乗り込んだら、僕に注がれる鋭い視線を感じた。
その視線の方向を見ると、イカしたテンガロンハットを被った同い年くらいの男性が僕の方を見ていた。
その瞬間、彼が何故僕の方を見ているのか分かった。
僕も年季の入った帽子を被っているからである。
こういう経験を僕は今までに何度かしたことがある。これは「帽子者」同士の密やかな暗闘なのである。

ヤンキースの帽子やナイキのキャップを被っている者たちは、決して僕たち「帽子者」の仲間ではない。
僕も含めて、帽子を被ることをダンディズムとしている者たち(主にハットを被っている)を「帽子者」と僕は呼んでいる。
僕たち「帽子者」の特徴は、帽子をファッションとしてではなく、先程も言ったようにダンディズムとして被っているのである。つまり、帽子を被るということは、生きている姿勢の表明の一つなのである。これは流行に左右されることはない。
ちなみに僕が帽子を積極的に被り始めたのは19歳の時である。
昭和初期、野球の早慶戦を観戦に行く男性たちがソフト帽を被っている映像を観て、「これだ!」と思ったのだ。彼らはファッション(流行)で被っていたのかもしれないが、僕にはそこに帽子というものが持つ本質的なダンディズムが見えたのである。
それ以来20年近く、僕は帽子を被り続けている。
街角で「帽子者」同士がすれ違う時、相手を強く意識するのは、言うなれば剣の達人同士がすれ違う時と同じなのである。
「ダンディズム」対「ダンディズム」の静かな、けれど激しい「見切り合い」がそこにはあるのだ。

他にも「何々者」と名付けられるものはあるのかもしれないが、「帽子者」ほど独特の「アク」を持っている「何々者」はいないのではないかと、僕は思っているのだが。


  2005年4月7日(木) 近所の桜満開
  あえて、「竹島問題」

この問題については何年も前からぼんやりと考えていた。
正確に言うと1996年からだ。
その年僕は初めて韓国に行き、ソウルのあるライヴバーで、そこでうたっていた女の子と店の女の子とカタコトの英語で(その頃の僕は韓国語がほとんど話せなかった)話をした。
その時彼女らから言われたのは、「トクト(独島=竹島) の問題とかあるし、日本人は好きではないけれど、話しているとあなたは嫌いではない」ということ。
これは色々な意味が込められた言葉で、その後何度も韓国を訪れ、その度に僕の中で何度も反芻してきた言葉でもある。
その当時も「竹島問題」というのがあることは知っていたが、韓国に行くに当たって僕の中では過去の植民地化の問題ほど意識していなかった。
今回日本においても大きく問題化され、更に教科書検定問題も加わって、日本人の間でも論議されている今、自分の中でもどう表現すればいいかずっと結論が出ないままだったこの問題に、あえてひとつの結論をつけてみる。
と、ここまでは長い前置き。

まず結論から言う。
「独島=竹島」は<限りなく韓国領に近い島>である。
僕は純然たる日本人だが、結論はそうなる。
何故なら、韓国が<実行支配>しているからだ。
過去の歴史はほぼ関係ない。
歴史というなら、たとえば百済の王族の末裔が不当に奪われた土地なので韓国の一部の土地を返還してほしいと言っても通らないだろうし、琉球王国の王族の末裔が沖縄を返還してほしいと日本に言っても同じだろう。
アメリカインディアンにしても、アボリジニにしても。
ある国が領土を主張するに当たって最も大切でかつ有効なのは、<実行支配>以外の何ものでもない。
勿論それは正義とか正当性とは無関係な問題だ。
韓国は現在「独島=竹島」に軍隊を置いて<実行支配>しているのに対して、日本は領有権を主張するだけであって、なんら<実行支配>を行使していない。
これは日本にとって圧倒的に不利である。
しかし、ある土地を巡って、異なる国が互いに<実行支配>を行使しようとした場合、それは紛れもなく戦闘=戦争の始まりである。
本当の問題はそこだ。
日本がどうしても「独島=竹島」を日本領にしたいなら、戦争を覚悟するべきだし、それはつまりあの小さな島とは比較にならないもっと大きなものを失うことを意味する。
日本にはその覚悟も勇気もメリットもないと僕は思っている。
話の翼を広げてしまったが、領土という意識が今よりももっとルーズだった時代、「独島=竹島」は元来無人島であり、恐らく日本も韓国も周辺海域で漁業を営み、曖昧に、かつ平和裏に<共有>してきたはずだ。
しかし、現在両国の歴史的背景も含めて、領土というものに対してシビアである現状は<共有>などという曖昧な関係を許しはしない。
馬鹿げた話である。
日韓両国とも、というか、世界中が馬鹿げた状況だと言える。
理想を言えば領有という概念が崩壊してしまえばいいのだが、それよりも人類の方が先に滅びるかもしれない。

先程あげた結論とは別に、これが問題である限り、解答(解決)を欲している訳で、僕の答案を披露する。
「独島=竹島」を国連統治下に置く。
以上。


  2005年4月4日(月) 昨日板橋駅で斉藤清六を見かける(3回目)
  僕が彼女に注意しなかった理由

あらかじめ言っておくが、僕は基本的なマナー以前に携帯が積極的に嫌いである。この世からなくなったらいいと思っているもののひとつである。
それも少しだけ踏まえて昨日の出来事。

昨日フォークジャングルのミーティングのために渋谷へ行こうと埼京線に乗っていた。
ちょっと込んでいたので、僕が優先席近くの窓際に立っていたら、優先席の真ん前に立っていた女(日焼けサロンで焼いた風のやや褐色の顔、濃いマスカラ、茶髪で二十歳くらい)が、いきなり携帯電話を取り出して電話を始めた。
勿論「電車の中ではマナーモード」とか「優先席付近では電源を切る」とかは何年も前からの<周知のマナー>であるはずだ。
その時点で僕はカチンと来ていた。
注意しようかとも思ったが、僕とその女の間にも何人か人がいたので(という理由をつけて)、やめておいた。
その後、新宿で沢山の人が降りたので、その女は優先席に座った。ちなみに僕は同じ場所で立っていた。
すると、その女は鞄からスプレー(!)を出して、その場で髪に掛けながら髪型を整え出した。
その女の隣りにも人が座っているし、勿論他にも沢山乗客がいる。
常識外れというよりも、僕はそれを<犯罪>だと思った。
あるいは、こういう人間のことを<キチガイ>と呼ぶべきなのだと思った。
けれど、喉元まで出て来た怒りの言葉(「おまえ、周りの迷惑考えろ、ボケ!」)を喉元に留めたまま、僕も、そしてたまたまその女も、次の渋谷で降りたのだった。
ちなみに、その女の前の優先席に座っていたガキ共も携帯で話していた。

