just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2004年12月31日(金) 個人的にも激動の一年、終わる
  「毎日唐揚げしか買わへん気持ち悪い人」

僕はこのコーナーを書く時、なるだけ他の人がなかなか気付かない、もしくは言い出しにくいような、日常に潜んだ凶器(変換間違いちゃうで)を取り上げたいと思っている。誰でも気付くようなことは何処かで誰かが書いているだろうから、僕がわざわざ書くこともないだろう。だから、大きなニュースがあったとしても、そのニュースの本質とは直接関係ない部分について書くことが多い。

と前置きをしておいて、奈良の女子児童殺害事件の容疑者が昨日逮捕された時に気になったことを書きたい。
この事件の本質とは全然関係ないけど、こういう事件が起きた時の報道に触れて、必ずと言っていいほど僕が感じることをやはり今回も感じたので書くことにした。
容疑者が逮捕された後、報道各局は必ず近所の人たちに容疑者がどんな人物だったかインタビューする。
僕は本当はそれもどうかと思っている。
犯罪そのもの以外のプライバシーの部分はやはり保護されるべきだと僕はしつこく思っているから。
でも、今回はそういう大括りの問題ではない。
容疑者が通っていたコンビニの店員がインタビューに答えて放った言葉が冒頭の台詞。
はっきり言うけど、これは明らかに100%差別発言だ。
そう感じない鈍感な人間がこれを堂々と放送しているのだ。
もしくは犯罪者に対してはどんな差別的な言葉を浴びせても構わないと思っている積極的な差別主義者だ。
これを例えば自分自身に当てはめたら、僕は「毎日麦茶しか買わへん気持ち悪い人」になる。
けれど、僕は犯罪を犯していないからたまたまそういう風に口に出して言われないだけであって、彼は犯罪を犯したからそんな差別的発言をされる。
この発言と彼の犯した犯罪は本質的になんの関係もないのだから、そんなこと言われる筋合いはない。
これがもし「被差別部落出身の気持ち悪い人」という発言だったら大問題になるのが、「唐揚げしか買わへん気持ち悪い人」だと問題にならないということこそ問題だと僕は思う。

これが日常の凶器だ。
スケープゴートを作り上げる精神構造なのだ。
一度矢を射られた羊に、またみんなが寄ってたかって矢を射っているのだ。


  2004年12月29日(水) この冬の初雪
  今年の文字「災」

ちょっと古いニュースだけれど、毎年その一年を象徴する漢字一文字を発表し、清水寺のお坊さんが揮毫するという行事が12月半ばに行われている。
一年を一文字で表すことなんて、この多様な時代に不可能だと思うが、何故か毎年もっともらしく行われ、大々的に報道もされている。
ちなみに去年の一文字は「虎」だった。阪神タイガースがセ・リーグで優勝したからだが、全く的を射ていないとしか言いようがない。
で、今年。
「災」という文字が発表された時、そんな文字を選ぶくらいだったら、こんな企画とっととやめた方がましだと思った。誰かがこの企画で得をするから続けているのだろうか?確かに数々の災害があったが、今年をその一文字がすべて覆い尽くしているだろうか?

ちょっと話題は逸れるが、「最近の地球はおかしい」とか「人類が地球に与えている影響は・・・」とかよく言うけれど、そういう意味で言うなら地球は多分46億年前からずっと「おかしい」し、少なくとも全生物が絶滅するような状況になっていないだけマシだとも言えるし、環境破壊は確かに深刻な問題だけど、人類も地球の一部だとしたら、これも地球誕生から抱えている問題の一つにしか過ぎないとも言える。

話題を戻す。
何故か今年の文字を12月半ばという中途半端な時期に発表するのも意味が分からない。どうしてもその一年の文字を選びたいのなら、一年がすっかり終わって、次の年に発表すればいいんじゃないのか。
と思ったのは、スマトラ沖地震があったからだ。
「災」という文字が災いを呼んだようで、僕はこの馬鹿げた企画を今年限りで終わりにすることを望む。


  2004年12月26日(日) 風邪、喉が痛い
  詩における権威主義〜相田みつをのこと〜

中学生が書初めに相田みつをの詩「花はたださく ただひたすらに」を書いたところ、教師がその言葉に対して「こういう人たちの言葉だ」と言って頬に傷(やくざということ)を示し、それが原因でその生徒が同級生からイジメにあったということに対する裁判の判決が出たと先日ニュースで伝えていた。
それは確かに判決通り「教育者として不適切な言動」だろう。しかし、僕が気になったのはそのことではない。

報道では、その言葉を相田みつをの言葉と知らなかった教師の無知にも触れていたし、その詩をやくざの言葉だと表現した教師のセンスについても批判的な調子だった。
僕がまず思ったのは、教師が相田みつをの詩を知らないことを誰も責められないということ。そして、「やくざの言葉」かどうかは別にして、「花はたださく ただひたすらに」という詩がいい詩かどうかは疑問であるし、少なくとも僕はなんの感銘も受けないということ。
その教師は確かに馬鹿だが、それは生徒へのイジメを助長したという点で馬鹿なのであって、相田みつをのよさが分からないから馬鹿なのではない。
相田みつをの書をカレンダーにしたものを見たことがあるし、他の場面でも何度か作品に触れたことはあるが、僕は一つとして心打たれたことがない。
たとえば金子みすゞが一時ブームになった時も、僕もやはり詩を何篇か読んでみたがいいとは思わなかった。
素朴な言葉のよさというものは確かにあるし、素朴であるからこそ多くの人が共感する要素があるのかもしれない。
しかし、たとえ大勢の人が支持しているからと言って、それを「よし」としない者を責める権利は誰にもない。

