just like a diary

〜 日々の気になることを徒然なるままに 〜


  2004年6月23日(水) 昨日フォークジャングル通信発送
  「私を摘んでください」と言っているコスモス

今日のバイト先の東京都のとある区の福祉センターのある階でエレベーターを降りると、僕の目の前に「『私を摘んでください』と言っているコスモス」のような少女が、ピンクのエプロンを着けてぽつんと座っていた。
僕は一瞬絶句した。
ちょっとこの世のものとは思えないような美しさだったからだ。
と同時に何か違和感を感じたのだが、それは彼女が明らかにダウン症だったからだ。

この福祉センターには、ダウン症だけでなく、障害を持った人たちが何人も働いている。だからダウン症の少女(年齢はよく分からないのだが、15才から18才の間位ではないか)がそこにいても何の不思議もない。ただ、僕が驚いたのは、その少女(本当に「少女」という呼び方以外にあり得ない)が余りにも美しく、かつ、まるで僕を待っていたみたいにそこに座っていたからだ。

これは僕の偏見かもしれないが、ダウン症の人を今まで何人も見てきたけれど、僕にはみんな同じ顔に見えてきた。勿論男女の違いや年齢の違いなんかあるけれど、その顔付きは、ダウン症特有のひとつの決まった顔付きをしているといつも感じてきた。しかし、その少女は明らかに違っていた。というか、僕にも分かるくらい違っていたのだ。勿論彼女もダウン症特有の顔付きをしたいるんだけど、冒頭にも書いたように「『私を摘んで下さい』と言っているコスモス」に見えたのだ。
すごく偏見に満ちた見方をすれば、「彼女がダウン症じゃなければどんなに美しかっただろう」という言い方も出来るかもしれない。けれど、僕はそういう事とは全く無関係にそのままの彼女を美しいと思ったし、それ以外に彼女はあり得ないとも思った。
誰もが彼女を見てそう感じるのかもしれないし、僕だけがそう感じたのかもしれない。
声も掛けなかったし、勿論触れもしなかった。
ほんの一瞬の出来事である。
そのすぐ後に多分健常者で、彼女の仕事の指導しているらしい女性が彼女をその場から連れて行った。

彼女はあんなふうにしていつか摘まれるのをずっと待っているのだろうか?


  2004年6月18日(金) 散髪した
  「アイコ、入ります」

「アイコ、入ります。」
えっ!?
なに!?

確かに僕はアイスコーヒーを注文した。しかし、「アイコ、入ります」はないだろ。関西地方でアイスコーヒーをレイコーという習慣が昔あった(きっと今も一部では残っているのだろう)。そうしたら、「レイコ、入ります」なんだろうか?安もんのキャバクラみたいだ(行ったことないが)。
確かに業界用語、もしくはその店だけの符牒というのがある。昔僕が京都・大丸の地下食品売り場でバイトしていた時、トイレに行くことを「鴨川に行ってきます」と言っていた。
実は、こういうの好きなんだよなぁ。


  2004年6月17日(木) フォークジャングル通信をコピーに行く
  凶器としての日傘〜日常の無意識の暴力について〜

いつの間にか紫外線はすっかり悪者になってしまった。
お蔭でここ最近日傘を差している人が夏に限らずかなり多い。
で、あなたが自分の為にUVカットしているのは結構。別に文句はない。ただ、あなたが差しているその日傘は凶器なんだよだと言いたい。
雨の日ならかなり多くの人が傘を差している。だから人通りの多い中で傘を差していても、ほとんどの場合傘と傘がぶつかるくらいの事だ。しかし、晴れた日にいくら日傘を差す人が多くなったと言っても、ほとんどの人は傘を差さずに歩いている。そこに日傘を差した人が歩いてくると、状況は一変するのだ。日傘の骨(って言うの?)の外側に出っ張っている部分が、丁度歩いている人の目の高さ辺りになり、注意していないと目を傷つけられかねない。そして、日傘を差している側の人は、そのことに関して案外無頓着なのだ。自分が「凶器」を持ち歩いていると意識している人はほとんどいないのではないか。僕は日傘を持っている人の側を歩く時にはすごく神経を使う。相手が無意識でいると思うから余計だ。
歩き煙草が凶器になるということは時々言われている。僕から見れば、煙草の火が付いている部分を外側に向けて持ち歩いている人は、松明を振り回している原始人に見える。存在そのものが手の施しようのない凶器に見えるのだ。
車やバイクや自転車が凶器になり得るということも言うまでもない。つまり、それを意識しているかどうかの問題なんだ。
小学生がカッターナイフを持つことについてどうのこうの言っている場合じゃない。使い方によってはなんだって凶器になるのだ。


  2004年6月14日(月) 梅雨の晴れ間
  「近鉄・オリックス合併」の無念

近鉄バファローズ。
近鉄バファローズ。
近鉄バファローズ。
僕と父親を繋いでいたものは、将棋と近鉄バファローズだった。
やくざだった父が、山口組と一和会の抗争があった年、ほぼ丸一年間家に帰って来なかった。父が家に帰ってこないこと自体には慣れていたし淋しくもなかったが、そんなに長い期間は初めてだった。その年、父から僕宛に唯一届いた葉書、そして、結局人生を通して父から僕に唯一届いたその葉書は、「近鉄バファローズ優勝おめでとう」という言葉で始まる短い葉書だった。父は大の近鉄ファンだったのだ。その葉書が今何処にあるのか、或いは捨ててしまったのか、定かではないが、心の中には今もしっかりと刻まれている。
父に連れられて初めてプロ野球を観に行ったのは、日生球場だった。多分近鉄対阪急だったと思う。近鉄の先発が神部だったことはよく覚えている。下手投げで、それを「サブマリン投法」と言うんだと教えてもらったからだ。その試合で近鉄のジョーンズがホームランを打ったのも覚えている。僕が初めて生で見た外国人は、その黒人の強打者・ジョーンズだった。
小学生時代は近鉄の野球帽を被っていたし、有田(近鉄から後に巨人に移籍した捕手)のプロ野球カードが欲しくて、小学生の頃友達から強引にもらった(半ば脅して)こともあった。
小川のモーやん、大投手・鈴木啓志、江夏の21球でも思い出深い佐々木恭介、外国人ではマニエルやブライアントというホームランバッター、捕手ではやはり有田と梨田、そして阿波野を擁しても、野茂を擁しても、結局日本一になれなかった仰木監督、なんと言っても忘れてはいけない名将・西本監督・・・それぞれが僕に野球の魅力を教えてくれ、敗れても敗れても闘い続ける気持ちを教えてくれた。熱狂的なファンではないけれど、いつも心の中には近鉄バファローズがあった。
阪神タイガースは決して大阪の球団ではない。大阪の球団は南海と近鉄だけだったし、今は近鉄だけだ。近鉄が失くなるということは、大阪がひとつのアイデンティテーを失うことである。と、小難しく言うまでもなく、どうしたらいいのか分からない位に淋しい。金があったら僕が球団を買うのに。
唯一日本一になれなかった球団が、日本一になれないまま消滅しようとしている。父の墓前になんと報告したらいいのか分からない。