何故僕は彼女に注意しなかったのか?
駅から出て渋谷の街を歩きながら僕はずっと考えていた。
で、結局、自分が不愉快な気分になりたくないからなのだと思った。
注意する時に大声を上げる自分自身によって、もしくは注意した後の彼女の態度(ふてくされたり、逆ギレされた時)によって、その後に不愉快な気分になりたくないからなのだと。
そう思うと、そういう発想をしていた自分自身に怒りを覚えた。
ここに書くことによって何が変わるのか分からないが、この想いを忘れないために記しておく。


  2005年3月24日(木) エロDVDを買うかどうか迷う(買わず)
  ツユダクの基準

僕はそんなに頻繁に牛丼を食べる方ではない。
2ヶ月に1回位、いわゆる<ローテーションの谷間>に食べる。
ちなみに僕は「松屋」派である。
どうしてみんながあんなにも「吉野家」の牛丼にこだわるのか全く分からない。味なのか、それともブランド志向なのか、はたまた郷愁に近いこだわりなのか。いずれにしても僕は「松屋」派であり、関係ないけど「モスバーガー」派である。

それはさておき、今日「松屋」で牛丼を注文した。
ツユダクで。
実は僕はいつもここで悩むのだ。
そんなに汁っぽい牛丼が好きな訳ではないが、かと言って具だけが乗っていてご飯にツユが全く滲みていない牛丼はもってのほかだ。
だから、僕は往々にして「ツユダクで」と注文する。
今日もそうした訳だ。
ところが、出て来た牛丼は、ご飯がツユで完全に浸っていて、まるでクッパみたいになっていたのだ。
確かに僕は「ツユダク」と言った。でも、これはないやろ・・・。
頻繁に、しかも同じ店に食べに行っていたら、この店員はツユを多めに入れる傾向があるとか、この店員はツユはほとんどかけずにタマネギが多いとか、店員の癖を把握しつつ注文出来るのだろうが、なにせ<ローテーションの谷間>なので情報が皆無に等しいのだ。勘で注文するしかない。
そして今日は見事に裏切られた訳だ。

仕方なくその<牛丼風クッパ>をかき込みながら、<ツユダクの基準>についてそろそろ国会で審議する時期に来ているんじゃないかと思ったのだった。


  2005年3月20日(日) 明日第79回フォークジャングル
  「今のお気持ちはどうですか?」

今日福岡で震度6弱の地震があった。
福岡市内でもかなりの被害があったようで、僕の個人的な友人も多く、心配だ。
報道は最も被害が大きかった玄界島を中心にされている。
その中であるインタビューアーが島民の一人にマイクを向けて、冒頭の言葉を放った。

「今のお気持ちはどうですか?」はインタビューアーの常套句である。
しかし、この言葉ほど無神経な言葉はないと僕は思っている。
もしも、自分の身内が被害を受けていたら、その人に対して「今の気持ちはどう?」と尋ねる人がいるだろうか?
また、報道の客観性という意味においても、被害直後の被害者の気持ちを伝えることは誰にとって必要なのか?
受け手はそんな言葉を必要としているのだろうか?
必要なのは、被害の状況と今後の余震の可能性と現場で今、そして今後何がが必要とされているかという客観的な事実だけなのではないだろうか?
そうでない報道は、報道側の残酷な好奇心と狂った欲望だけなのではないだろうか?

僕は繰り返し報道を批判している。
時に報道の必要性について反論されることもある。
断わっておくが、僕は決して報道そのものが不必要だとは勿論考えていない。
しかし、<報道側の欲望>の横暴(プライバシーに無闇に踏み込んだり、神経を逆撫でしたり、暴力的な取材をしたり)についての検証が余りにもなされていないので、どうしても批判する側に回ることになるのだ。
報道はあまりにも自分自身に対して甘過ぎる。
これは、この国の精神構造の縮図であるとも僕は思っている。


  2005年3月12日(土) 友だちの子供を見に行く
  <不快な表現>という不快

この<気になるんや>で取り上げているテーマで一番多いのは多分<言葉>の問題だと思う。
僕自身が言葉に携わっている生き方をしている為、<言葉>の問題はどうしても避けて通れない。
今回もそういう問題。

三重県観光連盟のポスターに苦情が来たため、回収、廃棄することになったという。
その内容というのが、池波正太郎の古いエッセイから引用したもので、「松阪の牛肉が丹精をこめて飼育された処女なら、こちらの伊賀牛はこってりとあぶらが乗った年増女である」というような文章である。
これを十数名の女性たちが<不快>であるとして苦情を訴えたという。

はっきり言おう。
その十数名の女性たちは、知性、教養、言語感覚が欠如した、キチガイである。
まず、言語表現というものは、すべての人を<快>とさせるためにある訳ではない。それが不特定多数の人間が観るポスターであれ、<快><不快>は全く個人的な感覚であって、少なくとも<処女><年増女>という言葉には差別性もない。
たとえば、僕は犬が嫌いだが、犬の写真が使われたポスターに対して「犬が嫌いだから<不快>だ。廃棄しろ」と言ったら、きっと多くの人たちは理不尽に感じるだろう。それと全く同じだ。
完全に<理不尽>なのである。
次に、この池波正太郎の比喩が的確かどうかは別にして、これが<不快>だというなら、世の中のセンスのある比喩表現はほとんどが<不快>になってしまう。
<処女><年増女>などというのは、美しい日本語のひとつである。それが理解できないなら、日本語文化圏から離れて暮らしてもらうしかない。
先程は<理不尽>だと書いたが、こういう表現を殺してしまおうという姿勢は、もはや明らかな<弾圧>である。
<ファッショ>であると言ってもいい。
でなければ、声を大にして言うが、やはりキチガイである。
もしも、彼女たちの苦情に意義があるとしたら、それは「意識的であれ、無意識的であれ、<表現>を弾圧しようとするキチガイが、世間に潜在的に存在し、時として<表現者>を脅かそうとする」ということを世間に知らしめたということだけだ。