あらゆる芸術分野において、大衆の支持を受けたものを批判することが難しい雰囲気(状況)というのは悲しい。


  2004年12月16日(木) 朝、道端に紫色のイボ付きバイブが落ちてた
  眞鍋かをりの「ボタン」

昨日深夜、テレビ東京の「やりにげコージー」(司会・今田耕司、東野幸治)という番組に眞鍋かをりがゲスト出演していた。
僕は以前から彼女の言動にちょっと注目していたのだが、この番組で彼女はかなり大胆な告白をしていた。
それは彼女の幼い頃からの習慣の話。
「ボタン」を緩め(ちょっと糸を長め)に縫いつけた布を普段から持ち歩いていて、新幹線の移動中とかでも、鞄の中に忍ばせたその「ボタン」をいじっていると落ち着くし、或る種の性的な快感も得られるとのこと。
更に、これは番組中にも実践して見せていたのだが、独りの時にはその「ボタン」で膝頭をやさしく刺激してみたり、口の中に「ボタン」を入れて、布を激しく振って歯と「ボタン」をカチカチ鳴らしたり、最後には「ボタン」で顔を撫でながら目を閉じて恍惚の表情を浮かべていた。
その習慣(というか或る種の性癖に近いが)をテレビで公表していることも凄いが、話だけではなくて実際にそれをやってみせている眞鍋かをりはかなり凄かった。それを見て、僕は今まで以上に彼女が好きになった。

ところで、それで思い出したのだが、幼い頃から或る種の「もの」に触れることによって安心感を覚える女性を僕は他にも何人か知っている。
その「もの」が眞鍋かをりの場合はたまたま「ボタン」だったのだが、タオルケットやぬいぐるみをボロボロになるまで触わっている(使っている)女性がいる。
僕は男性ではこういう話を聞いたことがないが、或る種の「もの」に触れることによって、不安を穴埋めしようとする行為は、女性に特有の習慣なのだろうか?
精神分析学や心理学では何か結論が出ている話なのかもしれないが、その結論とは関係なしに、僕はそういう彼女たちを愛おしいと思わないではいられない。


  2004年12月15日(水) ゴルゴ13シリーズを買う
  白雪姫

福岡でスナックを経営していた女性が元夫を二人殺して保険金を取っていた事件の初公判が行われたのは二日前。
その事件に関して幾つかの報道を見たのだが、その中で気になったのが「白雪姫」という言葉。
彼女は若い頃の写真を見てもかなりかわいいが、元々資産家の娘だということもあってか、幼い頃(若い頃)は「白雪姫」と呼ばれていたらしい。
しかし、はっきり言って古いネーミングだ。
彼女が49歳だから仕方ないが。
で、僕が思い出したのは、かつて「白雪姫」と呼ばれていた天地真理。
調べてみると、天地真理は1951年生まれの53歳。もしかしたら、その影響で彼女も「白雪姫」と呼ばれていたのかもしれない。今の天地真理に勿論「白雪姫」の面影などないが。

元々「白雪姫」は、その美しさ故に憎まれ、毒を盛られ、王子様の口づけによって再生するという物語。
しかし、この現実の二人の「白雪姫」の末路はどうだろうか・・・。
王子様は現れないということを示しているのだろうか。
それともこの先に「再生」はあるのだろうか。
そう考えると、「白雪姫」というのは余りにも残酷な愛称のように思えてならない。

僕は彼女たちのことを考えながら、泉谷しげるの「白雪姫の毒リンゴ」を独り口遊んだ。

♪僕たちに今一番必要なものは熱い恋や夢でなく
♪眩しい空から降ってくる白雪姫の毒リンゴ


  2004年12月9日(木) ちょっと歯肉炎
  振り込め詐欺

こういう言葉ってすごく気になる。
まさにこのコーナーのテーマにぴったり。

「オレオレ詐欺」の手口の巧妙化、多様化によって、その名称では同様の犯罪全体を捉えきれないということで、警察庁によって改名の発表があった。
その改名後の名称がこれ。

よく詐欺師たちは「騙す方が悪いんじゃなくて、騙される方が悪い」というような言い方をするけど、その言葉を翻訳すると「騙す方が騙される方より頭がいいのだから、騙すという能力を使って金を得ることには正当性がある」ということだろう。
勿論僕はそうは思わない。
多少頭がいいことで人を騙して構わないなんて論理は成り立たないし、詐欺に対する刑罰が軽すぎる(十年以下の懲役)から、こういう輩がのさばるということもあると思う。
僕の刑罰論を細かく話し出すと長くなるし今回のテーマから逸れるので、ここで簡単に言うなら、詐欺であろうが他の罪であろうが、その悪質性が高ければ極刑にすべきだと僕は思っている。極刑とは何かというのもまた別の問題なのだが。

と、ここまでは実は前置き。
僕が今回本当に書きたいのはこの名称がどうのこうのということではないし、刑罰論でもない。
今年の1月から10月までにこの手の犯罪による被害総額がおよそ220億円(!!!!!!!)ということ。
220億?
どういうこと?
何それ?
そら、詐欺するわ。
それだけの市場(マーケット)がこの国にあるってこと。
そんなに金持ってて何が不景気やねん!
詐欺で騙し取られる前に、金持ちからはもっとどんどん税金を搾り取るべきだ。


  2004年12月6日(月) 映画「血と骨」を観る
  失踪宣告〜手さぐりゲームの思い出〜

生まれてから今まで、誰かの失踪宣告をするなんて思わなかった−と言えば嘘になるかもしれない。
小さい頃からちょっとした予感はあった。
けれど、それが現実になると、やはり複雑な気持ちだ。
一人の人間がこの世から失われていると宣告する訳である。
よく考えてみると恐ろしい話だ。
そのために僕は東京家庭裁判所に何回か足を運んでいる。

叔父(父の弟)の話だ。
父の弟といっても養子だから話はちょっと複雑になる。
もう30年以上音信不通だ。
東京の大学の夜間部を卒業して就職したはずなのだが、その辺りから連絡がないようだ。
父が生前そのことで何度か怒声を発しているのを聞いたことがある。
叔父が大学を出るための金は父が出したらしい。
今更という話だが、祖父も父も既に亡くなっていて、祖母もかなり年を取ってしまったので、相続の時に揉めたくないということで(遺産なんてほとんどないが)、今回調べてみたら、どういう理由かは分からないが、住所も「職権消除」されていて、何年も前からどこにもいないことになっていた。
生きているか死んでいるかも分からない。
正直な話、僕にとってはどちらでもいい。
ただ、もしも生きていて会う機会があるのだとしたら、ひとつだけ伝えたい話がある。