  2004年6月6日(日) 関東地方入梅宣言らしい
  「命の教育」という抽象画

佐世保で小学生が同級生を殺害するという事件が起き、また評論家や文化人たちが好き勝手なことをメディアで語っていた。
(僕がここで語っていることも、「好き勝手」のうちのひとつには違いないが)
今回の事件について、多くのメディアが使っているキーワードが「命の教育」であり、また別な角度から「バーチャル・リアリティ」である。
「少女は何故同級生を殺したのか?」という問いの中には、既に「僕たちは何故同級生を殺さなかったのか?」という問いが含まれていることに、みなさんは気付いているだろうか?
この問いについて考える時、自ずと出てくるひとつの結論は、少なくとも僕たちがまともに「命の教育」を受けてきたから同級生を殺さなかった訳ではないということだ。
ここで言う「僕たち」とは、勿論僕を含む多種多様な国民のこちを指しているわけなのだが、どう考えたって、そのうちのほとんどの人は、特別な「命の教育」を受けた訳ではない。だけど、同級生を殺さなかった。
つまり、「命の教育」なんて言葉を持ち出して、何か分かったようなヒューマニスト面をして語っている評論家や文化人なんか、明らかにニセモノだということだ。
僕たちが同級生を殺さなかったのは、「こいつなんか死ねばいい」とか「こいつさえいなければ」とかいう気持ちを全く持たなかったからじゃない。人を殺す方法を知らなかったからでもない。そして、さっきから言っているように「命は何ものよりも尊い」なんてヒューマニズムの精神を叩き込まれていたからでもない。
ちょっとズレるけど、井上陽水の「氷の世界」という歌の中に「人を傷つけたいな/誰か傷つけたいな/だけどできない理由は/やっぱりただ自分が怖いだけなんだな」という詞がある。
僕は時々この詞のことを思い出す。
つまり、人を殺したらどういうことになるか(相手がだけでなく、自分や家族が)ということが、最も強力な抑止力になっているのだと思う。
人を殺すということは、その「殺す」という衝動や情念が、その抑止力を超えるということであり、それに年齢は一切関係ない。
たから、インターネットの掲示板やチャットがきっかけであったとしても、それが今回の事件の根底に関わっている問題ではない。
結論を言おう。

僕たちは同級生を殺していたのだ。
そして、たまたま現実的に今回彼女が同級生を殺しただけだ。

その差は大きいと言うかもしれないが、すくなくとも僕は、「たまたま現実的に同級生を殺さずに来られた」だけだ。そして、君と僕の差はどれ位あるのだろうか?
で、大切なのは僕たちに何ができるかということ。
「殺さなくてもいい」とすべての人たちに知らせることだ。
殺す以外に、無視する、転校する、引っ越す、クラス討論にかける、ほとぼりが冷めるのを待つ、など色々な方法があることを。
もしかしてこれが[命の教育」?
合掌。


  2004年5月9日(日) 風邪で家でごろごろしていた一日
  「じっと」という将棋界の専門用語

それぞれの業界には独特の専門用語がある。
「じっと」というのは普通の日本語だけど、これが将棋界で使われると、ちょっと深い意味になる。
今朝、テレビで久し振りに「NHK杯トーナメント」(宮田敦史五段対加藤一二三九段)を観ていると、この「じっと」という言葉が頻繁に使われていた。
将棋の対局中には、駒がぶつかり合っていたり、攻め込まれていたり、逆に攻め込んでいたり、一手一手が非常に重みを持った緊迫した局面がある。そういう局面で、敢えてその戦闘地帯での激しい手ではなく、一見局面の緊迫感とは直接関係のないような、今その手を急いで指す必要がなさそうな一手を指す時(ちなみによく間違えている人がいるが、将棋は「指す」、碁は「打つ」という)、「じっと」という言葉を使う。
用例を挙げると、「じっと玉(ぎょく)を寄る」とか「じっと端歩を突く」とか。
つまり、ここで「じっと」が意味しているのは、通常使われているような「状態を変えずに」とか「動かずに」とかいう意味とはちょっとズレている。
将棋用語としての「じっと」が意味するのは、「動」の局面に「静」の手を指すということである。言い換えるなら、「激しい手」で来られた時に「ゆっくりとした手」で返すということである。
これには実はかなり勇気がいる。
将棋というゲームは、相手よりいかに有効な手を指すか、そして、有効な手を重ねていくことでいかに有利な局面に導いていくかを争っているゲームなのだが、その中で、一見有効かどうか判断の出来ないような手、もしくは相手に手を渡すような手を指すには、しっかりとした大局観がなければならない。自分が「じっと」している間に相手が更に激しく攻めて来るかもしれないし、こちらの攻めが緩んでしまうかもしれない。しかし、それも踏まえた上で「じっと」した手を指すということは、相手が攻めてくることによって反撃のチャンスが生まれたり、相手が次の手に困ったり、迷ったり、もしくはその「じっと」した手が一見遅そうに見えて実は一番確実に勝利に近づく手だったりするのだ。
将棋用語は沢山あるが、僕はこの「じっと」という言葉に将棋そのものの奥深さが最も顕著に表現されていると思っている。