僕はこういう<弾圧者>たちとは断固として闘う。


  2005年3月11日(金) 緑7揃いで1回(マニアックネタ)
  「客引きと思った」

わいせつ行為の現行犯で国会議員が逮捕された。
どうでもいい話だ。
そのうち何年かしたら<禊(みそぎ)>とか言いながら、また立候補しようと思っているのだろうか?
こういう時思うのは、その議員が馬鹿だというのは当然だが、そういう奴を選出した有権者に責任はないのだろうかということ。
そういう議員が出た地区はその後何年間か<議員選出権>なしとかにしたらどうだろうか、とかぼんやり考えた。
けれど、今回気になったのは、その事件そのものではない。
警察での供述で述べたのだろうか、その議員がわいせつ行為をした言い訳として語られている言葉がとても気になった。
それが今回のテーマ。

「客引きと思った」と言うが、相手が客引きなら路上で無理矢理乳を揉んでもいいと思っているのだろうか、この議員は。
言い逃れのためであろうとなんであろうと、もし本当にその議員の口から語られた言葉だとしたら、全くなめ切った発言だ。
相手が本物のポン引きで、裏にやくざがいて、ぼこぼこにされていたら面白かったのにとちょっと思ったりしながら、この議員のレベルは結局この程度なのだということがはっきりと分かった。
酔っ払っての行為を「酒の席だから」とか「酔っ払ってたから仕方ない」と甘やかす傾向にあるこの国を、僕は甘ちゃんの国だと思っている。
酔っ払っているからこそ、日頃意識下で思っていること、抑制している欲望が現れるのだ。
それを仮に<本性>と呼んでもいいが、つまり彼の本性は「客引きだったら、路上で無理矢理犯してもいいのだ」というものだ。
恥とかそういう問題ではない。
人間として論外だ。


  2005年3月9日(水) フォークジャングル通信を折り終わる
  「最近の若い者は」考

僕自身は「最近の若い者は」と言われる側なのか(えっ!?とっくにちゃうって?)、それとも「最近の若い者は」と言う側なのかよく分からないが、この、有史以来語られてきた繰り言にそろそろ終止符を打ってもいいのじゃないか、と僕は思っている。

最近こういう出来事があった。
ある銀行のATMで昼の混雑時に並んでいた時のこと。
ATMの上に無造作に札を放り出し、鞄の中をゴソゴソ探っているおっさん(50歳前後・商売人風)がいた。
そのおっさんは急に「ちょっと、ちょっと!」と大声で銀行の係員を呼び始めた。
係りの人は奥にいてなかなか気付かなかったようで、おっさんは「ちょっと!ちょっといないの!」と怒気をはらんだ声で更に係員を呼び続けた。
僕は(機械が故障でもしたんかな?)と思っていると、ようやくやって来た係員に「ちょっと、ボールペン貸して」と言うおっさん。
ボールペン?
係員からボールペンを手に入れたおっさんは、おもむろに携帯とメモを取り出し、どこかに電話を掛けて「振込用紙忘れたんだよ。ちょっと探して教えてくれない?」と抜かしてやがった。
ハァ?(摩邪風に)
混雑している昼のATM。
誰もが昼休みを犠牲にして並んでいる。
そのおっさんの傍若無人な態度に柔らかな殺意を覚えながら、これが<教育問題>なのだと僕は強く思った。

つまり、有史以来(と大きく構えてみよう)本当の意味で次の世代の<範>となった完璧な大人の世代なんてなかったし、子供たちは大人を見て、見習ったり、反面教師にして育ってきているのであって、「最近の若者は」などという言葉を大人が口にするのはおこがましいにも程があると僕は思っている。
「最近の若者は」という言葉は、即ち「最近の大人は」という言葉と同じ意味なのだ。
電車の中で携帯で大声で喋っているおっさんたちの傍若無人ぶりと、コンビニの前でたむろしてゴミを散らかしている若者たちの傍若無人ぶりにどういう違いがあるのか?

だからと言って、僕は決して若い世代の味方でもなんでもない。
僕自身が10代、20代の頃から若者なんて駄目だと思っていたし、それは大人なんて駄目だと思っていたのと同じだ。
駄目さが違うだけだ。
お互いにそれぞれの駄目さに反発しているだけなのだ。
勿論すべてが駄目な訳ではない。
<大人>を目の敵にしたり、<若者>を白い目で見たりするだけでは何も変わらない。
僕は尾崎豊のうたに全く共感しないが、「先生、あなたはか弱き大人の代弁者なのか」というフレーズの、「か弱き大人」という言葉はずっと耳に残っている。
彼の言い方は一方的であって、<か弱い>が故にずるがしこい大人と<か弱い>が故に吠えたてる若者は、結局相似形なのだと思う。
実は世代的な対立が問題なのではなく、何がいい形で受け継がれ、何が悪い形で受け継がれようとしているのかを検証しながら、取捨選択していくこと・・・それがつまり<教育>のテーマなのだ。
それが正しい形で行われていないということが、この国の最も深刻な<教育問題>なのだと僕は思っている。
学力が世界で何番目だとか、授業時間を何時間にすればいいかとか、そんなことは根本命題でもなんでもないのだ。