確か僕が幼稚園を卒園する間際のことである。
何かの理由で叔父が東京から何日間か帰郷していた。
僕にとっては珍しい存在だったので、まとわりついて遊んでもらったりしていた。
ある日、叔父が再び東京に戻るということになった。
何故かその日僕は叔父を駅まで送りに行くと言って、近くの駅まで妹と二人で付いて行った。そして、どういう理由でか分からないが、僕も一緒に東京に行くと言い出したのだ。
叔父は困ったらしく、僕と妹を近くのおもちゃ屋へ連れて行って、「おもちゃを買ってあげるから帰りなさい」と言った。
僕たちはおもちゃを買ってもらうと、もう一緒に付いて行くとは言わなくなり、そのまますぐに家に帰った。
それが叔父を見た最後である。
そして、その時買ってくれたのが、「手さぐりゲーム」だった。
外からは中が見えない箱の中に、色々なもの(動物の形をしたものやコインの形をしたものやスプーンやフォークの形をしたもの)をあらかじめ入れておく。そして、カードを1枚ひいて、そこに指定されているものを手さぐりで取り出すというだけの単純なゲームなのだが、幼い僕たちには充分面白かった。
妹や友だちとよく遊んだものだ。
しかし今思えば、なんと象徴的なゲームなのだろうか!
「手さぐり」という言葉が、まさに僕と叔父を繋ぐキーワードになってしまった。

ちなみに、中の物に「白いコイン」と「赤いコイン」というのがあった。これは手で触るだけでは分からない(色が違うだけで形は同じなのだ)はずなのだが、当時の僕は必ず引き当てられた。
その秘密は・・・教えられない。


  2004年11月26日(金) 満月かと思ったら14夜
  今更だが、ヨン様に群がる者たちへ

正直どうでもよかった。
興味もなかった。
何年か前にレオナルド・ディカプリオを「レオ様」とか呼んで追いかけてたのと同じ精神構造の奴らが、今度は「ヨン様」と言っているだけであって、消えて行くだけの情熱と金を眺めている暇は僕にはない。
ただ、今回彼(ペ・ヨンジュン)が泊まっているホテルまでファンが押しかけ、怪我人が出たという報道に触れ、書かなければいけない一連の想いがある。

まず、その「ファン」と呼ばれる奴らをストーカーとして逮捕すべきであるということ。厳しい言い方だと思われるかもしれないが、僕は前々からそう思っていた。
誰を応援しようと、写真集を買おうと、握手会に参加しようとそれは勝手だ。その相手が公の活動(ギャラが発生している仕事)をしている限りにおいては。しかし、相手のプライベイトな生活の部分にまで入り込もうとする時、それはストーキング行為以外の何ものでもない。そこにはっきりと線を引くことのない曖昧さに僕は常に怒りを覚えるし、この曖昧さを日本人の美徳と言うなら、日本人なんて滅びてしまえばいい。
しかし、それは「ファン」だけではない。プライベイト(ギャラが発生していない部分の生活)を覗き込むマスコミもストーカーとして逮捕すべきであると、これも以前からずっと思っている。プライベートな生活に向けられるカメラのフラッシュ、レンズ、マイクロホン・・・これは純粋に100%暴力である。
報道の自由という言葉があるが、暴力である限り、自由が認められてはならない。
繰り返す。
それは純粋に100%暴力である。
何度でも繰り返す。
それは純粋に100%暴力であるし、僕はそれを許さない。

「有名税」などという馬鹿げた言葉がある。
しかし、そんな税金はないし(勿論実際にない)、もしもそういうものを「まあまあ」と言いながら認めてしまおうという風潮が今も続いているのだとしたら、それは即刻排除されるべきだ。しかも、徹底的に。

関連した話で、昨今の情報化社会において、個人情報の漏洩問題が数々報道されているが、それすら「ごめんなさい」で許されているような現状がある。これも「見えない暴力」であるとどうして認識できないのだろうか?僕から言わせれば、個人情報を漏洩してしまった企業は、その企業の存続まで含めた厳重な罰則を科せられるべきである。

ひと言で言うと、「ぬるい」のだ。
暴力に対して「ぬるい」社会なのだ、ここは。
ここというのは、この世界は、という意味だ。


  2004年11月25日(木) 月がみるみる膨らんでゆく
  義援金〜「ドラえもん募金」から見えて来ること〜

正確な数字を持ってないので、まず謝っておくけど、新潟中越地震への「ドラえもん募金」が1億数千万円に達したと主催者であるテレビ朝日が報道していた。僕はそれを聞いて、その金額が余りにも少ないことにちょっと愕然とした。
僕は「ドラえもん募金」という名称自体どうかと思っているのだが、それは別として、電話1コールすることで100円募金されるというシステム自体どうかと思う。募金にも様々な方法があった方がみんなが利用しやすいということはあるのかもしれない。100円というのは子供でも募金出来る妥当な金額設定なのかもしれない。けれど、1億円位だったら、ちょっとした金持ち一人が出せる金額ではないだろうか(金持ちはそんなに募金しないものか?)。それに、1億数千万円程度で一体あの状況の何をどれだけ救えるのか。塵も積もれば、とは言うが・・・。
出来ることなら、日本赤十字社とかが、統括して様々な形態の募金をすればいいと思う。それに対して様々な機関が協力すればいいのだ。そうすることによって、全体の募金がどれだけで、復興のためにはまだどれだけ足りないかとかいうことが誰にでも分かりやすく見えてくるはずだ。
こう書いている僕だって「ドラえもん募金」はしていない。コンビニの募金箱に少しずつ小銭を入れる程度だ。しかし、たとえばライヴドアでも楽天でもいいのだが、球団を買う金、新しい選手を雇うポケットマネーがあるんだったら、それをそのまま募金すればいいじゃないか。それだけで軽く億を超えるだろう。「ほりえもん」とか言ってる場合じゃない。もしも僕が知らないだけで、今名前を挙げた会社や個人が億単位で募金をしているのであれば素直に謝るが。