  2004年5月2日(日) ライヴを終えて長野から帰京
  アラーキーの写真展を見る

長野にライヴに行ったら、たまたま翌日にアラーキーの写真展の会場で、かつて競演したこともある舞踏家のリチャード・ハート氏がパフォーマンスをするということなので見に行った。
つまり、写真展よりもパフォーマンスの方が主眼だったのだが、この写真展がよかった。
アラーキーの写真展を観るのはこれで2度目なる。
最初に見た写真展で印象に残っているのは、彼の母の死に顔だった。確か僕はそれにインスパイアーされて詩を一篇書いたと思う。
今回のは「荒木経惟 花人生展」というもので、花を接写した写真を集めたものだ。
展示されている数々の写真を見ると、「花は生殖器である」ということをまざまざと目に焼きつかせられる。さすがだと思った。これから自分の花に対する見方が変わるんじゃないかとまで思わされた。
もうひとつ強く感じたのは、「焦点(ピント)」ということだ。
当たり前のことかもしれないが、その写真たちは異常にピントが合っているのだ。それらを見ていると、「見つめる」という行為の凄まじさ(或いは狂気)を感じずにはいられなかった。
僕たちは普段様々なものを見てはいるが、そこまで凄まじく何か対象物に焦点を合わせてはいないということに気付かされる。これは狂気の教育だなと思った。
偶然にしろ、出会えてよかった展覧会だった。




(パフォーマンスをしているリチャード・ハート氏)


  2004年4月24日(土) バイトの現場で草刈正雄を見かける
  「キャベツと、とんかつは、両想いだなぁ」というコピー

今日モスバーガーに行くと、壁にロースカツバーガーの宣伝ポスターが貼ってあって、上記のコピーが書かれていた。
3行縦書きの決して悪くないコピーなのだが、何故「キャベツと、とんかつは、両想いなんだなぁ」ではないのか、僕には分からない。
「両想いだなぁ」と「両想いなんだなぁ」では、それを感じている側の存在感と感慨の余韻の深さが全く違う。ちょっと考えればその差はすぐ分かるはずなのに、このコピーのライターは敢えて「両想いだなぁ」の方を選んでいる。単に字数の問題なのだろうか?
もしもこれが字数の問題ではなく、「両想いだなぁ」の方が「両想いなんだなぁ」より的確な表現だと思ってライターが選んだのだとしたら、コピーライターとしてのセンスが明らかに欠落しているとしか言いようがない。
言葉を選ぶ職業である限り、それは致命的な問題だ。
このコピーが「気をつけろ 車は急に止まれない」みたいな最初から最後まで決定的に救いようのないコピーならまだしも、コピーとして充分に成立しているだけに、画竜点睛を欠くというか、点睛を欠くことによって竜になり切っていないというか、とにかくすごく気になったのだ。


  2004年4月6日(火) 部屋でうたっていると近所から苦情
  「日本国憲法」を読んでみる

書店で本を選んでいる時、「日本国憲法」と書かれた薄っぺらな本を見つけた。今日の僕は何故か迷わずそれを手に取って、「ムーン・パレス」という小説と一緒にレジに持って行った。
で、電車の中で、蕎麦屋で、部屋で、憲法前文から第百三条まで読んでみた。
「日本国憲法」を読むのは勿論初めてじゃない。中学校でも高校でも大学でも少なくとも1回ずつは読んだはずだ。
今回読み返して印象に残ったのは、前文を締めくくる言葉である。国民主権や平和主義、国際協調など様々な理念を掲げた後で、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」と結ばれている。
つまり、「日本国憲法」というのはそもそも理想主義なのである。これは見過ごしがちだけれども重要なポイントだと思う。我々が現行の「日本国憲法」下で暮らす限り、「全力」で理想主義であらねばならないということである。
その理想に関して、前文にはこういう注目すべき文章もある。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という文章だ。これはつまり、「他国を信じる」ということだ。理屈を言えば「平和を愛さない諸国民」は信じないのということなのかもしれない。しかし、たとえ他国が核兵器を持っていようが生物兵器を持っていようが大陸間弾道弾を持っていようが、「平和を愛する諸国民」である限り「信じる」という理想主義に立っているということを憲法は謳っている。では、現在この理想主義は果たして日本国民に根付いているのか?根付いていないし、逆に疎ましくさえ感じている人達がいるからこそ、今の憲法改正論議があるのではないか?よく自主制定憲法ではないから、と言うが、誰が起草したものであれ、間違いなく日本の国会(当時はまだ帝国議会)において制定された憲法であることに違いはない。
そして、憲法と言えばやはり第九条である。第一条から第八条までが天皇に関する事項なので、第九条は実質のトップ項目でもある。
実は僕は憲法改正論者である。と言うとどうしても右よりに見られがちだが、そうではなく、中学生の時に初めて「日本国憲法」を読んで以来、ずっとこの第九条は理想主義としては「ぬるい」と感じていた。もっとハード理想主義であるべきであると思っている。
たとえば現行憲法を基に文章を作るなら、
「日本国民は、いかなる場合においても国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争、武力による威嚇、武力の行使、または武力を保持することによる牽制などを、国際紛争を解決する手段としてのみならず、あらゆる外交的戦略としても用いることを永久に放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。また平和を愛する諸国民を信頼し、自衛のための武力も、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 また国際平和の達成及び維持ために、武力以外での外交的貢献は、これを惜しまない。」
と起草してみたがどうだろうか?
現行の第九条と読み比べていただけたらありがたい。
ちなみに、「日本国憲法」の中でたった一箇所だけ「絶対」という言葉が使われている。それは第三十六条で、「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」という項目。これは「死刑」の問題とも関係してくるんだけど、何故ここだけ「絶対」という言葉が使われているのかは謎だ。