またいつか<教育>と<刑法>についても書きたいと思っている。


  2005年3月6日(日) 第79回フォークジャングルのミーティング
  ちょっとしたことの積み重ねとしての<逆境>

今日はコンサートのミーティングで渋谷に行かなければならなかった。
昨日から風邪気味(今年はほんまに何回風邪を引いたら気が済むねん!)で、ちょっと熱っぽかったので、昼過ぎまでずっと寝ていたが、フォークジャングルの座長としてはミーティングを休む訳にはいかない。
で、ぼんやりした頭で、出来るだけ楽に渋谷に行くために、乗り換えなしで埼京線の板橋駅から渋谷まで直通に乗れたらいいなぁ、と思いつつ、最寄り駅ではないJR板橋駅に向かって歩いて行ってからの出来事。

板橋駅に着いてみたが、こういう時は案の定、次もその次も<新宿止まり>。仕方がないので、新宿で乗り換えようと思って埼京線に乗って、ぼんやりと夢想していた。
それが、「ちょっとしたことが重なっていくと<逆境>になるなぁ」ということ。
今の自分について考えてみた。

・風邪で微熱でだるい+右の鼻の穴の中に瘡蓋(かさぶた)が出来てる+電車で移動中なのにうんこがしたい

ひとつひとつは大した事ないが、これが同時に発生しているとかなりキツイ。更に言うなら、私事ではないが、寒い上にどんより曇っていて、気分も滅入っている。
ちょっと違う話だけれど、僕が思うに、街を歩いていて時々目にする「ちょっとしたことの積み重ねとして<最悪>」な人というのがいる。それはたとえば、

・ウォークマンで音楽を聴いている+携帯のメールを打っている+煙草を吸っている

ような人。
これは、自ら聴覚を殺し、視覚を殺し、かつ有害物質を放出しているという意味で、危険極まりない人物である。

などということを考えながら、新宿で山手線に乗り換えたら、電車がおかしな方向に動き出した。
「次は新大久保、新大久保」
えっ!?逆やん!

最悪の日曜日だった。


  2005年2月27日(日) 朝食はクイニー・アマン
  ネットゲームで盗難

ニュースとして聞いた瞬間、すごく違和感を覚えた。
ゲーム名を失念して申し訳ないが、ネット上のオンラインゲーム(ロールプレングゲーム)で主人公が手に入れられる武器や道具などのアイテムが不正アクセスによって盗まれたと警察に訴えた人が出たというニュース。

勿論不正アクセスは許されない。
しかし、僕がニュースを聞いた瞬間、ゲーマーというのはそこまでやってゲームを追求するのか、とちょっと感心した。
僕もゲームをするが、それは過程を楽しむものであり、強くなったとか、レベルが上がったとか、クリアーしたとかはその過程を楽しんだ後にあるだけにしか過ぎないと思ってきただけに、<最強>を目指すためには手段を選ばない人もいるんだなぁと思った(余談だが、吉原芳広のうたに「最強になんかなりたくない」という歌詞があるが、含蓄のあるいい歌詞だと思っている)。

けれど、最後までニュースを聞いていると、事態はそういうことだけではないらしい。
人気ゲームのアイテムが、ネット上で実際に売買されているというのだ。
盗まれたアイテムは、盗んだ本人が使っているのではなく、ネット上で売られている可能性が高いらしい。
ゲームの中の貨幣ではなく、そのアイテムを手に入れるために現実社会の現金が動いているということを知って、今度は感心したというより悲しくなった。
結局は金に還元していくのか、と。
ゲームの中のファンタジーも現実社会の金に還元していく現実を見せつけられて、金を<万能>と思わせる社会構造にどうすれば対抗できるのか、とこの資本主義社会の中でぼんやり考えてみた。
金というものが他のすべての価値を相対化させる絶対者であるという現実は、結局それが資本主義であれ、社会主義であれ変わらない(ああ、構造主義やポスト構造主義について語るつもりはないし、大した知識もないが)。
それに対抗するには、金が侵食し得ない価値体系を作ること(ほぼ不可能と思える)か、不当な手段で金を儲けると必ず死刑というような厳罰化の徹底した社会を作るかしかちょっと思いつかない。

この社会に対抗することを諦めない僕はアホなのか?


  2005年2月23日(水) 光のひと粒ひと粒が硬質な満月
  東京パン屋ストリート

千葉県船橋市の「ららぽーと」に明日「東京パン屋ストリート」というパンのテーマパークが出来るらしい。
全国から8軒のパン屋を集めたそうだ。
各地で次から次へと出来ているいわゆる「ラーメン博物館」のようなもののようだ。
(余談だが、「東京ディズニーランド」といい、千葉県はどうして「東京」という冠を付けたがるのか?)

実は僕も似たような発想を持っていた。
昨年北海道でヒッチハイクしていた時、女の子二人でドライブしていた車に乗せてもらったのだが、彼女たちは、わざわざ別の街から「道の駅」にある石窯で焼いているパン屋に行く途中だったのだ。
この「わざわざ」というのがポイントだとその時僕は思った。
その後、女満別という小さな街で、「ブランジェ・アンジュ」という天然酵母のパンを作っているちょっと高級なパン屋を見つけた時、完全に「これだ!」と確信した。
各地でご当地ラーメンで町おこしということが行われているが、それはパンでも可能なのではないのかと。
特にその女満別という街には温泉もあり、北海道産の小麦を使って作るパン屋を何軒か街に点在させたら、近隣の街から、更には観光の途中に立ち寄る人(特に女性)がかなり増えるのではないかと思った。
「パンと温泉の街」って素敵じゃないかな。
ちなみに「目醒めたら、女満別。」というキャッチコピーも勝手に考えて、その街の地域振興の仕事をしている友人にも伝えておいた。

今回の「東京パン屋ストリート」は、僕のその発想とすごく似ているのだが、実は<似て非なる>ものである。
テーマパークというのは、一ヶ所に店舗が固まっていてとても便利ではあるが、パン屋というのは外観もかなり重要である。
出来れば一軒家がベストだ。
古い倉庫を改装した店やメルヘンチックな店や下町風のコッペパンが美味そうな店などが街に点在(これが重要!)していることにより、その街の外観も楽しむという付加価値が加わるのだ。
そうして時間を掛けて、併設された喫茶室で休んだり、温泉に立ち寄ったりして、その街で一日をのんびり過すというのは、女の子たちのニーズに合っているのではないか。
女の子のニーズが増えると、必然的にカップルも増えるだろうし、パンなら家族連れで楽しむことも出来る。

女満別は、すぐ近くに網走湖やオホーツク海もあり、絶好のロケーションなので特にお薦めなのだが、他の街でも僕のこの発想を取り上げてくれないかと密かに期待している。
僕も焼きたてのパンとパン屋のおねえさんが大好きなのだ。


  2005年2月18日(金) 日本アカデミー賞発表
  正論とは何か?