話はちょっと逸れるが、僕はこの世に金持ちはいらないと思っている。と言うとコミュニストと呼ばれたりするが、別にコミュニストでも何でもいいんだけど、もしも福祉が必要だと考える人がこの世の大多数だとしたら、まず金持ちからがっぽり金を取ってそれを福祉に回し、もしもそれでもどうしても足りないのなら、貧しい人からも取るようにすればいい。たとえば大豪邸に住むこと自体、僕には犯罪行為にさえ思える。一人の人間が住むためにどれだけのスペースが必要なのか?少なくとも僕は四畳半で充分だ。
「たくさん稼いで贅沢な生活をする」という発想から、「たくさん稼ぐのは社会の役に立つため」という発想への転換がない限り、僕はこの国やこの国の国民に対して「YES」と言うことはないだろう。
国家が必要なのは、極論すれば「治安と福祉のため」だけだと僕は思っている。僕が純粋にアナーキストではないのはその点だけだ。それ以外に国家というものに僕は必要性を認めない。
話は本当に逸れてしまった。でも、僕の中ではこれらはひと繋がりの話なのだ。


  2004年11月20日(土) 夕暮れの仲宿商店街をぶらぶら歩く
  包み渡し

この行為の正式名称を何と言うのか僕は知らない。
誰が開発したのかも知らないし、もしかしたらどこかで伝統的に行われてきたものが突如流行り出したのかもしれないが、それも分からない。。
2、3年前に初めて出くわして以来ずっと気になって気になって仕方ないこの行為を、僕はとりあえず「包み渡し」と呼んでいる。
みなさんはこの行為に出くわして戸惑ったことがないだろうか?

「包み渡し」とは、コンビニやファミリーレストランや居酒屋のレジでおつりを返される時、店員が上からはおつりを持った手で、下からはもう一方の手で、おつりを受け取る客の手を包み込むようにお金を渡すやり方のことを言う。
初めてこれを体験した時、僕は思わず「えっ!?」って叫びかけた。確かその店員は中年女性だったと思うが、僕に好意を抱いているのかと勘違いしそうになった。というかちょっと勘違いした。普通は相手に好意を抱いていない限りしないような行為だからだ。その時僕は嬉しいというより、ちょっと気味悪くさえ感じたのを覚えている。。
それ以来何度となくこの「包み渡し」を体験してきたが、未だに慣れることがない。かわいい女性からされるとドキドキしてしまうし、男の店員にされると気持ち悪くて仕方ない。多分相手は「丁寧」なつもりでやっているのだろうが、僕はこういう行動を「丁寧」とはとても思えない。どちらかというと「ありがた迷惑」に近い。「ありがた迷惑」とは、有難かろうがなんであろうが結果的に迷惑なのである。

ちょっと関連した話で言えば、「ご注文はこれでよろしかったですか?」という奇妙な過去形(これはwould you〜?とかcould you〜?と過去形にすれば丁寧になるという発想から来ているのだろうか?)とか「お名前様を伺ってよろしいでしょうか?」の「お名前」に「様」まで付ける馬鹿丁寧さに対する僕の中の違和感に似ている。これらの行動やもの言いを自主的にかマニュアル通りか知らないが行っている店員達は、僕が感じているような違和感を一切感じていないのだろうか?だとすれば、僕がかなりズレているのだろうか?

僕はこの「包み渡し」の廃絶運動のためなら先頭に立ってもいいとさえ思っている。


  2004年11月16日(火) 筆ペンがマイブーム
  「あんたの苗字は『ペ』ですから、残念!」の残念

波多陽区が流行っている。
流行語大賞に3つもノミネートされているらしい。「間違いない!」はノミネートもされていないのに・・・(僕は納得出来ないのだが)。
彼が例のネタをCDにしたらしい。その中に入っているネタの一つに、ヨン様ことペ・ヨンジュンを扱ったものがあり、それが今回のテーマ。
ヨン様、ヨン様って言ってるけど、ペ・ヨンジュンと結婚したら、「あなたの苗字は『ペ』ですから、残念!」というネタなのだが、これは明らかに間違っている。
知っている人も多いと思うけれど、韓国では結婚しても女性は男性の籍に入らない。だから、例えばイさんという男性とキムさんという女性が結婚しても、キムさんの苗字はキムのままなのだ。
これは今日本でも議論されている夫婦別姓の問題とは別の、韓国(朝鮮)の古い家制度の問題なのだ。しかし、その是非を今ここでは問わない。
無知も仕方ない。それは情報の欠如だけだから。大切なのはその先だ。自分が持っている常識とは異なった文化に触れた時、それを拒否したり、破壊したり、無視したりする前に、吟味するという姿勢があるかどうかだ。異文化を見つめるということは、即ち自分の文化を見つめなおすということでもあるのだから。
今、韓流ブームというが、韓国に行って「冬ソナ」のロケ地を歩いて、俳優の写真集を買い、ついでにカルビを食べて免税品を買って帰るだけのブームならすぐに去ればいい。
韓国人が好きとか嫌いとか、日本人が好きとか嫌いとかいう問題ではなく、異なる文化とぶつかり合った時に生まれてくる<新しい文化の疼き>こそが、「残念!」の先まで歩いていって手で触れるべきものなのだ。