  2004年4月1日(木) 東京は間違いなく今日が桜満開
  広末涼子を日本語で吹き替える意味

このコーナーいつも長いよね。
今日は短く。
たまたま今テレビ東京で「WASABI」というジャン・レノ主演の映画が放送されてるんだけど、全篇吹き替えなんだ。
で、広末涼子も出ていて、これがまた吹き替えなんだよね。
おかしくない?
勿論広末涼子は英語(仏語?)で台詞を喋ってるので吹き替えて当然なんだけど、それを広末涼子じゃない声優がやるっていうのはどうなんだろう?
僕は日本人を別の日本人が吹き替えているのを見たのは、オードリー・ヘップバーンの「ティファニーで朝食を」に出てくる同じアパートに住む日本人のおっさん以来二人目だ。
でも、その時と今ではずいぶん印象が違う。
だってみんな広末涼子の声を知ってるんだし。
と、まぁ単に気になったということで・・・。


  2004年3月31日(水) サッカー日本代表、シンガポールに辛勝
  テコンドー日本代表選考について

シドニー五輪代表選手で銅メダリスト・岡本依子の五輪出場を巡って問題が起こっている。テコンドーは競技団体が二つに分裂していて、そのために五輪に選手を派遣できないらしい。
こんなこと馬鹿げていると誰もが思っている。「団体のために選手があるのではなく、選手のために団体がある」と当然のことを語っていたスポーツコメンテーターもいた。僕はその両団体とも滅びればいいと思っている。なんなら僕が統一団体を作ってもいいと思うくらいだ。しかし、もっと根本的な問題はオリンピックそのものにあるんじゃないのか。
本当にオリンピックは必要なのか?
僕が唯一オリンピックに意義があると思っている点は、他競技の選手同士の交流であり、それ以外には何もないと思っている。各競技にはそれぞれ世界選手権やそれに相当する大会があるわけで、アスリートはその場で競い合えばいいのだ。だから、例えばサッカーのようにワールドカップがオリンピックより上位に位置している競技の方が健全だと僕は思っている(だからワールドカップが他の競技の世界大会より優れているという意味ではなく)。
現在のオリンピックが抱えている最大の問題点は、そこでの結果が選手の生活や将来に決定的に影響を与えるということだ。ぶっちゃけて言えば金(かね)だ。かつての東欧諸国のように一生の保障が与えられる場合でないにしても、後に指導者や解説者になった時の「ハク」が違う。たとえ選手個人個人は純粋にアスリートとしてその世界の頂点を目指しているだけだとしても、スポンサーや所属チーム等の問題も絡んでくるし、「国旗を背負う」という訳の分からないプレッシャーもある。オリンピックがそういうがんじがらめの状態にあること、これが本当にすべてのスポーツ選手が目指すべき大会なのだろうか?
僕はすべてのスポーツ選手もしくはスポーツそのもののためにもオリンピックは要らない、或いはなくなればいいと思っている。その基本理念とは全く別な所に存在する大会になり果ててしまったとしか思えないからだ。先に述べたように他競技の選手同士の交流こそが大切だと言うなら、完全に個人参加にすればいい。そもそもスポーツに国家なんて関係ないし、競技団体なんて関係ない。優勝者の国の国旗掲揚なんかなんの意味もない。
書いていて、これは完全にインディーズの発想だなぁと気付いた。多分僕のすべての思想の拠り所はそこにあるんだろうなぁ。
でも、オリンピックは観るけどね。


  2004年3月28日(日) 花見日和
  魚のために桜を切る



近所の石神井川沿いを花見散歩していてこの看板に出くわした。この看板の下には護岸工事をしている石神井川がある。以前から石神井川はコンクリートで護岸を固められた川なのだが、そこに再び魚を呼び戻すため、大小の石を川底に敷くための工事をしているという。しかし、そのために川沿いに立ち並ぶ桜の枝が無残に何本も切られているのだ。
写真では分かりにくいかもしれないが、左側には太い幹から切られた桜と右側には看板の「活力ある緑と文化のまち 板橋」の文字が、まるで性質(たち)の悪い冗談のように並べられている。
確かに川に魚を呼び戻すのは悪くない。川底に石を敷いてそこに藻が生え、プランクトンが増え、魚たちが暮らす環境が良くなるに越したことはない。しかし、その工事のために桜の枝を切るのはどうなのか。他にいくらでもやり方はあるはずだ。
僕は桜という日本人が偏愛する樹木を特別に愛しているわけではない。だから、桜だからどうこうということはない。ただ、たまたまこの花見の時期に散歩していて、咲き誇る花と切られた枝の切り口の対比が余りにも生々しく痛々しかったので、心を捉えられたのは確かだ。
この工事に対して事前に反対運動が起こったかどうかは知らない。誰も何も言わなかったのかもしれない。しかし、実際にこの光景を目にして違和感を覚えない人がいたとしたら、余程鈍感か、お役所の人に違いない。
「環境問題に取り組む」なんて言いながら、こんな馬鹿げたことが日々行われているのだ。
僕はこういうものに出くわす度に、いつも勝手に「挑戦状」として受け止めている。受けて立たない訳にはいかない。


  2004年3月24日(水) 火星に海があったという
  「RE」だらけのメールを見せられて

バイト先の元請け会社のおじさん(推定年齢68歳)が、仕事中に僕を呼んで携帯の着信メールを見せた。何事かと思ったら「今日渋谷でテロがあるから、渋谷には近寄らないように」という内容の「RE」だらけのメール。
僕が「いたずらメールでしょ」と言うと、「知り合いから来たメールだから、本当の可能性があるよ。まっちゃんも気を付けた方がいいよ」と言われた。僕はとりあえず「はあ」と答え、その場から離れた。