最近ライブドア・堀江氏とフジサンケイグループの確執が連日報道されている。
正直、僕はそんなことどうでもいいし、堀江という人物にも興味はない。
彼が商店街の消滅を例にとって語ったIT化社会については反論があるが、今回はそのことは語らない。
僕が気になるのは、フジサンケイグループの牙の剥き方についてである。

今日(2/18)付けの産経新聞の社説によると、「産経新聞は『正論路線』に立脚している」らしい。それは何かと言うと、「西側陣営にたって、社会主義国のイデオロギーや軍拡路線、非人間性を批判してきた路線を指す」らしい。
それが正論なのか?
それは正論ではなく、<あんたの立場>にしか過ぎないのではないか?
大上段から構えて自らを「正論」と呼ぶことの恐ろしさに気付かないなんて、裸の王様なのではないか?
僕は旧社会主義国を擁護するつもりはさらさらないが、所謂「西側陣営」が繰り返してきた非道の数々をどう説明するのか?
そして、「西側陣営にたって」ということは、その非道の数々に加担してきたということを自ら大々的に認めているということではないのか?
旧社会主義国が倒れていったからといって、それが「西側陣営」の正当性を示すものではないことは明らかである。
それで「正論」と名乗るとは、ただの馬鹿だ。

それに関連して、堀江氏の株式購入の方法その他を自民党の政治家が次々に批判している。
これも間違いなくフジサンケイグループと一部政治家の裏の結び付きを示すものだが、そのことはとりあえず置いておく。
彼らは堀江氏のやり方について、「金があればなにをやってもいいのか」「日本的な習慣になじまない」などと馬鹿げた批判をしているが、それは、あんたたちがやっている金を集め、金をばら撒く政治と何が違うのか?
そして、この閉塞的村社会政治という「日本的な習慣」の何が優れているというのか?
僕は堀江氏の味方でもなんでもないが、少なくともあの馬鹿な政治家や馬鹿なマスメディアに対立する立場であることは間違いない。
申し訳ないが、ひと言で言う。
死ね!


  2005年2月18日(金) 日本アカデミー賞発表
  レンゲ

ラーメンの話をし出したらキリがないのだが、以前から気になっていたことを改めて。

今日バイトの帰りに池袋で1、2を争う美味いラーメン屋である「瞠(みはる)」でラーメンを食べた時のこと。
この店のラーメンの話はいずれ書くとして、僕と前後してラーメンを食べてた客が6、7人いたのだが、僕以外のみんながレンゲを使ってスープを啜っていた。
全員男性である。
ちょっと驚いた。
確かに初めからラーメンにはレンゲが入れられているのだが、それにしても誰一人として丼を持ち上げてスープを啜ろうとしないというのはどういうことなのか?
これは、悪しき教育だと僕は思わざるを得ない。

僕は決して「通」ぶってレンゲを使わない訳ではない。
ラーメンという食べ物が「丼」という器で供される食べ物である以上、丼を両手で押し戴くという姿こそが、その食し方の基本形であるはずだ。
また「丼」という器は、唇で触れられることによってその触感を刺激するという効果を本来持っているべきものなのである。
この唇と器の触れ合う歓びを味わわないということは、ラーメンを食するという歓びのうちの何%かを確実に失っているのだと言える。
レンゲというのは、スープだけを飲むための道具なのであって、本来ラーメンに添えられるべき道具だと僕は思わない。

あるラーメン漫画(有名な<ラーメン王>が監修している)で、かつてレンゲについて取り上げられた時、頑固なおやじがレンゲを使うのを拒否しているのに対して、幾層かに分かれたスープの旨みを同時に味わうためにはレンゲは必要なのだという切り返しをしていた。
僕はそれでも思う。
そんなスープは上の層から順々に味わうか、混ぜて飲めばいいのだ。もしもそれでも味わい切れないというなら、それは供し方が間違っているのだ。

僕が言いたいのは、みんながみんなレンゲを使うなということではない。
猫舌の人もいるだろうし、丼を押し戴くにはそれなりの力も要る訳で、子供や非力な人には難しいのかもしれない。
しかし、初めから丼にレンゲを入れるのだけはやめてほしい。
それは、「ラーメンのスープはレンゲで飲むもの」という無言の教育になるからであるし、少なくとも僕には邪魔なのだ。
どうしてもレンゲを添えたければ、カウンターの上にでも自由に取れるように置いておくか、「レンゲはご利用になられますか?」と尋ねるべきだ。

些細なことかもしれないが、こういうことが確実に世界を変えていっているのだという認識を持っていないと、いつの間にかとんでもない場所に立っていることになったりするものなのだ。


  2005年2月14日(月) スペシャルデー
  「歌なんかで世界が変わるわけねえだろ。」

これは、先週発売「ビックコミックスピリッツ」連載の「20世紀少年」(作:浦沢直樹)の中で、「矢吹丈」と名乗るギターを抱えた謎の人物(死んだと思われている主人公のケンジかと思われる)が、うたの力を評価されたことに対して放った言葉。
僕は、これを漫画の中の言葉としてではなく、現実に僕に突きつけられた言葉として受け止めた。