  2004年11月15日(月) 雨のち曇りのち晴れ
  歩行者優先信号機

今朝ローカルニュースを見ていると、横浜市で歩行者信号が常時「青」の信号機が試験的に設置されたとのこと。そこは住宅街で車通りも少なく、停止線に車が停まった時だけセンサーによって信号が変わるというシステムらしい。
遅過ぎるくらいだ。
元来信号機は何のためにあるのか?
それは間違いなく車対車及び車対人の「事故防止」のためであり、かつ「歩行者保護」のためである。だから、優先されるべきは、これも間違いなく歩行者なのだ。
普段車に乗り慣れている人たちは、車からの目線でものごとを捕らえがちである。しかし、冷静に考えてみれば、車というのは明らかにかなりの殺傷能力を持った凶器であり、その凶器から歩行者が身を守られるということが最優先されて当然である。
これは反社会的であろうと敢えて公言するが、歩行者は赤信号で停まる必要などない。もし、僕に子供がいたら必ず教えようと思っていることは、信号の「青」は進め、「赤」は停まれはあくまでも目安であり、一番大切なことは、信号が「青」であれ「赤」であれ、左右を確認して車が走って来ていなければ渡ってもいいということだ。逆に青信号であっても、走って来ている車がちゃんと信号で停まるとは限らない。だから、その場合はちゃんと運転手を見て、アイコンタクトを取ってから渡るように教えたい。
この場合一番大切なのは、ルールそのものではなく、身を守るためにはどうすべきかということと、社会が作ったルールに対して自分がどういう態度を取るべきかは自分で判断するという姿勢を常に身に着けるということだ。
蛇足になるが、車は人や物にぶつかったら自らが潰れて相手を守るようなシステムを採用すべきだと思う。以前この話をある人にしたら、「そんな車、売れない」と言われた。もっともだ。しかし、それでも・・・と僕は今も思っている。


  2004年11月13日(土) 木枯らし一号なのか?
  「どあした」

今日の昼、バイト先の事務所の近所の中華料理屋で食事をした。
バイト柄、現場近くで食事することが多く、事務所の近所で食事することは稀なのだが。

その店は以前にも何回か行ったことがあり、厨房もホールも中国人がやっている店でなかなか美味い。ホールの女の子(24、5才位)はえくぼがチャームポイントのなかなか可愛い子だ。
僕らが注文すると、その子は、
「かしかした」と言った。
「えっ!?」と思ったけど、よく考えてみると「かしこまりました」が上手く言えないのだと分かった。確かに日本人でも「かしこまりました」はちょっと発音しにくい言葉だ。仕方ないだろう。
それで思い出したのだが、前回、何ヶ月か前にその店で食事した時は、彼女は注文(ランチの番号を教えるだけ)に対してうなずくだけだったような気がする。
ちょっとは進歩したんだなぁと思っていると、彼女は会計が終わったお客さんに対して、
「どあした」と言っているのである。
「どあした」?
と考えてから僕は自分のツボを強烈に刺激されたことに気付いた。
どうやら彼女は「どうもありがとうございました」と言っているのだった。
「どあした」と「どうもありがとうございました」。
彼女、いくらなんでも縮め過ぎやで。
可愛いから許すけどな・・・。


  2004年11月9日(火) 日曜日は父の七回忌の法要だった
  「谷仮面」のオチ

時々「こんな漫画あったのか!」という漫画に出会うことがある。先日大阪の漫画喫茶で出会った「谷仮面」もそのひとつだ。僕が漫画好きだと知っている人たちはどうしてこの漫画を教えてくれなかったのだろう?
その漫画喫茶は「逆境ナイン」も揃っていたし、いい漫画喫茶だったのだが、肝心の「谷仮面」(完全版)の最終巻(第6巻)だけがないのだ。仕方なく東京に帰ってきてから行きつけの本屋に行って店員のおねえさんに「『谷仮面』はありませんか?」と尋ねたら、広いフロアーを最短距離で案内してくれた。あれこそがプロだ。で、早速最終巻を購入した。(とここまでは前置き)

「谷仮面」の主人公は谷君という高校生だ。そして、まさにその名の通り、普段から仮面を被っているのである。それが特に大きな問題としても扱われず、それが普通に谷君であるという設定の下、この格闘系純愛ギャグ漫画は進行していく。
僕が読み始めて素晴らしいと思ったのが、その仮面について思わせぶりな過去や因縁を一切語らず、それをそのままひとつの小道具として描いているところだった。「だった」というのは何かと言うと、最後の最後になってにその仮面の意味が語られてしまうからだ。
確かに全体を通して「谷仮面」は素晴らしい漫画だ。何回も笑った。しかし、最後の「オチ」に関しては是非の別れるところだと思う。果たしてこの仮面に意味付けは必要なのか?僕個人としては最後まで触れないで欲しかったのだ。
物語論は蓮實重彦にでも任せていればいいのだが、あえて言うなら、「谷仮面」が回を重ねるごとに凡庸さを増していくのは、残念ながら「物語」のせいだ。そして、最後には仮面までがその「物語」に加担してしまう。仮面というのは元来とても演劇的な存在ではある。しかし、これもあえて言うなら、「谷仮面」の前半のよさは、その仮面を「物語」から救出しているところにあるとも言えると僕は思っている。
「谷仮面」は変身もしなければ、仮面の下に「物語」を隠し持ってもいない・・・それこそが「谷仮面」の魅力そのものではないのか?だから、結局「物語」を隠し持っていた仮面が割れるという「オチ」に僕は幻滅した。少なくとも僕には仮面の「物語」は必要ではない。
とはいえ、これはかなりいい漫画だ。仮面の上に落書きされた後の「谷君に表情がある!」という台詞とその時の落書きされた顔は素晴らしかった。谷君が島さんの弟のおもちゃを握りつぶすところも。(まぁ、とにかく読んでみて下さい)