というのは昨日の話。勿論昨日渋谷でテロ騒動なんてなかった。
しかし、問題は実際にテロがあったかなかったかということよりも、こんなメールが数珠つなぎに送られ、それを信じる人まで現れるということ。デマというのはこういう風に広がり、時として恐ろしい方向へ人を動かすのだ。
関東大震災の時に「朝鮮人が暴動を起こす」というデマが流れ、そのデマによって逆に朝鮮人虐殺が行われたという事実は有名である。太平洋戦争が終戦を迎えた時、同じように虐殺が行われるのではないかと怯えていたと語っていた朝鮮人の方もいた。
デマというのは心理学の専門家によって研究されていると思うので、僕が探求する問題でもないが、その背景にある時代のある社会に共通の不安があることは間違いない。今回のメールの場合「テロ」というのがその不安のキーワードである。そこをうまい具合に突っついてやると、チューブから押し出されたみたいにデマは広がっていく。多分みんなそういう不安をなんらかの形で他の人も共有しているんだという「ちょっとした安堵感」みたいなものが欲しいんだろうな。
僕はなるべくそういうものから遠い所にいたい。「不安」からではなく、「ちょっとした安堵感」から。数珠つなぎになった「RE」から。


  2004年3月17日(水) 最近やたらコーヒーを飲む
  週刊文春販売差し止めについて

田中真紀子の娘の離婚について書かれている記事がプライバシーの侵害になるとの理由で裁判所によって販売差し止め命令が出された。
マスコミは一斉に「表現の自由」の問題に触れ、かつ出版物の事前検閲の問題性にも言及していた。

僕も漫画喫茶で問題の週刊文春の記事を読んでみたが、記事の内容はとにかくクソだった。世間にとって何の関係もない一組の夫婦が離婚したというだけのことだ。たぶんそれに関連付けて田中真紀子のことを批判したいのだろうが、しつこいようだがその批判もウンコ以下だった。
で、結局問題なのは、ふたつ。「検閲」の問題と「プライバシーVS表現の自由」の問題だ。これは分けて考えなくてはいけない。
出版物の事前検閲は、これは決してあってはならない。それは「表現の自由」の死をそのまま意味するからだ。この「事前検閲」は、かつてあらゆる暗闇の時代に行われて来たものだ。ただし、「表現の自由」という権利が認められるためには、その裏返しである「表現に対する責任」は必ず負わなければならない。この点で言えば、今の日本においてはその責任の負い方が軽すぎると僕は感じている。クソ記事を書いた記者に「あんたは命懸けでその記事を書いているのか?」と問いたい。その記事が他人の人生を左右する分量の重さをあんたは背負って書いているのか、と。
で、それにも関連して「プライバシーVS表現の自由」の問題がある。これに関しては以前から持論がある。それは、「プライバシーの保護は絶対」だということ。「表現の自由」というのは、それに抵触しない範囲でのみ許されているものだという意見である。
「私人」「公人」という言葉があるが、僕は本来この区別は存在しないものだと考えている。では何が存在するかというと、「私的な場面」と「公的な場面」である。例えば、政治家にしても芸能人にしてもスポーツ選手にしても、各々の公的活動の場にいる限り、あらゆる表現による報道を甘受しなければならない立場にあるということ。秘書給与流用については徹底的に叩かれるべきだし、学歴詐称は当然犯罪だ。演技が下手だったらボロクソに批判されればいいし、ゴールを決められないストライカーにはブーイングを浴びせればいい。しかし逆に、彼らが一旦その場を離れた「私的な場面」では、愛人を作ろうが離婚しようが子供が生まれようが変態であろうが、法律に抵触しない限り一切公に報道されてはいけないと僕は考えている。だから厳密に言うなら、職務時間以外で小泉純一郎が靖国神社を参拝するなら、それは個人の思想信条の自由であり、かつ報道されるべきではないし、逆に職務時間中の参拝ならば、それは政教分離の原則を侵すものであり、徹底的に糾弾されるべきものだと僕は考える。
いわゆる「公人」を取材するに当たって、「世間がその情報を知りたいから」という言い訳をマスコミはする。公共性がある、と。しかし、僕はそこでもやはりプライバシーが最優先だと考えている。何故なら、プライバシーを暴くという行為は明確な暴力だからだ。それこそ極刑に値すると思っている。報道にしても、最近問題になっているコンピューターからの個人情報盗用にしても。僕はその暴力性をあらゆる場面で感じるのだが、マスコミも受け手の側もあまりにも無頓着ではないか。松本サリン事件で容疑者にされた方のことを思い出してほしい。あの時各マスコミがどんな残虐さで一人の人間を追い詰めて行ったのか、を。そして、そのやり方は今も根本的には何も変わっていない。同じ暴力のままだ。
いずれにしてもこの国はプライバシーの保護に関して考えが甘すぎる。これは違う項目で書くべきかもしれないが、最近アーチャリー(麻原彰晃の三女)が和光大学の入学を取り消された問題でも、マスコミはさらっとした報道を流しただけだったが、これこそ由々しき事件である。「犯罪者を親に持つ子供は、その事実によって不当に差別されてはいけない」という当たり前の原則は何処へ行ったのか?それこそ彼女のプライバシーを保護してやるのが教育機関ではないのか?それも出来ないで「大学」などと名乗るのがおこがましい。文部省は大学としての認可を取り消すべきだ。ちなみに「他の大学では試験を受ける前に門前払いだった」というが、これもサイテーの事実だ。
いずれにしても、これが日本の現状だ。現状というのは「それでよし」とする大多数の人間に支えられている今の状況ということだ。
あの記事と同じくらいクソだ。