さて、こういう言葉を時々聞くことがある。
時に蔑むように、時に諦めのように、時に訳知り顔で、時に無力を嘆いて。
しかし、僕は決してそうは思わない。
こう言うと青臭く聞こえるかもしれないが、僕はすごく冷静に、決してジョン・レノン的な意味ではなく、「うたで世界は変わる」と僕は思っている。
というのは、うたは人の心に響くものだからだ。
大それたことを言っているわけではない。
ひとつのうたが国家を転覆してしまうとか、何万人もの命を救うとか、戦争をこの世から永久に葬り去るとか、そういうことだけが「世界を変える」ということの意味ではない。
たとえば卑近な例で申し訳ないが、僕がこうしてうたい続ける生き方を選んだというのは、他の誰から言われた訳でもなく、誰かに憧れた訳でもなく、うたというものの力に打ちのめされ、深く感動したからだ。
僕だけでなく、こんな風に様々な場面でうたが少しずつ人間の生き方に影響力を及ぼしているのだとしたら、それは即ち、うたによって「世界が変わっている」ということなのだ。
「なにを当たり前のことを言っているのか」と思われるかもしれないが、こういう認識を持つことが大切なのだ。

問題はこういうことだ。
「うたは世界を変える」のだが、もしも誰かがうたの中のメッセージ通りに世界を変えようと思ったって、そんなに世界は甘いもんじゃないという認識も同時に持つ必要があるということ。
と同時に、思ってもみない所で、メッセージが独り歩きしたり、全く別の解釈をされたり、利用されたりすることだってあるという認識も持たなければいけないということ。
そして、それらすべてを承知した上で、なおもメッセージを放ち続ける魂を持ち続けている者こそ、「プロ」とか「アマ」とか関係ない「本物」のうたうたいだと僕は思っている。

僕はうたの力を信じている。


  2005年2月13日(日) ♪明日は特別 スペシャルデー♪
  自分へのご褒美

チョコレート職人のことを「ショコラティエ」というらしい。
毎年新しい外来語がどんどん入って来て、目新しさで世界を飾り立てようとしているのだが、まあ、そんなことはどうでもいい。
ここ何年か有名チョコレート店の出店ラッシュで、静かなチョコレートブームである。
今年は更にそれに拍車を掛けるようにして、世界の有名ショコラティエをこのバレンタインデーの時期に合わせて日本に招聘するという戦略を取っているデパートもあり、実際にそのショコラティエに誘われて女性が沢山集まっている様子が報道されていた。
で、その女性達は、有名ショコラティエが作る高級チョコレートをバレンタインデーのプレゼントとしてではなく、自分のために買うのだとインタビューに応えていた。
その時に言っていたのが冒頭の言葉。

この言葉を女性達が使い出したのはいつからだろう?
思えばすごく不自然な言葉なのだが、最近では当たり前のように使われている。
何かのコマーシャルで使われた言葉だったのか、それとも有森裕子の「自分を褒めてあげたい」に由来しているのか、いずれにしろ、自分に対して<過保護>な女性がある時期から増え続けていることだけは確実だ。
それが意味するものが、女性が男性からの「ご褒美」では満足出来なくなっているのか、それとも必要としなくなっているのか(それはないと思うが)、もっと別の理由なのか、僕にはよく分からない。
その辺りの真相は女性に尋ねてみたいものだが、女性がひと箱1万円を越えるようなチョコレートを「自分へのご褒美」にするのに対して、僕なら「自分へのご褒美」にせいぜい定食に単品のアスパラサラダを付けるくらいだと感慨深く思ったりした。


  2005年2月8日(火) 風邪で喉から鮮血・二日目
  「Re:智子てす。」

迷惑メールというのが相変わらず来る。
いつもうんざりするんだけど、このタイトルはちょっと笑った。
これはどう考えても、僕が「智子です。」というメールを誰かに送っていない限りあり得ない返信メールのタイトルだから。
今迄の人生で僕は一度も「智子です。」というタイトルでメールを送ったこともないし、恐らくこれからも決して送ることは無いと思う(当たり前だけど)。
ちなみに興味があったからメールを開いてみたら、逆援助交際希望の年収6000万円の会社経営の女性ということだった。

こんなメールに引っかかる奴がほんまにおるんかなぁ?


  2005年2月7日(月) 風邪で喉から鮮血
  タンス預金

まず言って置くけど、僕の部屋には現ナマは全くない。
財布の中に入っているだけで、僕が外出している時に仮に泥棒が入っても盗める現金は1円もない。
ところが、タンス預金というのを持っている人というのが現実にいるんだなぁと驚愕した事件が二つ続いた。

ひとつは、埼玉の用水路に1700万円もの現金が捨てられていた事件で、この金はある男性(25歳!らしい)の家から盗まれたものだった。しかも、その額6000万円!
盗まれた人は不動産業のトップ営業マンらしい(真偽のほどは定かではない)が、それにしても部屋に6000万円もの金があるというのはどういうことなんだろうか。
いくら銀行が信じられないと言っても、僕なら部屋にそんな大金を置いたまま外出する勇気はない。
もうひとつは、京都で老夫婦の家の金庫から2億円(!)が盗まれた事件。工場経営者らしいが、金というのはある所にはあるものだということを改めて実感させられた。
いずれにしてもこれも氷山の一角に過ぎないのだろう。

で、僕が思うことはいつも同じだ。
金持ちなんか要らないということ。
これは決してやっかみや嫉妬ではなく、僕は金持ちになんかなりたいと思わない。
彼らが持っている金は、いずれ何かに使われる金なのかもしれないが、少なくともその<眠っている金>が無くても生きていける訳なのだから、実際に困窮している人たちのために使うべきだ。
こういう事を言うと勤労意欲が失われるなどと言う人がいるが、ささやかな贅沢が出来るくらいの給料を得るための勤労意欲はみんなあるんじゃないかな。
ささやかな贅沢も要らない人は最低限に働けばいいと思う。
これ、偽善かな?


