中学から高校の頃、僕はよく<革命>という言葉を口にした。
それは<共産主義革命>のことではなく、もっと抽象的な意味での<永久革命>のことだったんだと今になったら分かる。
今、再び<革命>という言葉が頭に浮かんできたので、この限りなく死語に近い言葉について語ってみたい。
サラリーマン大増税時代だという。
政府税制調査会会長がその調査内容(給与所得控除を圧縮し、配偶者控除や特定扶養控除を廃止しようというもの)を発表した時、彼は半笑いだった。
その半笑いの真意が何処にあるのかは分からないが、これが日本以外の国で行われたら、ほぼ間違いなく暴動かテロが起きているだろうなぁと思いながら僕は観ていた。
この国の国民は、もしかしたら<とても裕福な奴隷>なんじゃないかとふと思った。
よく言われるように、歳入ではなく、歳出の見直しからというのは当然であるが、例えば現在の国家予算を根底から覆し、国家公務員を激減させ、あらゆる公共事業を停止し、各省庁を廃止し、超緊縮財政を行う勇気がある政府が誕生する可能性があるかと言えば、ほぼ0に近いだろう。
なぜなら、本当の意味で国民みんながそういう劇的な変化を望んでいないからだ。
それは世界観の問題で、この頃よく思うのは、目の前の世界と向き合った時に、「これが世界なんだ」という受動、「こんな世界は認められない」という否定、「これが世界なら自分から関わりたくない」という逃避ーどれも決して間違っていないのだということ。問題は、このうちのどれか少数派に入ってしまえば、必ずより大きなストレスを社会から受けることになるということだ。
たとえば東京の街を歩いていると分かるのだが、大通りはビルという巨大な壁によってほとんど塞がれている。
それを観ながら、僕は時々「これは一体誰が望んだ世界なんだろう?」と思う。少なくとも僕は何車線もある大通りも高層ビルも望んではいない。
僕が住んでいるアパートは4畳半・風呂なし・トイレ共同だが、それでも家賃2万4千円する。確かに絶対値としては安いけれど、もし<家賃>というものが存在しなかったら、その分で牛丼何杯食べられるだろう。
「ここは地球なのに、どうして暮らすのに家賃を払わなければいけないんだろう?」と僕は時々思う。
以前にも書いたが、<ニート>と呼ばれて現実逃避している人たちやあるいは世界そのものから逃避する<自殺者>は、他の価値観を持った人たちからどうして否定されなければいけないんだろう?
戦争というものを考える時、「どうして自国民を守って他国民を殺さなくてはいけないんだろう?」と僕は思う。どうしてもそういう状況に陥ったなら、まず殺すべきは国家であり、国なんてなくなったっていくらでも交換可能であり、人の命は交換できないというのに。
<革命>は、多くの人たちから望まれなくなったから歴史の舞台の隅っこに追いやられた。
人気のなくなった役者のようなものだ。
このまま消えてしまうのか、いつか歴史の舞台に再び登場することがあるのか(あるとしてもどれ位のスパンでか)、僕は知らない。
けれど、少なくとも僕の心の中ではずっと生き続けているということは、宣言しておいてもいいと思う。
形を変えながら、細々とだけれど。
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