  2004年3月15日(月) 第74回FJまで1週間
  高橋尚子、アテネ五輪代表選考落選

月曜日なので、FJ通信の郵送用の作業を続けながら、その報道をテレビでずっと見ていた。
それは日本陸連の旧態依然とした姿ばかりが目に付いた選考だった。
ずっと言われている「3人枠に4つの選考会」という問題が何ひとつ変わっていないこと。そして、それを変えようという姿勢が見られないこと。まるで馬鹿げたやり方に、選手たちの人生が左右されている。
僕の考えを述べるなら、世界陸上で内定者を出すというやり方が間違っているのだ。そもそも世界陸上に出場するためにはその時点で日本代表になっていなければいけないのだし、ということはその半年前の冬の国際マラソンで上位成績を収めていないといけない。となると、実質的にはオリンピックの選考レースは2年前から始まっているということになる。そんな所まで遡るのなら、前回のオリンピックで金メダルの高橋尚子がその時点で次回シードでもいい訳だ。
例えば、世界陸上で一人の内定者が出た後、東京、大阪、名古屋の国際マラソンでどの大会にも世界最高タイムで優勝する日本人選手が出たらどうするんだろうか?現行の制度ならそのうちの一人を落とさなくてはならない。こんな制度、馬鹿げていないと言えるだろうか?
実際のアテネ五輪の結果は誰にも分からない。しかし、たとえ今日選ばれた誰かがメダルを獲得したとしても、それで結果オーライにはならないと思う。それは日本陸連にとっての結果オーライなのであって、実際にオリンピックを目指しているすべてのマラソン選手たちにとっての結果オーライではないからだ。
アメリカの陸上五輪選考会はたった一度だ。このやり方が素晴らしいかどうかは別にして、もしもアメリカで複数の大会を選考レースにしたら、必ずそれぞれの思惑が交錯してもめるだろうし、訴訟沙汰にもなることが分かっているための懸命な措置と言える。日本はその部分がぬるい。なぜなら、ぬるくても済んでしまっているからだ。

五輪になるときっとみんなは今日のことを忘れて日本人選手の結果に一喜一憂するだろう。けれど、僕は忘れない。結果オーライとも思わないかわりに、結果によって「そら見たことか」とも思わない。結果がどうであれ、今回もまた最悪のやり方をした日本陸連のことを。


  2004年3月11日(金) 初夏の陽気
  カツカレーは何屋で食べるべきか

ということを、今日の昼、とんかつ屋でカツカレーを食べながら考えてみた。(なかなか美味かった)
「カツ」と「カレー」という異文化を合体させて新しい文化に花咲かせるというやり方(「カツカレー」へと昇華させる)は日本人の得意とするところで、他にもカレーまんとかピザまんのような例もあるし、納豆スパゲッティーとか明太子スパゲッティーなどの所謂「和風スパゲッティー」もその代表格かと思われる。
で、カツカレーである。
これはちょっと難しい問題なのだ。
というのも、「カツ」にはとんかつ屋という専門店が存在し、「カレー」にはカレー屋という専門店が存在するからだ。

ちょっと脱線するけど、とんかつ屋という店ほど男性客比率の高い店も少ないと思う。たとえば僕が今までの人生で女の子に「何が食べたい?」と尋ねた時に「とんかつ」という答えが返ってきたことは一度もない。ラーメン屋とか焼肉屋は女性客も多いのに・・・。これはとんかつ業界にとって由々しき問題だと思うのだが。

本題。
二つの専門店を同時に傘下に置くということは、「カツカレー」について考える上でとても重要な問題であり、他の食べ物ではちょっと見当たらないのではないだろうか?と言いつつ、天ぷらそばに思い当たったが、あれは「蕎麦屋」のものであり、「天麩羅屋」のものではないだろう。と、またここで考えた。僕は今日「とんかつ屋」でカツカレーを食べたから悩んでいるのだが、よく考えてみると「とんかつ屋」に必ずしもカツカレーがあるとは限らないのか。カレー屋にはかなりのパーセンテージで存在するのだが。いや、まぁそれは少し置いておこう。
で、問題は「とんかつ屋」のカツカレーと「カレー屋」のカツカレーではどちらが美味いかということだ。ぶっちゃけて言えば、カツカレーにとってより重要なのは「カツ」なのか「カレー」なのか。
好みの問題として片付けるべきことだろうか?

ちなみに今日のカツカレーには、最初からカツの上にカレーがべったりとかかっていた。これは、カツカレーを注文した時から覚悟の上なのだが、カレーのかかっていない部分のご飯の上にカツを載せて、後は客のやり方に任せるというプレゼンテーションの仕方もある。しかし、今日のカツカレーには、「これはカツでもカレーでもなく、カツカレーという一体化したものなのだ」という確固とした主張があって僕は好きなのだが。(なんだか東海林さだおのような文章になってしまった)

そろそろ結論を言おう。
僕は洋食屋のカツカレーが一番好きだ。
ごめん・・・。


  2004年3月5日(金) 月は満ち
  今日だけで道端に片方だけ落ちている手袋を2度見つけた

この冬だけで、道端に片方だけ落ちている手袋を6,7回見つけた。あれはなんだろう。どうしていつも片方だけなんだろう。僕はだぶん一組揃って落ちている手袋を見たことがない。片方だけの手袋のあの侘しい佇まい。僕はそのちょっと汚れてしまった孤独な手袋を見つけた時、いつももう片方の手袋について想いを馳せる。
持ち主のもとに片方だけ残された手袋はその後どうなるんだろう?やはり片方だけでは役に立たないから捨てられるんだろうか?それとも誰かからプレゼントだったりしたそれは、片方だけひっそりと仕舞われるのだろうか?いずれにしても片方だけになった時に手袋は引退することになるんだろうなぁ。
この「ふたつでひとつ」のものたちの切なさ。僕らはそれをかつて「バロムワン」や「ウルトラマンエース」で学んだ。つい最近では漫才師の夢路いとし・喜味こいしから学んだ。それから僕はベトちゃんとドクくんのことまで思い出していた。
初めから片方だけしかない手袋の気分で。