  2005年1月24日(月) パチンコでしこたま負ける
  「ゴビる」

うた作りについて話してた時に、突然「それはゴビった方がいいんじゃない?」と言われた。
「ゴビる?」
なんとそれは「韻(脚韻)を踏む」という意味で使った言葉らしい。
つまり「語尾る」ということだ。
しかし、すごい新語!
本人はただ「韻を踏む」という言葉が出て来なかっただけみたいなのだが。
いい言葉だとは思ったんだけど、頭韻のときに使えないのがちょっと残念。
「ゴトウ(語頭)る」というのはちょっと語感が悪い。
しかし、こうやって新しい言葉は生まれてくるんだなと感心した。
突然変異の瞬間に立ち会ったような気分。


  2005年1月22日(土) 相模湖駅で30分電車を待った
  「ああ 神様 オレは何様ですか」

巷に流れるうたで「これはいい」と思ううたは滅多にない。
カラオケも滅多に行かないが、僕の一番新しいレパートリーはハイローズの「日曜日よりの使者」(何年前?)だ。このうたは博多の漫画喫茶で流れてるのを初めて聴いた時にいいうただと思って、誰がうたっているのか調べた覚えがある。
女性の歌手のうたでいいと思ううたはその後時々出会ったけれど、男性歌手のうたで「これは!」といううたには暫く出会わなかった(巷に流れていないうたなら沢山ある)。
つい最近ラジオから流れて来て、出だしの歌詞で心を掴まれたのが、ウルフルズの「暴れだす」といううた。冒頭の歌詞がそれだ。
僕自身、普段から偉そうなことを書いたり言ったりしているが、自分は何様なんだと常々問い直している。何様なんだと問い直した上で、なおかつ強気に発言することもあれば、振り返って自分の浅はかさに叩きのめされることもある。こうして表現していくということは、そういう浮き沈みの絶え間ない繰り返しだ。
このうたはこの歌詞だけでも充分に素晴らしいが、全体を通して聴いてもいいうただった。今日カラオケで初めてうたってみて、上手くうたえなかったけど、新しいレパートリーが何年か振りにひとつ増えたことは確かだ。


  2005年1月18日(火) 昼間から見えた見事な半月
  天然記念物

青森県で天然記念物のニホンザルを捕殺するというニュースが流れている。

まず僕の立場をはっきりさせておくけれど、僕はアンチ動物愛護団体である。
人間が人間として存在しているということは、結局環境を変化させていくということであり、その中で他の生物は必ず犠牲になる訳であり、それを徹底的に認めないというなら、人類が積極的に滅びればいいのだ。
人間だけでなく、あらゆる生物がエゴイスティックな存在であり、例えばある動物が必要以上に獲物を獲らないというのは、決して環境に優しい訳ではなく、それはより継続的に獲物を得るための知恵なのだ。
だから、ニホンザルがそこで暮らす人の生活に深刻な影響を及ぼすなら、どんどん捕殺するべきだと思っているのだが、僕はそれ以前にこの「天然記念物」ということに反論がある。
希少な存在の生物を人間が勝手に他の生物と区別して「天然記念物」などと言うことのおこがましさ。
ニホンザルが「天然記念物」だったからこれまでなかなか捕殺に踏み切れなかったという事実の馬鹿らしさや、「天然記念物」だからニュースになるという馬鹿らしさも含めて、もうそういう区別はいいんじゃないかと思う。
僕の「戦争、SEX、あるいは旅の始まりに」といううたの中で、「鯨を殺すなと言うなら/あんたの肉を食わせろ/あんたの肉に宿ってる/あんたの野性を食わせろ」という歌詞があるが、もしも「天然記念物」を保護したいというなら、まずあなたの肉を彼らに食わせてやれと。
ちょっと過激にまとめてみた。


  2005年1月11日(火) 買い置きの麦茶を踏んで麦茶まみれ
  「おぶつ」

今日はちょっと軽いやつ。

バイト先で曲がり角を曲がった時、ちょうど反対側からおっさんが飛び出して来た。
その人が発した言葉。
「お、ぶつかる」と叫びかけたところ、ぶつからないと分かって途中で言葉を切ったのだと思うのだが、そこで切るのはどんなものか。
「おぶつ=汚物」。
面と向かって発する言葉ではないよな。
綺麗な女の子に素足で(ヒールではなく)踏みつけながら言われるなら嬉しいのだが・・・。


  2005年1月9日(日) NHK杯・谷川対中原戦を観る
  「同等の犬と交換」

僕は動物が好きではない。
ちっちゃい犬とか猫とか見てもかわいいと思ったことがない(また好感度が下がった?)。
強いて言えば、動物園でキリンとか豹とかをぼーっと見ているのは嫌いじゃないけど。
という訳で、僕は動物を飼いたいと思ったこともないし、飼っている人に共感もしないのだが、昨日ちょっと気になる話を聞いた。

バイトの現場でよく一緒に仕事をする奴(20代半ばの男・既婚・子供あり)が、自分が飼っている犬がよく病気をするという話をしていた。
半年前に犬を買ったお金より、もう既に病院代の方が多くかかってると彼は嘆いていた。
それで、保険とかには入っていないのかと尋ねたところ、保険会社の保険にはまだ入っていないのだが、店で犬を買った時、その店独自の保険に入りませんかと言われたそうだ。
その保険の内容が、今回のテーマ。
「もし保険期間中に犬が死んだら、同等の犬と交換します」と言われたそうだ。それで、腹が立って保険に入らなかったと彼は言っていた。
うん、怒って当たり前だ。
「同等の犬と交換」とはどういうことか!
まるでゲームで一つ目の<ライフ>が無くなったから、<ライフ>はあともう一つ残ってますというようなものだ。
命は交換可能だとでもいうように。
じゃあ、その店員さんが死んでも、「同等の店員と交換」すればそれでいいということか。
僕は「命の重さ」と言う言葉自体は実はうさん臭い言葉だと思っている。本当は命に重さなんてなくて、だから軽さもなくて、そこにただぽつんと一つあるだけだと。
それを慈しむも捨て去るのも構わない。
しかし、それが金で売買されるものだからと言って(だから僕はペットを買うという行為自体嫌いなのだが)、そこにたったひとつしかない命と「同等の命」なんてあり得ないし、そういう言動は許されてはいけないと思う。
しかし、その店のやり方も最低だが、実際にもし自分の飼っている犬が死んで、「同等の犬と交換」する飼い主がいるとしたら、僕はそんな奴に動物と共に暮らす資格なんてないと思う。