  2004年11月2日(火) 明日第78回フォークジャングル
  被害者は正義ではない

島田紳助が吉本興業のマネージャーの女性を殴ったというニュースが先日からしきりに報道されている。
島田紳助は謝罪会見で「僕が全面的に悪かった」と非を認めていたが、一部の芸能人や一部の報道に彼に同情的な部分があるのも事実だ。
僕は「暴力」は全面的に「非」であると思っているので、情状酌量の余地があるかないかは別にして、島田紳助はそれに相当する罰を受けるべきだとも思っている。
しかし、今回の事件ではっきりさせなくてはいけないこと、そして、他のあらゆる事件においてもはっきりさせなくてはいけないことは、「被害者は正義ではない」ということだ。
「被害者」は「被害者」でしかない。
それがあたかも「正義」であるかのように拳をふりかざす時、僕はそれ自体に「非」があると思わざるを得ない。
勿論「被害者」には「加害者」に対して損害賠償や謝罪や相当な刑事罰や民事罰を要望する権利がある。それは権利があるというだけで、振りかざすべき「正義」もなければ、当然ながら本質的に「正義」でなんかあり得ない。

そう、僕はアメリカについて思いを巡らせていた。
9・11で確かにアメリカは「被害者」だった。
しかし、「被害者」だからといって「正義」なのではない。
その後の「報復」によって「加害者」になったアメリカ(もともと加害者だったとも言えるが)は、明らかに「非」の側にいる。
今大統領選を争っているあの大統領を始め、多くのアメリカ人が「正義(justice)」という言葉をよく口にするが、あんなものなんの根拠もない。
僕は、彼らの言う「正義」なんて「笑点」の座布団のようなものだと思っている。歴史上、「正義」なんて言葉を振りかざしたあらゆる者たちは、ただ勝手に座布団を持って来て、他の者より高く積み上げて座っていただけに過ぎないと思っている。
「正義」という言葉がこの世から葬られる日が来ることを祈らないではいられない。


  2004年10月25日(月) 思い出したような秋晴れ
  己を知る

今朝こんな出来事があった。
道を歩いていると、前方から車が1台走ってきた。
すると、道の横の家から突然猫が飛び出してきたのだ。
「はっ」と思ったとたん、運がいいのか悪いのか、その猫は車の車輪に真横からぶつかって、自分でも驚いたらしく、別の方向へ駆け去っていったのだ。もしかしたらかすり傷くらいは負っているかもしれないが、その走り去り方を見ていると、命に別状はないようだった。
猫の飼い主らしきおばさんも慌てて家から飛び出してきて、「目を離すとすぐに飛び出すのよね」と青ざめた顔で呟いていた。

その一部始終を見ていた僕は、ふっと我に返った時、自分自身のことに気付かされたのだ。
僕が一番最初に思ったことは、「猫が死ぬのを見なくてよかった」ということだったのだ。
「猫が死ななくてよかった」ではなく。
ああ、僕はこういう人間なんだなと改めて気付かされた。
こんな風に自分の気持ちをコントロールしていない時に浮かび上がってくる想念こそ、自分の本性を表しているのだと僕は思っている。
時々人は僕のことを「優しい人」ということがある。その度に僕は謙遜でもなんでもなく、それを否定するようにしている。
たとえば、電車で座っていて、目の前にお年寄りが立っていたら僕はほぼ間違いなく席を譲る(それが老人の集団で、席を取り合うような人たちの場合は断固として譲らないが)。けれど、それは「優しさ」ではない。かと言って、偽善でもない。それは一種の生きる姿勢であるというだけだ。
開き直っている訳ではないが、人生にとって「優しさ」は最大級に大切なものだと僕は思わない。けれど、もしも人生の中でちゃんと「優しさ」というものを育んで生きている方たちがいたら、そういう人たちが国連の常任理事を勤めるべきだ。


  2004年10月24日(日) 第77回FJのミーティング
  「6強 6強 6強」という見出し

昨日新潟で震度6強の地震が3回あった。
NHKはずっとそのニュースを続けていたし、今朝の新聞各紙も勿論その記事が1面トップだった。
大抵の新聞は「新潟で震度6強3回」というような見出しだったが、スポーツ報知だけは、「6強 6強 6強」とスポーツ紙特有の太文字で紙面一杯に繰り返されていた。
アホか!
地震の大きさを強調する意図だろうが、これは明らかにインパクトだけを狙ったお祭り気分の見出しだし、被災者の方々や関係者の方々がもしそれを読んだらどう思うかなどという配慮が全くなされていない。報道機関として下の下だ。というか、クソだ。販売部数競争がこんな馬鹿げた見出しを生み出したのだということに悲しい怒りを覚えた。
いつかこのことに触れようと思っていたので話は逸れるが、「スポーツ新聞」はもうその名称を捨てた方がいいのではないか。
「誰々結婚」とか「誰々離婚」とかが1面を飾るような新聞が「スポーツ新聞」などと名乗るのはおこがましい。勿論芸能情報や三面記事なども含めて「スポーツ新聞」だという見解もあるだろう。けれど、それはもうただ慣習的なものに成り下がっているだけだ。
現在発刊されているいわゆる「スポーツ新聞」に対抗して、野球やサッカーだけが1面を飾るのではなく、ホッケーでもシンクロでも卓球でもフェンシングでも、その試合が素晴らしければちゃんと1面も飾るし、あらゆるスポーツを網羅した本当のスポーツ新聞(たとえばそれを「リアル・スポーツ新聞」と名付ける)の誕生を僕は切に願う。
きっと売れないんだろうなぁ・・・。


  2004年10月1日(金) 帽子に新しい赤い羽根
  インディペンデント・リーグ

遂に日本にもこの日が来たんだなぁと石毛氏のインタビューを見ながら思った。しかし、これはあくまでも序章であり、しかも、序章だけで終わるかもしれない序章だとも思いつつ。