  2004年2月29日(日) 28年ぶりの2月の5回目の日曜日
  京都・丹波町の養鶏場で7万羽の鶏が死ぬ

鳥インフルエンザに関して連日報道がされている。
ちょっとシャレにならないな、というくらい広まっている。
ある番組で浅井慎平が言うまで気付かなかったけれど、人為的なものは本当にないのだろうか?誰かがウイルスを撒いているというようなことは。ちょっと考えられなくもない展開になってきた。
けれど、今回気になったのは、ひとつの養鶏場で7万羽の鶏が死んだという報道。「毎日1000羽くらい死んで、おかしいなぁとは思っていた」ってどう考えても嘘としか思えないコメントをそこの社長はしてた。明らかな隠蔽だ(おかしな言い方だが)。どんな時代にも、ああいう人間が「手遅れ」を作ってしまうんだろうなぁ。薬害エイズの時も(キチガイだけではなく、ボケも裁きの対象から外されるのだということを教えてくれた阿部被告)水俣病の時も、結局誰かが自分の利益のために判断を遅らせるんだ。それが決定的に被害を拡大する。例は違うけど、日露戦争の旅順攻略戦の時も。
でも、僕が驚いたのは、ひとつの養鶏場に7万羽も鶏がいるということ。養鶏場という場所に行ったことがなく、テレビの映像でしか見たことがないからどのくらいの規模か分からないけど、7万羽というのは凄まじい数字だ。
これが人間だったら地方の小さな市が全滅したのと同じだ。
同じ場所にいた感染していない(もしかしたら免疫力のある)鶏も殺されている。「処分」という名のもとに。
これも人間に置き換えたらかなり恐ろしいことだ。
想像の中にホロコーストが浮かんだ。

ごめん、今ニュースを見ていたら、生きたまま処分された鶏は13万羽(!)らしい。もともと20万羽いたということ?だとしたら、ちょっとした都市の壊滅と同じだ。


  2004年2月27日(金) 小菅刑務所前の渋滞に巻き込まれた
  麻原彰晃に死刑判決

オウム真理教の麻原彰晃に死刑判決が出た。
「死刑」について幾つかの観点から考えたい。

地下鉄サリン事件で駅員だった夫を亡くした女性が会見の席で、「人を殺した人は死をもって償ってほしい」と語っていた。このコメントを聞いた時、僕は彼女の気持ちが理解できなかった。たとえば「この手で殺したい」というのなら分かる(分かるというのは理解できるという意味で、共感しているわけではない)。復讐したいということだ。しかし、果たして「死をもって償う」ということは可能なのか?
命を奪うということは、取り返しのつかない行為だ。そこでその行為は完結している。完結しているというのは、他の何かと等価交換できない独立した行為という意味だ。盗んだ本を返すことによって、或いは代価を払うことによって償うというような「償い」が成立する余地がそこにはないのだ。「賠償金」というものがあり、「償い」という文字が使われているけれど、あれは厳密に言うと「償い」ではなく、「金にすり替えた」だけだ。命を奪うという行為に対して、「償い」などありはしないし、酷な言い方をすれば「償い」など求めてはいけない。話はそれるけれど、昔僕が気に入っていた超合金を父親が怒りにまかせてことごとく破壊したことがあった。後に「これで新しいのを買え」と言ってお金を渡されたが、いくら買い換えても僕の思い入れの籠もった超合金は壊れてしまったのだし、僕の心も壊れてしまったのだ。一度壊されたら、壊されたままの姿で少しずつ癒えていく過程を生きるしかないのだ。「償い」というものは、「取り返しがつく」時にだけ成立するものだと僕は考える。
だから、まず初めの結論を言うなら、「人殺し」と「死刑」は対価ではないということだ。(八つ裂きであろうが、火炙りであろうが)

もうひとつは上記と関連するのだが、「罪と罰」という問題。「罪を犯したものは何故処罰されるのか」という問題。当たり前のようだけど、法治国家で生きていく者は、一度はこの問いと真正面から向き合わなければならない。で、僕の答えは「大多数が安全に暮らすため」だ。これも当たり前のようだけれど、それは国家の根本的な存在理由であり、それが果たせないなら、或いはそれが必要ないなら国家なんていらない(国家についてはまた別の機会に)。裏を返せば、罪に対して罰は「報復」ではないし、「報復」であってはいけないということだ。「償い」についての話と重なるかもしれないけれど、「同じ目にあわせればいい」と言う人の声も時々耳にするが、そうしたいなら自分ですればいい。国家にそれを望むのは完全に間違っている。
死刑というのは、「人を殺したから死刑」なのではなく、「国家にとってその犯罪者の生存を認められないから死刑」であるべきだ。だから、例えば万引きの悪質な常習犯が死刑でもいいし、暴走族が死刑でもいいし、たとえ人を殺しても執行猶予がついてもいい。現行法制の「ある罪にはある一定の処罰」という考え方もまた、まだ「報復」の概念を脱し切れていない未熟な法制だと僕は考えている。

死刑についてのみっつ目の問題は、「国家は死刑という名のもとに人を殺してもいいのか?」ということ。これを人道主義的に問い掛ける人を時々目にするのだが、だとしたら、死刑だけでなくあらゆる刑罰は非人道的であり(たとえ罰金であってもだ)、「そもそも刑罰というものが必要なのか?」という所まで遡らざるを得ない。国家が「報復」としてではなく、「大多数の安全を守るため」にその犯罪者の存在そのものが危険であると見なすなら、完全に隔離するか死刑という選択枝を選ぶ正当性はあると思う。これもまた国家の必要性という問題と絡んでくるのだが。

実はこう書きつつも、僕はずっと死刑について結論を出せずにいた。
20代の前半に死刑廃止のシンポジウムに参加したりして他人の意見を聞いたり、最近も関連した意見が載せられた本を読んだりしたのだが、僕の中でいつも噛み砕かれない小さな塊のようなものが残っていた。
それは「人は人を殺すことができるが、人を殺す権利はない」という僕の根本的な立脚点によるものだと思う。と書けばなんだか人道主義的に聞こえるかもしれないけれど、本当の所、僕のもっと根源的な思想を言うなら、「人は権利なんてものを一切持っていない」ということだ。つまり、権利なんてまやかしだということ。「殺す権利」がないのと同じように「生きる権利」だってないのだと。「殺す権利」も「生きる権利」もないという立脚点から、そもそも死刑についてどう考えればいいのだろう。
でも、これはまた別の長い話の始まりだ。