  2005年1月8日(土) 名刺入れが失くなっていることが確定する
  「銀のプラクティカ」

今朝、不思議な夢を見た。
僕たち革命軍四人(何故か中学の同級生)は「銀のプラクティカ」を国防軍から盗み出して追われている。
シャベル(?)で応戦して車に乗り込む四人。
車はオンボロの軽トラ。
迫りくる国防軍。
まさに追いつかれそうになったその時、仲間の一人が「銀のプラクティカ」を使う。
「銀のプラクティカ」とは、無表情な女性の顔をした純銀製の能面のような仮面。
言い伝えによると、それを被りながら願い事を唱えるとなんでも叶うという伝説の仮面。
それは一人が一生に一度しか使えないし、誰もそれが本当に使われた所を見たことがないという。
「我々を邪魔する者たちが壊滅しますように」と「銀のプラクティカ」を被った仲間が唱えたら、国防軍の兵士たちは突然同士討ちを始め、一人残らず死に絶えてしまう。
そして、「銀のプラクティカ」はいつの間にかシーサーを更に醜くしたような金色の仮面「金のプラクティカ」に変わり、願い事を唱えた仲間の顔には、「銀のプラクティカ」の能面の顔が乗り移っていた。
ここまでが夢の話。
バイトの車での移動中、その夢の続きの物語を考えてみた。

場所は革命軍のアジト。
テーブルの上には「金のプラクティカ」。
それを囲む四人。
勿論そのうち一人は能面の顔になったまま。
問題はこの「金のプラクティカ」を使ってどんな願い事を唱えるか。
けれど、「銀のプラクティカ」の言い伝えはあっても「金のプラクティカ」に関する言い伝えはないので、願い事が叶う保証はない。
そして、たとえもしも願い事が叶ったとしても、これが叶えられる最後の願い事になるかもしれない。
4人に訪れる暫しの沈黙。
やがて一人が口を開く。
「もう願い事はいいんじゃないのか。国防軍は壊滅したし、後は自分たちの力で新しい世界を作り出せばいい」
「いや、たとえば『世界が永久に平和でありますように』とか『この世からあらゆる病気がなくなりますように』とか、そういう願い事のために使うべきだ」と別の一人。
「そういう抽象的なことって、漠然と思い描いていることと実現した形は全く違ったものになるんじゃないだろうか」とまた別の一人、「それよりもいっそもっと身近で具体的なことに使ってしまってはどうだろう。たとえばこいつの顔が元にもどりますように、とか」と、能面の顔になった仲間を見る。
「いや、俺の顔のことは気にするな。それにこの『金のプラクティカ』を使ってまたこの顔が誰かに乗り移ったら元も子もない。それよりも、おまえの子供のダウン症が治りますようにというのはどうだろうか」と、能面の顔の男。
「いや、それこそ間違った使い方だ。ダウン症の子供は千人に一人の確率で生まれてるから、これは俺だけの問題じゃない。それに、あいつが生まれて来てからずっと感じてることは、俺はあいつから歓びも悲しみも逞しさも自分の弱さも学ばせてもらってきたいうこと。だから、俺にとってあいつは今のままのあいつであることがすべてだ。あいつを別の人間に変えることなんて、俺は望まない」と一人。
「かつてこれを使って不老不死を願った者が今もこの世界のどこかで暮らしているという言い伝えを聞いたことがある。けれど、もしもそれが本当だとしても、きっとそいつは自分が思ったほど幸せじゃないんじゃないかな。逆に絶望しているかもしれない。願いが叶うなんてなんてそんなもんじゃないのかな」と一人。
「じゃあ、やっぱりこのままこれを封印するか」と一人。
「いや、待て。『世界中のすべての人が幸せになりますように』というのはどうだ。確かに抽象的だけど、これならみんながそれぞれの形での幸せを手に入れられるはずだ」と一人。
一同暫しの沈黙。
「決まりだな」と、言いながら「金のプラクティカ」を手に取る一人。
「待て。誰が唱えるかは公平にクジで決めよう」と一人。
「俺が言い出した提案だから俺が唱える。それに俺はおまえたちと違って守るものが何もない。この顔が乗り移ったって、それが世界中の人の幸せの代わりなら構わない」と言うやいなや、「金のプラクティカ」を顔に当て、「世界中のすべての人が幸せになりますように」と唱える。
次の瞬間、突然地球が爆発。
すべての人類は、何も感じる間もなく一瞬にして全滅する。

こんな物語を考えた。
願い事がすべて叶わないからこそ、生きている意味があるというのは綺麗事だろうか。
幸せと不幸せは表裏一体だと考えるのは不遜なのだろうか。
夢の続きに思ったこと。


  2005年1月5日(水) 久々にサムギョプサルを食べる
  年賀状

このコーナーの趣旨と全然外れるかもしれないけど、今日届いた年賀状のこと。
僕はもう20何年間か年賀状を出す習慣がなく、戴く一方で申し訳ないと思いつつ、毎年そのままにしている。
今年も何通か年賀状を戴いたのだが、その中に驚くような名前があった。
知る人ぞ知る「浜田真理子」さん。
彼女は島根県松江市在住のピアノの弾き語りのうたうたいで、インディーズで発売した「mariko」というアルバムの評判が徐々に口コミで広まって、今では年に数回しか行われないコンサートが常に満員になるという人気。
たぶん僕よりひとつ年上で、お子さんも一人いらっしゃる彼女は、僕の憧れのうたうたいであると同時に憧れの人でもある。
東京発ではない音楽の発信方法を選んでいるミュージシャンは、神戸のガガガSPや高知の矢野絢子などいるが、彼女はその先駆者的存在とも言える。
その方から今年年賀状を戴いた。
どういう理由で戴けたのかは全く分からないが、自筆のサイン入りのその年賀状を郵便受けに見つけた時、思わず「えっ!?」と声を漏らしたほどだ。
そして、「こいつは春から縁起がいいや」と心の中で唸った。
一体何通年賀状を書かれているのか分からないが、僕にまで届くということは相当な枚数なのではないだろうか。
また更に好きになってしまった。