今年プロ野球には色々な問題があり、このコーナーでも近鉄バファローズへの僕の想いを少し書いたりした。その後も巨人のオーナーの渡辺の辞任があったり、2日間のストがあったりして、各新聞紙上でもかなり大きく取り上げられ、連日テレビでも報道されていた。しかし、四国でインディペンデント・リーグを立ち上げるという今回のニュースは、その革新性に関わらず、あまりにも報道取り扱いが小さい。これは即ち、いかに世間が本質的な革新に対して鈍感であるかということの表れだと僕は思っている。
四国四県に各一球団作り、現行のプロ野球とは別組織としてリーグ戦を行うということは、僕の目から見たら明らかにプロ野球への挑戦であり、心から喝采を送りたいと思った。それでもきっと最初の頃はプロのOB選手を使って人気獲得を狙うのだろうなって思ったが、それも排除するという姿勢は更に素晴らしいと思った。しかし、ひとつ残念だったのは、「プロを目指す若者にチャレンジする場を」という発言。それでは結局大きな意味でプロ野球の「二軍」でしかない。僕は「みちのくプロレス」のことを考えながら、そして音楽業界で使われる「インディーズ」という言葉のことを考えながら、本来の意味からかなりかけ離れた所で使われているこの「インディペンデント」という言葉についてもう一度思いを巡らせた。
「インディペンデント」とは勿論「独立した」という意味だ。ところが、今使われている「インディペンデント・リーグ」も「インディーズ」も、明らかに「下部組織」もしくは「二軍」でしかない。つまり少しも独立なんかしていないのだ。特に音楽業界においては、「インディーズチャート」なんていうものがあること自体信じられない。それぞれが「独立」したレーベルであるはずのものがどうしてランキング化されるのか?まったく馬鹿げている。おまえらが「インディペンデント」なんて口にするな!
フォークジャングルはあくまでも、そしてどこまでも「インディペンデント」である。それがこの闘いの本質でもある。

なんなら、四国そのものが日本から独立するくらいの勢いでやっていいんじゃないのか?


  2004年9月20日(月) 敬老の日(ハッピーマンデー大々反対)
  関係ないけど、ラーメンの道

  
喜多方・まこと食堂          喜多方・源来軒
  
酒田・新月              秋田・えびや
  
能代・十八番             函館・王さん
  
長万部・こだわり           帯広・楽屋

9月5日から9月13日までの旅の間に食べたラーメンの数々。ランキングとかは敢えてしないでおく。
ただ、このうちの1軒は僕のラーメン人生の中でも心に残る一品だった。さて、どれでしょう?
左写真は帯広・楽屋にて。



  2004年9月20日(月) 敬老の日(ハッピーマンデー大反対)
  「ゆるくないねぇ」

この夏の長い旅の途中、函館から幕別へ向けてヒッチハイクしていた時のこと。
函館で最初に乗せてくれた方がとても親切な方で、家に帰ったら1回分残ってる青春18きっぷがあるからあげると言ってくれたので、お言葉に甘えてその方のお家にお邪魔することにした。
更に奥さんもいい方で、旅の途中で食べるようにと、特大おにぎり2個、プチトマトたくさん、枝豆もっとたくさん(!)をくれた。
その奥さんが、僕が幕別までヒッチハイクで行くと言った時に口にしたのが冒頭の言葉。
正確に言うと、「それはゆるくないねぇ」だった。
後から聞いたらやはりこの言い方は北海道弁らしいが、その時の僕にはすごく柔らかく温かい言葉に聞こえた。
この言葉は、普通の言い方だったら、「それはキツイねぇ」とか「それは大変だねぇ」とかになると思う。
これだとかなりネガティヴなニュアンスに聞こえる。
ところがこの「ゆるくないねぇ」という言葉は、否定形(「〜ない」という言い方)にも関わらず、全くネガティヴな響きに聞こえない。それどころか、分析的に意味を考えてみると、「大変なことかもしれないけど、とにかくやってみな」というエールさえ含まれているように感じる。
多分何気なく言われた言葉だろうけど、旅の間中、そして今も僕の心に沁みわたっている言葉だ。
改めて「ありがとうございます」と伝えたい。


  2004年8月20日(金) 台風15号の強い風の中
  「お兄様」

今日のバイト先はある大学。
校内にある理事長宅を点検しに行った時のこと。
夏休みでまだ起きたばかりのそこの子供たち(小学校低学年の女の子二人)が、点検している僕の後を珍しそうに付いて回ってきた。
そして、子供たちは僕に話しかけて、「ここは『お父様』の部屋なんだけど、すごく散らかってるんだよね」とか、「『お母様』、何処にいるのかな?」とか言っているのである。
そんなにお嬢様お嬢様した感じの子供たちではない(パジャマ姿だったし)のだが、躾というのは凄いものだなと思いながら、点検を続けていた。
すると、「『お兄様』、ここはもう点検した?」と言うのである。
「お兄様」?
なんと、僕のことではないか!
生まれて初めて「お兄様」と呼ばれた。
自分の妹に「お兄ちゃん」とさえ言われたことがない(名前で呼ばれていた)のに、いきなり「お兄様」である。
ちょっとこそばい気持ちだったが、悪い気はしないもんだなぁ、とも思った。
クセになりそうだ。


  2004年8月16日(月) 第77回フォークジャングルを終えて
  「そんなキレイ事じゃないような気がします」

オリンピック報道一色に染まっている中、実は夏の高校野球で素晴らしい熱戦(例えば今日の日大三高VS駒大苫小牧など)が繰り広げられている昨今、やっぱりオリンピックからの言葉が気になった。。
卓球の福原愛が熱戦の末、緒戦に勝った後、インタビューアーに「この1勝で次に自信が持てましたか?」という質問をされて答えたのが冒頭の言葉。
15歳ならではの答えだと思った。
多分彼女が意図しているのは「そんな生やさしいものじゃない」という意味を伝えたくて「キレイ事」という言葉を使ったと思うのだが、大人だったら(周りのことを意識していたら)、きっとそういう発言は出てこなかったと思う。これは批判じゃなくて、自分だけしか見つめる余裕のない者の本音の発言としてとても興味深かった。
ずっとプレッシャーを感じていないような素振りでいた彼女が、明らかに感じているプレッシャーと闘っている様は、オリンピックらしい光景だと思った。
オリンピックを観る楽しみ、そしてそこから自分が得られるものは、技の美しさ、勝負の駆け引き、努力の成果だけではなく、プレッシャーと闘う人間の姿にこそあると常々僕は思っている。