長くなったが最後に、「たった今死刑の判決が出ました」とマイクの前に駆け込み、興奮して伝える記者ども、あんたたちは(あんたも、そういう古典的な演出を繰り返すディレクターも)最低だ。


  2004年2月26日(木) 汗ばむ陽気にまだ防寒着
  「こほろぎ通信」50号から60号を読む

悔しさって色んな場面で感じるけど、「そこは自分の場所ではないという悔しさ」というのを感じることがある。厳密に言うと「そこが素晴らしい場所だと知っているのに、そこは自分の場所ではない」という悔しさ。
「こほろぎ通信」を読んでいてまたそんな風に感じた。
それは昔北大の恵迪寮で感じたのと同じだ。
片想いにも似ている。
「こほろぎ通信」は高知の「歌小屋の2階」というライヴハウスで月刊発行されている小冊子で、そこの出演者や関係者達の投稿で成っている。
読んでいると、それぞれ思い思いの文章を書いているんだけど、どこかに見えない細いのりしろがあって、それによってみんなが少しずつ、けれどはっきりと繋がっているのが感じ取れる。勿論みんな知り合いなんだろうけど、そういう意味じゃなくて心の中で、というか想いの部分で。
僕も去年そこにうたいに行って温かく迎えられた。
これからもきっとうたいに行くだろうし、そこでの知り合いも増えていくだろう。
けれど、日常の中にその場所を持っている人達と、僕のような旅人では決して共有しきれないものがあることも知っているのだ。
北大の恵迪寮で1ヶ月半寮生たちと同じ釜の飯を食い、同じように酒を飲み、早朝ソフトボール大会に参加し、一緒にヒッチハイクしても、やはりそこは「僕の場所」ではなく、「彼らの場所」だったのだ。
「歌小屋の2階」では、年に1回夏に「50時間ライヴ」というのをやるらしい。「引き籠り組」と呼ばれる参加者たちは、その50時間外の景色を見てはいけないらしい。そういうのを聞いただけでゾクゾクするし、行ったら楽しいのは分かっているんだけど、やはりきっとそこは「僕の場所」ではないのだろうなぁとも思う。終わった後の崩れた砂山のような淋しさが想像できる。
「君の居場所は君の中にしかない」・・・これは僕の「通りゃんせ」といううたのなかのフレーズだ。
悔しさをかみしめながら、それでも求めてやまない心とともに生きるしかない。


  2004年2月24日(火) 恐らく月齢1
  月はどうして何度見ても僕の心を奪うんだろう〜桜は普段孤独だ。

駅を降りてふっと空を見上げたら、鋭利な刃物で切り裂いたような月が。
しかも宵の明星を連れていた。
また心奪われてしまった。
息を呑むって本当にあって、こういうことなんだと気付かされる。
人生で息を呑む瞬間、心奪われる一瞬というのは何度もあったけど、最も数多くそういう体験をさせられた相手は月だ。
しかも、断トツで。
月があるというだけで、この星に生まれてよかったと心から思える。
月はどんな形をしていても好きだけど、この傷口みたいな月と満月はやはり特別だ。
結構知らない人も多いけど、月齢が小さいうちしか月が宵の明星を連れていることはない。逆に月齢が大きい時しか明けの明星を連れていることはない。それは金星が地球より太陽に近いから。
ちなみにその月は、まだ枯れ木姿の桜の木の向こうに出ていた。
それで、その木が桜だったんだということも思い出した。
よく観察してみたけど、まだ微かにさえも蕾は膨らんでいなかった。
その桜を見上げていたのは僕だけだった。
桜って咲いてる時意外は孤独なんだ。


  2004年2月21日(土) 鮮やかな桃色の夕焼け
  ビデオ屋のアダルトコーナーで7,8歳の男の子がエロ雑誌を真剣に
  読んでいた。

近所のビデオ屋にアダルトビデオを借りに行った時のこと。
すごく真剣にエロ雑誌を読んでいる男の子がいた。
あまりにも小さい子だったのでびっくりして、注意するべきかどうか一瞬考えた。
その時に思ったのは、自分がその子だったら、ということ。
僕も小さい頃そういう雑誌を見たことがあったけど、それが人生に何か悪影響を及ぼしたことなんてなかった・・・と思う。
逆に、そういうことも人生にとってはきっと必要なのだ。
人生のある時期には。
という訳で、僕は彼のことは放っておいて、自分のビデオ選びに入った。
結局彼の妹らしき女の子(4,5歳くらい)がビデオを選び終わったらしく、「○○ちゃん、どこ?」と彼の名前が呼ばれ、「はーい」という返事とともに彼は立ち去って行った。
その時彼のオチンチンが勃起していたどうかは定かではない。


  2004年2月18日(水)
  「3000円で女王様になれるんだったら、その方がいい」

テレビを観ていたら、最近バンコクで男の子を買う日本人の女性が増えているという報道をしていた。
その番組の中、インタビューに答えた若い女性が放った言葉がこれ。
いわく、
「日本で男の人にご馳走になって『俺の女』扱いされるより、3000円で女王様になれるんだったら、その方がいい」と。
バンコクのクラブで、そこにいる若い男の子の連れ出し料が3000円らしい。
彼女は3000円を店に払って男の子を連れ出し、街で彼の好きなものを買ってあげ、最終的にはホテルに行って「女王様気分」を味わうのだという。
それを聞いていて、僕は彼女の言い分にとても納得させられた。
方法は様々であっても、結局誰しも何らかの「英雄気分」や「支配者気分」を味わいたくて、そういう地位を追い求めたり、金で買ったりしているのだ。
本物の英雄や支配者や女王様になるかわりに。
まぁ、本物の女王様になっても彼女の言う「女王様気分」を味わえないだろうけどね。(エリザベス女王がそんな気分を味わってると思う?)
しかし、3000円って安い女王様やなぁ。