  2004年8月13日(金) 詩を一篇書き上げる
  「打てるのはキャッチボールの感覚なんですよ」

今週発売の「週刊ベースボール」(2004年8月23日号)を買った。
実は「週刊ベースボール」を買うのは生まれて初めてで、電車の中で読んでいる人を見かけ、何故か表紙が気になって買ったのだ。
その表紙とは、PL学園当時の桑田真澄の甲子園でのピッチング姿。
ちなみに桑田、清原は僕より1学年下で、ほぼ同世代と言える。
中に桑田真澄のインタビュー記事があり、冒頭の言葉を語っているのだ。
野球が好きな人にはよく知られていることだが、桑田はピッチャーだが、昔からバッティングも優れていた。ところが、ほとんどバッティング練習はしないらしいのだ。では、何故打てるのか?
冒頭の言葉に続けて、「捕れる球は打てるということです」と桑田は語っている。
ここまで読んで、僕は感動した。
なるほど、「捕る」感覚で「打つ」ということなのだ(多分)。僕も小さい頃はよく野球をしたが、そういう感覚は勿論なかったし、今までプロ野球の解説者がそういう言葉を語っているのを聞いたことがない。例えば、「来た球に素直にバットを出せ」というような言葉はよく聞くが、桑田の言葉はそんな言葉よりずっと具体的で分かりやすい。
桑田自身、高校時代から感覚的には分かっていたが、説明できるようになったのは最近だと言っているのだが。
こういう言葉を語れる者のことを「達人」と呼ぶのだと僕は思う。


  2004年8月11日(水) 東京の連続真夏日史上1位タイ
  驚異の高視聴率番組

今日のバイト先は東京のある区の複合施設だった。
スポーツセンター、老人ホーム、デイケアーセンター、児童館が一体になっている施設だ。
午後2時頃、老人ホームの居室を一軒一軒回っていると、恐るべき高視聴率番組に出くわした。僕が回った40〜50軒のうち、1軒を除いて他の全員(男女問わず)が同じ番組を観ていたのだ(ちなみにその1軒はサスペンスドラマの再放送を観ていた)。
その番組とは、NHKの「夏の高校野球」だ。
実際の視聴率はどうなんだろう?
今日の僕の統計の中では軽く90%を超えているのだが・・・。


  2004年8月9日(月) 長崎原爆祈念日
  「なまはげさん」

先日中学校の同期会(同窓会)のために大阪に帰り、妹の家にやっかいになった時のこと。
妹の家といっても、妹と妹の旦那(義弟)と甥っ子(1歳半・めっちゃかわいい)の家に一晩泊まらせてもらったのだが、その甥っ子がご飯を食べる時、母親(妹)の言うことを聞かずに歩き回っていた。
母親(妹)が何回注意しても聞かないので、しまいに「言うこと聞かへんかったら『なまはげさん』呼ぶで!」と怒り出した。
僕が「なまはげさん」って何かなぁと考えていると、母親(妹)は、電話の受話器を取り上げて「もしもし、『なまはげさん』ですか?うちに悪い子がいるんで来てもらえますか?」と言っているのだ(勿論実際にはどこにも電話を掛けていないのだが)。
「もう『なまはげさん』に電話したから知らんで』と言って、母親(妹)は奥の部屋に消えていった。
すると、ついさっきまでニコニコ笑っていた甥っ子が、何かを察したのか、ちょっと静かになった。
ほんの10秒後、なんと、節分の豆まきの時に使う紙製の鬼のお面を被った母親(妹)が、「悪いご(子)はどごだ〜!」と言いながら、甥っ子を抱きかかえて、普段使っていない暗い部屋の方へ連れて行った。
甥っ子は勿論大泣きしていた。
僕はその光景にすっかり呆気にとられた。
やがて泣きながら僕たちがいる部屋に戻って来た甥っ子に、お面を外して戻って来た母親(妹)が、「『なまはげさん』にはもう帰ってもらったからな。もう大丈夫やで」と言いながら優しく抱きしめてやる姿を見て、我が妹ながら、母親というのは凄いなぁとしみじみ思ったのだった。


  2004年7月5日(月) 銭湯で久し振りに紋々の人を見る
  「ウイルスバスター」というソフト

パソコンを買ってから半年程経ったが、これまでインターネットに繋いでいなかった。
理由は、プロバイダーとコースについてずっと悩んでいたことと、差し迫った必要性がなかったからだ。
しかし、遂に先日ADSL24MBの契約をし、7/5現在は、それが開通するまでのおためしコースとして電話回線でインターネットに繋がっている。
すると、早くもパソコンがウイルスに感染してしまい、勝手にパソコンを閉じようとするのだ(Windows XPの「LSASSの脆弱性」を攻撃するというものらしいのだが、「脆弱性」という言葉がなかなかいい響きだ)。大型電気店(Bカメラ)の店員に尋ねてみると、どうやら今年の5月辺りから大流行しているウイルスで、インターネットに繋いだだけで感染するという恐ろしい奴らしい。
で、早速「ウイルスバスター」なるソフトを購入して、インストールした。
検索してみると、パソコン内の全部で900個以上のファイルがそのウイルスに感染していたのだ。
「へぇー、こういうのって、ほんまに効くんやなぁ」と感心してからというもの、僕はほぼ毎日ウイルスを検索するのが趣味のようになってしまった。
また「ウイルスバスター」という奴は見ていてケナゲなのだ。
ちゃんとどのファイルを検索しているのか一つ一つ見えるし(勿論超高速なのだが)、時々まるで首を傾げているみたいにちょっとスローダウンしてみたりして、全然飽きない。
別に宣伝している訳じゃないけど、これはなかなかいい買い物をしたと思った。
今日も既に検索したし、多分明日もすると思う。